
震災前に
( 避難する前のことですが ・・・ )
ある青年が 身上相談のため訪れてきました。
大学を出 会社勤めをしているその青年いわく
叔父が工場を経営している。
子がないので その跡つぎになってくれと言われているが
自信がないので断わっている。
「 じゃ いまのサラリーマンの生活は? 」 と聞いたら
つまらない 不満だらけ 上役とも同僚ともあわない ・・・ という。
( こういうワガマ野郎は救いようがない。
よほど甘やかして育てられたにちがいない)
その彼が タメ息まじりに こう言った。
ボクも29。 人生の三分の一すぎてしまったし ・・・
( よくもぬかしたもんだネ。 小便小僧の癖して 何を言いやがる。
29で人生の ・・・ なら ・・・ この私なんぞ どうなるんだ? )
( そんなことは言わなかったが ・・・ )
ともかく 年齢感覚を大きくもつべきことを言って ・・・ どやしてやりました。
だいたい 年齢感覚の大小というものは
気力の充実と欠如 ・・・ その差から生まれるものと思われます。
気力が満ちていれば
いくつの年においても 「 これから ・・・ 」の姿勢がとれるが
気が萎えていると 小便小僧の年齢においてさえ
「 終わった 」という意識にとりつかれます。
要は ・・・ 「 気 」 ひとつです。
この青年は このケチくさい年齢感覚のカベを破らないかぎり
・・・ どうにもならないでしょうね。
決定的な 「 開きなおり 」をせぬかぎり 救われようがありません。
だれも救ってはくれません。
自分がつくったカベを 自分で破るほかに
活路は ・・・ ひとつもないはずです。