我ながらビックリだが、
今年の一月から更新していなかった放置ブログ…
久しぶりに備忘録的に残しておこうと思う。
少し長文になるかもしれない…
先週金曜日の朝、
父が胸の痛みを訴え、かかりつけの病院に連絡したところ、
昨年末にペースメーカーを入れたこともあり、
救急車で運ばれそのまま入院することとなった。
タイミング的に3連休前だったため、
検査らしい検査は週明けの今日から、で…
土曜日に兄貴と二人でお見舞いに行ったところ、
ベッドに寝た切りの父は当たり前だが「病人そのもの」で、
本人も「ペースメーカーの不調」で胸が痛いものだとばかり思っていたら、
入院前の簡単な検査ではなにやら肺に影がある、とか…
そんなこんなで夏に骨折して以降、動くのが不自由な母は実家で留守番のいま、
父からワタシ達に向けられたのはほぼ「遺言」に近い言葉の数々であった。
ちょうど十年前に心臓にステントを入れる際、
脳梗塞をおこし左半身に麻痺が残った父…
ここんところ頭の方もずいぶんボケてきて(今年の12月で93歳)、
話している内容が自分が小学生時代の思い出話やら、
祖父(父の父)や伯父(父の兄)との思い出話やら、
あっちへ行ったりこっちへ行ったり…
出来のいい伯父に対してずっと抱いていた劣等感、
そこからの学生時代~社会人、今現在に至るまで思い起こしてみると、
自分はまわりの人が言うほど立派な人間ではなく
出会った方々の支えや運・縁に恵まれてここまできた、と語る父…
そんな話を聞いていて、今までワタシが父を避けてきたのは、
昭和一桁世代の親父にあるあるな「力をもって制する父」に対しての反抗、
出来のいい兄貴に感じていた劣等感、
まわりの人たちから「父と似ている」と言われることに対しての嫌悪感、
当時の恋愛がうまくいかず、そんな折、半ば無理やり父の言いなりで結婚させられる羽目になり、
しかもその相手のDVによって離婚したいと言い出したワタシに、
世間体を気にしてなかなか許してもらえず、
結婚後一年半してようやく「勘当」に近い形で実家から離れた賃貸マンションで
一人暮らしを始めた二十代後半のワタシ…あれから三十年以上が経つ…
その間、父の求める理想の娘には近づくことはできないにしても、
いかに実家に頼らず一人で生きていくか、を模索し、やたらと資格をとり、
そんな硬い殻を身にまとって強がっていた三十代…
当時勤めていた建築会社が世の中のバブル崩壊の波に飲み込まれ、
リストラの嵐から逃げるように、過信して自ら早期退職を申し出たのに、
意外にも四十を過ぎると仕事を見つけるのは難しく、
ちょうど募集していた役所の臨時職員として働き始めた四十代…
役所というお堅い職場が果たして自分にあっているのかわからず、
それでも絶対つぶれることはないという安心感の中で、
それまでの経験やねぇさん気質を活かして自分の居場所を見つけることができた五十代…
父が語る「伯父に対する劣等感」や、
「出会った方々の支えや運・縁に恵まれてここまできた」という姿が、
ここまで「父になんか絶対似てへん!」と拒絶したおしてきたその父が
紛れもなくワタシの中にあるのを感じ、
しかもそれまでワタシのことなんて褒めたことなんかなかった
(正確に言えば宅建に受かった時は生まれて初めて褒められた)父が、
「この女はすごい」
「自分でなんとかしようとする力がある」
「過去のこと(結婚・離婚)を不満に思ってかお互い話すこともなかったけれど、なかなかやりよるわいと思っていた」
「これからもその強さで生きていきなさい」などと口にするもんだから、
ワタシのマスクの中を涙がつたっていった。
病室から出る間際、父が差し出した痩せ細った手と握手をした。
帰りの車の中で兄貴に「父に褒められたの人生で二回目やわ」と言うと、
兄貴は「そうか…」と笑っていた。
実際、これまで近しい人との別れを経験したことがない(祖父母以外)ワタシは、
父が逝ってしまったら、自分がどうなるか、は自分でもよくわかっていなかった。
悲しいのは悲しいだろうけれど、どこかでホッとするんじゃないか、とか思ったりしていたが、
弱っていきながらもワタシのことを心配している父を見て、もうダメだった。
この人がいなくなったら、ワタシはワタシの一部分が切り取られたような気持になるんだろう、と強く感じた。
先ほど兄が担当医に言われた診断内容がLINEで届いた。
「一言で言うと、来るべき時が来たようです…」と…
今週中に退院して、実家に戻り、死に近づいていくのは確実である。
このままだと余命は半年~1年…
ワタシはどのような形で父娘の絆を築けばいいのか、正直まだわからない。
ここから先、もう少し違う形で父と向き合えるといいな、と思っている。
自分が変われるか自信はないけれど、いまの気持ちを忘れないように今を書き留めておく。
今年の一月から更新していなかった放置ブログ…
久しぶりに備忘録的に残しておこうと思う。
少し長文になるかもしれない…
先週金曜日の朝、
父が胸の痛みを訴え、かかりつけの病院に連絡したところ、
昨年末にペースメーカーを入れたこともあり、
救急車で運ばれそのまま入院することとなった。
タイミング的に3連休前だったため、
検査らしい検査は週明けの今日から、で…
土曜日に兄貴と二人でお見舞いに行ったところ、
ベッドに寝た切りの父は当たり前だが「病人そのもの」で、
本人も「ペースメーカーの不調」で胸が痛いものだとばかり思っていたら、
入院前の簡単な検査ではなにやら肺に影がある、とか…
そんなこんなで夏に骨折して以降、動くのが不自由な母は実家で留守番のいま、
父からワタシ達に向けられたのはほぼ「遺言」に近い言葉の数々であった。
ちょうど十年前に心臓にステントを入れる際、
脳梗塞をおこし左半身に麻痺が残った父…
ここんところ頭の方もずいぶんボケてきて(今年の12月で93歳)、
話している内容が自分が小学生時代の思い出話やら、
祖父(父の父)や伯父(父の兄)との思い出話やら、
あっちへ行ったりこっちへ行ったり…
出来のいい伯父に対してずっと抱いていた劣等感、
そこからの学生時代~社会人、今現在に至るまで思い起こしてみると、
自分はまわりの人が言うほど立派な人間ではなく
出会った方々の支えや運・縁に恵まれてここまできた、と語る父…
そんな話を聞いていて、今までワタシが父を避けてきたのは、
昭和一桁世代の親父にあるあるな「力をもって制する父」に対しての反抗、
出来のいい兄貴に感じていた劣等感、
まわりの人たちから「父と似ている」と言われることに対しての嫌悪感、
当時の恋愛がうまくいかず、そんな折、半ば無理やり父の言いなりで結婚させられる羽目になり、
しかもその相手のDVによって離婚したいと言い出したワタシに、
世間体を気にしてなかなか許してもらえず、
結婚後一年半してようやく「勘当」に近い形で実家から離れた賃貸マンションで
一人暮らしを始めた二十代後半のワタシ…あれから三十年以上が経つ…
その間、父の求める理想の娘には近づくことはできないにしても、
いかに実家に頼らず一人で生きていくか、を模索し、やたらと資格をとり、
そんな硬い殻を身にまとって強がっていた三十代…
当時勤めていた建築会社が世の中のバブル崩壊の波に飲み込まれ、
リストラの嵐から逃げるように、過信して自ら早期退職を申し出たのに、
意外にも四十を過ぎると仕事を見つけるのは難しく、
ちょうど募集していた役所の臨時職員として働き始めた四十代…
役所というお堅い職場が果たして自分にあっているのかわからず、
それでも絶対つぶれることはないという安心感の中で、
それまでの経験やねぇさん気質を活かして自分の居場所を見つけることができた五十代…
父が語る「伯父に対する劣等感」や、
「出会った方々の支えや運・縁に恵まれてここまできた」という姿が、
ここまで「父になんか絶対似てへん!」と拒絶したおしてきたその父が
紛れもなくワタシの中にあるのを感じ、
しかもそれまでワタシのことなんて褒めたことなんかなかった
(正確に言えば宅建に受かった時は生まれて初めて褒められた)父が、
「この女はすごい」
「自分でなんとかしようとする力がある」
「過去のこと(結婚・離婚)を不満に思ってかお互い話すこともなかったけれど、なかなかやりよるわいと思っていた」
「これからもその強さで生きていきなさい」などと口にするもんだから、
ワタシのマスクの中を涙がつたっていった。
病室から出る間際、父が差し出した痩せ細った手と握手をした。
帰りの車の中で兄貴に「父に褒められたの人生で二回目やわ」と言うと、
兄貴は「そうか…」と笑っていた。
実際、これまで近しい人との別れを経験したことがない(祖父母以外)ワタシは、
父が逝ってしまったら、自分がどうなるか、は自分でもよくわかっていなかった。
悲しいのは悲しいだろうけれど、どこかでホッとするんじゃないか、とか思ったりしていたが、
弱っていきながらもワタシのことを心配している父を見て、もうダメだった。
この人がいなくなったら、ワタシはワタシの一部分が切り取られたような気持になるんだろう、と強く感じた。
先ほど兄が担当医に言われた診断内容がLINEで届いた。
「一言で言うと、来るべき時が来たようです…」と…
今週中に退院して、実家に戻り、死に近づいていくのは確実である。
このままだと余命は半年~1年…
ワタシはどのような形で父娘の絆を築けばいいのか、正直まだわからない。
ここから先、もう少し違う形で父と向き合えるといいな、と思っている。
自分が変われるか自信はないけれど、いまの気持ちを忘れないように今を書き留めておく。