雨が降るで終わる小説あったなと、確か「嘔吐」だった、そう《明日プーヴィルには雨が降るだろう。》
今見るとやたら小さな活字。これとカフカ。自分を匿い、外から遮断させてくれたもの。でもこれはサルトルではない、小説を捨てたサルトルにとって。でもそんなことどうでもいい。小説に出てくる歌、最近CDで買った。そんなこともどうでもいい。70年代に自分がそこにいた証明。ヴィスコンティが死んで映画が映画サークルでリバイバルされたら立ち観が出るほどの盛況となった。「ベニスに死す」を観ても死は客観的観念でしかなかったのに、今では身近なお友達になっている。スティーブ・ライヒの「18人の音楽家のための音楽」がECMから出たのは78年。時間のずれは今ぴったり一致してしまった。もはや自分はロカンタンと同じ孤独な青年ではない。「ベニスに死す」に出てくる化粧する老人。でも困るのが内面はライヒを聴きながらベルクソンを読んでた頃のままだということ。
ウッディ・アレンは昔ほどのきれはないにせよ、観て面白かったという映画を今でも1年に1本作っている。その中で「ミッドナイト・イン・パリ」という最近の中では相当いい映画で、主人公が1920年代、失われた世代にワープすると、その時代の人間は19世紀の終わりにあこがれている。つまり古き良き時代なんてないんだと言ってるようでうれしくなった。
今見るとやたら小さな活字。これとカフカ。自分を匿い、外から遮断させてくれたもの。でもこれはサルトルではない、小説を捨てたサルトルにとって。でもそんなことどうでもいい。小説に出てくる歌、最近CDで買った。そんなこともどうでもいい。70年代に自分がそこにいた証明。ヴィスコンティが死んで映画が映画サークルでリバイバルされたら立ち観が出るほどの盛況となった。「ベニスに死す」を観ても死は客観的観念でしかなかったのに、今では身近なお友達になっている。スティーブ・ライヒの「18人の音楽家のための音楽」がECMから出たのは78年。時間のずれは今ぴったり一致してしまった。もはや自分はロカンタンと同じ孤独な青年ではない。「ベニスに死す」に出てくる化粧する老人。でも困るのが内面はライヒを聴きながらベルクソンを読んでた頃のままだということ。
ウッディ・アレンは昔ほどのきれはないにせよ、観て面白かったという映画を今でも1年に1本作っている。その中で「ミッドナイト・イン・パリ」という最近の中では相当いい映画で、主人公が1920年代、失われた世代にワープすると、その時代の人間は19世紀の終わりにあこがれている。つまり古き良き時代なんてないんだと言ってるようでうれしくなった。