おこがましくも「プランナー」と名乗って仕事をさせてもらっていますが、これがなかなか説明のし辛い職種です。でも、無から何か実態を創り出すというのは楽しい(時には苦しいけれど)作業で気に入ってはいます。
ただ、何もないところから始まるからといって全て自由にできるわけでは当然なく、そこには予算やスケジュール等のリアルな制約もあれば、うまくは言えないけれど人間的なしがらみまであるわけです。
長年の経験でそういうことが分かってくると、初めから全て丸く収めた優等生なプランを作ることは出来るようになるわけですが、その結果悪くはないけれどまぁあまり際立って特別でもないものになってしまうこともあります。そして自己嫌悪と欲求不満に襲われるという次第(苦笑)
これっておそらくミュージシャンでもそうでしょうし、映画監督でもそうでしょうね。スポンサーやプロデューサーとの関わり、「売れる」という至上命令の中での作業、etc. その繰り返しが続くと…
ジャン=マルク・ヴァレ監督が《The Young Victoria》を撮り終えた後に感じていたのがそういう気持ちだったとすると、新作の《Café de Flore》はおそらく自分がやりたい形の映画を好きなように制作してみた、ということになるのでしょう。
そういう映画は時として監督の自己満足みたいな匂いを発するもので、それが鼻に付く場合は嫌悪されることもあって、事実この映画に対する酷評もあちこちの新聞や雑誌で見ました(Guardian紙なんて皮肉たっぷりで、評価が星ひとつなんだもの)。でも、結論から言うと僕自身は大好きです。今年になって観た映画の中でも上位に持ってきたいくらい。
現在(2011年)のモントリオール(仏語圏なんですよね)と1969年のパリでのストーリーが並行して進み、そして最後に……このふたつの物語を結ぶロジックでさえ、多分感覚的にこの映画がイヤな人には納得し難いんでしょうね。でも僕にはすんなりと受け入れられました。
そしてその結びつきを表象する大切なキーワードとして、映画タイトルと同名曲の『Café de Flore』が使われる他、全編に散りばめられた音楽達はどれもこの映画の独自のテンションを創り出すのに役立っています(特にシガー・ロスのアイスランド語が「It’s you…」と言っているように聞こえる例の曲)。
こういう風に音楽が大切だから主人公をDJ役にしたのかなぁ(あるいは逆かもしれないけれど)?モントリオールを舞台の主人公には実際にミュージシャンでもあるケヴィン・パランKevin Parentが起用されています。なにひとつ不自由なく幸せな生活を送っているように見える主人公の隠れた苦悩...こちらのストーリーでは上の娘役の少女が感受性の強い繊細な感じをうまく出していたと思います。
そしてパリを舞台の主人公はヴァネッサ・パラディ。
かつて10代半ばでデビューしたアイドル・シンガーも今回は7才のダウン症の息子を持つ母親の役。ところがこれが非の打ち所が無い演技!おそらくは今よりももっと辛い環境であったに違いない60年代末に、障害を持つ息子をひとりでちゃんと育てていこうとする強い決意や深い悲しみ、そして子供のガールフレンド(こちらもダウン症の子供)に対する理不尽な嫉妬まで見事に演じ上げていて、改めて良い役者になったと感心しました。
でも何と言ってもこちらのストーリーでも素晴らしいのが子役。ダウン症の息子を演じる少年に圧倒されます!あれって多分もう「演技」の枠を超えてしまっているんだと思います。(監督はどうやって「演技指導」するんだろう?)
ここまで書いてみてふと思いましたが、この映画のリズム感のあるコラージュ的手法って、もしかしたらDJのクロスフェードとかけたのかなぁ?
何だかもう一度観たくなってきました。
ただ、何もないところから始まるからといって全て自由にできるわけでは当然なく、そこには予算やスケジュール等のリアルな制約もあれば、うまくは言えないけれど人間的なしがらみまであるわけです。
長年の経験でそういうことが分かってくると、初めから全て丸く収めた優等生なプランを作ることは出来るようになるわけですが、その結果悪くはないけれどまぁあまり際立って特別でもないものになってしまうこともあります。そして自己嫌悪と欲求不満に襲われるという次第(苦笑)
これっておそらくミュージシャンでもそうでしょうし、映画監督でもそうでしょうね。スポンサーやプロデューサーとの関わり、「売れる」という至上命令の中での作業、etc. その繰り返しが続くと…
ジャン=マルク・ヴァレ監督が《The Young Victoria》を撮り終えた後に感じていたのがそういう気持ちだったとすると、新作の《Café de Flore》はおそらく自分がやりたい形の映画を好きなように制作してみた、ということになるのでしょう。
そういう映画は時として監督の自己満足みたいな匂いを発するもので、それが鼻に付く場合は嫌悪されることもあって、事実この映画に対する酷評もあちこちの新聞や雑誌で見ました(Guardian紙なんて皮肉たっぷりで、評価が星ひとつなんだもの)。でも、結論から言うと僕自身は大好きです。今年になって観た映画の中でも上位に持ってきたいくらい。
現在(2011年)のモントリオール(仏語圏なんですよね)と1969年のパリでのストーリーが並行して進み、そして最後に……このふたつの物語を結ぶロジックでさえ、多分感覚的にこの映画がイヤな人には納得し難いんでしょうね。でも僕にはすんなりと受け入れられました。
そしてその結びつきを表象する大切なキーワードとして、映画タイトルと同名曲の『Café de Flore』が使われる他、全編に散りばめられた音楽達はどれもこの映画の独自のテンションを創り出すのに役立っています(特にシガー・ロスのアイスランド語が「It’s you…」と言っているように聞こえる例の曲)。
こういう風に音楽が大切だから主人公をDJ役にしたのかなぁ(あるいは逆かもしれないけれど)?モントリオールを舞台の主人公には実際にミュージシャンでもあるケヴィン・パランKevin Parentが起用されています。なにひとつ不自由なく幸せな生活を送っているように見える主人公の隠れた苦悩...こちらのストーリーでは上の娘役の少女が感受性の強い繊細な感じをうまく出していたと思います。
そしてパリを舞台の主人公はヴァネッサ・パラディ。
かつて10代半ばでデビューしたアイドル・シンガーも今回は7才のダウン症の息子を持つ母親の役。ところがこれが非の打ち所が無い演技!おそらくは今よりももっと辛い環境であったに違いない60年代末に、障害を持つ息子をひとりでちゃんと育てていこうとする強い決意や深い悲しみ、そして子供のガールフレンド(こちらもダウン症の子供)に対する理不尽な嫉妬まで見事に演じ上げていて、改めて良い役者になったと感心しました。
でも何と言ってもこちらのストーリーでも素晴らしいのが子役。ダウン症の息子を演じる少年に圧倒されます!あれって多分もう「演技」の枠を超えてしまっているんだと思います。(監督はどうやって「演技指導」するんだろう?)
ここまで書いてみてふと思いましたが、この映画のリズム感のあるコラージュ的手法って、もしかしたらDJのクロスフェードとかけたのかなぁ?
何だかもう一度観たくなってきました。