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ロンドンから徒然に

英語と中国語の狭間で

2014-08-14 | 映画・演劇
 ロンドンはご存じのように(僕も一役担っているんだけれど)人種のるつぼとなっているので、毎日英語以外の言語を耳にするのはむしろ当たり前のことです。
 ラテン系の言葉を母国語とする人同士(例えばスペイン語とイタリア語とか)の会話は、それぞれ自国の言語を喋っていても通じるんだという話を聞いたことがあります。まぁ文章の構造や単語自体が似ていると、そういうこともありうるだろうとは想像できます。

 それにつけても日本語というのはつくづく孤立した言語ですよね。日本人が中学生から(今は小学生?)何年英語を勉強してもなかなか上達しないのは、そういうことも影響しているのかも。
 言語というのは、それぞれの習慣や文化といった土壌も関係するから、そもそも概念自体が存在しない言葉だってあるわけで、そういう意味でも通訳する人なんか、そんなシチュエーションに遭遇したら大変だろうと思います。

 そんな意味で思い出すのは、東京を舞台にした映画「ロスト・イン・トランスレーション Lost in Translation」。日本語と英語との翻訳の狭間で戸惑う主人公の様子が印象的でした。
 でも、あの映画、僕ら日本人は当然日本語の台詞を理解しているので、トランスレーションのギャップを頭で理解できて面白がっているわけですが、日本語の部分は字幕なしで上映された他の国の観客は、映画の主人公同様、理解できない日本語に不安を感じていたに違いありません。

 先日、おそらくはそれと同じような感覚を味わいました。「Lilting」というこのイギリス映画、通訳を挟んで交わされる言語は英語と中国語。もちろん僕は中国語に全然通じていませんし(英語も怪しいものだけど・苦笑)、おそらく意図的にでしょうが英語字幕もありません。
 余談ですが、それでも中国語の会話にリアルタイムで笑いが起きたりしたのは、上映された映画館が中華街のすぐ側に位置しているということもあって、中国人も何人か見ていたからだと思います。



 最近注目を集めている若手俳優ベン・ウィショー Ben Whishaw 演じるイギリス人の若者Richardと、今は老人ホームで暮らすカンボジア系中国人のJunnは、それぞれ“恋人”、そして息子としての最愛の存在であるKaiをある事故で失ってしまいます。
 「ロスト・イン・トランスレーション」がそうだったように、描きたかったのは単に言語の違いによるコミュニケーションの難しさ(や滑稽さ)というのではもちろんなく、どんな人間関係にも生じうる(それは同じ日本人でもね)、伝え切れない、そして理解し切れない、お互いのすれ違いによる孤独感みたいなものなのかもしれません。

 でも、この映画の中では、逆にKaiを失ったというその喪失感、孤独感こそが、RichardとJunnふたりが言語に関係なく共感できる部分として重なり合ったのだと思います。
 映画全体は、しかしそういった悲しみをことさらに大げさに描いて泣かせるのではなく、抑制された表現の中に品良く収める演出で(多少あざとい台詞のやり取りはあるのですが、そこはサービス精神と見ました)、さらには抜群のカメラワークがそれを助けています。室内、屋外それぞれの風景描写には詩的なものを感じて、気持ちよく酔えました。
 この時期、子供向け映画ばかりが封切られる中にあって、異彩を放つ作品でした。

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