アイデンティティなどという、ある意味使い古された言葉を、海外に住んでいると時々否が応でも意識してしまいます。
それでも僕ら日本人はまだしも意識が薄いだろうと思うんです。というのが、宗教という重石を日常に持ち込むことは殆どありませんから。
先日観たポーランド映画「Ida」。
修道院で幼い頃から孤児として育てられ、Annaと呼ばれていた少女は、見習いを卒業して尼僧になる直前、修道院の院長から、自分には叔母がいることを知らされます。初めて会ったその叔母の口から出る、実は自分はユダヤ人で本名はIdaだという真実。
ポーランド人だと思っていた自分が実はユダヤ人で、皮肉なことにそのユダヤ人が否定するキリスト教を信心する身である尼僧であり、本名まで違うという、幾重にもアイデンティティを覆された主人公が辿るそこからの道のりは、「自分探し」などという一時流行った浮いた言葉では表し切れない重みを持ちます。
それに加えて、ポーランド人がナチス・ドイツに荷担して(多くは傍観、密告ですが)ユダヤ人を迫害していたという事実が別テーマとして横軸に組み込まれるので、もしもこちらを強調したら別種類の映画になっていたかもしれません。
しかし映画はあくまで淡々と、少女にも殆ど感情を表させない演出で進行します。
そればかりでなく説明も殆ど最小限なので、社会背景を予め知識として持っているか、想像力を駆使しなければ、描こうとしている本当の深みにまで到達できないかもしれません。
残念ながらそのどちらにも欠ける僕ですが、映画を観ている最中はそんな小難しいことはさておいても、ひとつひとつがまるで芸術写真のような完璧な画角や豊穣な白黒の映像に感嘆していました。そうなんです。この映画モノクロ映像です。修復されたキリスト像を彩色するシーン(映画によってはそれこそカラフルでしょうが)から始まるんですが、そこからして印象的です。
映画を観ながら、色んな意味で対極にある感情が次々と自分の中を行き交いました。少女の中にある様々なアイデンティティの葛藤(しかし表面化させない)がそうさせたのかもしれません。不思議な時間を過ごしました。
それでも僕ら日本人はまだしも意識が薄いだろうと思うんです。というのが、宗教という重石を日常に持ち込むことは殆どありませんから。
先日観たポーランド映画「Ida」。
修道院で幼い頃から孤児として育てられ、Annaと呼ばれていた少女は、見習いを卒業して尼僧になる直前、修道院の院長から、自分には叔母がいることを知らされます。初めて会ったその叔母の口から出る、実は自分はユダヤ人で本名はIdaだという真実。
ポーランド人だと思っていた自分が実はユダヤ人で、皮肉なことにそのユダヤ人が否定するキリスト教を信心する身である尼僧であり、本名まで違うという、幾重にもアイデンティティを覆された主人公が辿るそこからの道のりは、「自分探し」などという一時流行った浮いた言葉では表し切れない重みを持ちます。
それに加えて、ポーランド人がナチス・ドイツに荷担して(多くは傍観、密告ですが)ユダヤ人を迫害していたという事実が別テーマとして横軸に組み込まれるので、もしもこちらを強調したら別種類の映画になっていたかもしれません。
しかし映画はあくまで淡々と、少女にも殆ど感情を表させない演出で進行します。
そればかりでなく説明も殆ど最小限なので、社会背景を予め知識として持っているか、想像力を駆使しなければ、描こうとしている本当の深みにまで到達できないかもしれません。
残念ながらそのどちらにも欠ける僕ですが、映画を観ている最中はそんな小難しいことはさておいても、ひとつひとつがまるで芸術写真のような完璧な画角や豊穣な白黒の映像に感嘆していました。そうなんです。この映画モノクロ映像です。修復されたキリスト像を彩色するシーン(映画によってはそれこそカラフルでしょうが)から始まるんですが、そこからして印象的です。
映画を観ながら、色んな意味で対極にある感情が次々と自分の中を行き交いました。少女の中にある様々なアイデンティティの葛藤(しかし表面化させない)がそうさせたのかもしれません。不思議な時間を過ごしました。