おれは、土門拳になる。第2章 写真家増浦行仁公式ブログ

写真家<増浦行仁>のオフィシャルブログ。
志を追い続けた増浦が「夢を追う」こととは何かを本音で語る。

母の選択

2012年03月22日 | 日記--感じたことなど
僕は東京都世田谷区下北沢で生まれた。

僕が生まれる前、母は東京で一人で暮らしていた。
今で言うキャリアウーマンだった。(それも、バリバリの!)
青山にテナントビルを購入する予定をたて、
そのビルの賃貸収入でさらに事業を拡大しようとしていたようだ。

ところが、友人達が次々と子供を産んで行くのを見て、
子供を産んで育てるか事業を続けて行くか真剣に迷ったらしい。
僕がいるという事は、前者を選択したということなのだが・・・

母の希望通りには育たなかった僕を見て、
もしかして母は、その時の決断を後悔していただろうか・・・

今となっては聞く術もないが、
いつか自慢の息子となって母と再会したい。

どうせ、素直には喜んでくれないと思うが。
意地っ張りなところも母譲りの僕である。

初七日を終えて

2012年03月19日 | 日記--感じたことなど
昨日は母の初七日だった。
日が経つ毎に、孤独感が募る。

“いつまでもあると思うな親と金”とは言われるが
母に限ってはいつまでも長生きすると思っていた。
母自身も“いつまでも生きたい”と言っていたので、
もしかしたら誰よりも長生きするんじゃないか、
などと思っていたのだ。

ご承知の通り、母はとても勝ち気な人だったので、大人になってからも僕と母は良くぶつかった。
つい1ヶ月前迄は、しょっちゅう電話で喧嘩していたのだ。
似たもの同士だから、お互い一歩も引かない。
つまり、いつもの元気な母だった。

医者から、初めて母の病状を知らされたのが、先月初め。
それから1ヶ月余で帰らぬ人となってしまった。
あまりに突然で、僕はまだ心の何処かで信じられないでいる。

昔からせっかちな人で、そんな性格を僕も受け継いでいる。
でもいくらせっかちだからといって、1ヶ月は早すぎるだろう?
最後ぐらいはもう少しゆっくりして欲しかった。
まぁ、母らしい潔い人生の幕引きだったのかも知れない。

やっぱり母には勝てないな・・・

母のとった後始末

2012年03月12日 | 日記--感じたことなど
もう9年前になるのだが、「おれは土門拳になる」の出版が決まった時、ルポライターの村尾国士氏に母にインタビューしてもらった。
母に、僕の自伝を書いてくれる村尾さんがインタビューに行くからと伝えると、「何で、高校も大学も出てないお前の自伝が出るのか、どうしても理解できない」と言われた。

インタビュー当日になっても、母はまだ僕が口から出任せを言ってるのではと半信半疑で、僕との間にあったいろんな事を村尾氏に赤裸々に語ってしまった。

実際にその本が書店に平積みになったのを見、慌てたのは母である。なんと、「こんな恥ずかしい話を近所の人に読まれるのは嫌だ」と家の半径1キロ圏内の書店に並ぶ「おれは土門拳になる」を買い占めてしまったのだ。
当然のように母の家には僕の自伝が山積みになった。どうやら、一度買い切ってしまえば、もうおしまいと思っていたらしい。
世間知らずな母である。

ただ、息子の本が出たと嬉しくて買い占めるならまだしも、恥ずかしくてとは・・・

母の口癖

2012年03月09日 | 日記--感じたことなど
母は、僕が1歳の時に父と離婚している。それ以来、女手一つで育ててもらった。
母は常々、「手に職をつけなさい」「勉強して高校・大学は出なさい」と小学生の僕に言っていた。

母は、呉服屋を営んでおり、車で営業していた。駐車場と家が500mほど離れていて、その途中に歯科技工士の作業場があった。そこでは毎日、朝から晩まで電気がついていて、休日も無く働いていたように見えた。
「手に職をつけなさい、この技工士さんみたいになりなさい」とその前を通る度、母から言われるのが嫌だった。今でも技工士と聞くとあの時のことを思い浮かべてしまう。

写真家として自分で事務所を経営しているが、やはり山有り谷有りで常に安定しているわけではない。確かに、経済面で自営業はリスクがあるし、サラリーマンや公務員は安定しているように見える。でも、それぞれ向き不向きがあるし、価値観も違うので一概にどちらが良いとは言えないだろ?(誰に聞いてるんだ)
いずれにしても僕は、若い人には、本当にやりたい事を真剣にやって欲しいと思う。自分の命を賭けてもいいと思えるような仕事をして貰いたい。

僕自身、まだまだ道半ばだと思っているが、何より母には写真家として認めて貰いたいのだ。
今の母の口癖は「仕事はどうなの?」だ。

母の偉大なひと言

2012年03月07日 | 日記--感じたことなど
中学3年の終わり。
僕の中では、高校進学の気持ちは無く、一刻も早く写真家への道を歩みたかった。
当時、写真家になるには誰かに弟子入りする方法が一般的で、僕はすでに弟子入り先の候補として大阪の岩宮武二先生を考えていた。岩宮先生は、風景写真とか社会派的な写真で国内外から高い評価を受けられた日本を代表する写真家の一人だった。
当然、母は違う考えで、まずは普通の高校を卒業してから大阪芸術大学の写真学科を目指したらどうかと言った。高校に行く行かないで毎日のように言い合っていた。

僕は僕でいろんな事を考えていた。写真を撮るには機材が必要だ。その当時から僕は、何故かすでに一流志向だったのだ。35mmカメラはコンタックスを使っていた。ライカはもちろん憧れだったけれど、とても手が出ない値段だった。
僕には、どうしても欲しいカメラがあり、それはハッセルブラッド500C/Mという6×6のカメラだった。今でもはっきりと値段を覚えているが、標準レンズ付きで38万5千円だった。今から35年ほど前で、当時の大学卒の初任給は10万円ぐらい。

僕は一計を案じ、高校に入学するという条件で母にそのカメラを買ってもらうことにしたのだ。(高校は入学してすぐに退学するつもりで、卒業するとはひと言もいってなかったのだ)

中学3年の冬休みに、大阪第1ビルにある「カメラの大林」というお店に母と二人で念願のハッセルブラッド500C/Mを買いにいった時の事。

カウンターでこのカメラが欲しいと言う母に、お店の方はカメラを勧めるのではなく、なんと母に説教を始めたのだ。
「お母さん、この年齢の子にこんなカメラを買うのは間違ってますよ。写真の事が分かった人が使うプロ用の機材ですよ、これは。値段だって半端じゃない、子供に持たせるようなカメラじゃないですよ」
母とその店員は何度かやり取りをして、最終的には36回のローンで買ってくれたのだが、その時、店員に言った母のひと言:

「いいものを、子供に持たせてあげたいんです。本物でなくては、だめなんです」

母の教え(?)のおかげか、僕はすっかり一流(本物)志向になってしまった・・・。
一流の機材を使いこなすには、自分も一流でなくてはならい。そのことを肝に銘じて、日々精進あるのみだ。

余談だが、そのハッセルは今も大切に使っている。

母からのキツイひと言

2012年03月06日 | 日記--感じたことなど
パリ時代の事。想像していた以上に生活費が嵩んで、持っていたお金も底をつき、アルバイトをしながらなんとか生活を維持しようとしていた。
それでも、食べるものを買うお金もなくなって、最後の最後に、日本にいる母に国際電話をかけて助けを求めた事があった。

僕は電話で母に「家賃も払えず、食料も買えないから、お金を送って欲しい」と頼みました。母は、「わかった、送ってあげる」と言って電話を切りました。
3日後、東京銀行パリ支店に着金を確認しに行った窓口で、500円が送られて来ていると告げられて、思わず「そんな馬鹿な、50,000円の間違いでしょう」と言ってしまいました。当時は、フランスの通貨はまだフランで、東京銀行パリ支店を通しての送金しかできなかった時代です。送金手数料が1,500円、なのに送金額はやっぱり500円でした。
すぐに母に確認の電話をしたのですが、その時言われた事は今も忘れる事ができません。
「ええ、間違いなく500円送りました。あなたの今の価値は500円ぐらいが相当でしょう。大見得切って勝手に日本を出て行って、もし日本に帰って来ても大阪にはもどらないように・・・」

当時は、息子が本当に困っているのに、なんて母親だと思って憤慨していたのですが、今思えば母親の愛情がこもったキツイひと言だった。

  ・・・と、思う。

記憶に残る、母のひと言

2012年03月05日 | 日記--感じたことなど
確か僕が35歳の頃、ある先生の紹介で成安造形短期大学(現・大阪成蹊学園)の講師として半年ほど教えてもらいたいという話があった。その先生にも大変お世話になっていたので、断るわけにもいかず、気持ちよく引き受ける事にした。

しかし、人に教えるということは非常に難しいことだった。しかも、美大生に写真を教えるという事は、事務所の若いスタッフに仕事を教える事とは全く別の事だった。暗中模索しながら行った僕の講義は、なぜか学生からは好評で、半年の約束が結局は4年ほど教えることになってしまった。

当時は、仕事で海外へ行く事が多く、不在がちな自宅では学校からの書類を受け取ることができなかったので、母がいる実家の方に送付してもらっていたのだが、学校からの書類が届くと必ず母から「成安造形短期大学という所から書類が届いているよ」と電話連絡があった。

度重なる書類の送付に心配になったのだろうか、ある日、母からこの成安造形短期大学とはどういう関係なのと聞かれ、実は講師として写真のことを教えているのだと説明したら、母は急に怒ってこう言った。
「なぜ高校を中退した人間が、大学で教えたりできるの!! 親を騙すのも大概にしなさい。同じ嘘をつくなら、もう少しましな嘘をつきなさい!」と。
母にとっての僕は、常に心配の種であり、いつまでたっても高校中退の駄目な息子であるらしい・・・

母と僕の記憶

2012年03月03日 | 日記--感じたことなど
「俺は土門拳になる」の中でも少し触れられているけれど、写真家として今の僕があるのは、やはり母という存在を抜きには考えられない。断片的ではあるけれど、日々のなかで蘇る母の言葉や記憶のかけらを書いていこうと思う。

あれは、中学1年生の時だった。僕は、毎日のように4×5のカメラをかついで、京都に行っていた。京都の大原三千院を撮影するためだった。
平日に大原まで行くのだから、学校は休む事になる。当時の僕が学校の先生に言った休む理由は「僕の家は片親なので、生活のために働かなくてはいけないから。」というものだった。しかし、そんな事がいつまでも隠しおおせる訳が無く、学期末の懇談会でついにバレてしまう。学校と母からはこっぴどくしかられた。母の言った言葉は今でも忘れない。「本当に情けない。言うに事欠いて片親だから働かないといけないなんて。生活に困っているような者が持てるカメラではないでしょ!」と。
確かに、4×5のカメラは、中学1年生が持てるような品物じゃなかった。僕がアルバイトでためたお金では到底たりず、母が買ってくれたのだから、本当に何も言い返せない。
いま寺社仏閣を撮影している僕と、中学の時に大原三千院を撮影していた僕は、使っている機材は変わったが、やっている事はなんら変わっていない。あの頃の思いは今も変わらず僕の中に息づいている。