おれは、土門拳になる。第2章 写真家増浦行仁公式ブログ

写真家<増浦行仁>のオフィシャルブログ。
志を追い続けた増浦が「夢を追う」こととは何かを本音で語る。

アートフェアinベルリン

2012年10月02日 | 写真のこと
BERLINER LISTE 2012 出展報告

先日、スマートシップギャラリーを通して、ベルリンで開催されたアートフェアに作品を数点出展した。「GENESIS」を3点と「神の宮」を1点だ。
ギャラリーからの報告によると、ブースでも1~2を争う人気だったらしい。
特に「神の宮」への関心が凄かったとのこと。出雲大社のご本殿(夜景)を写したモノクロの作品で、和紙にプリントしたものだ。
「神の宮」は、来年の出雲大社と伊勢神宮の両遷宮終了後に、国内外での巡回展が企画されている。今回のように、海外での反応は良いバロメーターになる。





「遷宮」とは、神様をお祀りするお社を建替えたり修造したりする為に、ご神体を遷すことだ。神様のお住まいを常に美しく保つことで霊威が蘇り、平和で豊な世が保たれるのだ。凡そ1300年以上も前から、人々の深い祈りとともに、この神事は継承されて来た。特に伊勢神宮では20年毎に遷宮が行われ、その都度ご神殿をはじめ宇治橋から摂社や末社に至るまで新しくされる。その為に掛かる費用、労力、資材は相当なものだ。その莫大な経費を戦前は国費で賄っていた。明治時代、政府筋では伊勢神宮のお社をコンクリートにしてはという案があったらしい。そうすれば、この先、建替えの費用もかからないとの判断だ。これにNGを出したのが明治天皇だったとのこと。もし、効率だけを考えて、コンクリートにしていたら、20年毎に受け継がれてきた尊い儀式とその精神、素晴らしい伝統技術は、途絶えていたかも知れない。日本の貴重な文化の一部が永久に失われてしまったかも知れないのだ。
そう考えると国政を司るリーダーの判断が如何に重要か解る。特に今の日本には、短絡的ではなく、将来世代の視点で考えられるリーダーが必須だ。
うかうかすると四方八方から僕たちの大切な領土が奪われかねない。
日本人の美徳である調和の精神は、事なかれ主義のことでは決してないのだ。

出雲大社 「目にもまぶしい檜皮」

2012年05月02日 | 写真のこと
前々回のブログに書いていた目にもまぶしい檜皮の大屋根を撮影しているシーンをアップ。
僕の撮影風景は本当に珍しい。(なにせシャイなもので・・・)





こんな感じで作業用の足場から特別に撮影させていただいていた。
この足場も解体され、このような撮影はもう出来ない。

60年に一度のすばらしいご縁をいただいた。
感謝!!

三度目の熊野

2012年04月20日 | 写真のこと
僕が初めて熊野本宮大社を訪れたのは、10年前の元旦だった。
丁度ミケランジェロ作品集『GENESIS』の凱旋展が、東京都写真美術館で催された年だ。フランス、イタリアと主にヨーロッパを拠点に撮影して来た僕が、ローマの教会で“奇跡の光”に出会ってから、日本のルーツに惹かれるようになったのだ。

大阪から特急で新宮まで4時間弱、そこからバスにゆられて更に1時間。
熊野川と新宮川沿いの道は風光明媚で、途中に温泉町もあり、
情緒豊かなものだった。都会の喧噪を忘れて、僕は小旅行を楽しんだ。
しかしながら昨年、この豊かな自然に囲まれた町が台風による大洪水で一変してしまった。土砂にのまれて沢山の尊い命が失われた。



今年、熊野本宮大社では、「正遷座百二十年大祭」が斎行される。
まさに120年ぶりに遷宮が催されるのだ。災害で亡くなった人の御霊の鎮魂と日本の再生、世界平和、自然の安泰、人類の平和を願い「日本再生~神仏の祈り~」と位置づけられている。
4月9日、その本殿遷座祭が行われた。
僕は、出雲大社のご縁で、そのお祭りを撮影させていただくこととなった。
星降り注ぐ浄夜、荘厳な儀式にのっとってご神体がご本殿に遷された。
僕は特別にご本殿の間近で撮影させていただいた。写真を撮りながら、この素晴らしい機会を与えてくださった万物に感謝していた。そして、今、自分がこの場にいることに不思議な運命を感じていた。

最初に訪れた時は、鳥居より奥には入らなかった。何故だか、まだ許されないように感じたのだ。二度目は、「いのちの響き」というTV番組の収録時。そして三度目が今回だった。

大地震に大洪水、時として自然は大きな牙を剥いて僕たちを襲う。
だからこそ、僕たちの祖先は、自然の中に神を見いだし、畏れ敬って来たのだ。
自然と共存、共生する為に。
そして僕はそれを伝える為にシャッターを切る。

出雲大社 ご本殿大屋根檜皮葺き終わる

2012年04月16日 | 写真のこと
3月のある日、出雲大社から
そろそろご本殿大屋根の檜皮葺きが終わると
ご連絡をいただいた。

1月13日より本格的に始まった檜皮葺きがいよいよ完了するのだ。
葺かれた檜皮はおよそ64万枚という。平葺き部分では、他に類を見ない4尺(訳120cm)の長さのものが用いられている。
4月最初の日曜日 職人達の足場が取れる直前の大屋根を撮影させていただいた。真新しい檜皮が目にまぶしい。
(リアルタイムで写真をアップ出来なくてごめんなさい)
ご本殿の囲いが取れて威風堂々たる姿が見られるのを皆楽しみにしているだろう。もちろん僕も。



日本古来の重要な神事である遷宮に込められた先人達の思いと祈り。
それを正しく世に伝えるのが、この時代に生まれた僕たちの使命と思う。
僕は写真家としてそれを全うしたい。

古寺巡礼便り 安倍文殊院編

2011年01月29日 | 写真のこと
さて、ライフワークとして続けている「平成の古寺巡礼」の経過を少し報告しよう。
一昨年より本格的にスタートした僕の巡礼だが、日々の業務に忙しくて思うように進んでいない。
でも先日、久々に奈良での撮影を再開した。


写真は安倍文殊院 金閣浮御堂(仲麻呂堂)

安倍文殊院の御本尊である日本最大の文殊菩薩が獅子から降りたということで撮影させていただいたのだ。

おかげさまで写真家として至福の時を過せた。
間近で見る文殊さまは、とても清らかなお顔で、レンズを向ける僕にも悟りを説いてくれているようだった。(今はまだ写真をお見せ出来ないのが残念・・・)
文殊さまの獅子から降りたお姿が一般公開されたのは、1203年の造立以来初のことである。普段は獅子に乗っているので、7mの像高だそうだ。(今回は重要文化財の修理を機会に降りたとのこと)
残念ながら、1月25日で一般公開も終わったが、3月末には獅子に戻ったお姿が公開される。

文殊さまといえば“三人寄れば文殊の知恵”で有名だが、実は卯年の守り本尊でもあるという。文殊さま、これからも僕(←卯年)をお守りくださいね。  合掌

メタボライカの侵略

2010年08月20日 | 写真のこと
今年、ライカ社が銀塩のカメラの製造停止を発表した。
僕は、そのことをカメラ雑誌で知った。凄いショックだった。遂にライカまでもが完全にデジタル化するのか!と・・・

悲しいかなそんな僕も時流には逆らえなかった。
カメラショップの店頭からフィルムが消え、印画紙が消え、暗室用品が消え・・・と。
結局実用でライカを使っていた僕にとっては、そのままアナログの機材を使い続けるには非常に難しい環境になったのである。
暗室のフォコマート達も出番がないまま、ひっそりと悲しげだ。

当初、僕のカメラ防湿庫にはM型ライカ(M6)のブラックボディ、シルバーボディがズラッと並んでいた。どれも撮影で使用しているものである。
ところが、3年前にメタボ1号(M8)が左の一角に割り込んで来た。
そして先日、メタボ2号(M9)の3台目がやって来た。遂に僕の防湿庫もアナログのM型ライカとデジタルのメタボライカがスペースを二分することになったのだ。

ところがこのメタボ2号達と僕の相性が非常に良いのである。(メタボ同士だからではない)相性の良し悪しは手に取った瞬間に解る。
僕にとっては現在最高のカメラだ。来週のロケが楽しみである。

■ライカカメラジャパン株式会社
http://www.leica-camera.co.jp/

■製品情報
http://www.leica-camera.co.jp/photography/m_system/m9/

LEICAとの出会い

2010年03月13日 | 写真のこと
さて、相変わらずのご無沙汰だが、今回は僕の愛猫(名はライカ)ならぬ、愛機LEICAとの出会いについて語りたい。

小学生の頃より、「土門拳になる!」などと大それたことを言う子供であった僕は、当然カメラも一流のものに憧れていた。その筆頭がライカである。
現在でもライカといえば高級品のイメージがあるが、かつて“ライカ一台=家一軒”と言われる程、庶民には全く手が届かない時代があったらしい。
そんなライカに初めて触れたのは、僕がまだ中学生の頃だった。当時、「サンエス」という有名なライカ専門店が大阪の御堂筋沿いにあった。僕は、どうしても憧れのカメラを見てみたい!という思いで、その高すぎる敷居を跨いだのだ。本来なら、お客として扱って貰えるはずもない子供の僕に、ガラスケースの中から、ライカ本体を取り出し、手に持たせてくれながら丁寧に説明してくれたのが、その時の社長夫人(現サンエスの社長である平野芳子さん)である。
垂涎の面持ちの僕に、夫人は「このカメラが買えるような写真家になりなさいね」と優しく励ましてくれたのである。以来、僕にとってライカというカメラは一層特別な存在になった。サンエスは現在、大丸心斎橋店に移転しているが、社長には今でも大変お世話になっている。

ライカというカメラは、プロが仕事で使用するには向かないと言う人もいるが、僕にとってはそうではない。アナログの時代から仕事でも作品撮りでもM6を愛用し続けて来た。初めて手に入れたライカは、ⅢFだった。18歳の時、新宿の中古カメラ店で2年のローンで買った。この時の感動を今も鮮明に覚えている。デジタル時代の今は、「神の宮」や「平成の古寺巡礼」等の撮影にはライカのM8.2を使用している。また、高級品ゆえにコレクションアイテムにされている方もいるだろうが、カメラは機材である。実用してこそ、本来の価値が解るのではないだろうか。

さて、今回、僕とライカとのなれそめを語っているのは訳がある。
実は昨年末、ライカカメラジャパン社から正式にサポートを受けることになったのだ! 憧れ続けたライカが・・・これからは公認で、僕と活動を共にしてくれるのである!!!この感慨はとても言葉で表せるのもではない。

改めて、ライカカメラジャパン株式会社の皆様に、また、サンエス社の平野社長を始め、僕の活動にいつも暖かいご支援をいただいている皆様に、心から感謝申し上げたい。

余談だが、昔からの恩師である積哲夫氏が一言
「カメラ(ライカ)を買うお金がなくて、ライカの空箱ばかり集めていた君が、遂にサポートまでして貰えるようになったのか・・・凄い一念だな」

そうなのだ。若かりし頃、僕はあの赤いロゴマークに魅せられ、中古カメラ店に通ってはせっせとライカの古い空箱を買い漁っていたのだ(笑)。
今は、実物のライカがいつも僕のカバンに入っている。幸せである。
ありがとう。