「俺は土門拳になる」の中でも少し触れられているけれど、写真家として今の僕があるのは、やはり母という存在を抜きには考えられない。断片的ではあるけれど、日々のなかで蘇る母の言葉や記憶のかけらを書いていこうと思う。
あれは、中学1年生の時だった。僕は、毎日のように4×5のカメラをかついで、京都に行っていた。京都の大原三千院を撮影するためだった。
平日に大原まで行くのだから、学校は休む事になる。当時の僕が学校の先生に言った休む理由は「僕の家は片親なので、生活のために働かなくてはいけないから。」というものだった。しかし、そんな事がいつまでも隠しおおせる訳が無く、学期末の懇談会でついにバレてしまう。学校と母からはこっぴどくしかられた。母の言った言葉は今でも忘れない。「本当に情けない。言うに事欠いて片親だから働かないといけないなんて。生活に困っているような者が持てるカメラではないでしょ!」と。
確かに、4×5のカメラは、中学1年生が持てるような品物じゃなかった。僕がアルバイトでためたお金では到底たりず、母が買ってくれたのだから、本当に何も言い返せない。
いま寺社仏閣を撮影している僕と、中学の時に大原三千院を撮影していた僕は、使っている機材は変わったが、やっている事はなんら変わっていない。あの頃の思いは今も変わらず僕の中に息づいている。
あれは、中学1年生の時だった。僕は、毎日のように4×5のカメラをかついで、京都に行っていた。京都の大原三千院を撮影するためだった。
平日に大原まで行くのだから、学校は休む事になる。当時の僕が学校の先生に言った休む理由は「僕の家は片親なので、生活のために働かなくてはいけないから。」というものだった。しかし、そんな事がいつまでも隠しおおせる訳が無く、学期末の懇談会でついにバレてしまう。学校と母からはこっぴどくしかられた。母の言った言葉は今でも忘れない。「本当に情けない。言うに事欠いて片親だから働かないといけないなんて。生活に困っているような者が持てるカメラではないでしょ!」と。
確かに、4×5のカメラは、中学1年生が持てるような品物じゃなかった。僕がアルバイトでためたお金では到底たりず、母が買ってくれたのだから、本当に何も言い返せない。
いま寺社仏閣を撮影している僕と、中学の時に大原三千院を撮影していた僕は、使っている機材は変わったが、やっている事はなんら変わっていない。あの頃の思いは今も変わらず僕の中に息づいている。