中学3年の終わり。
僕の中では、高校進学の気持ちは無く、一刻も早く写真家への道を歩みたかった。
当時、写真家になるには誰かに弟子入りする方法が一般的で、僕はすでに弟子入り先の候補として大阪の岩宮武二先生を考えていた。岩宮先生は、風景写真とか社会派的な写真で国内外から高い評価を受けられた日本を代表する写真家の一人だった。
当然、母は違う考えで、まずは普通の高校を卒業してから大阪芸術大学の写真学科を目指したらどうかと言った。高校に行く行かないで毎日のように言い合っていた。
僕は僕でいろんな事を考えていた。写真を撮るには機材が必要だ。その当時から僕は、何故かすでに一流志向だったのだ。35mmカメラはコンタックスを使っていた。ライカはもちろん憧れだったけれど、とても手が出ない値段だった。
僕には、どうしても欲しいカメラがあり、それはハッセルブラッド500C/Mという6×6のカメラだった。今でもはっきりと値段を覚えているが、標準レンズ付きで38万5千円だった。今から35年ほど前で、当時の大学卒の初任給は10万円ぐらい。
僕は一計を案じ、高校に入学するという条件で母にそのカメラを買ってもらうことにしたのだ。(高校は入学してすぐに退学するつもりで、卒業するとはひと言もいってなかったのだ)
中学3年の冬休みに、大阪第1ビルにある「カメラの大林」というお店に母と二人で念願のハッセルブラッド500C/Mを買いにいった時の事。
カウンターでこのカメラが欲しいと言う母に、お店の方はカメラを勧めるのではなく、なんと母に説教を始めたのだ。
「お母さん、この年齢の子にこんなカメラを買うのは間違ってますよ。写真の事が分かった人が使うプロ用の機材ですよ、これは。値段だって半端じゃない、子供に持たせるようなカメラじゃないですよ」
母とその店員は何度かやり取りをして、最終的には36回のローンで買ってくれたのだが、その時、店員に言った母のひと言:
「いいものを、子供に持たせてあげたいんです。本物でなくては、だめなんです」
母の教え(?)のおかげか、僕はすっかり一流(本物)志向になってしまった・・・。
一流の機材を使いこなすには、自分も一流でなくてはならい。そのことを肝に銘じて、日々精進あるのみだ。
余談だが、そのハッセルは今も大切に使っている。
僕の中では、高校進学の気持ちは無く、一刻も早く写真家への道を歩みたかった。
当時、写真家になるには誰かに弟子入りする方法が一般的で、僕はすでに弟子入り先の候補として大阪の岩宮武二先生を考えていた。岩宮先生は、風景写真とか社会派的な写真で国内外から高い評価を受けられた日本を代表する写真家の一人だった。
当然、母は違う考えで、まずは普通の高校を卒業してから大阪芸術大学の写真学科を目指したらどうかと言った。高校に行く行かないで毎日のように言い合っていた。
僕は僕でいろんな事を考えていた。写真を撮るには機材が必要だ。その当時から僕は、何故かすでに一流志向だったのだ。35mmカメラはコンタックスを使っていた。ライカはもちろん憧れだったけれど、とても手が出ない値段だった。
僕には、どうしても欲しいカメラがあり、それはハッセルブラッド500C/Mという6×6のカメラだった。今でもはっきりと値段を覚えているが、標準レンズ付きで38万5千円だった。今から35年ほど前で、当時の大学卒の初任給は10万円ぐらい。
僕は一計を案じ、高校に入学するという条件で母にそのカメラを買ってもらうことにしたのだ。(高校は入学してすぐに退学するつもりで、卒業するとはひと言もいってなかったのだ)
中学3年の冬休みに、大阪第1ビルにある「カメラの大林」というお店に母と二人で念願のハッセルブラッド500C/Mを買いにいった時の事。
カウンターでこのカメラが欲しいと言う母に、お店の方はカメラを勧めるのではなく、なんと母に説教を始めたのだ。
「お母さん、この年齢の子にこんなカメラを買うのは間違ってますよ。写真の事が分かった人が使うプロ用の機材ですよ、これは。値段だって半端じゃない、子供に持たせるようなカメラじゃないですよ」
母とその店員は何度かやり取りをして、最終的には36回のローンで買ってくれたのだが、その時、店員に言った母のひと言:
「いいものを、子供に持たせてあげたいんです。本物でなくては、だめなんです」
母の教え(?)のおかげか、僕はすっかり一流(本物)志向になってしまった・・・。
一流の機材を使いこなすには、自分も一流でなくてはならい。そのことを肝に銘じて、日々精進あるのみだ。
余談だが、そのハッセルは今も大切に使っている。