飾釦

飾釦(かざりぼたん)とは意匠を施されたお洒落な釦。生活に飾釦をと、もがきつつも綴るブログです。

僕は知らない寺山修司NO.167⇒実験的幻想音楽劇「阿呆船」(パルテノン多摩)

2010-10-18 | 寺山修司
■日時:2010年10月16日(土)、18:50~
■作:寺山修司
■演出・音楽・美術:J・A・シィザー
■出演:伊野尾理恵、岡庭秀之、小林圭太、竹林加寿子、岡本はる香、他

パルテノン多摩で上演された寺山演劇「阿呆船」を見た。上演空間は劇場ではない。その時の天候条件までが劇の一部となる野外劇である。特設舞台の奥には森が広がり、芝居が始まる頃は日も沈み闇夜の空には月が浮かぶ。それまでが幻想的な装置のひとつとなり、虫の鳴き声とともに呪術的なJ・A・シィザーの音楽が響く。それだけで劇場では味わえない異空間が眼前に広がる。黒で統一された役者の衣装。女優の中には頭を剃ってしまっている者もいた。


阿呆をテーマとしたこの劇は、いつもの寺山演劇と同じく<私>とは一体誰なのか?を問いかけているようだった。阿呆、狂気…、寺山修司はこの劇をフーコーの「狂気の歴史」に触発されて書いたようだが、残念ながらボクはその名著を読んではいない。だから、阿呆、狂気といったキーワードを持ち出してもどこまでそれが根底に流れているのかわからない。ただ、目の前のそれを見て阿呆、狂気とはボク達自身を指しているのではないかと思った。


 


君は頭が少々弱いねっと言われることがあるとしたら、そう言った発言者は何の基準を持ってそう定義づけることができるのだろうか。区分けする規範とは何なんだろうか?その価値観とは?少しくらい行動がおかしくってもいたって本人は必死なのだ。劇では歌を歌い続ける女が出てきたが、彼女とて歌を歌い続けたくないと言っていた。彼女に歌わせてしまう何かがあるのだ。その何かとは何なんだろうか?

 

今回、<私>という存在の謎をボクは阿呆、狂気という方法論、切り口、問いかけの仕方を変えて見せていたように思った。とは言いながら「レミング」にしろ「奴婢訓」にしろ登場する人物らは阿呆船に乗り込むような人物像が多いのだが…(同じことを描き続けている)。台詞の中で球体には裏も表もないというものがあった。<私>が球体とするならば、<私>には正常と狂気を区分けする境界線とは一体何なんだ、そういっているようにも聞こえたのだった。

 




阿呆船は何百人もの阿呆を収容して船出するという。目に見えない観客の想像力に委ねられた阿呆船は相当な大きさであるはずだ。「阿呆船」は野外劇であるがゆえの利点を生かし、劇は横に縦にとスペクタルな展開を見せ観客に大きな阿呆船を想像させるのに成功していると感じた。それが心地よかった。役者自身も演じていて気持ちよかったんじゃないかなと思った。

 

寺山の演劇はJ・A・シィザーの哀愁を帯びた旋律音とともに役者が舞台奥に引っ込んでいく形で終わることが多いが、今回ほどそれがピッタリはまり、さまになっていて、よかったことはなかった。野外のため舞台の背景は冒頭に書いたように闇夜に森の影が浮かび、それはまるで画家ベックリンの「死の島」を想起させるのであった。白塗り黒服の役者達は死の使い、あの世の道化師のようにも見えた。寺山と同じように詩的象徴表現に満ちた幻想的な作品を作ったイタリアの映画監督フェリーニが、エンディングにカーニバル的な円環運動で終わらせるならば、寺山は残心、哀愁といった日本的な情緒感覚を持って終わらせる。歳をとってくるとそうした展開が胸に浸みてくるのを感じる。上演された日が秋の夜というのがいっそうそれを助長させた。






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