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飾釦(かざりぼたん)とは意匠を施されたお洒落な釦。生活に飾釦をと、もがきつつも綴るブログです。

僕は知らない寺山修司NO.68⇒「地平線のパロール」(河出文庫)

2007-09-14 | 寺山修司
「地平線のパロール」(河出文庫)

1971年、天井桟敷のヨーロッパ遠征によって寺山修司の国際的評価が高まったその時期に書かれたエッセイ。

その時寺山修司35歳、「書を捨てよ、町へ出よ」』サンレモ映画祭グランプリ、ナンシー演劇祭で「邪宗門」「人力飛行機ソロモン」上演、ロッテルダム国際詩人祭に出席、ベオグラード国際演劇祭で「邪宗門」がグランプリ賞とその活動は輝かしい。

読んでいても、乗っているなと感じさせる、切れ味が鋭いのである。今でこそ日本の劇団がどこそこの演劇祭に参加、絶賛される等々といったプロフィールがあたり前のように記載されたりしているのですが、当時は大変だったんだろうなと思います。寺山修司はつい最近まで余り関心がなかったのですが、こうしていろいろな著作を読むにつけ、ほんとに彼の才能の豊かさと云うか凄さに圧倒されます。挑発的な発言と行動をし続けたということは味方も多いが敵も多いということだと思います。前衛で在り続けること、そしてその行動と発言、寺山修司は若くして逝ってしまったのですが、彼の濃密な時間はボクのような凡人の何倍もあったに違いありません。


◆寺山語録~「地平線のパロール」より~◆


“すべての母親は、息子にとっては娼婦であるべきである。そしてまた、すべての娘は父親にとって娼婦であるべきなのだ。”

“性の自由は、「家」あるいは婚姻制、キリスト教道徳、社会的タブー、一切の桎梏から解放されて、自らの想像力によってエロス的現実を作り出すことであり、「自然」および「与えられた世界状態」から脱出し、自らの生きるべき世界状態を生み出すことにほかならいのだ”

“ユートピアは、もはや形態ではなく現象であり、それは出会いの中に見出される。性の本質は、出会いのエクスタシーであり「出会い方」の思想化によってたかめられてゆくことから論議がはじめられなければならないだろう。”

“肉体相互の出会いなどは、劇の中のほんの一つの要素にすぎないでしょう。俳優と俳優の出会いなどは、どんな幻覚に彩られたとしても、そんなに面白いものではない。肉体と事物の出会い、俳優と観客の出会い、夢と権力の出会い、事物と言語の出会い、想像力と現実の出会い、観客と終演後のステージの出会い、出会い、出会い。いつのまにか劇場に集まってきた観客たちの中に、級数的な肉体とがイメージの中で限りない葛藤を繰返すときに、私たちにとって劇とは何であったかが、はじめてあきらかになるでしょう”

“「想像力に蝕まれない現実」などに何の感化力があるものだろうか?”

“簡単にいうと演劇から観客っていう概念がなくなったときに演劇が本来化と思っているのです。”

“観客は、立会うことを許された覗き屋にすぎなかった。彼らはいつでも暗闇にいて、ステージで何が起こるかを見とどけるだけにすぎなかった。彼らは劇をこわすことも、劇に加わることもできぬ「見えない人間」であったと思っています。”

“まだだれ一人として、地平線まで行った者はいなかったと言うのと、世界中のだれもが地平線の上に立っていると言うのと、どっちがほんとうらしくきこえるだろう?”

“夢を現実化する機械と、夢を夢化することによって現実から隔離する機会―飛行機と映画とが、私の場合には分離されずに一体化してしまったと言えるかも知れません。”

“劇のコミュニケーションの中で<わかる>なんてことは、ほんのことは、ほんの部分的なコミュニケーションにすぎない。言語を過信した演劇は、次第に複製化してゆき、結局は台本を肉体に翻案して見せるだけの、虚構で終わってしまうだろう。”

“政治的言語下にあって詩的表現の自由を失っている”

“劇を劇場と俳優という限られた代理空間に閉じこめておいた近代から、私たち自身の手もとにひきよせ、虚構と現実などという酸敗した対立図式などを捨て、私たち自身の「劇」を問い直すところまでラジカルにならなければいけない。”

“私たちは、いま、市街劇のための「無人島計画」に熱中している。すでに一度、終末を経験したヨーロッパ文明のどまん中、表通りのコンクリート舗道のあちこちに、二メートル四方の無人島を作り出す試みである。そして、それぞれの無人島でじぶんたちだけのことばを作り、火打ち石を用い、家を建てて、観客とともに「数時間で数千年分の歴史をたどる」のである。二メートル四方は観客たちの手で四メートルに、さらには八メートルにと拡大され、当然、対立と葛藤を生み出すだろう。出会いの葛藤は、もはやステージと客席という境界線をこえて、同一の敷石の上にもちこまれる。一人のシェークスピアを撃ってしまった償いとして、数万人の市民のすべてがシェークスピアになるところから劇ははじめられる。”

“貧しい想像力の持ち主は貧しい世界の終わりを持ち、豊かな想像力の持ち主は豊かな世界の終わりを持つだろう。世界はまず、人たちの想像力の中で亡びる。そしてそれを防ぐためには、政治的手段など何の役にも立たないのである。”

“私たちは、どんなにしても部分的にしか事実にかかわることができぬのに、自分のかかわってきた分だけで歴史を記述しようとするから、あやまちをひき起こすのだ。「歴史とは、忘れ去ることなり」。忘却から出発したものだけが、歴史の名において想像力を組織することができるのではないか。”

“私は、東京へ出てきて二十年にもなるのに、まだ方言の訛りが抜けないし、しばしば近代化された高層ビルを見ていても、その床板を一枚めくれば、下には耕すべき黒土があるのだと思って慄然となるという習癖が抜けないのである。”

“あらゆる形態は保守的である。”

“劇(ドラマツルギー)は<出会い>の偶然性を想像力によって組織することであり、空間や形態の維持と対立するものだったからである。”

“従来、観客は①?である。②立会いを許された覗き魔である。③椅子から立ち上がることのできぬイザリである。④劇の中の癈人をも止めることのできぬアウトサイダーである。⑤そこにいることをまったく無視されている廃人である。⑥拍手と笑だけを許された(というよりは強要された)道化である。⑦異差を確かめるための共通の現実を持つことを要求しながら、つねに排斥されつづけているユーとぴあんである。⑧三時間後には追い返される訪問者である。といた役割を与えられており、劇場空間はそれに適ったように作り出されてあった。
しかし、劇画<出会い>を生成するために、従来の空間と形態を消滅させ、観客にもしゃべる自由、虚構にふみこむ権利、劇の流れを変える相互創造の役割、異差を確かめるための共有の言語、といったものを与えたときには、従来の劇場が従来の劇を上演するための、ただの施設にすぎなかったことがあきらかになり、<出会い>の機会を生成するための場としての、新しい劇場空間が必要とされることになるのである。”

“空間だって老いてゆくのだ、と私は思っていた。それが人間によって思いうかべられるものである限り、空間は老い、そして滅びに向う。”

“私は<出会う>ために生まれてきて、そして<出会い>を繰返しながら老いてゆく。<出会い>はそれ自体何者と調和することを目的とせず、または排斥することをも意図していない。しかし<出会い>は、あきらかに相互の異差を確認し、そのことによって自他の現実原則を変革する。そのことが、ひとつの形態と空間の消滅を上塗りする。かぎりなく出会うためには、かぎりなく空間を消滅させなければならない。”

“郵便ポストが王の立棺だったと知ったとき、町の形態と空間は一瞬、消滅する。”

“一メートル四方一時間国家は二メートル四方二時間国家、八メートル四方三時間国家と空間と形態を倍増し、同時に消滅と生成を繰返してゆく”



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