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鬼才、天才、オタクのタランティーノ映画#9 『ユリイカ』2009年12月号

2012-02-15 | Weblog

クエンティン・タランティーノ監督の作品を見てきました。今私の手元にある青土社からでている「ユリイカ」の2009年12月号は「イングロリアス・バスターズ」の公開を受けてのタランティーノ特集号となっています。今日はその本から3人の評論家の文章を引用、抜粋したものです。


■焼き直しの倫理 タランティーノの映画史的位置・・・・・・by吉田広明 

・タランティーノという監督は、……自身が好むジャンル映画の記憶を元に、それを彼なりにアレンジして、新たな形で提示する作家である……彼の履歴全体にわたる手法を原型的に示す細部が、この『レザボア・ドッグス』の冒頭部分なのだ。

 

・費用を軽減すること、見せないことで想像力を換起すること、タランティーノがB給ノワールから学んだことは先ずそれである。一方で、こうした省略も含む時制の錯綜のタランティーノにおける使い方が、実はノワール的ではないことにも注意を、払うべきだろう。……『レザボア・ドッグス』の場合、フラッシュ・バックは各登場人物の背景を描くものであり、人物造形に関わるものである。……過去に浸透された「現在」を現出させるのだ。

 

・タランティーノの映画において、女性がファム・ファタル(宿命の女性)として現れる例が全く無いことも、彼がノワール的な風土と実は遠いことを示すだろう。

 

・時間軸の錯綜を含む構成、リアルな会話(ネタ的な与太話)、キャラ立ち、そういったタランティーノ独自の世界は、脚本の時点立ち上がるものと思われるが、それを実際に画面にしてゆく過程で、画面自体がそうした脚本の特性をあまり邪魔していないような演出をしているように思えるのだ。

 

・本物の変態というより(かなり上手く出来ているにせよ)フェイクの変態なのだ。タランティーノの映画は案外健全なのである。

 

・二作(=「レザボア・ドッグス」「パルプ・フィクション」)にも派手なアクション場面はない。……タランティーノ的な脚本の特性が、あまりそうした場面を必要とせず、従って金のかからないものだった、というのも事実である。その意味でこの二作品は、タランティーノが映画界で置かれた位置の矛盾を最もよく現した作品だと言える。処女作のあまりに大きすぎる成功は、彼をして一躍ハリウッドで最も注目される監督にする……そしてこれまで以上にあからさまに、自分の愛するジャンル映画の焼き直しに勤しむことになる。自分の映画世界より、過去のジャンル映画に寄り添うのだ。かくして彼は、脚本主体の作家から、画面主体の作家に変貌する。

 

・『レザボア・ドッグス』と『キル・ビル』を見比べると、これが同じ作家の作品かと思う。……脚本で見せる映画から、激しいアクション場面で見せる映画へ。

 

・タランティーノは、自分の置かれた映画史的位置に、自覚的なのである。だからこそ、彼は自分の映画化が焼き直し、二番煎じであることをあからさまに強調し、ひたすら軽く、またどぎつく、アクションを演出する。(タランティーノに影響を与えたとされる「子連れ狼 三途の川の乳母車」を監督した)三隅のミニマルで重厚な身体切断は、大仰な血しぶきと共に切り取られた腕が、足が乱舞する、スペクタキュラーな大量殺戮となる。

 

・かくして脚本重視でその特性を生かすという、方向性からスペクタキュラーなアクション監督へ転換して見せたタランティーノだが、彼は最新作『イングロリアス・バスターズ』で更なる変貌を見せる。……B級趣味を切り捨てたのだ。処女作を構成していた要素のほとんどをここで捨てたことになる。……それでもまだ残る一点、即ち、既存の映画の記憶をアレンジしなおすことで映画を作るという身ぶり

 

・焼き直し、二番煎じ、物まね。タランティーノはそうそた批判を甘んじて受け入れる、どころかそれを自身の条件として高らかに掲げさえするだろう(彼は元ネタを嬉々として観る者にさし出して見せる)。しかしそれは単なるマニアの独りよがりなのではない。彼が(も)置かれた映画史的条件の提示なのであり、それを引き受ける覚悟の表明なのだ。タランティーノはなかなか硬派な作家なのである。

 

 

 

<歓待の作法>の失効 タランティーノ映画の変遷と女たち・・・・・・by石田美紀 

 

・彼の映画が極私的な偏愛対象の寄せ集めであることは、誰もが知るところである。

・タランティーノの映画を成立させているオマージュは、どの作品においても同じように配置されているのだろうか、……そんなことはない……。

・裏社会の生粋の住人ブラウンと、最後は演技にしくじって自らの居場所を帰りそびれるオレンジとの対比からは、「芝居」をめぐる構造が窺える。それは「芝居」によって闖入する者を歓迎し、その世界の住人にしてしまうことである。……このドラマツルギーを……<歓待の作法>と呼ぶことにしよう。

・『パルプ・フィクション』に登場するユマ・サーマンが演じるボスの愛妻ミアは……歓待を受ける闖入者ではなく、タランティーノの分身として彼の世界に息づいている……。

・トラボルタがかつて一世を風靡したダンスを披露する見せ場が、女性登場人物ミアによって用意されることである。つまりこの作品(=『パルプ・フィクション』)において、歓待の主に選ばれたのは、男ではなく、女であった、ということである。

・タランティーノが目指してきたところは、スクリーンに自身の世界を造り上げることであったはずである。そのための素材がオマージュという名のもとに参照される種々多様な過去の作品・事物であり、自身の世界を起動する装置が闖入者と歓待の主からなる<歓待の作法>であった。……しかし、『ジャッキー・ブラウン』には、闖入者も。歓待の主も見当たらない。それどころか、<歓待の作法>が失効しているのだ。

・彼女(=ジャッキー・ブラウン)の目指すところは、ひとえに監督兼脚本家が偏愛によって造り上げた世界からの脱出である。……劇中、ジャッキーもまた白いシャツと黒いスーツを身につける。しかしながら、タランティーノが自身の刻印として俳優に与え、彼ら身体のを包んできたこの衣裳が登場するのは、皮肉にも彼女がタランティーノの世界から脱出を試みて大勝負を仕掛けるときである 

・映画『ジャッキー・ブラウン』がただひとりの女優への深い敬愛の産物にほかならない……彼女(=パム・グリア)はタランティーノの世界を構築する一素材ではけっしてなかったのである。……彼(=タランティーノ)が強くて美しい、聡明なこの黒人女性に「なろう」としていること……愛を注ぐすべての対象を自分の素材として映画を作ってきた作家が他者を他者のまま愛し、そして自己を変容させたフィルムなのである。

・黒人女性アクション・スターでもあったパム・グリアに向けられたタランティーノの同一化の行方……「キル・ビル」二作において、つねに日本刀を携えときに、秘拳の構えをとるサーマンは何物なのか。オマージュで塗り固められたキッチュの化身という意見もあるだろう。それはたしかに否定しがたい。しかし、キッチュの鎧の下には、自己を女性に仮託し、あらためて偏愛の対象(千葉真一、ゴードンリュー)に弟子入りし修業を積もうする作家が潜んでいるかもしれない。

・監督・脚本、そして撮影まで手がけた『デス・プルーフ』でのタランティーノの変容ぶり……「キル・ビル」二部作でサーマンのスタントを務めたゾーイ・ベルが見せるアクション……目前には、懐古や復活の対象ではない、現在時制に跳躍する女性身体の強靭な輝きがあるからだ。

 

超薄的な「この世界」(パルプ・フィクション)・・・・・・by丹生谷貴志

・「死に切れない者」の偏在、生きることも死ぬことも奪われた者の偏在、その偏在の傍らで、或いは「中で」事件が進行し、そしてその事件全体が絶えずその「死に切れない者」の中に滞留し宙吊りになったものとして、奇妙な浮薄さを繰り広げるということ、ここにタランティーノに特異な、自覚的な固執がある、そう思われる。

 

・重力の質を成しているのは、「生きたままの埋葬」、或いは「死ねない生の宙吊り」に似た、生と死の中空に捩じれ滞留してしまった時間、或いは生からも死からも見放されてしまった渦巻き状に運動し痙攣し滞留し、或いは堂々巡りを繰り返す時間であり、それが物語の時間を、その時間軸に添って進行しようとする事件、事の次第を、波線状に狂わせていくかのようである。

 

・(キルケゴールの)「死にいたる病」においてある者は死ぬことが出来ない。「絶望」においてこの世の生から陥没し、同時に、彼岸へと開く扉を見出だせないままに、扉=死からも隔離されて、つまりは生でも死でもない中空に陥没し、死につつ死に得ない中空に宙吊りにされ続ける。生の時間にも死の時間(永遠)にも属さない異時間の中に宙吊りにされ続ける。

 

・馬鹿馬鹿しさと戯れるかに見えながら、その奇妙な重さ……或は何か知れない共振と言うべきなのか……タランティーノのフィルムの、その底にか中心にか或は偏心した重力場としてとでも言うべきか、ともかくしかし具体的な「それ」がそこにはあってーそのフィルムの奇妙な重さは、そこから発するものなのではないのか?

 

・(キルケゴールによると)「この世界」は徹頭徹尾「死ぬことができない」「死にいたる病」として存在する。

 

・「映画の世界」は文字通りキルケゴール的な意味で「死にいたる病」、「死ぬことのできない世界」として存在するのである そこには常に偏在する具体的な時空の捩れた場があってーそれこそはタランティーノのすべてのフィルムの継続の間中そこにあって、生からも死からも陥没した中空で「死ぬことが出来ない死」を生き続ける、或は「死ねない死」を死に続ける誰かの(何かの)偏在ー偏在からくるものなのではないか?

 

・「誰も死ぬことができない」ものとして或はそうしたものとしてのフィルムを撮り続けることだけに専心するクエンティン・タランティーノは、そのフィルムは、徹頭徹尾論理的なのである。……「横たわって死とたたかいながら、しかも死ぬことができない、死病」(キルケゴール)を生きるかのようにその生を生きる事をやめないからであるし、殺し殺される時においてすら彼らは「死ぬこと」からの隔離において薄っぺらになってその「死ねない絶望」の中に、つまりは「この世界」の生成へと再帰的に供給されていくことにおいてそこにいるのであり、それ故にこそ、タランティーノのフィルムとその登場人物たちは……というかその「全世界」は、キルケゴール的な意味において倫理的なのである。

 

・冗談を言っているつもりはない!実際(!)タランティーノのフィルムには一人の「キルケゴール」が登場するのだ。(サムエル・L・ジャクソン演ずる)ジュールス・ウィンフィールド、である。

 

・わたしたちは「死にいたる病」としてしか実存し得ないからである。ただ、映画は、キルケゴールが試み続けたように、「死にいたる病」としせの生であるしかない私たちに。その本質が「真理への倫理」を成すということを思い出させる装置として起動するのである。「真理」とはこの場合、神ではなくて、神が使命として「この世界」の存立と生成の本質とした「絶望」、キルケゴール的な意味で「絶望」であるだろう。……そして、クエンティン・タランティーノは「それ」を私たちの元に送り届けるのである。「俺たちは、<イヌ>だ!」という、祝福のマントラを繰り返すようにして?そしてそれはまた、映画のマントラである。

 

・(タランティーノ)のフィルムの残すもっとも強い印象のもう一つは、「誰もここから出ていけない」ということ……「ここ」とは「死にいたる病」として生成する「この世界」のことである。……タランティーノはキルケゴール的「絶望」と「イヌ」というマントラによってこの世界を祝福するのである。冒頭の言葉をタランティーノ的なこの世界への祝言として反復すること。「死にいたるまでに(絶望を)病んでいるということは、死ぬことができないということであり、しかもそれも、生きられる希望があってのことではなく、それどころか、死という最後の希望さえも残されていないほど希望を失っているということなのである。」ーキルケゴール『死にいたる病』

 

 

ユリイカ2009年12月号 特集=タランティーノ 『イングロリアス・バスターズ』の衝撃
蓮實 重彦,黒沢 清,菊地 成孔,西島 大介,川上 未映子
青土社

 

タランティーノ・バイ・タランティーノ
ジェイミー・バーナード,島田 陽子
ロッキング・オン

 

クエンティン・タランティーノの肖像 B級エンターテインメントの帝王 (シネマスター・ライブラリー・シリーズ)
Paul A. Woods,古田 智佳子
シンコーミュージック

 

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