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僕は知らない寺山修司NO.189⇒実験演劇室◎万有引力公演 「奴婢訓」を見た

2012-02-21 | 寺山修司

■日時:2012年2月16日(木)、19:00~

■劇場:シアタートラム

■作・演出:寺山修司

■演出・音楽:J・A・シーザー

■構成台本・共同演出:高田恵篤

■出演:旺なつき、高田恵篤、伊野尾理枝、小林桂太、テツ、村田弘美、他

 

万有引力による寺山修司の「奴婢訓」を見ました。この「奴婢訓」もしかしたら同じ劇団による上演では一番多く見ている演目かもしれません。天井桟敷から万有引力にかけて連なる寺山修司の作品においても確か最も上演回数が多い名作です。今回のものは当然ながら寺山存命中から関わっている役者が出演しているのは最も少ない上演となっているわけで、寺山修司の遺伝子が次の世代に受け継がれるターニングポイント的なもののようにに思えました。(と思っていたら当日配布されたシーザーの言葉に『寺山演劇を後世に繋げたいという思いを込めた試み』と書いてあったのでびっくりしました)

 

で、まずストレートな感想は、これまで見た「奴婢訓」の中では一番よかった、いや、これまで見てきた寺山修司の演劇作品の中でも指折りの出来であったと思いました。それまで私が見てきた「奴婢訓」の印象は洗練されたアバンギャルドでシュルレアリスのような、抽象的にしておどろおどろしい情念さも備えた一枚の絵を見るような演劇、そんな感じであったのですが、今回の上演は下男、下女による主人争奪ごっこをまさしく現代そのものを象徴していると思ったのです。

 

また、今回芝居を見ていて、演劇というものは見る座席の場所と上演される劇場の環境に大きく左右されるものだということも強く感じました。というのも、シアタートラムはそれまで私が見てきた「奴婢訓」を上演した劇場(グローブ座、新国立劇場)と比べてサイズは小さく、横幅もないものの天井が高くありました。それを生かした上へと延びている舞台装置が、主人と下男という身分の上下関係、権力の位置関係を強く意識させるものでありましたし、私が座った場所が3列目と俳優の肉体をこれまた強く感じさせられるものであったからです。俳優が飛び跳ね踊るには広いとは言えない舞台空間でダイナミックに舞う姿は同時に肉体の痛みを感じさせるに充分でした。

 

 

先に下男、下女の主人争奪ごっこは、まさしく今日の日本を象徴しているかのようだと書いたのですが、それはたとえば、首相、ここ最近の首相は一体何人変わったら気が済むのか?という現象を見れば一目瞭然なのではないかということなのです。自民党から民主党になっても状況は全くおなじ。トップになったと思ったら、何もできないまま批判とともに直ぐにやめてしまう。首相交代が激しいこの政治状況が主人不在を、下男、下女の主人争奪ごっこに似てやしないか?ということなのです。誰がやっても同じ、入れ替え可能な主人の椅子。そんなことを強く感じた今回の「奴婢訓」でした。

 

その「奴婢訓」、登場人物ゴーシュの台詞がそれを語っているようでした。<畜生!いつのまにやら、主人の大安売りだ。おかげで、邸の中がまっくらじゃねえか。主人がふえるたびに、くらやみがひろがっていくとはよく言ったもんだ。こうなったら(と、ヒュッと燐寸を一擦り)マッチの火あかりだけが頼り。どうせ、おれは二十五回だけ台詞を言って消えてゆく主人の役だ。少しでもあかるさを長持ちさせるために、主人に火をつけて焚火でもしてやろうか!(ゴーシュ別人のように態度が一変する)こんなに主人が多いと、たっぷり焚火ができるだろう。さあ、こいつら全部に火をつけて焚火にしてやろうじゃないか。みんな主人になっちまえば、こんどはたったひとりの下男の不在によって、みんなの心が充たされるんだ。見ろよ、このおれさまを。おれはいつでも、たった一人の不在の証しだ。さあ、気分よく燃えあがって、おれを暖っめてくれッ!雲のようにたよりない、カルボン酸の主人どもめが!>※寺山修司の戯曲5(思潮社から引用)

 

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僕は知らない寺山修司NO.117⇒「奴婢訓」(名古屋市千種文化小劇場企画公演)

 

寺山修司著作集 第3巻 戯曲
白石 征,白石 征,山口 昌男,山口 昌男
クインテッセンス出版

 

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