◻️103『岡山の今昔』倉敷美観地区

2017-03-30 08:53:48 | Weblog

103『岡山の今昔』倉敷美観地区

 JR倉敷駅から歩いて10分位で行けるところに、およそ江戸時代までの往時をしのばせているのが、倉敷川畔の「美観地区」や鶴形山南麓から東西にのびる「本町・東町」といった町並みである。このあたりは、古来より交通の要衝であった。高梁川の支流としての倉敷川は人造の堀川であり、児島湾に注ぐ。いつの頃からか運河として利用され、その河港には多くの商人が集まり、蔵が建ち、やがて備中地方の物資が集積していた。江戸時代ともなると、このあたりは備中の商業の中心地となった。
 このあたりの町屋や蔵を歩きながらつらつら眺め歩いてみる。すると、なかなかの風情がある。建物の見どころは、実に多彩だと教わる。識者の案内により箇条書きに並べ立てれば、大きなものでは塗り屋造りと土蔵造りが主なもの。前者は、町屋に多く見られる構造で、防火対策として隣家と接する両側面と正面2階部分の 外壁全体を白漆喰に仕上げている。

 また後者は、全体に土塗り白漆喰仕上げがされている構造物である。それから各々の建物にくっつけて観賞できるものがある。まずは倉敷格子で、上下に通る親竪子(たてご)の間に細く短い子が3本入っているらしい。続いて倉敷窓といって、建物2階の正面に窓が開かれていたり、虫籠窓(むしこまど)といって窓格子が塗り込めになっていたりする。聖窓(ひじりまど)と名付けられる、塀に取り付けられた格子の入った小さな出窓もある。犬矢来(いぬやらい)とは、円弧状の反りついた割竹や細い桟木を並べた柵のことで、 矢来の語源には「入るを防ぐ」という意味があるらしい。
 さらに、なまこ壁(海鼠目地瓦張)と呼ばれる紋様が見てとれる。これは、正方形の平瓦を外壁に張り付け、目地を漆喰で盛り上げて埋める手法だとのこと。この盛り上がりの断面が半円形のナマコ形に似ているのだという。奉行窓というのは、土蔵造りの蔵の窓形式として使い、長方形の開口部に太い塗り込めの竪子を入れている。他にも、鉢巻といって軒裏や軒、出入口土戸が、防火のため漆喰で厚く塗り込められているのが見られる。およそ、これらを全部視野に収めようとすると、それなりの時間と体力、気力がなくてはかなわないようである。
 この美観地区の一角、倉敷川(人造の川)の奥まったところに大原美術館がある。この美術館は、1930年に開館した。世界恐慌(昭和恐慌)の只中でのことであった。世間の大方はこれからどうして暮らしていったらいいだろうかなどど、不安な毎日を送っていた。その時期に、地方都市にこんな西洋風の大きな美術館ができたことに、地元の人々を含めさぞかし驚いたことだろう。この建設事業を進めたのは大原孫三郎で、代々の富豪として、また気鋭の事業家として知られ始めていた。その彼は、1880年(明治13年)岡山県倉敷村の大原孝四郎の三男として生まれた。大原家は米穀・棉問屋として財をなしていた。農地の経営も手広くやっていて、小作地800町歩(約800ヘクタール)を囲み、これを耕す小作人が2500余名もいたというから、驚きだ。彼の父・孝四郎は商業資本家であるとともに、地主でもあった。
 20世紀に入って父・孝四郎の紡績事業ほかを継いだ大原孫四郎であるが、彼は紡績業を営むだけに満足できなかったらしい。野趣というよりは、西洋の洗練された文化・文物をたしなむ素質を宿していたのだろうか。友人の画家である児島虎次郎(1881~1929年)に託す。児島はその期待に応え、西洋美術を中心とし、同時に集めた中国、エジプト美術なども加え収集に精を出す。大原がこれらの美術品を展示するために建築したのが、ギリシャ様式の建物である。今の倉敷駅から南方面へ暫く歩き、美観地区として町並み保存がなされているところに、重々しく建っている。西洋文明の曙を連想させるかのような柱が観る者の目にユニークに写ることだう。日本最初の西洋美術館となる。会館が成った後も、現代西洋絵画、近代日本洋画をはじめ絵画を集め続けるかたわら。陶芸館、版画館、染色館などを開館していく。
 主要展示品として絵画としては、エルグレコの「受胎告知」(じゅたいこくち)、ルノワールの「泉による女」、モネの「睡蓮」、ゴーギャンの「かぐわしき大地」、セガンティーニの「アルプスの真昼」、ルオーの「道化師ー横顔」、ターナーによるさんざめく中の海波の絵、ロダンの「説教する聖ヨハネ」や「カレーの市民」などが広く知られる。これらのうち「受胎告知」については、高さが109.1センチメートル、幅が80.2センチメートルということで、2016年10月、やや暗さを感じさせる色調をバックに対象が描かれている。全体に空間に仄かな光が射し込んでいて、観る者を誘う。対角線上に聖母と大天子を配している。ガブリエルの出現に驚いたマリアが身をよじって振り返る、その刹那を描いた。いかにもギリシャのクレタ島で生まれイタリアで学んだ放浪の画家(本名は、ドメニコス・テオトコプーロス)ならではの不思議な構図だとか。大天子のガブリエルが、精霊によりマリアへ受胎を告げている。
 むろん、実際にはあり得ないことなのだが、そのことがかえって神秘さを際立たせるのではないか。画面にあしらわれている白百合は純潔、鳩は精霊の象徴を意味するという。随分と意匠を凝らした構図だといえるだろう。批評家により、「この作品で描かれている図像が何を示すのか、その全ては明らかでないが」(案内人の柳沢秀行氏の弁、雑誌「ノジュール」第13号の特集「今月の名作」より引用)と断り書きとなっているのも、何とはなしに受け入れた。
 倉敷民芸館は、この地に1948年(昭和23年)に開館した。建物は、古民家を利用している。旧庄屋の植田家の米倉であったのを大原総一郎が寄贈した。これを、(財)岡山県民芸協会が母体となり民芸館として再生たものである。三棟の蔵が古典的でありながら、モダンな構成をなす。初代理事長には、大原総一郎が就任した。初代館長を務めた外村吉之介(とのむらきちのすけ)らの尽力により、現在に受け継がれる。館内には約600点の民芸品、生活品が展示されており、所蔵品で数えると約1万点もあるとのことである。年齢、性別を超えた、往年の暮らしを垣間見たいとするファンによって、今日も支えられている。
 この民芸館がまだ日の浅かった1950年2月25日、イギリスの桂冠詩人エドマンド・ブランデンが、文化使節として、ここを訪れ、次の即興詩「グリンプス(A GLINMPS)」(眺め)を詠んだ。これを2階の窓口に飾ってある。マルクス経済学者の大内兵衛による訳『日本遍路』において、こう訳されている。
「黒い輪郭の白い壁/中庭の見通し/清潔な門/そこからのぞく赤い頬の童児/話し合っている黒っぽい着物の二人の友/その向こうには落ちついて光る屋根の列/飾り房のやうな枝ぶりの松/そのひろやかな静けさ」

(続く)

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