○○208『自然と人間の歴史・日本篇』17~18世紀での藩政改革(肥後熊本藩、岡山藩)

2017-01-17 10:27:39 | Weblog

208『自然と人間の歴史・日本篇』17~18世紀での藩政改革(肥後熊本藩、岡山藩)

 儒学者の荻生徂徠(おぎうそらい、?~1728)の政談に、こうある。
 「昔ハ在々ニ殊ノ外銭払底ニテ、一切ノ物ヲ銭ニテハ買ハズ、・・・・・元禄ノ比ヨリ田舎ヘモ銭行渡テ、銭ニテ者ヲ買事ニナリタリ。(中略)
 当時ハ旅宿ノ境界ナル故、金無テハナラヌ故、米ヲウリテ金ニシテ、商人ヨリ物ヲ買ヒテ日々ヲ送ルコトナレバ、商人主ト成ッテ、武家ハ客也。」(『政談』)
 これによると、元禄期も18世紀に入ってからは、おしなべて商品経済が社会に浸透していった。「商人主ト成ッテ、武家ハ客也」と言い切っているのは、少し誇張なのかも知れないが、当時の世の変化を鋭敏に感じたものとみえる。
 その弟子である太宰春臺(1680~1747)は、特に経世済民の学に興味を抱いていた。彼は、当時母広く行われていた「町人の大名貸」を、こう評している。
 「近来諸侯大小となく、国用不足にして貧困する事甚し。家臣の俸禄を借る事、少なきは十分の一多きは十分の五六なり。それにて足らざれば、国民より金を出さしめて急を救ふ、猶足らざれば、江戸、京、大坂の富商大賈の金を借る事、年々に巳まず。借るのみにて返すこと罕なれば、子亦子を生みて、宿債増多すること幾倍といふことを知らず。昔熊沢了介が海内諸侯の借金の嵩は、日本に在らゆる金の数に百倍なるべしといへるは、寛文・延宝の年の事なり。其れより七十年を経ぬれば、今は千倍なるべし。今諸侯の借金を如く償はんとせば、有名無実の金何れの処より出んや、然れば只如何にもして、当前の急を救ひて、其の日その時を過ごすより外の計なし。」(『経済録拾遺』(けいざいろくしゅうい、1741~48年頃成立)
 のみならず、当時の経済全般の成立ち、そこから何が帰結されるかについても、丁寧に解説している。
 「今若し領主より金を出して、国内の物産を買ひ取り、民の従来私に売るよりも利多きやうにせば、民必ず之を便利と思ひて喜ぶへし。貨物を悉(ことごと)く買取りて、近傍の国と交易すべき物をば、交易もすべし。大方は江戸、大坂の両所に送りて、・・・・・他の商○(しょうこ)より○標(いれふだ)を取りて貴(たか)き価に売るべし。(中略)凡(およ)そ今の諸侯は、金なくては国用足らず、職責もなりがたければ、唯(ただ)如何(いか)にもして金を豊饒(ほうじょう)にする計(はかりごと)を行ふべし。金を豊饒にする術(すべ)は、市○(しこ)の利より近きはなし。諸侯として市価の利を求むるは、国家を治むる上策にはあらねども、当時の急を救ふ一術なり。」(『経済録拾遺』)
 要するに、できることなら国として藩として商品経済へ参加するのを推奨している。「諸侯として市価の利を求むるは、国家を治むる上策にはあらねども、当時の急を救ふ一術なり」とあるので、なかなか回りくどい気もする。封建制を堀崩しかねない商品経済に身を染めよ、という訳だ。これには、「藩専売制」(はんせんばいせい)への処方箋が付いてあって、「貨物を悉く買取りて、近傍の国と交易すべき物をば、交易もすべし」といぅのである。
 さて、17世紀から18世紀に行われ、後の世代に大きな影響を与えた藩政改革の一つに、肥後熊本藩6代藩主の細川重賢(ほそかわしげかた)の施策(「肥後の宝暦の改革」)があった。彼が藩主に就任したのは1747年(延享4年)年のことで、27歳の青年であった。当時の熊本県の財政は、大いに傾いていた。城下からも、「新しき鍋釜に細川と書き付け置けば金気は出ず」と揶揄(やゆ)されていたらしい。重賢(しげかた)はさっそく、これの改革を目指すことにした。
 改革をうまく進めるには、現場で実行するための有能な人材がいなければならない。斬新であったのはその登用する仕方であって、門閥(もんばつ、家柄)や世襲(親族の縁のある)を第一の尺度としなかった。これらの大概は、石高にも比例している。五百取り用人の堀平太左衛門勝名(かつな)を総奉行に大抜擢し、彼の下に6人の奉行をつけた。大任をまかされた勝名は、12種の職種に分けての家臣団のチームワークで財政再建に当たらせる。勝名は、中下級藩士から志ある者を要職に就け、分権と責任を明確にしたのである。
 当時、積み上がった借金のため、藩の財政は火の車になっていた。まずは勝名自身が、わざわざ大坂にまで出向いて借金の交渉に当たる。その間に重賢は、質素倹約を打ち出して、藩邸の費用を最低限に抑えるなどで支えていく。封建領主としては、「地引合」という検地を実施した事で、「陰田」を減らそうと試みる、これで、税収の確保を目指す時の当時の常道であって、ここまでは多くの藩がやっている。それだけでは足りようがないので、さらに、米に依存する収入減を見直すことで智慧を出した。主なところでは、櫨蝋(はぜろう、ろうそくの原料)の製造や紙漉(かみすき)などの殖産興業にも着手し、それらを藩の専売にすべく努力していく。
 重賢は、人材育成にも智慧を搾ったことが窺える。時習館では、身分に関係なく入校を許したと伝わる。また、薬草栽培園「蕃滋園(ばんじえん)」や医者の養成機関「再春館」を設立したことは、封建制下ではなかなかにできることではない。変わったところでは、「刑法局」を設置し行政と司法を分離するとともに、『刑法叢(草)書』を編纂させた。いわゆる罪刑法定主義の走りだといえよう。刑については、それまでの追放刑を笞刑(ちけい、むち打ち刑)と徒刑(とけい、懲役刑)に分けた。これだと、再犯を防ぐ効果があるうえに、懲役刑の罪人を無償で働かせる事ができると考えた。
 ところで、1764年(明和元年)、1697年の森氏改易後に幕府天領(ばくふてんりょう)となっていた勝山の地に、三浦明次(みうらあきつぐ)の三浦氏が三河国(みかわのくに)西尾藩からこの地に転封(国替え)して立藩した。この間に、備前の岡山藩では、やや異なった展開をたどっていた。1672年(寛文12年)、才人で知られる池田光政が隠居すると、嫡子綱政が二代藩主になった。彼は父と違って目立ったところはなく、凡庸な人であったと伝えられる。ところが、これが幸いしたのが、家老の日置猪右右衛門や、郡代の服部図書と津田永忠、学校奉行の市浦毅斎といった有能な家臣に多くを任せた。特に、津田永忠らが中心となって手掛けた新田では、米と麦の伝統的産物だけでなく、木綿や藺草(いぐさ)の栽培を行うようになる。
 そうした逸材達による藩政への参画、藩主の補佐の御陰で、藩の財政運営、新田開発、百間川の整備、そして後楽園(当時は「御茶屋敷」とか「後園」)の造営など、治世の実を上げたことになっている(「柴田一「岡山の歴史」岡山文庫57、1974」など)。
 1714年(正徳4年)にその綱政が死ぬと継政がこのあとを継ぎ、さらに宗政へと受け継がれる。この間、藩内では引き続き、温暖な山陽道の気候にも助けられてか、比較的穏やかな治世が続く。それを物語るのが、次の珍しい文章といえる。なぜなら、1729年(享保14年)といえば、諸国、とりわけ隣国では百姓一揆が頻発していた。そのとき、岡山藩でも、そうした一揆が起きたらどうしようか、どう鎮めるべきかを、郡代の加世八兵衛、長谷川九郎太に諮問した、といわれる。その二人が差し出した答申の内容がふるっている。
 「近年御近国の御大名様方は、藩の財政が収支相つぐわぬところから、御知行所の百姓ども騒動仕り候、(中略)総じて御無理なる義を下方へ仰付けられ候ては、兼々申しあげ候通り百姓どもうけつけ申さず候、御領内百姓の儀は何の御気遣いなることは御座なく候。」(池田家文書法令集)」
 さらに、治世が継政の孫、治政の代になってからも、郡代が大庄屋に申し渡した、いわゆる「お達し」に、こう書いてあった。
 「この節、所々他領がた百姓騒しく、右につき御郡代より各方へ仰せ聞かされ候は、御領分の儀式は兼て厳重に仰せつけられ置き候ゆえ、申し出し候儀もこれ無きことには候えども、大庄屋、名主ども兼々御取締り念入れ取り向け宜しき所より、何の不埒も相聞き申さず、御満足に思召し候、此後も随分御締り念入れ、名主どもより下方へも得と相移り申すべき旨仰せ渡され候。」(岡山大学「荻野家文書ー諸御用留帳」)。
 これによると、当時の岡山藩内の様子は静謐さを保っていた。そうだとすれば、それは藩当局による農民への封建的搾取の体制が滞りなく行われていることを意味する。これは、治世を行う側としては「概ね結構」ということになるのであろう。そのことを下の方から支えていたものとしては、1704年(宝永元年)に、「在方下役人」がおかれたり、1707年(宝永4年)に大庄屋制が復活して、藩の農民支配が強められていたことも見逃すべきでない。そればかりではない。同藩においては、18世紀に入った1705年(宝永2年)、「ざるふり商人」に販売を公認する31品目をきめた。1707年(宝永4年)頃の岡山城下の賑わいを示すものとして、城下の町人総数はおよそ3万人であった。
 それらに加え、備中と隣あわせの備中の南部においても、この時期、農業の多角化と、それに触発されての商業の発達があったことが知られる。柴田一氏の論考には、こう記されている。
 「備中南部でも、水谷勝隆・勝宗のころ開発された新田地帯を中心に木綿・藺草の栽培が盛んになった。とくに浅口郡玉島湊は、背後の新田地帯の木綿(繰綿・綿実)を大漁に扱う著名な集散地であり、また、都宇郡連島村は多くの藺草問屋・廻船問屋があって、集荷し藺草を大坂に運んだ。自給的な農業から商業的な農業に脱皮すると、百姓たちは肥料問屋・仲買から、干鰯(ほしか)・油粕(あぶらかす)を買い入れ、また、鋤、鍬、鎌のほか、役牛・すきを購入し、唐箕の・唐臼・千歯扱ぎ(せんばこぎ)などをもとめ、農業収益を高めていった。」(柴田一氏の論考には「岡山の歴史」(岡山文庫、1974)。

(続く)

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