○○128『自然と人間の歴史・日本篇』鎌倉仏教(日蓮宗など)

2015-12-21 12:04:31 | Weblog

128『自然と人間の歴史・日本篇』鎌倉仏教(日蓮宗など)

 さらに、日蓮はこの国の「立正安国」を念じる立場から、日蓮宗を興した。彼は1222年(貞応元年)に今日の千葉県安房郡小湊で生まれた。自らは漁師の家であったともいい、生家の暮らしは楽でなく、11歳の頃には清浄寺に入山し、道善房に師事する。16歳にして出家し、是聖房と名乗る。その翌年からは、鎌倉や京都の叡山に学ぶ。1253年(建長5年)には、清浄寺の地元を取り仕切っていた地頭の東条景信に追われ、鎌倉にやって来る。1254年(建長6年)、33歳頃には、日蓮と改名した。おりしも世の中は、天災地変が相次ぐ、庶民には受難の連続の日々であったに違いない。これに触発されて、なんとかして人々の窮状を救おうとする中に、僧としての彼がいた。
 今日の日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)ほかの同宗諸派の源になる教えを作ったのは、1259年(正元元年)のことであった。その年には『守護国家論』、その翌年には『立正安国論』を著す。これには、浄土系や密教系への烈しい口調が覗く。特に浄土系に対する彼の批判は執拗であった。人々をして、自身の死後に浄土に迎えられることだけを有り難がる方向に導くのは現世利益を諦めることにつながり、釈尊の教えに背く言説であり、行為であるとする。さりとて、専修念仏の主唱者たちが切り開いた民衆に根ざした仏教構築へ動いていたことは疑いない。そのことは、口に「南無妙法蓮華経」を唱えれば極楽往生へ上れるとする彼の教義からも窺えよう。
 そんな彼は、仲介の人を頼んで、時の権力者である、前の執権の北条時頼に『立正安国論』を提出した。平安期までの日本の旧仏教が鎮護国家の枠組みの中で生きることをめざしていた、そのなごり、延長ともいえよう。だが、彼の立場は旧仏教のように国家に隷属してのものではなく、国家権力の上に法華信仰を置いたのに特徴がある。この著において、彼は『法華経』こそが最重要な教典であることを示したのみならず、危機感をもって政治に当たることを説いている点で、他の大乗仏教諸派の開祖たちに比べ、大いなる異彩を放っている。その末尾には、憂国の志がさらに進んで、自らが信奉する宗派をもって「国の体制護持」の心とすべきであることを高らかに宣言したのであった。
 「汝早ク信仰ノ寸心ヲ改メテ、速カニ実乗ノ一善ニ帰セヨ 然レバ則チ三界ハ仏国也、仏国其レ衰ヘンヤ、十方ハ悉ク宝土也 宝土何ゾ壊レンヤ、国ニ衰微ナク土ニ破壊ナクンバ、身ハ是レ安全ニシテ心ハ是レ禅定ナラン、此ノ詞、此ノ言、信ズベク崇ムベシ。」(読みやすくするため、句点を追加させていただいた)
 この書に接した幕府は、記されている内容が一般に流布されていくのを恐れたことが窺える。危険を察して滞在先の鎌倉の草庵への夜襲から逃れたものの、1261年(弘長元年)には捉えられて伊豆流罪となる。その2年後に赦免される。彼の受難は、それからも続く。1271年(文永8年)には、ひでりに対する祈雨を巡って逮捕、尋問され、今度は佐渡島に流罪される。1274年(文永11年)になって赦免状が届いて、53歳にして鎌倉に帰る。幕府の質問を受け、蒙古の襲来が近いことを訴える。鈍い反応に、これでは埒(らち)があかないとその場を辞して見延(みのべ)に退き、この年の旧暦6月、草深いこの山に隠遁生活に入る。これには、甲斐の国波木井郷の領主、南部六郎実長の招きがあった。この山は、現在の山梨県南部巨摩郡見延町にあって、標高1153メートルというから、なかなか高い。その後も、自分の志が政治に伝わらない現状を憂う発言を続ける。見延山中に入って2年目にもなると、「報恩抄」を著し、55歳の円熟した筆跡でこう記した。
 「問て云く、天台、伝の弘通し給はざる正法ありや、答て云く、有り、求めて云く、何者ぞや。答て云く、三つ有り。末法のために仏、留め置き給ふ。迦葉(かしょう)、阿難
等、馬鳴(めみょう)、竜樹等、天台、伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり。求めて云く、其の形貌(ぎょうみょう)如何。答えて云く、一には日本乃至一閻浮提(いちえんぶだい)一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦、多宝、外の諸仏、並に上行(じょうぎょう)等の四菩薩脇士(きょうじ)となるべし。二つには本門の戒壇。三つには日本乃至漢土、月氏、一閻浮提に入ごとに有智無智をきらはず、一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱ふべし。」
 これにあるのは、『法華経』の「十六無量寿」の冒頭にこと寄せて、まずは「教主釈尊を本尊とすべし」ことをいう。というのも、法華経に登場するのは、「自我得佛來 所經諸劫數 無量百千萬 憶載阿僧祇 (じがとくぶつらい しょうきょうしょうこつしゅ むりょうひゃくせんまん おくさいあそぎ)、つまり「私が仏になってからというものは、数えきれないほどの永い永い歳月が経っている」と回顧じみた言葉を口にする。そういう人物が、他ならぬ釈尊自身なのだという創作が施されている。二つ目には、戒壇と言って、仏道を進めていくときのプロセスなり、組織なり、守らねばならぬ戒律などを守っていく。さらに三つめに、ひたすらに「南無妙法蓮華経と唱ふべし」というのである。
 1280年(弘安3年)、日蓮は『諫暁八幡抄』を著す。その中では、「国王や国神」を含めて施錠の在り方に批判を加えている。これを現代にも通じるものとして、平たく言えば、天皇や幕府といった世俗の権威、そして日本古来の神すらも、聖なる天上界の前では語るに足らない、つまり劣位に置かれる。これは、「神の下では一切の者は同等である」との西洋近代思想にも一脈通じる。
 こう見ると、日蓮の思想というのは、後の「国家的な日蓮主義」と区別しておかねばなるまい。彼は、親鸞のように妻帯することもなく、それでいて夫婦一体の愛を説き、慰めの言葉ともしていた。今日の男女平等にも通じる、慈愛に満ちた手紙も記している。彼のこのようなきめ細かな布教の姿勢は、年来の迫害と受難の連続と相俟って彼の心身を相当に煩わせ、痛めたであろうことは否めない。
 そんな日蓮の純粋理念は、浄土宗僧侶ばかりでなく、旧仏教改革派の奈良西大寺の叡尊(えいそんと)に対しても向けられた。叡尊の「八幡信仰」と戒律受持に基づいた祈祷が元寇の時の神風を呼び起こしたという大方の見方に、激しく反発した。その延長であろうか、叡尊の弟子の良観房忍性(りょうかんぼうにんしょう、1217~1303)に対しても、宗旨替えをして自分のところに修行に来るべしという風なことを言っている。忍性は、貧者や病人の救済にも身命を惜しまぬ努力をした社会行動派僧侶の典型であったのだが、特にハンセン病患者を毎日背負って町に通ったという話(『元亨釈書』等)も伝わっている。それでも、時の権力におもねるところもあったのか、後半生に活動の拠点を鎌倉に移してからの忍性は、より大規模に戒律復興と社会事業を展開していった。人々の救済に努めた忍性に、建武新政の時の後醍醐天皇は「菩薩」号を追贈したことで、歴代の高僧の仲間入りをするのであった。
 1281年(弘安4年)の60歳の冬から翌年にかけて衰弱が著しく、常陸の湯に入れてもらうなど養生に努めていた。この後、見延を下山し池上宗仲の邸(今の池上本門寺)に移ってからも病状は回復せず、この年の秋、61歳にて弟子らに後事を託して死んだ。

(続く)

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