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【100分 de 名著】「ブッダ最期のことば」#4

2015-05-08 01:12:07 | tv

【100分 de 名著】「ブッダ最期のことば」#4


1つの作品を25分×4回の計100分で読み解く番組。自分の興味がある作品の時だけ見て、気になったところをtweet、備忘メモとしてblogに記事書いて残している。今回は「ブッダ最期のことば」で、いわゆる「涅槃経」を読み解いていく。最終回が放送されて、既に2週間以上経ってしまったのだけど、やっと録画見たので記事書きます!( ・Θ・)ゞピヨッ



 

クシナガラに到着時、沙羅双樹の根元に横たわった。花や音楽が天から降って来るが、それは真に自分の供養にはなっていない。弟子たちが自分の教えに従って正しく修行することが供養であると告げる。=人が死ぬ時に、その人生を周りがどう評価するかということ

  

クシナガラ(Wikipedia)は釈迦入滅の地と言われいて、娑羅双樹(Wikipedia)の根元で眠りについたと言われているのだそう。その際、天から花が降り、音楽が鳴り響いたそうだけど、自分を供養(Wikipedia)することにはなっていないと語り、本当に自分を供養することは、自分の教えを守って修行することだと弟子に遺言したとのこと。

  

  · 5月5日

苦しみを感じ修行を積み悟りを開き、その道を他の人にも知らせたいと布教した。つまり、人を救うために生きた。そのブッダを供養するということは、教えを引き継ぐこと。→供養される人生を生きなければならない。死は人生の総決算。

  

先生によるとブッダのこの言葉は、人の死は人生の総決算であり、その人生を周りがどう評価するかということが、真の供養であるということを説いているのだそう。ブッダの人生はtweetにもあるとおり、人を救うための教えを見つけ、それを得るための修行の道も作ったのだから、その教えを守り修行に励むということが、真の意味でブッダの供養になるということ。そして、私たちは人に供養される人生を生きなければならないということなのだそう。

 

師がもういないと考えてはならない。自分の教えと、定めた法律が、自分亡き後の師である。先輩の比丘は後輩を名前もしくは友と呼び、後輩は先輩を尊者と呼ぶように伝えた。サンガ内に年功序列を義務付けた。能力主義は争いを呼ぶため。

 

 年功序列は年齢ではなく、サンガに入った順番。個人の資質は関係ない。自動的に上がるので、争って上に行く意味がないので、権力闘争が起こらない。 

 

ブッダはあくまで人間として生き、人間として亡くなった。師とは自分ではなく、教えと律そのものであると説いた。比丘(僧Wikipedia)とはサンガ(Wikipedia)の僧のこと。ブッダが存命だった頃は、僧たちは名前で呼び合っても秩序があった。自分亡き後、サンガを継続させるためには、権力闘争を避ける必要があった。そのため、ブッダは年功序列(Wikipedia)を義務づけた。これは、年齢と関係なく、仏教に帰依しサンガに入った順番。能力や修行の熱心んさとも関係なく、年を経るごとにその順位は上がって行く。後から来たものが、先に入った者を上回ることは出来ない。自動的に地位が上がるので、人を蹴落とす必要はない。なので争いも起きない。

 

ある目的のために集まった集団が、ライバル集団と争い、地位を勝ち取って行く必要がある場合は、能力主義が有効。その集団が目的を達成し、その状態を長く維持していく必要がある場合、例えば伝統芸能などは、年功序列で秩序を保つことが有効。伊集院光氏によると落語界も年功序列だったのだそう。なるほど。

 

サンガの些細な律を時代の変化に応じて変えてよい。諸々の事柄は過ぎ去ってゆく。怠ることなく修行を完成させよ。と言い残し、涅槃に入った。

  

ブッダの教えの根幹は"悟り"これは不変。そこに至るための方法=律は時代に応じて変える必要もある。どこが定点かを理解する。何を目的で設定されている法律なのか考える。


この辺りは特別追記する必要はないかな・・・ 要するに悟りを開くことが目的なのだから、その目的を達するための方法は、時代に応じて変わって来るということ。そう考えると、日本だけでもいろんな宗派が生まれた理由も分かるし、またそれが許されていることが、ブッダの遺言でもあったということなのかなと・・・


「涅槃経」はブッダの死後のことも記載されているそうで・・・


 · 24時間24時間前

ブッダの死後、煩悩のある弟子は泣き叫び、煩悩をなくした弟子は、諸行無常であると泣くのを我慢した。葬儀は7日間行われた。火葬を前にスバッダはブッダの死により自由になったと喜んだ。マハーカッサパは諸行無常を改めて説き諌め、ブッダは火葬された。

 

スバッダのような人物が出ることは想定済みで、戒めの意味でこのエピソードが涅槃経に記載されている。


スタジオ内で話題になったのは、何故このスバッダのエピソードを入れたのか?ということ。先生によれば、スバッダのような人物が現れることは想定済みなのだそう。戒めのために書いているということ以上に、そういう人物が現れる前提で書いてるっていうのはすごいなと・・・ ただこれ、よく考えると誰が書いたんだろう? 「涅槃経」というけど、ブッダの実際の言葉は途中で終わっているわけで・・・ スバッダのような人物までブッダが想定していたという前提で書いてるってこと? わけが分からなくなってきたのでこの辺で・・・(o´ェ`o)ゞ

 

組織運営が遺言として残されている。


ただ、要するに前述の年功序列や、このスバッダのエピソードのようなことを踏まえて、組織運営が残されているというのが先生の説明だった。その辺りは納得。そう考えると面白い。あえてそうしたのか、結果そうなったのか・・・

 

以下、まとめ

 

ブッダが死に向かう姿を通して、死にゆく者のあり方を学び、ブッダの死を受け止め、葬る弟子たちの姿を通して、死者を葬ることを学ぶ。その人の積み重ねてきたものを評価する責任がある。→人の死を悼む

 

確かに人間は生きている以上、必ず"死"と向き合う時が来る。家族や大切な人を葬る時。そして自らの死。どちらも普段あまり考えることはないけど、でも考えるととても怖い。でも、こうして学んでおくと、心構えができていいかもしれない。ブッダのような偉業を成し遂げなくても、良い人生を送ったと思われて、そして思って亡くなりたいものだ 

 

「考える時間」が重要。外からのつまらない価値観に惑わされずに、自分の価値観で今の自分と、死んだ後のことを予想することが大切。→考えることが修行。


それには考えることが必要ということなのね・・・ 死んだ後のことを予測するっていうのは、死後の世界ってことではなくて、おそらく自分亡き後の世の中のことを考えておくってことかしらね? 誰かを残して逝くわけだからね・・・

 

仏教とは、日常の暮らしの中で、悟りまで行くにはどうすればいいかという、下のレベルから上のレベルまでの道を教えてくれる。修行につながる悩み方をするだけで、1ステージ上がっている。


と、なんだかとってもしんみりしてしまったけど、仏教がとっても身近な存在に思えた。それは何もお経を唱えたり、出家したりすることじゃなくて、日常の中で考え方や見方を少し変えれば、1歩進んで悟りに近づくということなのでしょうかね? 多分、先生の説明によるとそういうことかと・・・ "自分"を信じなければ救われないと言わないブッダの教えが仏教なのだとすれば、自分の中ではしっくりくるかもしれない。まぁ、仏教徒になるかは不明だけど(笑)


100分 de 名著:毎週水曜 23:00~@Eテレ

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