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ものづくりのための研究ノート053:日中戦争とは何か?

2014-12-21 13:58:35 | ものづくりのための研究ノート

(三浦 由太著「日中戦争とは何か?」)

購読している医療系MLのメンバーの中に、医療の傍ら、昭和史を研究されている三浦先生がいらっしゃる。日中戦争についてはほとんどプロといっていいほど資料を読まれ、含蓄のある読物をお書きになっている。

三浦先生によると、

日本は満州に莫大な投資をしているが、全くと言っていいほど利益を得ていないらしい。

特に日露戦争で満州に権益を得て以来、敗戦までの40年間に、日本内地が黒字だった年はただの1年もないのだそうだ。

なんで、こんなバカなことをやり続けたのか?この謎を解き明かしたのが、三浦先生の著書『日中戦争とはなにか』であるという話で、歴史フアンの自分としてはちょっと読んでみたくなった。

MLでの三浦先生の言葉をまとめてみると、

満州事変当時は、満州に豊富に鉱業資源があるというのが通説であったが、どれも質が悪く軍の使い物にならなかった。

またそのために、軍部は新たに華北の資源に注目しだした。

しかしそこも参謀本部の石原莞爾大佐が、陸軍の経済専門家を派遣して調査させたところ、まったくお話にならないような状況であった。

満州に失敗し、次に華北のの過大な資源の幻想に取り付かれた現地の軍人は、何度でも原野商法詐欺に引っかかるような常習詐欺被害者並みの愚かさである。

このあたりが、日中戦争開始のカギなんでしょうね。

調べてみると、日中戦争開始前年の昭和11年に外務省は、満州経営における収支を試算しており、ほぼ当時の年間国家予算と同額の38億円が持ち出しであると報告している。さらに維持費として年間一億円の持ち出しが今後予測される状況である。
日清戦争ヨリ満州事変ニ至ル日本外交ノ経済的得失 昭和十一年十一月より)

少なくとも満州事変を実質的に指揮した石原莞爾は、前に述べた陸軍経済専門家の話も含め、このことはわかっていたはずで、当時参謀本部の要職にいたが、満州事変の時の積極路線とは打って変わり、不拡大方針を強く主張していた。

これがわかっていながら、何で方針転換できなかったのか?

不幸なことに現地の出先機関である関東軍では「独断専行」が満州事変当時からの伝統になっており、中央のコントロールが効かない状態になっていた。そもそも陸軍本体が「統帥権干犯問題」および「軍部大臣現役武官制」を利用して政治のチェック機構が働かない存在になっている。

こうした状況に加え、考えられるのは次のようなケースだろうか?

1)現場の軍人が、経営的にセンスがなく、サンクコストのみを考え、うまく損切りできなかった?

2)官僚機構の無謬性の神話のため、経済的合理性がなくても、いったん決まった方針(予算も?)をなかなか縮小できない

3)何らかの利権があり、経済的に合理性のある選択をする決定がなされない

といったことになるでしょうか?

いずれにせよ、ここで合理的な判断に基づいた意思決定ができなかったのはいたかったのではないだろうか?

後日太平洋戦争のきっかけとなったハルノートも、胆は満州からの撤退も求めていた次の項目である。

日本の支那(中国)及び仏印からの全面撤兵
日米がアメリカの支援する蒋介石政権(中国国民党政府)以外のいかなる政府を認めない(日本が支援していた汪兆銘政権の否認)

当時の日本では全く受け入れられないという主張の様であったが、ずっと赤字経営をやっており、成長性のない満州国経営であれば、それまでのサンクコストを考えても、そんなに悪い選択ではなかったかと思う。

さらに撤退はするけど、投資はしたので何らかの利用権なり、使用料なりを請求できるような権利を条件づけるという手法もあっただろうし、完全撤退までの時間を引き延ばすような交渉もあったと思う。

ここでも合理性のない判断にどんどん足をすくわれていったのだろう。

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