あなたにもできる!ハーバード留学!!~アラフォーからのボストン留学体験記

アラフォー研究者のボストン留学体験ブログ。
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ものづくりのための研究ノート054:アメリカにいてハルノートを思う

2014-12-21 15:28:33 | ものづくりのための研究ノート
日中戦争ネタとしてちょっと引き続きかいてみる。

太平洋戦争開始の最後通告となったという厳しい条件のハル・ノートであるが、これで日本が一番受け入れられず、日本が開戦の意思決定をするきっかけとなったのは、やはり過大な投資をそれまでにしていた満州からの撤退をハル・ノートが求めていたということであろう。

Wikepediaにのっている情報からすると、

日本の支那(中国)及び仏印からの全面撤兵
日米がアメリカの支援する蒋介石政権(中国国民党政府)以外のいかなる政府を認めない(日本が支援していた汪兆銘政権の否認)


の2項目であるが、はっきりと満州国とは書かれていないが、当時日本側の参謀部の幹部であった瀬島龍三氏は

ハル・ノートでの「支那における重慶政権以外の一切の政権の否認」の中には、汪の南京国民政府のほかに満洲国政府も含むと考えられた《瀬島龍三 「瀬島龍三 日本の証言」 他の著書「大東亜戦争の実相」》(*)

と述べている。

しかしながら、支那(中国)の部分に、満州国は含まないという話もあるようだ。

個人的には、アメリカも交渉できる部分として銘文化せずに、微妙にぼかしてハル・ノートを作ったのだと思う。

アメリカにいて、いくつかいろいろな書類を作ったりした経験から思うけど、コーヒーに「とても熱いです」という注意書きがなかっただけで、マクドナルドが敗訴する国なので(**)、アメリカ人は本当に必要なこととか、譲れないことは最初からでかでかと書いてくる(場合によってはアンダーラインしてある)。

逆に明示すると都合が悪い部分(妥協点なので大々的に言いたくない)とか、交渉できる部分は具体的に書いてないこともある(あっ気が付いた、そこはYou can askなのよ!みたいな感じで)。

書いてなかったということは、交渉の余地があるか、都合よく解釈してよい(もしくは都合よく解釈されても文句は言えない)という部分ではないかと思う。ハル・ノートを受け入れるといって満州に居座っても、意外とアメリカは文句言えなかったか、文句を言っても、書いていなかったからアメリカが不利になった気がする。

あとアメリカ人というと率直でフランクなイメージがあるが、アメリカ人といっても東海岸(ボストンは特にそうかもしれませんが)はちょっと京都人的なイケズなところもあるので、口では結構いいことをいって、いざ契約となると、それまでの口約束と全く違う契約書案を提示してくるのもよく聞きます(ボスとの交渉もそうだなあ。唖然とする条件が出されて、そこからが勝負どころなのですが。。)。

ハル・ノートでいままでの交渉と話の違う厳しい条件が提示されたといっても、東海岸的にはよく見るゆさぶりだったかもしれない。

日本人的に相手の気持ちを推し量り、言外の読みを読み取って最後通告だと交渉をあきらめたのは失敗だったなと思います。

ハル・ノートでアメリカが満州を中国から除外していたことは考えにくい。第一それなら挑発としての意味がなくなってしまう。
《中西輝政 「二十世紀日本の戦争」》(*)

と考える日本人がおおかったのだろうけど、明文化されていない以上You can ask的な部分でもあるし、ほっかむりできる部分でもあったと思う。

当時の外務大臣は、東郷茂徳氏でドイツ&ソ連滞在経験はあったのもののイギリスやアメリカの滞在経験はなかったから、この辺のニュアンスはちょっとわからなかったのかもしれない。

この点イギリス滞在歴のあった吉田茂は、ニュアンスがわかったのか鋭く

ハル・ノートの前段に“Strictly Confidential, tentative and without commitment(極秘、試案にして拘束力なし)”との記述があることに注目し「実際の腹の中はともかく外交文書の上では決して最後通牒ではなかったはず」(***)

と解釈して東郷に対してそのことを強調したらしい。

吉田茂がいうようにもう一回強く押して交渉すれば、相手は譲歩したかもしれません。

そんなことを考えると、ハル・ノートの時点からもう少ししたたかに交渉できでしょうし(東郷さんナイーブすぎたかな?)、また指導者層も赤字経営の満州にそこまでこだわらなくてもよかったのかなという気もします。いずれにせよ、当時の指導者層に多角的な視野があれば、太平洋戦争は防げたのでしょうか?

ちなみに吉田茂は「お雇い外人」の必要性を後になって以下のように述べているらしい。

「なんといっても外国人の見方と日本人の見方とが全然違うという場合が少なくないので、

何か外交上の問題が起こった場合に、外国人としては いかに感じるか、いかなる受け取り方をするかというようなことを
事前に知ることは、

問題の解釈や解決の上に非常に参考になることがあるものだ。

 日本人だけの狭い考え方に終始すると、どうしても独り善がりに陥りやすい。」

ハルノートの経験からかもしれない。


(*)ハル・ノートのまとめより(http://kenjya.org/nichibeiharu.html

(**)逆に明文化されていないのであれば、コーヒーが熱いという注意書きがないためにマクドナルドが敗訴したマクドナルドコーヒー事件ではないが、なんとでも難癖がつけられるのが、アメリカだと思う。

(***)こんな話を読むと、日本人ってナイーブだなと思う。やくざとの喧嘩でも似たようなものがあるが、ここで焦って自分から暴発したら、相手の思うつぼではないか。最後通告ならアメリカ人は最後通告といってくる。

ちなみにイラクのフセインに対する最後通告は次のようなものであったらしい。

「数十年に及ぶ(フセイン大統領の)欺瞞(ぎまん)と残虐はいま、最後のときを迎えた。サダム・フセインとその息子たちは48時間以内にイラクを離れなければならない。拒否した場合には、軍事衝突になる」

まあ、はっきりといってますよね!

ものづくりのための研究ノート053:日中戦争とは何か?

2014-12-21 13:58:35 | ものづくりのための研究ノート

(三浦 由太著「日中戦争とは何か?」)

購読している医療系MLのメンバーの中に、医療の傍ら、昭和史を研究されている三浦先生がいらっしゃる。日中戦争についてはほとんどプロといっていいほど資料を読まれ、含蓄のある読物をお書きになっている。

三浦先生によると、

日本は満州に莫大な投資をしているが、全くと言っていいほど利益を得ていないらしい。

特に日露戦争で満州に権益を得て以来、敗戦までの40年間に、日本内地が黒字だった年はただの1年もないのだそうだ。

なんで、こんなバカなことをやり続けたのか?この謎を解き明かしたのが、三浦先生の著書『日中戦争とはなにか』であるという話で、歴史フアンの自分としてはちょっと読んでみたくなった。

MLでの三浦先生の言葉をまとめてみると、

満州事変当時は、満州に豊富に鉱業資源があるというのが通説であったが、どれも質が悪く軍の使い物にならなかった。

またそのために、軍部は新たに華北の資源に注目しだした。

しかしそこも参謀本部の石原莞爾大佐が、陸軍の経済専門家を派遣して調査させたところ、まったくお話にならないような状況であった。

満州に失敗し、次に華北のの過大な資源の幻想に取り付かれた現地の軍人は、何度でも原野商法詐欺に引っかかるような常習詐欺被害者並みの愚かさである。

このあたりが、日中戦争開始のカギなんでしょうね。

調べてみると、日中戦争開始前年の昭和11年に外務省は、満州経営における収支を試算しており、ほぼ当時の年間国家予算と同額の38億円が持ち出しであると報告している。さらに維持費として年間一億円の持ち出しが今後予測される状況である。
日清戦争ヨリ満州事変ニ至ル日本外交ノ経済的得失 昭和十一年十一月より)

少なくとも満州事変を実質的に指揮した石原莞爾は、前に述べた陸軍経済専門家の話も含め、このことはわかっていたはずで、当時参謀本部の要職にいたが、満州事変の時の積極路線とは打って変わり、不拡大方針を強く主張していた。

これがわかっていながら、何で方針転換できなかったのか?

不幸なことに現地の出先機関である関東軍では「独断専行」が満州事変当時からの伝統になっており、中央のコントロールが効かない状態になっていた。そもそも陸軍本体が「統帥権干犯問題」および「軍部大臣現役武官制」を利用して政治のチェック機構が働かない存在になっている。

こうした状況に加え、考えられるのは次のようなケースだろうか?

1)現場の軍人が、経営的にセンスがなく、サンクコストのみを考え、うまく損切りできなかった?

2)官僚機構の無謬性の神話のため、経済的合理性がなくても、いったん決まった方針(予算も?)をなかなか縮小できない

3)何らかの利権があり、経済的に合理性のある選択をする決定がなされない

といったことになるでしょうか?

いずれにせよ、ここで合理的な判断に基づいた意思決定ができなかったのはいたかったのではないだろうか?

後日太平洋戦争のきっかけとなったハルノートも、胆は満州からの撤退も求めていた次の項目である。

日本の支那(中国)及び仏印からの全面撤兵
日米がアメリカの支援する蒋介石政権(中国国民党政府)以外のいかなる政府を認めない(日本が支援していた汪兆銘政権の否認)

当時の日本では全く受け入れられないという主張の様であったが、ずっと赤字経営をやっており、成長性のない満州国経営であれば、それまでのサンクコストを考えても、そんなに悪い選択ではなかったかと思う。

さらに撤退はするけど、投資はしたので何らかの利用権なり、使用料なりを請求できるような権利を条件づけるという手法もあっただろうし、完全撤退までの時間を引き延ばすような交渉もあったと思う。

ここでも合理性のない判断にどんどん足をすくわれていったのだろう。

ものづくりのための研究ノート052:TECH::CAMPとは?

2014-12-21 13:47:10 | ものづくりのための研究ノート
赤羽雄二さんのなぜ日本でイノベーションが起きないのか?という講演資料で紹介されていましたが、

1ヶ月でサービスを作ることができるエンジニアになる
選抜型プログラミング学習プログラム

を提供するTECH::CAMPっておもしろそうですね。

こういうのがこちらにあってもいいなというか、ありそうだなあ。。

ものづくりのための研究ノート051:総務省、「変な人」を6月から公募

2014-12-21 13:36:24 | ものづくりのための研究ノート
だいぶ前に話題になっていましたが、IT技術の独創的なむけの補助金を総務省が募集しておりました。
結局どうなったのかなあ。。

概要は事業概要PDF参照ですが、

世界的に予測のつかないICT分野において、破壊的な地球規模の価値創造を生み出すために、大いなる可能性がある奇想天外でアンビシャスなICT技術課題に挑戦する人を支援。閉塞感を打破し、異色多様性を拓く

のが目的で、

研究費は上限300万円
所属機関にも間接経費が別途支給
期間は1年間で繰り返しの応募も可能。

とか。
発想は面白いなと思いますね。

ただ「破壊的な地球規模の価値創造」にしては、年間300万円としょぼいのだけれど大丈夫なのだろうか。。

ものづくりのための研究ノート050:ほくほく線・超快速列車・愛称募集に応募してみた!!

2014-12-01 12:26:43 | ものづくりのための研究ノート
越後湯沢から直江津に至る第三セクターの鉄道「ほくほく線」の特急「はくたか」が金沢新幹線開通のため廃止となる。

代わりに超快速という急行列車が同路線を走るのだけれど、「はくたか」の名前も金沢新幹線に取られ使えないそうだ。

そのため募集期間はもう終わってしまったのだけど、ほくほく線の新しい列車の愛称を募集していた。詳しくはこんな感じだ。

ほくほく線といえば以前ちょっとした出張で上越市に行った折、使った思い出がある。越後湯沢から別れ、トンネルと田園風景の中をひたすら走る、のどかな列車である。

いろいろなコピーを考えたりするのは好きなので、愛称募集は気分転換がてら応募してみた。

南魚沼市にあってほくほく線とゆかりの深く、また銘酒の名前としても有名な「八海山」をもじった名前にしてみた。これが本当に選ばれたら、自分のつけた名前が列車の名前になるって、ちょっとすごいと思う。こうご期待である!!

ちなみにほくほく線と雪の八海山っていうブログの写真がステキである。雪の雄大な八海山とほくほく線の列車のタイアップの写真は一見の価値がある。

(12月23日追記)
結局愛称は「スノーラビット」になったようです。
応募した名前は、八海山をもじって、「エイト・オーシャン」。横文字にしたまでは良かったのですが、もう少し可愛い名前がよかったようですね。