スピンオフ銭明日編集長

モットーは"年を重ねる毎に幸せになる"銭明日編集長の日記

親のルーツ探し3

2024年02月11日 | Weblog

8.シゲとテルのその後

 泰家の前妻は長女光子(昭和2年生)を設けた後、病気で亡くなった。後妻のテルには長男泰志(昭10年生)、次男巻雄(昭16年生)、三男経悦(昭20年生)と男子3人の子に恵まれ、萬松寺で暮らしながら共に育ち、光子は仙台に嫁ぎ、泰志は萬松寺を継ぎ、巻雄と経悦は盛岡にて結婚し暮らしている。

 祖母シゲは萬松寺で昭40(1965)年に80歳で亡くなり、母テルの夫泰家も昭46(1971)年に71歳で旅立ち、テルは何故か安住の地であった筈の萬松寺を離れ、仙台〜盛岡と流転した後、平15(2003)年に87歳で波乱の生涯を閉じた。

 シゲとテルは一ヶ所に留まることを好まなかった様だ、縄文人より弥生人の血筋だったのかも・・ 

            =おわり=


「あとがき」

.シゲの生まれた鈴木家

 鈴木家は又蔵没後次男の春喜が戸主を継ぎ、春喜没後は長男の孝が戸主を継ぐが、昭3(1928)年若くして没した為、鈴木家は、同地域の菅野家に移管し消滅した様だ。

・未調査

 シゲ・テルの江刺玉里のことを知る可能性が残されている先は、奥州市江刺区梁川の金性寺ご住職(守林寺松森弘隆住職の父親)なのだが、未だ接触を試みていない。

・編集者として、こうして推測を入れながら時系列に2人の生涯を顧りみたのだが、この親娘の人生はとんでもない波乱の生涯だったのだろうが、何にせよ書き記せる資料が不足している現実だった。"ばあちゃん、かあさん、ごめん🙏"

 特にも先頭に立って辛苦の矢面に立って来たシゲの労苦に涙が停めどなく流れた。明治女の気質の強さを知った。

俺にもそんな血が流れていることに誇りを感じる。   (2024.1 経悦記)

                               


親のルーツ探し2

2024年02月07日 | Weblog
5.栗原〜江刺へ流転

 テルは生前幼子の記憶の中にある父親隆道の姿を語っていた。推察するに、その父親が死去したが故、宮城県栗原郡富野村(現在は栗原市築館町)照明寺の地を去ることになったのだろう。

 シゲ・テル親娘の流転先は、照明寺の関係先である岩手県江刺郡玉里の守林寺の離れに身を寄せたのだろうと推測される。生前テルが玉里小学校にも通ったと語っていた。

 この親娘はこの地でも長く落ち着くこともなく、寺通しの縁があったのかまたまたこの地を離れるのである。


6.シゲの婚姻

 岩手県江刺玉里での暮らし向きについての足跡は不明なのだが、この地にはそれほど長い年月居住したのではないのだろう。

 玉里から移った先は隣村の岩手県江刺岩谷堂増沢の地であった。

この地にあった萬松寺住職の菅村泰喜との縁で婚姻届出が昭2(1927)6月になされている。シゲ42歳、てる11歳、妹リツ5歳(12歳で死亡)の頃で子連れ婚であった。姓が鈴木から菅村になる。

 当時の萬松寺の家族は、戸主泰喜50歳、長男泰家28歳、ハツ(泰喜父親泰成の子)45歳。


7.てるの婚姻

 萬松寺住職の菅村泰喜の長男泰家とテルが結婚したのは、昭12(1937)11月である。てる21歳、泰家38歳(再婚)であった。

 ここも推測になるが、てるは11歳で萬松寺に入り、10年後に泰家と結婚した。この間てるは東京に出て女中奉公をしたと本人から聞いていたが、その奉公先や多感な思春期をどの様に過ごしたのか、聞いたことはない。    

                       =つづく=


 蛇足ながら、自分が生まれた寺(祝峰山萬松寺)は昭和前期、江刺郡岩谷堂(現在は奥州市江刺区)増沢であり、ここは平安末期平泉の藤原一族が、紺紙金銀字交書一切経(国宝中尊寺経) 5300巻余を作成し、中尊寺に奉納した歴史上の寺院跡「奥州益沢院」と言われている。

親のルーツ探し1

2024年01月31日 | Weblog
 歳の所為だろうか、既にこの世に居ない両親、特にも母親のルーツを探して見たくなった、その生い立ちには知らないことが多かった所為である。

1.母テルと祖母シゲ

 20年前に亡くなった母テルの出生に関わることが知りたくて、令和4(2023)年に試みた。テルは母シゲと人生の殆どを共に歩んだ様なのであり、シゲのルーツを探すことから始めた。尚、当データは自分の推測以外、関係する市役所から取り寄せたものを参考に抜粋したものである。


2.シゲの生い立ち

 シゲは、岩手県江刺郡福岡村(現在は岩手県北上市口内町)字金成100で明治18(1885)年、鈴木又蔵・トメの長女として生まれた。同じ両親の妹にミサオ、異母姉妹にチヨミ、キセミ等が居た。

シゲは明治39(1906)年、20才頃まで出生地に居住していたのだろう?、然し推測の域で証は無い。


3.テルの生い立ち

 テルは大正5(1916)年330日に宮城県栗原郡富野村城生野(現在は栗原市築館城生野)字要害28番地に於いて生まれた。届出は何故か大正7(1918)1231日と戸籍簿にはあり、母はシゲ、父の名前は空欄である。


4.テルの父親のこと

 シゲが出生地を離れた明治39(1906)年〜テルが生まれた大正5(1916)年の10年間のことは調べようがなく不明。

推測するに、シゲは何らかの縁で岩手県江刺郡福岡村(現在岩手北上市)から宮城県栗原郡(現在宮城栗原市)に移り住み、テルを産み授かったのだろうが、生前テルから聞いたのは、父親は隆道(宮城県栗原郡照明寺和尚、墓は寺族として同寺に現存)と言う方であり、幼いテルを可愛がって育てたのだが、暑い夏に頭が割れる様に痛いとなり若くして急死した。

その後照明寺も火災に遭い、過去帳等の書類も類焼してしまった(現住職の松森弘隆氏談)、よって、てるの父親隆道に関わる証もなし。

2023年に栗原築館市役所に問い合わせたが、本籍地が分からないのでは調査不能との返答あり。

                                  =つづく=



令和6年1月

2024年01月30日 | Weblog
 令和6年(2024年)は元旦早々能登半島地震(マグニチュード7.6)が勃発し、大きな被害が出てしまう。230名を越す被災者のご冥福、被災地の早い復興を願う次第です。それに付けても真冬の寒さ厳しき折、北国の自分等には想像に難くない。

 新年にあたり、悪くなるばかりの世の中に、明るいニュースが聞こえてくることを、世界中の多くの人々は期待している筈です。そんな折なのに愚かな戦争や自然災害は情け容赦なく、地球上の方々で荒ぶる。ここはリーダーたる国連機能に強く期待したい。
 我が家の正月は喪中であったので、細やかな新年会になったのだが、隣に住むペット好きな娘ファミリーが、12年前に愛犬「ウナギ」を亡くし、忘れがたくて飼わなかったのだがやっと年末に迎え入れた。
 ウナギの後継は何故か「テンプラ」と名付けられた。この愛犬の昼の時間帯は我が家に託児され、ご相伴に預かることになり、楽しみが増えそうである。
    (私の名前はテンプラ♀)
 さて、我輩の週一ブログも終わりに近づいているのだが、未練たらしく番外編として、時々気の向くままボケ防止に掲載するつもりだ。
 そんな次第で、本年もよろしくお付き合い願いたい。
            =おわり=


霜月雑感'23

2023年11月30日 | Weblog
 我が県盛岡にも月末にまとまった雪が降った。然し、自分は県南の陸前高田に出向いていたので、雪とは縁がなかったどころか、ここは宮城県境であり☀️も差していた。
南北に189kmと縦に長い岩手であり、北と南では天候も違うし、日本茶の栽培北限でもある。

 陸前高田には高校時代の親友K君が居る。年末でもあり🍶一杯やらないかと電話を入れたのだが、肝機能がCでドクターストップであると断られた。ここに保養施設を設けたのは26年前であり、その間一貫してK君とは年に数度飲み会をやっていた。彼はクラス仲間でも元気印の筆頭であり、自分の誘いを断った記憶はないので只事ではないなと、早い快気祝いを伝えた。

 当家の奥方には友人が結構居る。地元生まれの地元育ちの事も大きいが、趣味の会で知り合った方も多くいる。人柄も大いに影響している様だ。

 この日、今度は中学時代の親友T君から電話が来た。彼とは中学でバレーボール部以来の仲間であり、社会に出ても親しくしているから、65年来の付き合いになる。
彼は県職員を勤めあげた資産家であり、悠々自適な人生を送っているとばかり思っていたのだが、"菅村、俺はもうダメだ"と語りかけて来た。
話を聞いたところ、体調が優れなく、この先の何もかもが不安症に陥っている感があった。
俺でいいならいつでも相談に乗るからと伝えたが、終活に繋がることであり簡単でもなさそうだった。

 長くなったが、数少なくなっている交友達の中、同年代のお二人との会話で、間もなく到達する80歳は男の人生の締めになりそうな気がした。
私もそうなのだが、なんか高齢男の人生って、晩年を生き抜くパワーが失せて来たなと悲哀が身に染みた。
            =おわり=



フレイル

2023年11月23日 | Weblog
 フレイルティ(虚弱)が和製英語化してフレイルとなっているとか、その意味は加齢により心身が衰えた状態なんだそうだ。

 数日前居間にコタツを出したのだが、奥方がコントローラーが見つからないと言い出した。春先の冬終いの際、どっかに仕舞い込んだのだろうとそちらこちら探してみた。
 なのにだ、翌日よく見たなら誰の目にも分かる様な、コタツの目と鼻の先にあったのだ。
こんな笑い話の様なことが、日常の生活で次第に増えてきている。脳のどっかが弱って来ていることには間違いない。
 夫婦で顔を見合わせ、照れ笑いしたが、心の中ではお互い情けなく自分自身を叱責した。

 フレイルって、1)身体的<移動機能・筋肉量低下>、2)精神・心理的<認知機能低下・抑うつ>、3)社会的<閉じこもり・社会的交流減少>、とに区分けされるようだが、だんだんどれにも該当されていることを認めざるを得ない年齢になって来た。

 さて、ある方から勧められて、2008.10月から書き始めたこのブログも今回で500回で、いつの間にか15年になっている。
 後期高齢の刺激のない日々を送っている自分には、ブログに書くテーマを捻り出すことが難しくなって来ている。
そんなこんなで、ブログの終焉を考えざるを得なくなっている。
            =おわり=





懐古酒

2023年11月10日 | Weblog
 趣味の集まりって、その後の懇親会があるので二重の楽しみがある。片眼になりゴルフを辞めざるを得なくなってから、縁遠くなっていた旧友と久しぶりでお会いする機会に恵まれた。

 自分が起業した会社は2代目、3代目の頑張り努力で現在60名ばかりの社員の会社になっている。
 社歴50猶予年の間には、勤め上げてくれた人、辞めて独立した人、腕を磨いて他社に引き抜かれていった人、等々と多く居る。そんなことを振り返ると、この会社の社会的存在意義は小さくはない。

 会社を起業する以前の夜明け前に出会って、仕事も生き方も一から教えて頂いた師匠が居た。その方と出会わなかったなら、今の会社はなかっただろうし、私の人生設計も成り立たなかっただろうと思っている。
 その師匠Aさんと南花巻温泉「風の季」で一足早い忘年会として集った。6歳先輩のAさんを旧友とお呼びするのは失礼にあたるのだが!

 人の一生って精々100年であり、日本の人口が1.2億人も居る中、また日本列島は3300kmと長い。そんな大海原にピンポイントを探す様な地で偶然、この方と巡り会ったのは奇跡に近いことだったと思う。

 晩秋の名残もみじ🍁の名湯の露天風呂で、師匠にこんな懐古話を投げかけると、師匠は往時渺茫と言って笑った返答された。
 今もこうしてお会い出来ることには至上の至福を感じる夜になった。
            =おわり=


神無月雑感'23

2023年10月31日 | Weblog
 季節って徐々に変化するものだが、昨今はここまでは夏、ここからは秋って区切られる様に急変する。夏が長いからか秋は極端に短く、我が家の楓🍁も散り始めた。

 鹿児島の旅では霧島に連泊し、ルーティンにしている朝のウォーキングは雨降川沿いをしっかりこなした。緯度では盛岡市39度、霧島市31度とあるから凡そ900kmの距離差だったのだが、夜明けも寒さもさほど変わらなかった。然し霧島連山に🍁は未だ見えなかった。
            (宿泊のホテル京セラ霧島)
 同行した孫たちが旅のしおりを準備してくれた。それによれば最年長の自分に対するご配慮?に思わず苦笑いした。老いては孫に従えだと思った。
 鹿児島の名産は薩摩揚げ、薩摩芋、焼酎、黒毛和牛、鰹節等々さまざまある様だが、自分がえーっと思ったのは日本茶であった。道すがら茶畑の多さに驚いたが、生産量が日本の20%で静岡に次ぐとは新たな発見だった。

 10代の孫たちには、知覧平和会館はどう見えたのか分からないが、平和の尊さをしっかり学習したことだろう。
 それに付けても、今一度ホテルの美味しい日本茶を飲みたいものだ!
                                 =おわり=




 

鹿児島の旅2

2023年10月30日 | Weblog
 日本人として一度は訪れておきたかった南九州市の知覧特攻平和会館を訪れた日は終日大雨の日であった。この会館の企画展示する案内文をそのまま引用する。

「戦後80年近くが経過し、戦争体験者から直接話を聞くことが難しい時代になりました。そのような中、物言わぬ証言者として戦争遺跡の重要性が増してきています。 太平洋戦争中、鹿児島県内には20カ所もの航空施設があり、戦争末期には特攻隊の出撃基地としても使用されました。また、九州南部に米軍の上陸が予想されたことから本土決戦に備えて多くの施設が造られました。これらの施設は年月の経過と共に失われつつあります。 本展を通して鹿児島県内に残る戦争遺跡を、そして戦跡が戦争の歴史を伝える大切な遺産であることを知っていただけたら幸いです。」


 特攻で散った英霊の方々の最後の言葉や手紙が写真と共に遺品として数多く展示されていた。
10代の若さで散る無念・・、母さんに会いたい・・、先に行く不幸を許せ・・、妻よ後を頼む・、子よ立派に生きろ・・、弟よ家を頼む・・、家族の幸せを願う・・、明日の日本に望む・・、役目を果たしに・・等々、どの方にも泣き言はなく、旅立つ覚悟の重さに声も出ない。

     (知覧ロビーの鎮魂の賦)
 この日は散った多くの英霊の涙雨に濡れつつも、今ある日本にお陰様と手を合わせ、安らかな眠りをと願った。
 "散る桜、
   残る桜も、
       散る桜"
                                =おわり=

 

 




鹿児島の旅1

2023年10月26日 | Weblog
 旅って何泊から言うのだろう、一泊程度は近場だろうから旅と呼ぶのには憚られる。そんな屁理屈を口にする自分も、旅らしい旅をしたのは2017年秋に熊野古道に出かけて以来であり、あれから6年も経っている。

 コロナ禍になって宿泊施設の支援策で、奥方は近場の温泉にちょくちょく出掛けるが、自分はと言えば日帰り温泉にも行かなくなっている。そんな生活に慣れてしまえば、費用もかからないTVの旅番組を楽しむ側で、映像で満足する様になってしまっていた。

 今年に入り、コロナ感染で命を落とす人も無くなって、新薬も開発され、普通の日常に戻りつつあり、人々は堰を切ったように動き出している。その上円安の所為もあり外国からの訪日客が溢れ出している姿を見るにつけ、旅って虫がむっくりと起き出して来た。

 然しである、夫婦年齢を合わせれば150歳を上回った自分らであり、2人だけで旅に出る体力にも自信がなく二の足を踏んでいた。

 そんな折、生きかた上手の娘が、だったら私たちが一緒に行くからと名乗りを上げて来たのである。そんな次第で自分ら夫婦の最後になるだろう旅は、太平洋戦争の爪痕の鹿児島知覧になった。
 過去に、広島-長崎-沖縄と巡ったが、終戦前後に生まれた昭和の人間としては、一度は見ておきたかった巡礼の旅に出かける羽目になった。
           =つづく=


 


ルーツ探し

2023年10月12日 | Weblog
 人はどこから来てどこに行くのか、まだ生きている自分のことは、100年も経っていないから分かるのだが、ご先祖様のこととなれば話は違ってくる。

 娘が幼かった頃、自分の母が冗談にバァバの先祖はロシア人だと語ったことがあるようだ。その証拠にバァバの目がブルーだろうと言ったことを、娘は長いこと本気にしていた節がある。

 そのことを自分も信じたわけではなかったが、母親はどこから来たんだろうと探してみたくなった。よく見ているTV番組で今田耕司司会の"ファミリーヒストリー"はその道のプロに依頼しているのだろうが、有名人のルーツを原点まで遡って調べ上げているので感心して見ている。

 ちょっと前になるが、ルーツ探しを得意分野としている近くの行政書士さんにコンタクトしてみた。結果は親一人数十万円、両親となれば片手は用意しなければならない様であり、現在の順番待ちで40番目と言われた。

 高齢社会になって先が見えてくれば、自分のルーツを何故か知りたくなる方々が如何に多いものなのかと知った。
 自分事はと言えば、貧乏神が顔を出して来て、そんなに知りたければ暇つぶしに自分で調べな、とご先祖様からの声が聞こえた様な気がした。

 たどったルーツ探しが仇になることもあるので、"知らなかったままでいた方がいいよ"、と言っている人も居るのだが・・・・・
                                =おわり=


 



長月雑感'23

2023年09月30日 | Weblog
 あんなに暑かったのが嘘の様に、秋らしい季節の朝になった。
そんな涼しい日を待つことなく、9月は近親者が相次いで旅立った。

 老健施設に入所中の方々とは言え、尾を引くコロナ感染が邪魔をし、家族に見守られることもない別れだった。
 150万人と増え続ける多死社会は、否応なく死と近しく向き合わねばならない社会が訪れているのだが、身近な人の死は誰でもいつの世にも悲しい。

 旧い友人が殆ど居なくなった昨今ではあるのだが、月半の21日社会に出た時に出会った奴が、旅の途中に盛岡泊をしてくれ、久しぶりで酒を酌み交わした。
 共にサラリーマンとして働いた三菱gr会社の総務時代の思い出、長く経営した居酒屋をコロナ禍前に辞めた運の強さ、趣味の一人旅の一期一会のハプニング等の話で盛り上がった。
 今はのんびり一人暮らしを楽しんでいる様だが、年に一度位は会いたい奴である。

 結構長く楽しんでいる家庭菜園も、少しは腕も上がったのか、夏野菜は上手く育っていた。
 特にも秋野菜の里芋と山ワサビの成長には目を見張るものがある。根野菜なのでまだ掘ってはいないが、先々が楽しみである。
                                =おわり=







酒好き

2023年09月24日 | Weblog
 自分は酒好きかと問われれば、迷いなく大好きだと応える。
然し酒好きを表す言葉に良い響きは少ない。大酒飲み、気狂い水、アルチュー、やけ酒、悪酔い、呑兵衛、飲んだくれ、からみ酒等々、生き方にふさわしくない烙印言葉がチラつく。

 昔のことだが、自分が相当貧乏だった頃親しいMさんが居た。彼は月に一度出張して来ていた、自分らはMさんの出張手当で酒を馳走になることが常で、当たり前化していた。

ある時Mさんの虫の居所でも悪かったのか、目が座って勘定を払わないと言い出して困ったことがある。こいつらの当たり前化に、Mさんは気に食わなかったのだろう。
そんなことがあってからは、人様の金を当てにして飲むことは控える様になったから、貴重な人生訓を学んだ。

 先日"岩手酒蔵フェスタ"イベントが盛岡駅前広場で開催され、多くの日本酒好きで賑わっていた。
こんなチャンスを逃す手はないとばかりに兄と顔を出した。普段は1升(1.8ℓ)1600円の金印ばかり飲んでいるが、この日は酒蔵会社の自慢銘柄を十分に堪能した。やはり日本人には日本酒だナ^_^
それにつけても女性客が多いのには驚いた😱
            =おわり=



盛岡秋祭り

2023年09月18日 | Weblog
 この街の落成を祝って宝永6年(1709年)9月14日に始まったと言われている、盛岡八幡様の例大祭が秋祭りとして盛大に行われた。

 自分の様に故郷が地元ではない者と違って、生粋の盛岡人は夏の祭り"盛岡さんさ"より、この祭りを心の拠り所にしている節がある。
 
 最近繁華街には足が向かなくなった身であるのだが、懐かしい友が来盛するとなり、14日の花金は勇んで出掛けた。

 祭りのメインイベントは10台の山車が連なってのパレードであり、夕闇も迫った時間に最高の場所で観覧する機会に恵まれた。
 市の無形民族文化財に指定されている祭りであり、コロナ禍で通常開催は4年振りでもあるので、残暑の中ではあったが相当の観覧客が祭りを堪能していた。

 祭りの余韻でざわめいている満席の居酒屋で懐かしい友と久しぶりに合流し旧交を温めた。
 彼は大手の生保幹部であり、母校R大の役員として青森支部会に臨む目的で立ち寄ったのであった。

 彼とはダイビング仲間でもあったので、何度も南の海へ足を運んだ。
自分は片眼になって70歳で足を洗ったが、視力が取り戻せるなら今でも珊瑚礁の海に潜ってみたいし、そんな竜宮城の夢を見ることがある。
 酔いの中で、そろそろ辞めようとしている、このブログの最後に、生前葬弔辞を貰いたいと申し上げたのだが・・・
            =おわり=


 
 



 
 


キャッシュレス

2023年09月08日 | Weblog
 真夏になり少しでも気温が低い時間を選んで1日8000歩を目安にウォーキングしている。

 近隣のコンビニ3店を中継点に日違いに順番に歩く。
 そんなことを日課にして今日で1265日になる。間もなく3年半だから我ながら大したもんだと思っている。1日も休んでないので、周りから見ればちょっと気狂いに見えてるのかもなぁ^_^

 その中継点のコンビニではコーヒーをスマホの電子ペイで求め、101円で1ポイント貰い、公園でコーヒータイムを取る。
 そんな訳だから現金は持って歩かない、便利な時代になったものだ。

 自分の財布には月初めにキャッシュカードでお金を下ろしストックするのだが、月末になっても結構お金は残っている。

 カード会社の電子ペイかクレジットで支払うので、減らない訳だ。挙句は光熱費やスマホ経費も交通費もカード会社経由、唯一税金関係だけはカードが効かないが預金から引き落とされる、益々お金を目にすることはない。

 大よその買い物はこんなだから便利な時代になった。反面現金決済と違い金使いが粗っぽくなるので、極力電子ペイを優先しているのだが、いちいち入金するのも面倒だからと、オートチャージにしている?

 そんな訳で時々預金に入金されるのも、支払いの電子ペイにせよ、クレジットにせよ、税金にせよ、自分がキャッシュを目にすることがないのである。
その内、冠婚葬祭もお年玉もお賽銭もカードで済むようになりそうだ。

 カード会社は如何にして他社に勝るポイントサービスを競いあい、人の欲望をどんどん揺さぶってくる。近未来には造幣局も不要になるのでは・・・・
            =おわり=