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日本政治の行く末(9):石原の責任論/住民訴訟リスク

2014-04-15 | Weblog

**この記事は2012年にイザブログに公開したものですが、この3月でイザブログが終了となり、本ブログに移し変えました。管理人**

2012/09/14 00:22

Part5: 石原慎太郎の責任論/住民訴訟リスク)

:9月11日、東日本大震災の発生から1年半を迎えた。1万8700人余りの死者・行方不明者を出し、現在までに収容できた遺体は1万5802体に上るが、いまだに226体の身元が判明していない。それに約34万人が我が家を失い仮住まいを余儀なくされている避難生活者たちだ。一部の日本人には、大震災の生々しい記憶が薄れ始めているのかもしれない。すくなくとも、「天罰発言」したこの男、都知事石原はそうだろう。

:石原が尖閣購入を宣言した4月以降、都庁内で密かに検証されている住民訴訟があった。日本経済新聞によると、元京都市長、田辺朋之に約26億円の賠償を命じた通称「ポンポン山訴訟」。市が47億円で買い取ったゴルフ場予定地が不当に高額だと認定された事件だ。首長個人への賠償請求額としては過去最高額だった。


・石原は、日刊ゲンダイが指摘したサギまがいの寄附金集めで約14億円を手にした。一方、後発の国も尖閣諸島の購入・国有化に動き出し、地権者に20億円の金額を提示した。そのため、両者の指値争いになった。


・国の提示額20億円に対して、石原は14億円に6億円上乗せて20億円とし、さらに手数料を加えた20億3千万円で地権者と交渉を進めていたという(産経新聞)。ところが、国は石原の交渉額に、さらに2000万円を上乗せして20億5千万円で落札に成功した。


・だが変だ。石原の手持ち金は14億円だった筈だ。交渉に上乗せした6億3千万円はどうやって調達するつもりだったのか。答えは一つだ。議会の同意なしに勝手に都民の貯金箱を開け、6億3千万円を使う算段を企てていたことになる。

・本来、「都が一件当たり2億円以上で2万平方メートル以上の土地購入契約の場合、不動産鑑定、財産価格審議会の了承、そして都議会の議決といった手続きを踏まねばならないこと」そして「自治体の役割が「住民の福祉の増進」であるからして、尖閣取得の費用は都民に必要な支出という論点と結びつかないこと」も、石原は十分に承知していたはずだ。

・4月27日の都の定例会見でも、“尖閣について、最終的には議会の理解を得ないといけないことになるのでは”と質問されると、「しかるべきときに、購入のプロセスが進んで、たとえば仮契約ができるとか、そういう段階で議会に諮ろうと思っている。4定(12月の第4回定例会)くらいになるんじゃないか」とハッキリと答えている。

・だから、すべて承知の上で、地権者に20億3千万円をオファーしたということは、空手形をきったようなものだ。また空手形が議会議決で本物になったとしても、「購入額が不当に高く、都に損害を与えた」ことで、住民訴訟を起こされ敗訴の恐れがあった。

:2002年自治法が改定となり、「損害賠償請求や不当利得返還請求」に関する4号請求と呼ばれる住民訴訟制度が大幅に変更になった。

・以前は、住民が首長を直接訴訟できたが、改正後はできなくなった。

・住民が第1次訴訟(原告住民 vs 被告自治体)で勝訴すると、負けた自治体が住民に代わって、第2次訴訟(原告自治体 vs 被告首長)をおこす仕組みに変更された。そしてこの仕組みのなかで、違法な財務行為に責任を有する首長に対して、損害賠償請求等を請求することを、自治体に「義務」付ける訴えが規定された。

・ところが、第1次の住民訴訟で敗訴し、判決で「違法な公金支出があり、首長に賠償を求めなければならない」と認定された自治体が、判決の確定前に、首長に対して請求権を放棄する議案を議会に提案する自治体が出始めた。その結果、「住民の代表である議会の議決により、請求権は消滅した」として、支出の違法性に踏み込まないまま、住民敗訴が確定しているという。

・自治法は自治体が権利を放棄する場合には議会の同意が必要と定めているためだが、「請求権の放棄」は首長を救済するために、議会の多数派議員と首長との馴れ合い工作だ。さらにいえば、法の盲点をついた「禁じ手」だ。ただ、請求権放棄の有効性は、高裁レベルでも判断が分かれており、「裁量権の範囲の逸脱又はその濫用に当たると認められる」か否かを審議中という。

・おそらく、石原はこの禁じ手を狙ったと思われる。万一、20億3千万円での尖閣購入に成功した場合、寄附14億円を大幅に上回る落札額に対して住民訴訟を起こされたときの対処として、議会での多数派工作による請求権放棄の禁じ手を使うために、過去の最高裁判決事例を都庁内で密かに検証させていたに違いない。

:リスク回避の検討は民間企業であれば当然のことだ。しかし、自治体の首長石原が、議会の議決も得ておらず、勝手に自分で値踏みし、地権者にオファーした行為は極めて悪質だ。さらに、その悪質な行為から想定された住民訴訟をあらかじめ検討しておくなどした、いわば計画的な行為も悪質だ。

:12日、国は沖縄県石垣市の尖閣諸島3島(魚釣島、南小島、北小島)を20億5千万円で購入する売買契約を地権者と交わし、3島を国有化した。そして同日、登記も完了した。これで権利書は国の金庫に納まった。まさに、落ち着くべきところに落ち着いた感がある。今後は海上保安庁が3島の維持・管理にあたるという。

・結局、石原のパンダ外交は何だったのだろうか。新左翼の言葉をかりていえば、この男を「総括」する必要がある。

・石原がパンダ外交を宣言する前の日本と、後の日本を比べてみたら明らかだ。宣言前は領土の問題など持ち上がっておらず、隣国との外交関係も落ち着いていた。それが宣言により険悪化されてしまった。これまで築いてきた関係を僅か、数ヶ月で崩された。こんなパンダ外交に日本の外交がかき乱されていると、アジア諸国ばかりでなく、米国にも飽きられ、お友達がいなくなってしまうだろう。

・そもそも沖縄県の尖閣諸島は、ハワイやグアムのような常夏の島々ではない。一番大きな魚釣島でも、切り立った海岸線に囲まれ面積は僅か3.82平方キロだ。東京都に属し、やはり一般民間人の上陸が禁止されている太平洋上の孤島で、かって旧島民がサトウキビ畑を開墾していた硫黄島や南鳥島のような広くて平坦な土地ではない。それに深海のプレート地殻変動が活発で、年々台湾側に引き寄せられている。だから国境上の島々というだけで、実質的な有効活用がはかれる島々ではない。それを、沖縄県ならまだしも、遠く離れた東京都が、最初は「領土安全を守るため」、次には「非難魚場のため」と理由付けをかえながら、購入に固辞してきたことは異常だ。

:石原は、国が地権者と大筋合意したことを聞かされたとき、「一方的に発表するのは無礼というか卑劣というかペテンだ。」と強く反発し、国をペテン師呼ばわりした。この言葉一つで、この男のすべてが分かるというものだ。

・これまで国有化に消極的だった国が、日本の尖閣領土保全にむけ動き出したことを大いに歓迎すべきだった。そして、首相野田と握手してもよい場面だった。それを、ペテン師呼ばわりし、国は後出しジャンケンしたと、子供のようなことをいって大騒ぎだ。よほどこの男、成長段階での人格形成に問題があったに違いない。一般のサラリーマン生活者のように、他人の下で働いた経験がないため、人間関係の作法である常識が欠落しているようだ。

・ 石原の本来の矛先は、この男が差別用語で呼ぶシナ人だ。そのため、彼らの国境侵犯を米国人にアピールするために、わざわざ米紙に広告をうったはずだ。ところが、石原は首相野田を相手に対立姿勢を強めてきた。

・国の安全保障の問題は、消費税云々の類ではない。例え人気が落ち目の首相であっても、党派を超えて一国の主に協力し、日本国民もまた一丸となって支持すべきものだ。ところが、石原にはそうした理屈が解せず、相手の見境がつかなくなっており、まさに、米紙が元首相鳩山に名づけた、”哀れでますますイカレタ男(increasingly loopy)”だ。

・石原が尖閣購入に失敗したのは、地権者がパンダ外交の危うさに気づいたためだ。メディアは根抵当権が設定された地権者の登記簿を理由に、借金のために一円でも条件のよい国側に売却したと報じているが、70歳の昔気質の地権者が石原を信頼していれば、たとえ14億円でも売ってくれたはずだ。これまでの石原行政をみれば、とても信頼に値しない。

・石原行政は、福祉行政などは後回しに、派手な大型プロジェクトに特化したゼネコン・ハコモノ重視の土建屋行政だ。その結果は燦燦たるものだ。過去三期12年間で積み上げた連結負債総額は約17兆円。都民一人当たり約135万円の全国最多の最悪だ。

・ 自らが発案した「臨海副都心開発事業」は、第三セクターの5社業すべてが数千億円規模の負債総額をのこして経営破産。国際貿易センター、東京臨海高速鉄道 東京都地下鉄建設なども追加支援の問題をかかえ、さらに石原が「中小企業金融」を二期目の公約に主導・設立した「新銀行東京」も、巨額の融資が焦げ付きとなり、経営が破綻寸前に追い込まれている。一期目の公約「在日米軍横田基地返還」も、まったく手付かずに放置されたままだ。

・ そしてこうした失敗の隠れ蓑にするため、カジノ構想や東京オリンピック構想、それに今回の尖閣諸島の購入と、色々と花火をぶち上げてはみるが、これまたどれも失敗、失敗の連続だ。これまで、まったくといえるほど何の成果もあげていない。それでもこの男は悪びれることもない。

・そもそも、この男を都知事として存在させておく価値はあるのだろうか。都知事としての資質に対して大いに疑問とするところだ。

・ 9月1&2の両日、石原は調査団(不動産鑑定士、海洋専門家ら25人)を編成し、洋上からの尖閣諸島の調査をおこなった。野生のヤギがいた、流水と洞窟があった、これだけの調査で2500万円の税金を無駄にした。またそれ以前の7月には、広告費1700万円をかけて、尖閣諸島の購入計画に賛同を求めた意見広告を米ウォール・ストリート・ジャーナル紙に掲載した。

・こうした費用は、石原が自分のポケットマネーで清算してはどうか。昔、東京都の首長は住民選挙ではなく官選で選ばれ、国の内務省から派遣されていた。だからまさしく、東京都知事は国の君主に仕える身分だ。その証拠に、いまなお、都知事の給与は国務大臣並だ。一期4年の総収入が一億数千万円としても、4期で四倍の約5億円だ。清算するのには十分だ。

・そういえばこの石原、東日本大震災の被災者支援に個人で100億円を寄附したソフトバンク社長孫正義にイチャモンをつけている。寄附は疑問と発言したうえで、商業目的の行為だと揶揄した。では石原自身は寄附したのだろうか。韓国人の俳優ヨン様でも7千500万円もの寄附を東日本の被災地に届けている。

・余談を言えば、孫は、米アップル社の創業者スティーブ・ジョブズのように自分で企業をたちあげ自分で稼いできた生活力のある男だ。

・一方の石原は、作家の仕事では大成ならず、政界に転職して衆・参の国会議員を9期務めたが勤まらず、途中で投げ出して都庁に転職し、都知事を4期務めている。だから一般のサラリー勤労者のように自力で給与を稼いだことがなく、すべて税金にたかって生きてきた人生だ。

・いずれにせよ、石原は「国を危うくする愚か者の行為」をしでかした以上、世間に謝罪し、自らの責任をとって都知事を辞職してはどうだろうか。

:作家赤坂真理の「東京プリズン」が話題を呼んでいるという。米国と日本、敗戦と憲法、天皇の戦争責任という難題を、母親との葛藤などの自分史に重ね合わせて描いた長編小説という。

・その彼女は文豪三島由紀夫の短編「英霊の聲」のなかの一節、「などてすめろぎは人間となりたまいし」に心打たれたという。すなわち、天皇に殉じた英霊たちが、人間宣言を行った天皇をなぜと恨み嘆く言葉だ。

・1970年11月25日、三島は楯の会同志らと共に決起する。そして市ヶ谷自衛隊駐屯地に乗り込み、居合わせた隊員を前にクーデターを促した後、その場で割腹自殺する。

・その様子は、「俺は天皇を英霊たちの恨みから守るために逝く。諸君らはこの世で日本を守ってくれ」と、訴えかけるような最期だ。

・どうだろうか、今回の石原のパンダ外交が、尖閣から竹島に飛び火して、「天皇謝罪要求」の問題まで引き起こす事態に至り、三島はあの世で怒っているだろう。そこで、石原も、三島のように腹を掻っ捌いてお詫びしてはどうだろうか。小心ものの石原にはその度胸はないかもしれないが。では、次の一案はいかがだろうか。

:幕末から明治時代に活躍し近代日本語の祖としても知られる落語家三遊亭圓朝は、多数の落語を新作した。そのなかに、グリム童話集から「死神の名付け親」を翻案した。それが「死神」という演目だ。昨年11月に亡くなった石原の友人立川談志の演目でもあった。

”男は死神に捕まり大量のロウソクが揺らめく洞窟へと案内される。訊くとみんな人間の寿命だという。”
”「じゃあ俺は?」と訊く男に死神は、今にも消えそうなロウソクを指差す。”
”曰く「お前は金に目がくらみ、自分の寿命をご隠居に売り渡したんだ」”
”ロウソクが消えれば寿命も消える。パニックになった男はロウソクを継ぎ足そうとする。”
”が、死神はわざと失敗させる。「消える、消える、アッ!」と叫んで火は消えてしまう。“

:9月は石原の誕生日だ。80の傘寿祝いをこの洞窟で開いてあげてみたらどうか。この男のロウソクをみんなで囲んで、「ハッピー・バースディ」のソングを歌ってお祝いする。そして最後に本人がロウソクに息をふきかけ、「アッ!」といわせる。

(続く)

 

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日本政治の行く末(8):石原の責任論/負担付きの寄附 #2

2014-04-15 | Weblog

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2012/09/07 01:18

(Part4: 石原慎太郎の責任論/負担付きの寄附#2)

読売新聞

「どうせ内閣もたない…寄付金譲渡ダメと石原知事」

2012年9月6日20:39  

尖閣諸島(沖縄県石垣市)の購入資金として、東京都が全国から集めた14億6000万円超の寄付金について、政府に譲る意向を示していた石原慎太郎知事は6日、「あれ(政府への譲渡)はダメ。献金した人と約束したので」と発言を翻した。

寄付金は同諸島に船だまりや漁業無線の電波中継基地などを整備する費用に充てるという。出張先の福井県敦賀市内で報道陣の取材に答えた。 

石原知事は5日、政府と地権者が同諸島の売買に合意したことを受け、「(寄付金は)政府が購入するなら即座に政府に渡す」と語っていた。しかし、現政権は石原知事の求める施設整備に消極的なため、この日は「どうせ内閣はもたないし、次の選挙で自民党を中心とする内閣ができる。自民党はあそこ(尖閣諸島)にものを作る意思がある」と語った。新政権に施設整備を働きかけるという。 

参考:

✩「 石原〝尖閣サギ〟証拠発見/尖閣購入カネ集めの危うさ」 

2012/7/11ゲンダイ掲載

http://gendai.net/articles/view/syakai/137562

この一文が「詐欺まがい」の動かぬ証拠<“第2のAIJ”になりかねないぞ。

「乱暴というか拙速というか、粗雑だよな。民主党も支離滅裂。多分、人気稼ぎなんだろうね」  東京都の石原慎太郎知事(79)が仏頂ヅラだ。尖閣諸島の国有化に音無しの構えだった野田内閣が一転、「買う」と言い出したことに猛反発。自分の頭越しに地権者側と交渉を進めたことにも「野田は黙って見ていろ」とカンカンだった。 石原にすれば“オレの手柄を横取りしようとするな”という気持ちだろうが、「手柄」を奪われると、厄介な問題も生じかねない。  都が尖閣購入のために募っている寄付金の存在だ。都は石原の肝いりで4月末に「尖閣諸島寄付金口座」を開設。すでに9万819件、総額13億4146万円(9日現在)もの莫大なカネが寄せられている。 今のところ地権者側は国への売却に難色を示しているが、万が一、都に先駆けて国が尖閣を購入すると、巨額の寄付金が宙に浮いてしまう。返金しようにも、「都の口座に現金を直接、振り込まれるケースも多く、寄付した全員の捕捉は困難」(知事本局・尖閣諸島寄付担当課長)というから、どうしようもない。 担当課長は「知事との信頼に基づいて集めたお金です。あくまで購入に活用することしか考えていません。今後の経緯を見守って下さい」と“最悪の事態”を想定していないかのように振る舞うが、都の寄付金募集サイトにはズルイ一文が盛り込まれている。〈この寄付金は「負担付きの寄付」として受けるものではありません〉一体どんな意味を持つ文言なのか。地方行政に詳しい立正大教授の金子勝氏はこう言った。 「『負担付き寄付』とは、自治体が税金以外のお金を住民から集める場合、特定の目的に使うことを前提に認めたルールです。寄付金を担保するため、地方議会の議決を要する、と地方自治法は定めています。目的を失えば寄付は無効で返還の義務がありますが、逆に『負担付き寄付』でなければお構いなし。寄付金を別の目的に流用しても、法的にはとがめられません。今回の寄付は“オレが集めたカネをどう使おうがオレの勝手だ”と、石原知事に解釈されてしまう恐れがあるのです」 今から流用の布石を打っているなんて、まるで「サギまがい」だ。  尖閣購入が果たせなかった場合、石原は寄付金をどうする気なのか。AIJの浅川社長のように「だますつもりはなかった」と開き直るのか。

✩「尖閣諸島購入に寄付金は疑問」

2012/5/5 朝日新聞声欄若い世代 投稿:大学生高野明日香、神奈川県厚木市21歳

http://livedoor.blogimg.jp/greatprc-you1/imgs/3/c/3c4c4742.jpg

東京都が尖閣諸島の購入に向け、寄付金の受け皿となる専用口座を開設したそうです。違和感を感じたのは私だけでしょうか。今でも多くの方が震災の影響で元の生活に戻れない苦労をなさってます。そんな時に出た石原慎太郎・東京都知事の尖閣諸島購入の発言。そして寄せられた賛同する意見。私は尖閣諸島が日本の領土だと主張することは必要だと思います。そのための石原都知事の行動も、少々大胆ですが必要だと思います。ただ、果たして今、私たちがお金を出してまで購入しなければならないのでしょうか。日本人はどうも、時間が過ぎるとすぐ新しいものに飛びつく傾向があるような気がします。東日本大震災発生直後に多く集められた寄付金ですが、1年以上経った今、寄付をする人は一体どれぐらいいるでしょうか。あまりにも短い周期で移りゆくブームのように、今も続く被災者の苦労すら既に忘れ去られてはいませんか。

(続く) 

 

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日本政治の行く末(7):石原の責任論/負担付きの寄附 #1

2014-04-15 | Weblog

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2012/09/03 06:28

(Part3: 石原慎太郎の責任論/負担付きの寄附#1)

NHK-NewsWeb

「政府 尖閣購入で地権者と大筋合意」 9月3日 4時23分

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120903/t10014727271000.html

政府は、沖縄県の尖閣諸島について、より平穏かつ安定的に実効支配していくため、国が20億円余りで買い取ることで、地権者側と大筋で合意したとしており、今月中の島の国有化の実現に向けて、詰めの調整を急ぐことにしています。

沖縄県の尖閣諸島を巡っては、島の購入を検討している東京都が、2日、島の資産価値などを検討するため、周辺の海域に調査船を派遣し、海上から沿岸の地形の調査などを行いました。

政府は、島への上陸は行われず、自制的なものだったとしています。 こうしたなか、政府は、尖閣諸島を平穏かつ安定的に実効支配していく責任は、あくまで国にあるとして、地権者側と交渉を進めてきた結果、国が島を20億5000万円で買い取ることで大筋で合意したとしています。

政府は、今月中に島の国有化を実現したいとしており、今後、契約書作りなど詰めの調整を急ぐことにしています。

東京都の石原知事は、尖閣諸島に漁船が避難する施設の整備などを、国が購入することを認める最低限の条件だとしていますが、政府としては、島を国有化しても、中国側の反発なども考慮して、施設の整備には応じない方針です。

そして、東京都に対し、国有化後の島の管理の在り方などを説明して、理解を得たい考えですが、石原知事が今後、反発を強めることも予想されます。

 (続く)

 

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日本政治の行く末(6):石原の責任論/都の尖閣上陸申請

2014-04-15 | Weblog

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2012/09/01 00:48

(Part2:石原慎太郎の責任論/都の尖閣上陸申請)

2012年8月、終戦から数えて67年目の夏。

広島や長崎で開かれた平和祈念式典には、米国の駐日大使ルース夫妻と共に、シカゴ在住の米国人が参列した。このダニエル氏は原爆投下を命じた第33代米国大統領トルーマンの孫だ。彼の息子が、「原爆の子の像」のモデルである被爆少女貞子の物語を、偶然に読んだことがきっかけで、貞子の兄佐々木雅弘氏と親交を持ち、被爆地の訪問を決意したという。

・余命一年といわれながら、折り鶴の数だけ元気になると信じて、鶴を折り続けた貞子は、白血病で12歳の生涯を終える。折り鶴が蘇り、羽根をえて大空に飛び立ち、大海原を渡って、ダニエルの息子に平和の思いを届けたに違いない。

・そうした式典での人々の「平和への祈りと願い」を、粉々に打ち砕いた男がいる。それが都知事石原だ。

・前回、領土の保全は国の仕事であり、「国の尖閣購入手続きは静かに淡々と」、そして「秘密裏に」進行させることが外交の規範であることを指摘した。これに対し、路上のゲリラライブのように突然に尖閣購入宣言(以後、パンダ外交)をした石原は、「国を危うくする愚か者の行為」であると警告した。そして事件は起こるべくして起こった。

・8月15日、香港の活動家らが、「尖閣諸島は中国固有の領土」と抗議し、魚釣島に不法上陸、さらに19日には、都議ら10人の日本人グループまでが猿真似して許可なく上陸するという事件が発生した。そして中国の各都市で大規模な反日デモが行われた。国は政府関係者以外、外国人、日本人の別なく、尖閣上陸を禁じている。

・中国の人民日報は「双方がこれまでに作りあげてきた共通の了解を守らず、対話と協力で対立をコントロールするという正しい道から外れたのはどちらの国か」と指摘したうえで、石原が打ち出した島の購入計画で、トウ小平が尖閣諸島を巡って唱えた「争いは棚上げする」という枠組みが崩れ、事態が悪化したと論評した。

・1972年の日中国交回復以来、尖閣諸島は、北方領土や竹島と違い、日本の国内法が及ぶ「領有の問題は存在しない」現状だった。 総務省が年2450万円の賃料を払って、民間人の地権者から借り上げており、また沖縄県石垣市は固定資産税を徴収しているため、行政が二重に介在するかたちで実効支配していた。

・だから問題は一昨年の中国漁船衝突事件で露呈した「主権領海内での警備の不備」にあった。米国では、9・11テロ事件以後、日本の海上保安庁にあたる米国沿岸警備隊(USCG)の管轄は米国運輸省から新設された国土安全保障省に移され、有事には大統領自らが指揮する組織体制に編成された。日本も米国にならい、海上保安庁の活動の強化に向けた法改正も必要だろう。

・ところが、石原は、日本国内の問題である「警備の不備」を逆手にとって、外交上の問題である「領有権」と結びつけ、「日本にドロボウがはいったら誰が守る」、「国がやらないから東京都がやる」と言い放し、日中関係に「火」をつけたのである。それをまた、石原の広報担当役のような右派紙産経が、ネトウヨを煽るための火種を盛んに流して火勢をあおった。いつものパターンだが、石原のパンダ外交の責任は極めて重い。

英国文壇の大御所サミュエル・ジョンソンは、「愛国心は、ならず者の最後の避難場所である」と名言した。まさに石原のパンダ外交を危惧した言葉である。

・話をもどすが、石原が企てる「都の尖閣諸島購入」は、7月に国が尖閣諸島の国有化方針を発表し、地権者に20億円近い買い取り額を提示したことで、政府と真っ向から対立する局面となってきた。

・国が方針転換し買い取りに動き出したことは、石原の誤算だったに違いない。4月の都の定例会見では、「都の尖閣諸島購入が間違ってると思う日本人がいたら、お目にかかりたい」と大見得をきったあと、記者から「国が買い取りを申し出たら」と質問されると、「おそらく国はそんなこと言ってこないね。」と答えている。しかし、国民にとっては、この誤算は大いに歓迎すべきことである。そもそも、日本国土の安全を守る義務と責任は国にあるからだ。石原は企てをあきらめて、いさぎよく退場すべきだ。それが愛国心というものだ。

・しかし石原は「あくまでも都が先に買い取ってから国に引き渡す。東京がやるから黙って見ていろ。」と逆切れして、国に引き渡す条件として「漁船が停泊できる船だまりの整備と常駐者の配置」を要求し、さらに「(都が島の調査のために)上陸申請を妨害すれば、法的手段も辞さない」と脅しをかけた。だがその脅しも効かず、8月、国は石原が提出した尖閣諸島・魚釣島の上陸許可申請を却下した。

・これに対し石原は、10月の現地調査に自らが参加することを明らかにしたうえで、逮捕されるなら、それで結構と、捨て身だ。さらに「民間人と東京都が商業ベースの取引をするための調査を、政府が何の理由で拒むのか。裁判にかけても聞いてみたい」と政府を強くけん制した。

・気の毒なのは埼玉在住の地権者だ。現存する4人兄弟のなかで、長男・栗原國起が魚釣島、南小島、北小島の3島を所有しており、在日米軍が利用している久場島は妹・栗原和子の所有だ。

・かって、長男は結婚式場「菱屋会館」を運営していたが資金難で撤退し、宗教法人冨士大石寺顕正会に菱屋会館を賃貸するが、強引な勧誘が問題となり、度々、警察沙汰になったという。そのためか、長男はマスコミに登場してこない。65歳の三男の弟・栗原弘行が代弁している。

・地権者側は、当初、「東京都以外には売らない」と断言し、国の方針転換を「選挙を前にしたパフォーマンスではないか」とコメントしていた。ところが、地権者側にも変化がでてきた。

・国は、石原が提出した尖閣上陸許可申請書に、地権者の「同意書」が添付されていなかったことを暴露した。また、上陸許可申請書の扱いについて、地権者に確認したところ、「政府の責任で判断してほしい」という意向だったことも明らかにしている。

・普通の神経の持ち主なら、自分が所有する島をめぐって、日中の外交関係が緊張化していくのは望まないはずだ。それでなくても、過去に警察沙汰に巻き込まれた苦い経験があれば、「厄介ごと」に巻き込まれるのは「ご免こうむりたい」というのが心情だろう。ましてや、石原が騒げば騒ぐほど、国との板ばさみになり心理的な圧迫を受けるのは地権者だ。だから、70歳になる地権者が、石原のパンダ外交に懐疑的になり、嫌気がさしてきても不思議ではない。

・石原は、地権者と直接に会話できず弟を介しているようだが、弟は兄と会話があまりできていないようだ。ただ、弟は建築業界人で、石原はゼネコン・ハコモノ重視の土建屋行政の典型的な男だ。この二人は気が合うようで、物事に慎重な兄を遠ざけ、尖閣諸島の開発を進めているのではと、勘ぐりたくなる。その証拠に、国に引き渡す条件として、「漁船が停泊できる船だまりの整備〈建築土木工事)」を国に要求している。

:そこでだが、地権者は尖閣売却の話を白紙にしてはどうだろうか。厄介者の石原には退場願う。そして過去に祖先の土地が国に強制収用された経緯を忘れて、秘密裏に国有化に協力する。日本の外交が危機に直面しているいま、石原の面子どころの小さな話ではない。

・あるいは地権者自らが、国に尖閣を「寄進」することだ。ただ、これにも裏取引があってもよいわけで、国が地権者のために都内に国有地を用意し、尖閣の島々と等価交換させる。

・世間には奇特な人がいる。長野県軽井沢町の町民は、東日本大震災の被災自治体などに、持ち株を売却して得た現金6億9000万円を寄付している(信濃毎日新聞)。またカナダのノバスコシア州在住の夫が元溶接工の70代老夫婦は、9億円の宝くじに当たり、「もともと金持ちじゃないし、これまでのつましい生活で幸せ」といって、そっくり地元の病院などに寄付している(産経新聞)。

・いずれにしろ、国は今後、難しい局面にぶつかると思うが、尖閣国有化にむけ、毅然とした対応をとることだ。その参考となる人物がアイゼンハワーだ。彼は米ウエスト・ポイント陸軍士官学校出身の共和党第34代米国大統領だ。大戦中はドィツを降伏させたノルマンディ上陸作戦の欧州連合軍最高司令官だった。彼は対日戦に、もはや原子爆弾の使用は不要であることをトルーマンに進言している。また、原爆投下後、被爆地広島に原子力発電所を造る案が米政権内で浮上したときにも反対している。

・彼は優しい人柄に富み人気がある人物だったが、「秩序を乱すもの」には毅然と対応した。特に有名なのが、1950年代、米国公民権運動の最中に起こった南部アーカンソー州での「リトルロック事件」だ。公立校での黒人差別(白人のみ入学許可)を違憲とした米連邦最高裁の判決により、黒人生徒9人がリトルロック・セントラル公立高校に入学を申請し許可されるが、治安を理由に州知事フォーバスは州兵を召集し学校を閉鎖して9人の入学を妨害する手段にでる。これに対し、アイゼンハワーは、知事に事態の収拾を命令するが無視され、陸軍を派遣し、9人の護衛に当たらせた。その結果、知事は引き下がり黒人生徒9人の入学を認めた。このアイゼンハワーの毅然とした対応は、その後の米国における多くの公民権運動を勇気づける結果となった。人口の9割近くが白人で人種差別の強い南部州で、僅か黒人生徒9人を救うためにとったアイゼンハワーの勇気と毅然とした対応が、後々の人権という国益を守る結果となった。

・だから、石原に対しては、10月の現地調査実施で島に上陸した場合には逮捕し手錠をかけ、日本は法治国家であり国内法が尖閣にも及んでいることを教えてやることだ。

:日本に対する米国の外交姿勢は、中国がますます頭角をあらわすにつれ、微妙に変化してきている。米国中国を刺激しないよう配慮するようになってきており、特に、2007年のサブプライムローン金融危機後、落ち込んだ米経済回復には、日本よりも中国の役割の方が大きくなっている。

・米国の前政権ブッシュは、「安保条約は尖閣諸島に適用される」と公言したが、現政権オバマは慎重な言い回しにとどめている。それだけではない。米国中枢の人物の間で、まだごく一部だが、「米国は同盟国に対する核の傘を保証するため自殺行為をするわけはない」、つまり、「他国のために核報復は無い」と明言し始めている。日本に「ビンのふた」作戦を仕組んだキッシンジャーもその一人だ。

・こうした変化が意味することは、日本は石原のパンダ外交に付き合って、隣国との間で築いてきた外交関係を無駄にする余裕はないということだ。この男は平気だ。この9月で80歳の「かげろう」余生だ。でも、将来に時間を残している日本人はこんな男を相手にしないことだ。

:結局、石原が恐れるのは、自身が呼びかけて集めた約14億の寄付金だ。国が尖閣を購入してしまうと宙にういてしまう。だから石原は必死で捨て身にでているのだ。いま石原は国や都民や地権者のためでなく、自分の面子を守るために必死だ。

・地権者そっちのけで、石原一人が尖閣購入につぱしっている感があるが、「東京都の尖閣購入」はいまだ仮定の話だ。だから本来、メディアは「石原の尖閣購入」とすべきである。

地方自治法第1条は自治体の役割を「住民の福祉の増進」とし、国家としての存立に関わる事務は国が担うと規定している。石原の言う「ドロボウの侵入から尖閣諸島をまもる(日本国土を守る)」だけでは正当化できない。このことを認識しておく必要がある。特に寄附者は。

:さて、この厄介者エレファント石原の責任処分をどうしたらよいだろうか。日刊ゲンダイの記事「戦争を避けたいなら石原都知事を引責辞任させよ」が示唆に富んでいるので紹介しておく。その前に、本ブログは新都知事にふさわしい人物を推薦しておく。元官僚で、鳥取県知事及び自冶大臣を勤めた片山善博だ。1999年に知事初当選して以来、「改革派知事」としてその手腕を発揮し、世論調査では80%近い高い支持率を記録し、全国47都道府県の知事で1位であった。しかし2期8年限りでいさぎよく退任した。その理由は「権力が長引くと、組織に弊害も出る」というのが理由だった。

:「戦争を避けたいなら石原都知事を引責辞任させよ」(文:斎藤貴男/2012/8/21) わざわざ竹島に石碑を建てて除幕式に訪れた韓国李明博大統領といい、この極東3カ国は、どこまで愚劣なのだろうか。領土問題というのは、当事者双方にそれなりの理屈があるものだ。ヘタな強硬手段は戦争の引き金になりかねない。まして実効支配している側が先に手を出せば、せっかくの優位を自ら投げ捨て対等の立場に下りてしまうことを意味する。一連の痴態の発端は、石原慎太郎知事による東京都の尖閣購入宣言だった。どだい日本国内の登記簿をいじくったところで、中国側には何の説得材料にもなりっこない。単なる挑発以外の何物でもありはしなかった。 しかも石原は当初、尖閣の主要5島のうち、魚釣島など3島だけを購入の対象とした。残る大正島はもともと国有地だが、久場島は3島同様の個人所有であるのに。理由は明白だ。久場、大正の2島は射爆撃場として米海軍の排他的管理区域なのである。ならば中国側の主張は論外になる理屈だが、当の米国は尖閣の施政権こそ1972年の沖縄返還で日本に戻したものの、主権については「立場を表明しない」としていた。背景には中国台湾への配慮があった。 この問題に詳しい豊下楢彦関西学院大学教授(外交史)によると、しかも当時のニクソン政権には、日中間に領土紛争の火種を残すことで、米軍の沖縄駐留をより正当化させる思惑があったという(「『尖閣購入』問題の陥穽」世界8月号)。石原知事の真意は“固有の領土の死守”などではないと、豊下教授は書いている。あえて〈軍と軍の衝突から「軍事紛争」を生じさせ「米国が踏み込んでこざるを得ない」ような状況をつくりだす〉契機とする気だ、と。 何よりもまず石原を引責辞任させ、しかるのち中韓両国と再度の棚上げか共同開発か、何であれ平和解決に向けた交渉を始める以外の道はない。またぞろ“弱腰”の大合唱が聞こえてきそうだが、ならば問う。口先で凄めば相手は引き下がってくれるのか? 本気で戦争する気があるのか? 石原本人もだが、異常に幼稚なナルシシストをここまでつけ上がらせた東京都民の責任はあまりに大きい。この期に及んで英雄視し続けるのであれば、何があろうと自業自得とわきまえておくことだ。(おわり)

参考:

6月11日、衆院決算行政監視委員会は尖閣諸島の購入方針を問うために、石原を参考人招致した。都の尖閣諸島買い取りに対する政府、閣僚、首長、それにヤフー読者の反応を示す。読売、毎日、英フィナンシャル・タイムズの各紙面から抜粋。

✩読売新聞が124人の全東京都議へアンケート、

「態度保留」がほとんど。賛否を明らかにしたのは20人で、賛成7人(民主4人、無所属3人)、反対は13人(民主1人、共産8人など)だった。最大会派の民主だけでなく知事与党の自民、公明も「賛否は明らかにできない」と及び腰だ。

✩長島昭久首相補佐官、

「国が(尖閣諸島を)購入する、国がきちんと所有するというのが筋だ」とした上で、「中国の海洋進出はものすごい勢いだ。(尖閣諸島が)本当に平穏かつ安定的な状態を保てるかどうか、国としてきちんと考えるべきだ」と語った。

✩神奈川県黒岩祐治知事、

「私には想定できない」と驚きを示しつつ、「領土問題で国家意思を示すことは大事だが、短兵急に突っ込むと大きな紛争に発展しかねない」と指摘。「この時点で応援する気持ちにはならない」と否定的な見解を示した。

✩埼玉県上田清司知事、

「何もジタバタする必要はない。むりやり固定化するようなことをすることの方が、必要以上に紛争状態にあるというふうに思われる」と憂慮。「堂々と実効支配を続け、日本の主張を諸外国にアピールすれば済む」との考えを示した。

✩大阪市橋下徹市長、

「(以前から)聞いていた。普通の政治家では思いつかない。国と国の外交とかいろいろな問題があるだろうが、石原知事しかできない行動だ」と手放しで評価した。

✩長崎県中村法道知事、

「離島について所有権をしっかりさせることには国内的には意義があるだろうが、(尖閣諸島購入構想は)国際的に問題になっている」と指摘。「外交上の大きな課題として取り組んでいく必要がある」として「(国境離島が)無人島化しないよう新たな法整備が必要だ」と国に対策を求めた。

✩丹羽中国駐在特命全権大使(前伊藤忠商事会長)、

6月7日付英フィナンシャル・タイムズ紙とのインタビュー記事の中で、石原都知事の購入計画が実現した場合、「日中関係に極めて深刻な危機をもたらす」と強く批判。そして「(日中関係改善に向けた)数十年にわたる過去の努力が水泡に帰すのを許すことはできない」と強調。さらに、購入計画は法的な問題に直面する可能性があるほか、購入のための事前調査でさえ、外交的には中国側を刺激する恐れがあると懸念を表明した。また日中関係の危機は両国間の経済関係にも影響を及ぼしかねないと警告も発している。

✩元外交官孫崎享、

「石原知事の尖閣購入は、米国の意図どおり」東京都管轄の「在日米軍横田基地の返還」を公約に掲げて都知事に就任しておきながら、その返還を米国からとれず、尖閣に火をつけ政治的利益を計る石原は似非愛国主義者である」とツイッター上で批判した。

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=266314

✩近藤大介、

「日中国交正常化40周年に水を差す石原発言は許せない」在中国の日本人特派員や日本企業駐在員の間では、「丹羽大使よ、よくぞ言ってくれた!」「日本は末期がんのような状態だと指摘したに過ぎないのに、なぜ非難轟々となるのか理解できない。だがこのような個人的意見は報道できない」と、丹羽大使擁護論が大勢を占め、批判の声はほとんど聞かれない。http://gendai.ismedia.jp/articles/-/32799

✩ 世宗(セジョン)大学保坂祐二教授(独島総合研究所所長)、

「日本のICJ提訴は理にかなっていない」中央日報 

http://japanese.joins.com/article/487/157487.html

✩Yahoo!みんなの政治/石原に関する意見評価、

:「親子とも2政治家である」204件中160件が意見支持、 国会議員時代にたいして成果も出さず、国会議員という同じ土俵では戦えず、弟裕次郎や石原軍団を使い都知事となり、身軽になったとたんに当時の実力者小沢へのうらみ節。まさに犬の遠吠え。息子のあなたもそっくりですよ。知名度の高さを利用してるだけ。親子ともども何か歴史的成果でも残したのか?同じく国会議員時代にたいして成果も出さず地方で偉そうに吠える河村、大村。国会議員にもなってなく、たかが大阪市長で首相にでもなった気で鬼の首をとったようにいきがっている橋下。それを救世主のごとく持ち上げるマスゴミ。少し前に同じようにマスゴミが持ち上げて今や見る影もない舛添や東国原を見れば、一時的ブームに踊らされず、真の実力者は誰なのかしっかりと政治家を見る力を我々国民は身に着けなければならない。(文)投稿者:muroneorikabe

 

 

関連サイト 

 

 

 

 

 

 


日本政治の行く末(5):石原の責任論/尖閣諸島購入宣言

2014-04-15 | Weblog

 **この記事は2012年にイザブログに公開したものですが、この3月でイザブログが終了となり、本ブログに移し変えました。管理人**

2012/07/30 23:27

(Part1:石原慎太郎の責任論/尖閣諸島購入宣言)

そのドラマの梗概を手短に説明すると、こうだ。 

:1967年、自民党佐藤政権は「沖縄返還」を公約に掲げ、国内世論はこの問題で沸騰していた。「戦争に負けても外交で勝つ」。彼は、尊敬する元総理吉田茂の言葉を引き、東大の後輩でのちに外務官僚となる谷内正太郎に、沖縄返還で日本外交の力が試されると説く。

彼は親交のあった自民党幹事長福田赳夫を介して、総理佐藤栄作と密会。返還交渉について、「密使」の仕事を依頼される。37歳の年だった。

間近に迫った日米首脳会談で、返還時期のメドだけでもつけたい佐藤。

彼は、「ベトナム戦争の最中に、その前線基地となっている沖縄をアメリカが返すはずがない」と動きの鈍い外務省ルートとは別の突破口を求めていたのだ。

彼は単身ワシントンに向かい、時の民主党ジョンソン大統領の側近、ロストウに働きかけ、「2~3年以内に返還時期のメドを付ける」との合意に成功する。(注:ロストウ、当時51歳、第7代国家安全保障問題担当大統領補佐官、任期‘66-69、ロシア系ユダヤ人、経済学者だが自己理論の実証を企てベトナム参戦を強く大統領に進言した実務家)

しかし1968年の大統領選、反戦運動の激化でジョンソンは不出馬。早期ベトナム撤退を公約に共和党候補ニクソンが勝利し、交渉は振り出しに戻ってしまった。

2年後、後継のニクソン大統領との首脳会談を前に、再び彼は、佐藤から密使の仕事を依頼される。今回は、「外交の達人」と呼ばれたキッシンジャーが相手だ。(注:キッシンジャー、当時47歳、第8代国家安全保障問題担当大統領補佐官、任期‘69–75、ドイツ系ユダヤ人。15歳で一家と共に米国に帰化。夜間高校を卒業後、町工場で働きながら大学に通学。一端軍に入隊後、ハーバード大学に編入復学。唯一、大統領職に就けなかったが、もし米国生まれであれば候補に指名された人物)

ホワイトハウスに乗り込んだ彼は、キッシンジャーと二人で秘密交渉を開始。「核抜き、1972年の返還」と引き替えに、キッシンジャーが突きつけてきたのは、「有事の際の沖縄への核再持ち込み」と「繊維交渉での日本側の譲歩」という二つの密約だった。

ばれたら政権が吹っ飛びかねない「爆弾」であったが、「沖縄を取り戻すためには、やむを得ない代償」と思い定めた彼は、佐藤を説得し続けた。

1969年11月、ついに沖縄返還が決まった日米首脳会談。ホワイトハウスの小部屋で、密かに合意文書が取り交わされる。それは、佐藤、ニクソン、キッシンジャー、そして彼の四人しか知らないものだった。

役目を終えた彼は、佐藤に「私のことはすべて忘れてください」と語り、交渉における自らと密約の存在を封印する。1972年5月15日、沖縄本土復帰する。

:この「密使」なる彼は、京都産業大学法学部教授若泉敬(1930-96)だ。米ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究所に在籍中、政界との人脈を築いたとされる。

沖縄返還後、佐藤がノーベル平和賞受賞の栄誉に浴する影で、若泉は変わらぬ沖縄の基地負担の現実に心身共に疲弊し、やがて自決してしまう。

生前、若泉は著書「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」を出版し、返還交渉の裏舞台と密約を告白。また、沖縄県知事大田昌秀宛に「歴史に対して負っている私の重い「結果責任」を取り、国立戦没者墓苑において自裁します」とする遺書も送っていた。

:一方のキッシンジャーもまた、ニクソン大統領の「密使」だった。日本との密約に成功すると、ベトナム撤退への工作に動き出す。そしてニクソンとの二人三脚で、徐々に国務省から大統領府ホワイトハウスに外交権限を集中させていく。

1971年、北ベトナムを支援していた中・ソの関係が悪化。この機を利用して、キッシンジャーはすばやい才覚を発揮して中国を極秘訪問する。そして周恩来内閣と和解の道筋をつける。一方のソ連とは、戦略兵器削減交渉を開始して緊張緩和をはかった。1973年、ベトナム戦争終結の和平協定が調印される。この功績によりキッシンジャーはノーベル平和賞を受賞した。

この両者の外交は、ともに「密使」として、主君に忠義を尽くして自国を愛する「忠君愛国」の外交だ。ただ、外交の達人キッシンジャーとの密約交渉で、外交経験のない国際政治学者若宮は米中和解を優先させるために仕組まれた「ビンのふた」作戦にはまってしまつた。(注:瓶の蓋、日米安全保障条約に基づく在日米軍の駐留が日本の「軍国主義」回帰を抑えており、同盟関係を解消すれば日本は手に負えない行動を取り始めるとした論理に基づく兵法)

:今の日本には東日本大震災の復興、福島原発事故の処理、直下型地震の防災対策等など、問題が山積している。この傷んだ日本にあって、わざわざこの時期に、尖閣諸島の領有権問題(以後、尖閣問題)をとりあげて、騒ぎまくっている厄介者のホワイト・エレフォントがいる。それが「日本政治の行方(4)」で烙印した都知事石原だ。

それは、若泉やキッシンジャーが規範とした「忠君愛国」の振る舞いを欠いているからだ。ここでいう「忠君愛国」とは戦前の軍国主義下での教えではない。一自冶体の首長として、その身分をわきまえ、主君である国に、秘密裏に接触し、黒子としての裏方役に徹する振る舞いだ。さらにいえば、国の安全・保障を憂慮して、国への売却に向けて、地権者の“過去の経緯”を解きほぐすことが使命だった。(注:過去の経緯、石原の話では、地権者は、戦争中、一方的に中島飛行機工場のために膨大な土地を取り上げられ、戦後も膨大な屋敷を区画整理で削られた苦い経験から一切国も政治も信用しないという)

かつて石原は国会議員だったが、この簡単な理屈と道理がわからないようだ。多分、国会ではパンダ外交の役回りしか経験していないからだろう。(注:パンダ外交、過去に石原は、任期途中で国会議員を辞めている。本人は産経新聞(2012/6/4)の中で、「官僚が支配する現今の政治のあるがままにいる政党にうんざりして国会議員を辞めた」と釈明。しかし関係者の説明は違う。「誰もこの男を相手にしなくなったためだ。というのも、実力もないのに特権意識とプライドだけが強く、国会議員仲間の人望がないうえに、派閥を率いて子分にカネを配る力もなかった。それが証拠に1989年の総裁選の時には、立候補に必要な20人の推薦人すら集めることに苦労した。当時の党内での石原の存在は、選挙時の人寄せ「パンダ」だった。自分でもそれががまんならなかったので辞職した」)

本来、毎日新聞の社説にあるように、領土の保全は国の仕事であり、「国の尖閣購入手続きは静かに淡々と」、そして「秘密裏に」に進行させるべきものだった。

ところが、この石原、わざわざ米国くんだりまで出かけていき、4月17日、保守派主催のシンクタンク講演で、「都の尖閣購入」の突撃ラッパを吹いた。まさにタレントのパンダ外交だ。日本の外交の恥を海外に見せびらかしたばかりでなく、国と都が領有権(所有・管理権)争いをしている印象を与えてしまった。

そのうえに、7・27日、広告費1700万円をかけて、米ウォール・ストリート・ジャーナル紙に意見広告を載せた。狙いは、尖閣購入計画に米国民の賛同を求めるためだという。これを読んだら、米国人ばかりか、台湾人や中国人も腹を抱えて笑いころげるだろう。「石原よ、広告を打つ前に、まず国内(国と都)の尖閣紛争を解決させろ」と。

日本のマスコミがなぜ、この男をたたかないのかも不思議だ。このようなケースでは、ニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストといった米国の有力紙、いやクリスチャン・サイエンスの宗教紙でも、「国を危うくする愚か者の行動」の見出しで批判するだろう。

もっとも、こうした石原の行動は、これが初めてではない。何かというと子供のように、自国民に毒舌のツバをかける常習犯だ。毒舌を繰り返すのは、都民の目線にたった会話ができないくやしさか、小心の弱虫だからである。自分から人との和をつくれない点では、よく批判する官僚と似ている。

昨年3・14日、石原の「東日本大震災の天罰発言」。海外でもことのほか関心を呼び、ネット版CNNなどのメディアでも大きく報道された。それ以来、海外では名うての「ブーイング」男として有名だ。

✩Tokyo governor apologizes for calling quake divine retribution、Dan Gilgoff, CNN記者、2011/3/15

:領有権の争いは東シナ海の小島嶼に限ったことではない。カナダと国境を接する米国最東北部のメイン州。その沖合いに位置するマチアス・シール島(Machias Seal Island)。広さ16万平方メートル(尖閣3島の8倍ほど)で、口ばしと水かきが真っ赤な海鳥ツノメドリが生育する無人灯台がある岩島だ。その領有権をめぐって、米国とカナダは長年争っている。とくに19世紀、カナダ側二州に住むフランス系カナダ人の多くは、メイン州に出稼ぎしており、同州人口の90%を占めるアングロ・サクソンから文化的な差別をうけた歴史がある。

それでも両国は、「暗黙の了解」の上で現状を維持させる姿勢をとっている。それが証拠に、島の無人灯台はカナダ側が維持管理している。

かつて、中国の政治家トウ小平が、日中の領有権問題に触れ、「知恵者が現れ解決されるまで待つ」と発言し棚上げした。

北アイルランド領土問題も、知恵者が現れるまでに一世紀を要した。その間、英統治を望むプロテスタント系と、アイルランドへの帰属を求めるカトリック系の流血対立が続き、多くの人命が奪われた。6・26日、100年ぶりに英国のエリザベス女王がアイルランドを訪問した。女王のいとこも、またフィリップ殿下の叔父もテロで殺害されており、個人的な憎しみを超えた和平訪問だった。

追加:

マチアス・シール島の領有権に関する米国・カナダの国際司法裁判所(ICJ)提訴

http://en.wikipedia.org/wiki/Machias_Seal_Island

 

関連サイト 

 

 

 

 

 

 


米国の国家プロジェクト 次のジョブズをさがせ 

2014-04-14 | Weblog

 

新しい力を経済の原動力に育て上げるオバマ米国のダイナミズムは、「起業は職業ではなく、生き方の選択肢である」ことを教えてくれる。その証がアップルを起業したジョブズだった。管理人

 

日経:米国 才能争奪、国家レベルで

米ホワイトハウスは2011年1月、起業家支援の国家プロジェクト「スタートアップ・アメリカ」を始動した。「起業家は米国経済の拡張と新規雇用の創造に極めて重要な役割を担う」(オバマ大統領)。08年のリーマン・ブラザーズ破綻に端を発した金融危機、深刻な失業増から米国経済を立ち直らせる成長戦略の柱にスタートアップを位置づけてきた。

政府支援策は包括的で国家予算による投融資から研究開発支援、学校の場での起業家精神の教育にまで及ぶ。成功した起業家で構成する支援組織スタートアップ・アメリカ・パートナーシップの議長にはAOL共同創業者のスティーブ・ケース氏が就任した。大統領諮問機関「雇用・競争力会議」にも同氏を起用するなど起業家を競争力と捉える政策が鮮明だ。

オバマ大統領は昨年には、成功した外国人起業家が米国にとどまれるようにする「スタートアップ査証(ビザ)」の新設も提唱、議会の説得に動いている。欧州連合(EU)も英国を中心にスタートアップビザ政策を積極的に打ち出し始めており、有能な起業家の争奪戦が国家レベルで起きている。

 


スタートアップ事例 : 次のジョブズは誰だ 

米国のスタートアップは今始まったわけではない。1970年代の米アップルやマイクロソフト、90年代のグーグルを経て、世界を変える新興企業「スタートアップ」は第3の波を迎えている。スマートフォンやソーシャルメディアの普及で起業のハードルはぐっと下がり、そこに埋もれていた才能がなだれ込んでいる。

3月初旬、米テキサス州オースティン。スタートアップの登竜門となる全米注目のイベントで、無名だった若者たちが一夜にして喝采とフラッシュを浴びた。

「SXSW(サウス・バイ・サウスウエスト)インタラクティブ」は、ツイッターやフォースクエアなど今を時めく企業が飛躍のきっかけをつかんだイベント。毎年、世界中から投資家が数千人規模で駆けつける。

 
 

 

: ウェイゴーのCEO、ライアン・ロゴウスキー(25)

「投資したい、提携したいとあらゆる誘いが来た。まだ信じられない」。約100倍の難関を突破し大賞の1つを受賞したウェイゴー共同創業者兼最高経営責任者(CEO)のライアン・ロゴウスキー(25)は目を輝かせる。

ウェイゴーが開発したのはスマートフォン(スマホ)を看板やレストランのメニューにかざし、瞬時に翻訳するアプリ。日・英・中国語などに対応。眼鏡型端末「グーグル・グラス」に応用すれば海外で迷子にならずにすむ。アップル元CEOのジョン・スカリーや著名投資家ら約10人の審査員をうならせた。

「目の前に広がる中国語の看板を理解できたらいいのに」。きっかけは3年半前の中国滞在だ。アイデアを実現に移そうと電気工学に強い友人と画像処理専門の知り合いを誘い、3人でアプリの開発を始めた。

資金稼ぎのため、開発作業の後にもアルバイトでひたすらプログラムを打ち続けた。アプリ提供を始めてまだ数カ月。スタートアップを夢見ていた1年前は遠い昔のようだ。

: リープモーションのCEO、マイケル・バックワード(25)

同じ頃、地球の反対側の東京・秋葉原で、「ホリエモン」こと起業家の堀江貴文と対談する青年がいた。昨年のSXSWでウェブ・アワードを受賞したリープモーションのCEO、マイケル・バックワード(25)だ。

パソコンやタブレットへの入力を、キーボードやマウスではなく手の動きで実現する技術を開発。消しゴムほどの大きさの端末に手をかざすと、その動きをミリ単位よりも細かい精度で遅延なく感知し、パソコン画面の地図やCGがまるで触っているように動く。

「デジタル機器はすごいスピードで進化しているのに、人々は従来通りキーボードを使っていた」。哲学者のような風貌のバックワードはとつとつと聴衆に語りかける。ロケット事業を計画しているというホリエモンは「宇宙船をドッキングする作業に応用できるかも」と持ち上げた。

大学の専攻は哲学。「ロースクールに行って法律家になろうと思っていた」が、学生時代に現在CTO(最高技術責任者)のデビット・ホルツから起業を誘われた。

昨年、米大手ベンチャーキャピタルから3000万ドルの投資も獲得した。今年6月にはソフトバンクグループから日本初の製品が発売される。

 

: マテリアル・ワールドの日中女性コンビ

オースティンから北東へ2500キロメートル。ニューヨークの芸術家やデザイナーが集まるソーホー地区。中古ブランド品の買い取り・販売サイト「マテリアル・ワールド」を創業したのは矢野莉恵(32、写真右)と中国系米国人のジエ・ジャング(31)の日中女性コンビだ。創業は12年。「クローゼットのブランド品を処分する手間や罪悪感から女性たちを解放したい」(矢野)と、女性心をくすぐるコンセプトが人気だ。 

矢野は三菱商事広報部を経て、ニューヨークに駐在。競争の激しい世界を目の当たりにし「『商事』の外に出たら、自分は活躍できる人間なのかとつくづく自問した」。入社4年で退社し、米ハーバード大ビジネススクールでジャングと出会う。本サービスを始めてまだ1年だが、米東部の日本人起業家といえば「リエ」と名前が挙がるようになった。

 

: ルククのデニス・ザフ(36)

転勤先から娘の勉強を見てやるために――。家族への思いを起業につなげたのは遠隔教育アプリで急成長するルクク(サンノゼ)のデニス・ザフ(36)。

コンセプトは「誰でも生徒に、誰でも先生に」。専用のアプリをダウンロードすれば、ピアノの弾き方や東京の地下鉄の乗り方といった学習コースを無料で利用したり、またユーザー自らが自分の得意分野の教育コースを開設したりできる。

数年前まで、光通信関連メーカーでマーケティングを担当していたが転勤が多く単身赴任も強いられた。

カナダのトロントに住む娘のレジーナちゃん(9)が中国語やロシア語に興味を持ちはじめたので、遠隔で勉強を見てやろうとIP電話スカイプなどを試した。だが娘の好奇心を満たすには物足りない。

「それなら自分で作ろう」。出来たのは、一つのキャンバスに、お互い絵を描き合ったり、字を教えたり動画を見ながら勉強できるツールだ。チャットで質問や回答もできる。

ソフトは思わぬ反響を得た。トロントは大雪による臨時休校が多い。使いやすい遠隔教育は学校の先生の間で評判となった。

ザフは知人の協力や自己資金をあわせ、約1億円でスタートアップ。8人のエンジニアを確保し、アップルのiPadなどに向けたアプリとして提供できるところまでこぎ着けた。「今年はベンチャーキャピタルからの資金調達をめざす。利用者を世界中に広げたいからね」とほほ笑む。

 デニス・ザフ氏

 

: 出版社アタビストのCEO、エバン・ラトリフ(39)

「起業しよう、などと意気込んで始めたわけではない」。電子書籍専門の出版社アタビスト(ニューヨーク市)創業者のエバン・ラトリフ(39)のもう一つの肩書はフリージャーナリストだ。

「帯に短しタスキに長し」という理由で日の目を見ない書き物が大量に眠っていることに気づいた。雑誌や新聞の記事にするには長いが、本にするには厚みが足りない。だが電子書籍という新媒体なら、長さや厚さにこだわらない新しい読者を開拓できる。ラトリフはそれを証明してみせた。

今ではフルタイム従業員12人を抱える会社のCEOだが、ジャーナリストという肩書も捨ててはいない。電子書籍の出版ソフトは後に共同創業者となる友人がプログラミングを担当したので、まとまった初期投資も要らなかった。

1つのネタに集中して書くのが信条だったから「財務や人材管理、投資話からサイトのデザインまで一度に複数の課題を抱えるのは苦手なんだ」と屈託なく笑う。

エバン・ラトリフ氏

 

 


アップル スティーブ・ジョブズ IV 

2014-04-14 | Weblog

:その日私はいつになくその店で買物をした。というのはその店には珍しい檸檬が出ていたのだ。(略)結局、私はそれを一つだけ買うことにした。(略)

その檸檬の冷たさはたとえようもなくよかった。その頃私は肺尖を悪くしていていつも身体に熱が出た。(略)

その熱い故だったのだろう、握っている掌から身内に浸み透ってゆくようなその冷たさは快いものだった。私は何度も何度もその果実を鼻に持っていっては嗅いでみた。

それの産地だというカリフォルニヤが想像に上って来る。漢文で習った「売柑者之言」の中に書いてあった「鼻を撲つ」という言葉が断れぎれに浮かんで来る。  

そしてふかぶかと胸一杯に匂やかな空気を吸い込めば、ついぞ胸一杯に呼吸したことのなかった私の身体や顔には温い血のほとぼりが昇って来てなんだか身内に元気が目覚めて来たのだった。

これは、31歳の若さで亡くなった小説家梶井基次郎の短編「檸檬(レモン)」からの抜粋である。

:レモンの香りがする米国カリフォルニア。この自由な大地がスティブ・ジョブズを育んだ。

 米アップル株は9月6日終値で676・27ドル、時価総額はマイクロソフトがドットコムバブルの絶頂だった1999年12月に記録した6189億ドルを上回り、史上最高となった。

 昨年の統計だが、国連加盟国数193か国として、アップル社の時価総額は165か国の国内総生産(GDP)の合計を上回った。

手持ちの現金が増えるばかりのアップル社、今年3月には17年ぶりに配当再開や自社株買いを打ち出した。この株主還元策を好感して株価を押し上げてきた。先月、韓国サムスン電子との米国での特許訴訟に決着がつき、さらに勢いづいている。

:ジョブズは2007年1月9日、社名「apple computer,Inc」から、computerの文字をとり、「apple incorporated」に変更した。1976年、自宅のガレージで開発し一時代を定義したパソコンの時代を自らが終焉させた。そしてプラットフォーマーとしての新しいアップル時代の構築に向けスタートさせた。

米調査会社によると、アップルの携帯電話台数シェアは世界の9%にすぎないが、世界の携帯市場で得られる収益の73%を握っているという。劣勢にあるグーグルやアマゾンといった他のプラットフォーマーもアップルを追従している。

生前のジョブズは限られた余命のなかで、人材の育成に一生懸命だった。2009年「アップル大学」を立ち上げた。中間管理職社員に自らがおかした経営の過ちをケーススタディさせるためだ。そのために、統括責任者兼学部長にはジョエル・ポドルニー(Joel Podolny)をスカウトした。彼は米国東部のエール大学大学院ビジネススクールで学部長を務めた組織行動学の専門だ。スタンフォード大学で10年近く、その前はハーバード大学でも教えていた人物だ。

また、2010年には、新社屋の建設にも着手した。米ヒューレットパッカードがクパティーノ市に所有する土地を買い上げた。そして死の僅か5ヶ月前、自らが市議会の公聴会に臨んで、建設計画を披露して質疑に応じている。これが公の場に出る最後の機会の一つとなった。

計画では、現状の緑濃いアンズ果樹林の森をほぼ残したうえで、太陽光パネルで覆われた自家発電施設を完備したドーナツ型4階建てのオフィス棟をたて、最大1万3000人の社員を収容させる。2015年の完成だ。

:カリフォルニア大地、中でもジョブズがこよなく愛した人に優しいサンフランシスコは澄み切った大空、燦燦と降り注ぐ太陽の光、乾燥した空気、それに朝方に立ち込める霧の街だ。その街を象徴する吊橋、ゴールデンゲートブリッジ(金門橋)を渡り、さらに北にのびる国道101号線をさかのぼると、東西に走る州道128号線と交差する。この州道沿いはナパ・バリーやソノマと呼ばれるブドウ畑が広がるワイン街道だ。その州道を西にとり太平洋に向かってドライブしていくと、ジョブズが生前好んで訪れた安らぎの場所、レッドウッド国立&州立公園だ。

そこには1億6千万年前の恐竜の時代に出現したというジャイアント・セコイアメスギ(Sequoia sempervirens)と呼ばれる針葉樹の原生林が、太平洋沿岸の細長い地域に広がっている。

高さは110メートル以上、ビルの35階にも匹敵する世界で最も高い針葉樹の原生林だ。樹齢は2200年のものが現在知られる最高齢である。現地のチェロキー族インディアンは「神の木」と崇め、昔から神霊が宿ると信じられている。ジョブズは迫りくる死を前に、神の木に余命への救いの祈りをささげたに違いない。

:昨年10月30日、ニューヨークタイムズ紙に掲載された実妹、モナ・シンプソンの「兄への追悼頌徳文(A sister's eulogy for Steve Jobs)」。その中に述べられていた文章が思い出される。

私が兄の死から学んだこと、それは人格とはあらゆるものの根幹にあるものだ、ということです。兄の死に様はまさに兄の生き様そのものでありました。 What I learned from my brother’s death was that character is essential: What he was, was how he died.

そのとき悟りました。兄は死さえも主体的に取り組んでいたんだと。死は兄に起こった出来事ではなく、死は成し遂げるためでした。 This is what I learned: he was working at this, too. Death didn’t happen to Steve, he achieved it.

だから、ジョブズは身をもって自分の「生き様(成功の哲学)」を世にしめしてくれたばかりか、また「死に様(死の哲学)」すらもしめしてくれている。そしてスタンフォード大学の卒業式でのスピーチ(遺言)のなかで語った「ドット(人生の節目)」のすべてが、死を成し遂げたことで繋がったことになる。

ジョブズにとっては、「死ぬ」という行為は「人生をつくる」ための最後の仕上げ作業だった。そしてそれを仕上げたわけである。だから妹は「achieved(成し遂げた)」と表現している。

2012年9月夏の終わり、シリアの情勢が日々、深刻化する中で、ふと、ジョブズを想い出した次第である。 父母の顔も知らず赤子で里親にだされたシリア系米国人ジョブズ。当時、米国留学生だった実父が、赤子のジョブズを祖国シリアに連れ帰っていたら、現代社会はどうなっていただろうか。そう考えると、とても運命的な人物だ。

(2012/9/8 続く)

 

参考:

✩ カリフォルニア、レッドウッド国立&州立公園

 

  

✩ 曲「花のサンフランシスコ/ゴールデンゲートブリッジ」

 

 

 


アップル スティーブ・ジョブズIII

2014-04-12 | Weblog

 


ビデオ:「サッコ・ヴァンゼッティ事件(Sacco e Vanzetti)・死刑台のメロディ」の主題歌

:ジョブズが青春を過ごした60年代から70年代にかけてのミュージシャンたち。ネット版朝日新聞に「スティーブ・ジョブズが愛した音楽」と題した記事がでている。

この10月に出版された伝記「スティーブ・ジョブズ」のなかで紹介されているようだが、お決まり歌詞のポピュラーソングソングではなく、社会的弱者の立場から政治的抗議メッセージを込めたプロテストソングを歌いあげる知的なミュージシャンを好んだようだ。

一方がIT業界のジョブズなら、彼らもまた音楽業界で一時代を創り上げてきたプロ(芸術職人)たちだ。単にフォークソングの一部門にとどまらず、ロックなど他のジャンルにも多大な影響を及ぼしてきた。

ジョーン・バエズもその一人だ。かってジョブズの恋人だった彼女はメキシコ系の家庭で育ち、兵器開発に協力を拒否する物理学者の父親に影響され、公民権運動や反戦活動に積極的に参加するようになった。60年代フォーク・ブームの象徴的な存在だ。彼女の美しくも力強い歌声は聴衆に真実を問いかけ、世代を超えて共鳴の輪を広げていく。ジョブズの信条と相通じさせるものがある。

その彼女が歌う「勝利への讃歌(Here’s to you)」という曲、1971年に、実話をもとに伊&仏合作で映画化された「死刑台のメロディ」の主題歌だ。

1920年、強盗殺人容疑でイタリア移民の靴職人二人が検挙され、十分な証拠開示や公正な審理が行われずに電気椅子に送られる。当時、全米の移民たちばかりか著名人までも巻き込んで国際的な抗議運動へと発展した。

この実話はマサチューセッツ州サウス・ブレーンツリーにおける「サッコ・ヴァンゼッティ事件(Sacco e Vanzetti)」と呼ばれ、米国裁判史上、最大の冤罪事件といわれている。ジョーン・バエズは二人の生前の書置きをもとに作詩したという

 

:以下は朝日新聞「スティーブ・ジョブズが愛した音楽」からの引用である。
ザ・ビートルズ
ジョブズとアップルにとって、ビートルズは二重の意味で重要な存在だった。
一つは、「アップル」の商標をめぐっての裁判の被告として。もう一つは、ジョブズ自ら親しみ、音楽配信サービス「iTunes」への収録を長い間望んでいて果たせなかったミュージシャンとして、である。

ビートルズの著作権管理会社、アップル・コアは「アップル」の商標をめぐって1991年以降数回にわたってアップルを提訴、最終的に決着したのは、2007年のことだった。訴訟終結を受けて、ビートルズ楽曲のiTunesからの配信が始まったのは2010年11月17日のことである。
 

ボブ・ディラン
ジョブズにとってのヒーローであり、海賊版のテープを多数収集するなど、心酔していたのがボブ・ディラン。アップルの共同創設者、スティーブ・ウォズニアックに感化され、二人一緒に海賊版テープを探し回った。

ジョブズの証言によれば、集めたテープは100時間を超え、1965、66年に行われたコンサートの録音は、すべて所持していたのではないかという。
 

 

ジョーン・バエズ
ジョーン・バエズはアメリカの代表的なフォーク・シンガーの一人。1961年、62年の二度、ゴールドアルバム(100万枚)を獲得している。


バエズはボブ・ディランの恋人として、彼を世に出したことでも知られる。バエズはその後ジョブズと出会い、1960年代の初め頃、数年間にわたって交際した。

伝記には、バエズの前夫との間の子供、ガブリエルがタイピングを習おうとしていることを知って、発表前のマッキントッシュを見せるシーンがある。ガブリエルにはアップルIIを、バエズにはマッキントッシュを個人的にプレゼントしたという。
(試聴) http://listen.jp/store/trackList_15556.htm



グレン・グールド
伝記著者が第二巻の終盤、音楽について取材したときに、ジョブズがiPad2のプレイヤーで再生してみせた曲の一つ。


ジョブズはクラシックの中ではバッハを好み、中でもグレン・グールドの「ゴールドベルク変奏曲」の二つのバージョンを聞き比べるのが好きだった。グールドは「ゴールドベルク」を無名時代の1955年、死の直前の81年の二度録音しており、まるでロックのように激しくグルーブする前者と、静かに盛り上がる後者の聞き比べはクラシック・ファンにはおなじみ。

ジョブズは最後の病気療養に入ったころ、著者にこう述べたという。「グールド自身はあとのほうがずっといいと思っていた。僕は若いころの方がいいと思っていた。元気なほうだ。でもいまは、彼がどうしてそう思ったのかわかる気がするよ」
 (試聴)http://listen.jp/store/trackList_16379.htm


ヨーヨー・マ
ジョブズが人間としても音楽家としても尊敬していたのがチェロ奏者のヨーヨー・マ。二人の出会いは1981年、米コロラド州のアスペン。その後ジョブズの自宅を何度か訪れて演奏している。あるときジョブズは演奏の後、こんな賞賛の言葉を口にした。「あなたの演奏ほど、神の存在を示す論拠として優れたものを聴いたことがありません。


 人間ひとりでこれほどのことができるとは信じられないからです」。ヨーヨー・マはジョブズ自身の依頼で、2011年10月16日、スタンフォード大学内のメモリアル・チャーチで開かれた告別式でライブ演奏を行った。
(試聴) http://listen.jp/store/trackList_73781.htm


参考::音楽サイトからの引用
The Beatles(1960-1970)
http://listen.jp/store/artist_10184.htm
ビートルズ、彼らの存在そのものが地球を丸ごと飲み込んだ巨大な現象だった。ジョン・レノン(g&vo)、ポール・マッカートニー(b&vo)、ジョージ・ハリスン(g&vo)、リンゴ・スター(dr&vo)というリヴァプール出身の4人組は、50年代R&Rを基調としたスタンダードで馴染み深いロックを展開し、空前絶後の大ヒットを飛ばし続けた。また、5枚目のアルバム『ラバー・ソウル』から、特に音楽的に革新性が際立つようになった。66年にリリースされた『リボルバー』で発芽したインド音楽への接近や逆回転テープ録音などの実験精神は、67年の『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』で一気に開花。コンセプチュアルな視点から、クラシック、インド音楽、前衛音楽などさまざまな要素を取り入れたサイケデリックな音世界を展開した。それでも、彼らの音楽に対する探究心は飽くことなく、68年の2枚組アルバム『ザ・ビートルズ』(俗に言うホワイト・アルバム)では、自らのルーツを再確認するかのようにブルースやフォークを、さらにはスカやハード・ロックにまで手を伸ばし、底なしの創作意欲を発揮した。この頃になると、メンバーそれぞれの個人活動も増え、ジョンとポールの不仲などが取り沙汰されるようになり、69年に事実上のラスト・アルバム『アビイ・ロード』が発表された。およそ10年足らずの活動ではあったが、音楽界のみならず、あらゆる社会現象に大きな影響を与えた功績は、4人という希代の才能(そして5人目のビートルズといわれたプロデューサーのジョージ・マーティン)が地球規模のスパンの中で偶然的に合致した奇跡の産物といえるものである。そして、彼らの「歴史」は、単なる歴史としてそこにとどまることなく、後生のあらゆるバンドやアーティストによって何度も書き換えられ、常に「現在」として生きつづけている。
 
Bob Dylan(1941/5/24 - )
http://listen.jp/store/artist_10126.htm
フォーク/フォーク・ロック界のロンリー・ゴッド、ボブ・ディラン。ライト&メロウなAOR、カタルシス全開のハード・ロック、ダンサブル&スウィートなR&B……といった、いわゆる「使える音楽」から、数千マイル離れた極北に位置し、その孤高の存在感でもって全世界に(私財をなげうつほどの)熱狂的なファン/マニアを数多く有する。ぼくらは何度、彼の“コクのある歌”に救われたことか。ぼくらが彼を敬愛して止まないのは、ひとえに「自己の表現欲求に対する猛烈なまでの真摯さ」ゆえだろう。例えば、保守的なフォーク・ファンから猛烈な罵声を浴びつつも、勇敢にエレキ・ギターを手にして生み出した、65年発表の『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』『追憶のハイウェイ61』、ちなみに当時、ロック・バンドを率いた初のツアーにおいて、名曲「ライク・ア・ローリング・ストーン」はジミ・ヘンドリックス並みの爆音でカッコよく演奏されたという。そして、ザ・バンドとの魂の交流が生み出した『プラネット・ウェイヴズ』、結婚生活の破綻による苦悩に満ちた『血の轍』などなど(挙げれば本当にきりがない)……。それら至高の作品群に触れれば、彼がいかにシリアスに音楽と向き合っていたか、一目瞭然である。また、メロディ/アレンジは演奏するたび大胆に変更され、熱心なファンでさえその曲が何なのか即座に判断できないらしい。つまり、己にもっともジャストな表現を求めて止まないのだ。現在も依然、輝き続ける生涯現役のロック詩人ボブ・ディラン、この先最高傑作を生み出す可能性は十分にある。
 
Joan C. Baez(1941/1/9- )
http://listen.jp/store/artist_15556.htm
ボブ・ディランと共に60年代フォーク・ブームの象徴である、ジョーン・バエズ。その処女性を秘めた清らかなソプラノ・ヴォイスは、"天使の歌声"と評され、絶大なる支持を得た。弱冠18歳でニューポート・フォーク・フェスティヴァルのステージに立ち、劇的なデビューを飾ったバエズは、翌60年に1stアルバム『ジョーン・バエズ』を発表。これがポップス・ファンをも巻き込む大ヒットを記録し、一躍"フォークの女王"と祭り上げられる。ディランとも親密な交際を重ね、幾度となくステージを共にするなど、フォーク・ブームの推進力となった。70年代には、ロック的なサウンドも取り入れ、幅広い聴衆にアピール。いまも現役フォーク・シンガーとして活動中である。
 
Glenn Herbert Gould(1932/9/25-1982/10/4)
http://listen.jp/store/artist_16379.htm
とてつもない天才ピアニスト。「とてつもない」とは?その演奏を聴けば、その意味は誰にも一目瞭然。リズム/テンポ/アクセントどれもが強烈で躍動感に満ち、痛快とさえ感じられる。「ジャズ風」などと評されることもあるが、もっとも彼にはそういった意識はない。奇抜な新しい演奏を目指したのではなく、作品や作曲家を愛するがゆえの解釈なのである。それは、彼の全生命や限りない愛情が、一つ一つの音に込められているのを聴けば、納得がいくだろう。1932年トロントに生まれ。14歳でトロント交響楽団と共演し、デビュー。55年に、当時誰も取り上げることのなかったバッハの「ゴルトベルク変奏曲」を弾いてアメリカ・デビューを果たし、57年にはカラヤン/ベルリン・フィルとの共演でヨーロッパ・デビューを飾る。しかし、64年からは一切のコンサート活動を停止、レコーディングに専念することとなった。レパートリーは幅広いが、バッハ演奏はとりわけ高い評価をされており、バッハといえばグールドを思い浮かべる人も多い。また作曲家としても、いくつか作品を残している。夏でも冬並みの支度をして外出したりビタミン剤を常用したりと、健康には異常なほど気を配っていたが、82年、50歳で急逝した。演奏をしながら歌い、体を揺すり(しかも曲に合っているとは限らない)、椅子の高さを極端に下げ、背を丸め、今にも壊れそうな愛用のピアノからは驚くほどデリケートな音色。この独特の世界に魅せられる人は後を絶たない。
 
Yo-Yo Ma(馬 友友、1955/10/7-)
http://listen.jp/store/artist_73781.htm
TV-CMへの出演で、クラシック・ファン以外にもすっかり人気となった、現代を代表するチェリストの一人。傑出した技巧、色むらのない豊かな音色で、叙情に溢れる感傷性、洗練された美しさ、深い表情を、自在に歌い上げている。レパートリーも広く、バロックから現代にまで及ぶが、近年はプロコフィエフやショスタコーヴィチといった近現代のロシア作品に重きを置いているようだ。そしてソロと並行して室内楽にも力を注いでおり、スターン、アックスなどと共演、高評を得ている。その他、クラシックの枠にとらわれず、ジャズ・ミュージシャンや、舞踊家などとも共演、またタンゴ演奏はCFでもおなじみとなり、CDは爆発的な売り上げを記録した。ヴァイオリニストの父とメゾ・ソプラノ歌手の母のもと、1955年パリに生まれる。6歳でパリ大学芸術考古学研究所にてリサイタルを行いデビュー。62年に家族で渡米し、ジュリアード音楽院でヤーノシュ・シュルツ、レナード・ローズに学んだ。63年バーンスタイン指揮のテレビ番組に出演した後、アメリカ各地でコンサート活動を始め、アメリカの主要音楽祭にも参加。77年からはヨーロッパにも活動の場を広げ、ベルリン・フィル、ウィーン・フィルなど一流オーケストラとも共演を果たしている。

 

(続く)

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アップル スティーブ・ジョブズ II 

2014-04-12 | Weblog

:ジョブズの遺言ともいえる、2005年6月のスタンフォード大学卒業式でのスピーチ。

 将来をたくす20代の若者たちを前に、彼は人生の節目となった3つのストリーを教訓として話(告白)している。

:彼は、1972年、リベラルな州として知られるオレゴンにある全校生徒1500人ほどの文化系単科大学(Reed College)に入学する。

この入学は、実母と養親との間で約束されていた。ジョブズを大学に入学させることが養子縁組の条件だった。これを破れば告訴される法的に拘束力がある契約だった。そのため、養親はつましい暮らしの中で息子のために学費を貯めていた。

ジョブズはこの事実の上で一端入学するが、なんとなく目的もなく在籍することに居心地が悪くなる。そして養親が一生懸命に蓄えてくれたお金を浪費しているという罪悪感が強くなり一学期で退学する。

退学後寮をでて、友人宅に転がり込んで寝起きし、空き瓶を集めては業者に5セントで売るホームレス生活。ここでの自分も、実親に棄てられたという怒りと存在する価値があるのかという自問自答する日々だった。

そして将来がみえず悶々とした不安がさらに増幅させていく。ジョブズが友人を誘って、インドに放浪の旅にでるのもこの頃だ。7ヶ月ほど自分探しの旅に出て帰国すると、サンフランシスコにある曹洞宗禅センターで知野(乙川)弘文老師に出会い、禅道の教えを諭される。以来、2002年に老師が遷化されるまで互いの親交は続いていた。

:1983年、ジョブズはマーケティング戦略に長けていたジョン・スカリーをペプシコーラからアップルの社長にヘッドハントとするが、1984年にはマッキントッシュのデビューに立会うなど順調に経営が進行するも、次第に対立し始め、退任を要求され取締役会も承認する。

1985年、アップルを辞めたジョブズはNeXTを創業する。しかしもっと重要なことは、彼の心にあらわれた変化だった。

彼は私生児で生まれた運命に困惑し、養子にだされた仕打ちに対して常に「怒り」を抱えて生きた人生だった。そして頑なに実父母や実妹とあうことを拒否してきた。

ところが、ジョブズは1986年初めて実妹にあう決心をする。そして妹を介して実母とも対面する。すでに30年の歳月が経っていた

アップルを追放された挫折感が皮肉にも、ジョブズの怒り(心の傷)を癒すことになった。人の心の痛みが分かるようになったのだ。それまでの彼は自己中心的で、粗雑で傲慢な経営者だった。

彼の心境の変化は仕事ばかりでなく私生活にもあらわれていた。1991年に歳下のローレン・パウエル(Laurene Powell)と結婚し家庭をもうけている。また過去に、自分と同じ私生児の運命を背負わせ、認知を拒否し続けていた未婚の女性との娘(Lisa)を実子として認知し家族にむかえている。

1996年、ジョブズはアップルに復帰する。以前のような経営者ではなかった。生まれ変わったように革新的な商品をヒットさせ、世界のIT産業をけん引し、多くの消費者のライフスタイルを変えた。そればかりか、インターネットを使った情報流通にも変革をもたらし、産業界の構造や商習慣にも多大な影響を与え続けてくれた。

:最後は自身の病だ。10月21日付朝日新聞によると、ジョブズは2004年膵臓癌と診断されたが、家族の説得にも摘出手術を拒否し、ハリや漢方の療法を9ヶ月間試みたという。ジョブズはこの9ヶ月間の遅れなければ一命を取り留める可能性があったと、深く悔やんでいたという。 

自分に厳しいジョブズだったが、決断を誤った。彼は自力本願の思想が反映された禅文化に馴染んでいたために、ハリや漢方の東洋治療にかけたのかもしれない。大変に悔やまれることである。

: アップルは2011年8月10日、ニューヨーク株式市場の終値で、初めて時価総額世界一になった、米エクソンモービルの3310億ドルを上回った。宿敵、IBMやマイクロソフトはすでに前年に抜いている。

1976年、ジョブズが4歳年上の親友スティーブ・ウォズニアックウォズと一緒に自宅の車庫ガレージで製作したAppleI(マニア向けのパソコンキット)の誕生から35年,また1980年に自社株式を市場公開(IPO)してから20年で世界のトップにまで登りつめた

:1891年、セントラルパシフィック鉄道を設立し、カリフォルニア州知事を務めたリーランド・スタンフォード夫婦は、夭折した息子の記念に、カリフォルニアのパルアルトに所有していた広大な牧草地に大学を開学した。それがスタンフォード大学の前身である。

その後、大学は広大なキャンパスを有効活用し、敷地内に工業団地を建設した。この団地を礎にIT企業が集積しシリコンバレーを形成していく。

そしてまた、スタンフォード大卒フレデリック・ターマン教授が中心となり、産学協同を目的に積極的な企業誘致をはかる。まず、教え子だったデビット・パッカードとビル・ヒューレットを東部から呼び戻し、1939年にヒューレット・パッカード社を起業させ、ゼネラル・エレクトリック、イーストマン・コダックなどの企業が次々と進出してくる呼び水にした。

また東部のベル研究所にいたウィリアム・ショックレーは、トランジスタの発明によりノーベル物理学賞を受賞することになるが、独立し育ったカリフォルニアに戻ると半導体研究所をもうけている。

そして同研究所にいた若手所員らは更に独立しフェアチャイルドセミコンダクター社を設立している。そしてさらに独立し、ロバート・ノイス、ゴードン・ムーアがインテル(INTEL)を1968年に設立し、その一年後には、ウォルター・サンダースがアドバンスト・マイクロ・デバイセズ(AMD)を設立した。

このように、IT企業間のソーシャルネットワーク網が広がるにつれ、従業員を家族のように遇し、チームワークを重視した経営スタイルが徐々に各企業にも受け継がれていきシリコンバレーの企業カルチャーになっていった。

:ジョブズが生きた1970-80年代は、北東部ボストンを半円形に囲む環状道路ルート128、別名ヤンキー・ハィウエイが米国のIT産業を代表する地域だった。とくに、デック(DEC)、ウォング(WANG)、データー・ジェネラル(DATA GENERAL)といった大手のミニ・コンピュータ・メーカーが集まっていた。

オレンジ果樹林が広がるカリフォルニア州シリコンバレーなどは知られていなかった。西海岸での大学卒業生すら、東部での就職を求め移動した。

ところが、1990年代、アップルを含むパーソナル・コンピュータの時代が到来すると、ルート128にある大手メーカーはシフトに乗り遅れてしまい、シリコンバレーに主導権を奪われてしまう。

:米国のノーベル文学賞作家ジョン・スタインベックの小説「The Grapes of Wrath」(怒りの葡萄)では、カリフォルニアは新天地であり、また“乳と蜜の流れる約束の地”でもある。

この日本より広いカリフォルニア州には、全米最多の約3700万人が住んでいる。州内総生産額(GDP)は2010年度約1兆9000億ドルで、米国全体の7分の1、国別に比較すると、ほぼイタリアに匹敵する規模だ。いわばカリフォルニア独立国家だ。

現在のカリフォルニア州知事は民主党ジェリー・ブラウンだ。共和党の前知事シュワルツェネッガーを破って第34代知事に就任した。1970年から83年まで2期務めており、知事に返り咲いたことになる。

ブラウンは48歳のときに来日し、半年ほど鎌倉に滞在し禅の教えを学んでいる。今もサンフランシスコにある曹洞宗禅センターで坐禅修業しており、ジョブズとも知り合いだった。

ネット版ウォールストリートジャーナル紙によると、ブラウン知事はアップルが10月16日に、スタンフォード大学のキャンパス内で、ジョブズ氏の告別式を行うのにあわせて、16日を「スティーブ・ジョブスの日」とする事を発表した。

ジョブズはまさに、カリフォルニアの自由な風土が生んだ人物だ。日本ではこうした人物の誕生は絶対に期待できない。

(2011/11/2 続く)

2005年スタンフォード大学卒業式でのジョブズ氏のスピーチ

 

 
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アップル スティーブ・ジョブズ I 

2014-04-12 | Weblog

:昨年、フランスで発刊された数十ページの冊子、「怒れ!」(Indignez-Vous!、Time for Outrage)が190万部のベストセラーになり、今年世界30カ国で翻訳され、さらに売り上げを伸ばしているという。著者は第2次大戦中、ヒットラーに占領された仏で対独レジスタンス運動に参加し、捕虜、拷問、強制労働、死刑判決、脱走、あらゆる経験した闘士ステファン・エッセルStephane Hessel。戦後は外交官として世界人権宣言起草に参加した多彩な経歴をもつ94歳のユダヤ人だ。

 

沈黙する大衆にむかって、「怒れ!」と呼びかけている。彼が呼びかける怒りは、反社会的な暴力による怒りではなく、変化への一歩となる怒りだ。だから怒りの声をあげて、積極的に社会との関わりあいをもちなさいと説いている。

 

この9月、カナダの非営利雑誌アドバスターズの創設者カレ・ラースンKalle Lasnらが、インターネットのブログで呼びかけ始まったニューヨークウォール金融街の抗議占拠。エッセルに共鳴し、格差という「社会の矛盾」に対して怒りの声をあげた若者たちだった。

 

日増しに抗議行動の要求を多様化させながら、怒りの声は、全米自動車労組や教職員組合のほか、支持を表明した全米最大1200万人の労働総同盟・産別組合を巻き込んで、全米各地に広がりをみせている。

 

エッセルは日本人が原発事故の対応で東電や政府への不満の声がでていないことを疑問視しながらも、正面から怒りを表明せよ、と訴えている。

 

:米アップル社創業者スティーブ・ジョブズは10月5日に黄泉の世界に旅立った。伝記本「スティーブ・ジョブズ」は24日に世界で同時発売され、この3日間で75万部を売り上げたという。

 

この発売に先立ち、著者ウォルター・アイザックソン
Walter Isaacsonは米CBSテレビとのインタビューの中で、ジョブズの経営スタイルは素晴らしいものではなかったと指摘し、時々とても意地悪だったと評している。

 

ジョブズは生前、マイクロソフト共同創業者ビル・ゲィツWilliam “Bill” Gatesとよく比較されたが、米国人の間では慈善活動に尽力するゲィツよりも人望があった。彼の生い立ちに惹かれるようだ。

 

この同世代の両雄はまったく生い立ちが異なる。ゲィツは裕福な家庭で育ったが、ジョブズのほうは、常に自分の生い立ちに「怒り」を抱いていた。

 

:ジョブズは1955年にカリフォルニアのロスアルトス市で生まれた。だが彼の出生は、決して祝福されたものではなかった。この世に婚外子として誕生し、血縁関係のないポールとクララ・ジョブズ夫婦Jobs,Paul/1922–93 & Clara/1924–86にもらわれていく運命だった。

 

彼の実母ジョアン・シンプソンJoanne Simpsonは当時、ウィスコンシン大学の院生だった。シリア系アラブ人留学生アブドゥルファター・ジャンダーリAbdulfattah Jandaliと恋におちるが、ドイツ系スイス移民の父親は娘がイスラム教信者と結婚することを許さなかったためだ。

 

しかし養子に出して10ヶ月後、反対した父親が亡くなり、すぐに結婚している。そしてジョブズとは2歳下の妹モナMonaにあたる娘も生まれたが、その5年後には離婚した。

 

もしもジョブズが私生児(婚外子)としての運命を背負っていなければ、父は政治学教授(現在、ネバタ州リオにあるカジノホテルの副社長)、そして母は言語療法士という、ともに大学院卒の肩書きをもつた高学歴の両親のもとで、ゲィツのように裕福に育っていただろう。

 

ところが、神はジョブズに試練を与えた。彼は私生児で生まれた運命に困惑し、養子にだされた仕打ちに対して、「怒り」を抱えていた。この怒りこそ、後々、彼をアップルの創設に向かわせ、数々のヒット商品をクリエイトするための原動力になっていく。

 

だが、幼少・青年期の怒りはまだ社会との接点をもっておらず、純粋に自分の産みの親に拒絶されたという病んだ心の傷から生じていた。

 

:ジョブズは、十代の頃から私生児の生い立ちが劣等感となり、自分の性格を内向きに追い込んでいく。そして人と折り合っていくことが難しくなり、高校を一度、転校している。

 

当時通学していたカリフォルニアのマウンテンビュー市にあるホームステッド高校の教師マッカラムJohn McCollumは、「どこか孤立して(" something of a loner")」、そして「常に人と違ったものの見方をしていた(" always had a different way of looking at thing")」と振り返っている。

 

:一般的に、こういう生徒は怒りの矛先をどこに向けるかで紙一重だ。自分の運命をうらみ荒んでしまうか、それとも100%運命を受け入れバネにするか、のいずれかだ。

 

ジョブズにとって唯一の救いだったのはよい家庭にもらわれたことだ。養親はつましい共働きの労働者階級だったが、息子をとても大切にした。特に夫は、高校中退で学才がなかったが、レーザー製作工場の機械工としてまじめに働いており、息子に初歩的な電気工作や物づくりの楽しみを教えている。また一人っ子の寂しさを心配したためか、息子の妹に一人女の子パティPattiを養女にむかえている。

 

:2005年6月のスタンフォード大学でのスピーチのなかで、ジョブズは大学を中退した後、友達の家に転がり込んで寝起きしながら、コカ・コーラの空き瓶を集めては業者に5セントで買い取ってもらう日々だったこと、また毎週日曜日には温かい食べ物にありつくために7マイル先にあるクリシュナ寺院(貧困者に無料で食事を提供する宗教教団)まで徒歩で通ったことを告白している。

 

(2011/10/30 続く)

 

参考:

>知野(乙川)弘文老師

http://www.sotozen-net.or.jp/syumucyo/j20111018-2.html

http://www.kobun-sama.org/english/bilder.htm

 

 

 

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安倍の姑息な解釈 憲法裁判にかけて精神鑑定を(内外世論の声 "なぜ今。。この男が")

2014-04-09 | Weblog

憲法解釈変更に懸念=最高裁は介入を-米紙社説

米紙ニューヨーク・タイムズは、電子版の社説で、安倍晋三首相が集団的自衛権の行使を可能にする憲法解釈変更に「危険なほど近づいている」と懸念を示した。 

社説は安倍首相について「他のナショナリスト同様、憲法の条項に記された平和主義を拒否している」と指摘。

首相が憲法の改正に動くことは可能であっても、解釈の変更は法の支配に背くものだとの考えを示した。 

社説はその上で、安倍氏が「国民への自らの見解の押し付け」に固執するのなら、「憲法の平和条項について長らく見解表明を控えてきた最高裁が彼の解釈を拒否し、いかなる指導者も個人の意思で憲法を書き換えることはできないと明確にすべきだ」と主張した。

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<集団的自衛権>容認、許さぬ!…東京で集会とデモ
mainichi 4/8

閣議決定で憲法解釈を見直し、集団的自衛権の行使を認めようという政府の動きに反対する市民の大規模な集会が8日夜、東京都千代田区の日比谷野外音楽堂であり、参加者約5000人(主催者発表)が集会後、国会周辺をデモ行進した。

「解釈で憲法9条を壊すな!4・8大集会&デモ」と名付けられた集会で、スピーチに立った作家の大江健三郎さんは「犠牲によって出来上がり、67年間守り抜いてきた精神を、民主主義的ではない方法でぶっ壊そうとしている」と安倍政権を批判。

「次の時代の平和と民主主義を守るために私たちができるのは、デモやこうした集会だ。しっかりやりましょう」と呼びかけた。



日本式エイプリルフールの楽しみ方 (一方の小保方晴子研究員の場合 最後はドタキャンか)更新5/8

2014-04-05 | Weblog

 更新 2014年5月8日

小保方氏の実験ノート、8カ月で4ページ 画像切り貼り、「Science」からも指摘 理研「再調査なし」の理由

 「STAP細胞」論文をめぐる研究不正問題で、小保方晴子研究ユニットリーダーによる不服申し立てを審査していた理化学研究所の調査委員会は5月7日、「再調査は不要」と結論付け、理研に報告書を提出した。これを受けて理研は8日、再調査を行わないと決定。同日午後、調査委員会と理研がそれぞれ記者会見し、判断の根拠などを説明した。

 「悪意はあったことは明らか」「偶々(たまたま)の失念と評価できるものではないことは言うまでもない」――調査委員会の報告書には、「明らか」「言うまでもない」など強い言葉がたびたび現れ、小保方氏の説明や、不服申し立ての矛盾点などを指摘している。

 調査委が「改ざん」と判定した、「Nature」の「論文1」の電気泳動画像は、以前に科学誌「Science」にも投稿されており、Scienceから修正依頼を受けていたこと、小保方氏の実験ノートが8カ月で4ページしかなく、「ねつ造」と認定した画像の差し替え用画像のルーツを正確にたどれなかったことなど、新たな事実も明らかになった。

 理研は小保方氏に対して、論文1の取り下げを勧告。小保方氏などの処分は今後、懲戒委員会が議論して決める。

●「悪意」は「故意」

 理研の研究不正に関する規定では、「改ざん」「ねつ造」「盗用」を不正と定義。「悪意のない間違い」は不正に含まないとしている。審査結果の報告書では、「改ざん」「ねつ造」「悪意」の定義を示した上で、不服申し立て書の内容について1つ1つ反論している。

 小保方氏側は、不正と認定された点について「悪意のない間違い」と主張。悪意の定義を改めて理研に問うていた。報告書では、「悪意は、法律用語としての『知っていること』の意であり、故意と同義」と定義し、小保方氏の悪意を改めて認定している。

●電気泳動画像の切り貼り、Science誌が過去に指摘

 論文1の「Figure1i」の電気泳動画像で、泳動距離が異なる別のゲルからレーンを切り貼り・編集して挿入していたことについて、小保方氏側は、「良好な結果を示す良好なデータが存在しており、架空のデータを作出する『改ざん』には当たらない」と主張していた。

 報告書では「加工でFigure1iが真正でなくなった場合、改ざんの範疇にあることは言うまでもない」と反論。小保方氏は、標準DNAサイズマーカーを基準にレーンを切り貼りしたと主張していたが、調査委は「どう縮尺を変えても2つのゲルの標準DNAサイズマーカーすべてを一致させることはできない」と指摘。目視によって見かけ上、レーンを合わせることは可能だが、科学的根拠はなく、「データの真正さを欠くという結論は変わらない」とする。

 この画像について、新たな事実も判明した。小保方氏は、論文1と同じ趣旨の論文を2012年4月にNatureに投稿し、掲載を拒否された後の同年7月、類似の論文をScienceに投稿。同誌の査読者から「異なるゲルから取った画像は、レーンの両脇に白線を入れなさい」と指摘されていたという。

 Scienceに投稿した論文は、小保方氏が調査委への提出を拒否しており、指摘のあった画像がFigure1iと同じ画像かは不明だ。小保方氏は「Science論文は、Natureの論文1と論旨が異なる」「コメントを精査しておらず、具体的内容の認識はない」と主張しているという。

 だが調査委は、「Science論文は論文1とほぼ同旨」と反論。小保方氏がScience論文の改訂論文と思われる論文を用意していたことも判明しており、「査読者のコメントに全く目を通していなかったなどの説明に合理性を認めることはできない」と指摘する。

●画像はPowerPointで上書き……ずさんな管理 「ねつ造」判定の背景

 調査委は、論文1に掲載されていたテラトーマ画像が、学位論文の画像に酷似していたことを、「ねつ造」と判断している。小保方氏側は、ミスで画像を取り違えたと説明。真正な画像(画像B)が存在することや、ミスに自ら気づいたことなどをあげ、「単なる画像の掲載違いであり、ねつ造ではない」と主張している。

 調査委は、「ねつ造は、画像が論文に記載されている実験条件下で作成されたか否かで判断される」と反論。論文1の実験条件(酸処理で作成した脾臓由来のSTAP細胞)と、学位論文のそれ(細いピペットを通過させて作った骨髄由来のSTAP細胞)は大きく異なっており、「ねつ造の範疇にあることは明らか」とする。

 「テラトーマの写真がどこを見ても見つからなかった」「いつ間違えたかも分からない」など小保方氏の発言を引用し、データ管理の手法も強く批判。複数の画像をまとめて掲載したPowerPointを上書きしながらFigureを作り続けていたこと、各画像に由来を示す説明がついていなかったことも挙げ、「まとめて編集したデータをそのまま使用する危険性を全く無視したものであると言わざるを得ない」と指摘する。

 また、「論文1の投稿時期は多忙で、差し替えを忘れた」とする小保方氏側の主張に対しては、投稿から採択まで9カ月あまりあったこと、同旨の論文を12年にNature、Cell、Scienceに投稿していたことなどをあげ、「差し替えを行う機会は十分にあり、投稿時の特殊な事情は考慮する範疇にない」とする。

 学位論文の画像は、小保方氏本人が「チャンピオンデータ(頻度は低いながらも非常にうまくいった実験データ)」と称しており、小保方氏の記憶にも強く残るデータと思われることからも、「異なる実験のデータである可能性を認識しながら使用したものと判断せざるを得ない」と指摘している。

●実験ノート、8カ月でわずか4ページ

 画像の取り違えは小保方氏自らが気づいたとしており、12年1月に取り出し、6月に染色・撮影したという真正のテラトーマ画像「画像B」が存在すると主張している。だが、その根拠となる実験ノートの記述が、きわめてあいまいだったという。

 画像Bについての記述があるという75ページには日付がなく、73ページに「6/28」、76ページに「2/29」または「2/19」(いずれか判読不能)、81ページに「10月」と記載があるのみ(いずれも年の記載なし)。75ページには、日付の記載がなかっただけでなく、このテラトーマがどんな細胞と方法で作製されたかも記載されていないという。

 通常はテラトーマを取り出してからすぐに免疫染色などの解析を行うが、小保方氏は1月に取り出してから半年後の6月に免疫染色解析を行ったと説明しており、調査委は「違和感を感じざるを得ない」と指摘。さらに、画像Bを撮影した後に提出したCellやScienceの論文に画像Bを使用しなかったことは、「なおさら理解しがたい」としている。

●実験ノートの追加提出や診断書の提出なし

 小保方氏は一連の不正について、「説明の機会が不十分だった」とも主張しているが、調査委は、小保方氏の会見後、追加の実験ノートの提出を求めたり、数日後にヒアリングを行う準備があることを伝えるなど、十分な説明の機会を与えたという。

 だが、小保方氏側は実験ノートや追加の資料を提出せず、ヒアリングには「体調からして1週間程度の猶予が必要。必要なら医師の診断書を提出する」などと応じなかった。診断書の提出もなかったという。

●小保方氏は退職か解雇? 処分は懲戒委員会が決定

 今後は、懲戒委員会を組織し、同委員会が小保方氏などの処分を決める。理研の規定では、論文不正があった場合、「諭旨退職及び懲戒解雇」となっており、「情状により懲戒(減給、降格など)にとどめることがある」とされている。

 小保方氏や論文著者の処分の見通しについては「懲戒委員会の判断」(理研のコンプライアンス担当理事・米倉実氏)とし、触れなかった。懲戒委員会の判断が出るまでには、一般的には1カ月程度かかるという。

 理研はSTAP細胞の国際特許を申請しており、特許の取り下げは行わないという。特許についての今後の対応は、「検証実験の結果を踏まえて判断したい」(理研の研究担当理事・川合眞紀氏)としている。

●調査委員への疑義は

 調査委員のうち3人の論文にも、電気泳動画像の切り貼りに関する疑義が出ており、所属先が調査するなど対応に追われている。

 東京医科歯科大の田賀哲也教授は、疑義のあった2004~05年の論文について、「論文の記述に合うよう画像の順番を入れ替えた。そのままだと真正でない画像を、真正なものにした」などと説明。同大は両論文について、「不正はなかった」とする予備調査を結果を発表している。理研所属の2人はコメントを避けた。

 理研の川合氏は、「2000年代にソフトが発達し、データの加工が非常に簡単にできるようになったことに伴い、加工されたものを正しく判定することが重要になった」と指摘。「加工がいけないのではなく、科学の真正性、事実を曲げることが問題」と述べた。ITmedia ニュース

参考:理研サイト 

不服申立てに関する審査の結果の報告(全文pdf)


更新 2014年4月11日

小保方会見「8つの疑問」――米国の科学者が知りたかったこと

理化学研究所発生・再生科学総合研究センター(理研CDB)の小保方晴子・研究ユニットリーダーの会見が、4月9日に行われました。この「STAP細胞」論文の整合性には、日本国内だけではなく、世界中の科学のコミュニティーや米国民が、大きな関心を抱いています。 この会見については、騒動の発端となった論文を掲載した雑誌『Nature』も取り上げました。

【Acid-bath stem cell scientist apologizes and appeals,Nature,Apr.09】

 同誌は、小保方氏が、以下2つの理由のために記者会見を開いたと示しています。1つ目は「間違いに対する謝罪」、2つ目は「STAP細胞があることの証明」ということです。さらにもう1つ、小保方氏は「不正確さは、悪意があったわけではない」ことも主張しています。 この会見に対して、米国の多くの研究者は、「この会見は、感情的ではあるが、全く科学的ではなく、私たちが抱く疑問に何の答えもないので、かえって悪い印象を与える」と感じています。以下が、彼らの知りたかった疑問です。

(1)もし正しい画像を持っているなら、いつ私たちは見ることができるのか。

(2)『Nature』に投稿する前に、誰が最終的に承認をしたのか。

(3) 200回以上も実験に成功しているなら、その結果はいつ見ることができるのか。

(4)経験のある共著者が、論文の撤回を主張しているが、なぜ小保方氏は、彼らの主張を聞かないのか。あるいは、なぜ小保方氏は、彼らに事実を証明しないのか。

(5)博士論文のコピーペーストは事実か。

(6) どうしてハーバード大学は、小保方氏の結果をサポートしないのか。

(7) STAP細胞があるのなら、いつあなたは証明するのか。

(8)ほとんどの実験は、その過程が結果に大きく影響する。なぜ、あなたの場合、結果がそれまでのデータに影響されないのか。

結局、小保方氏の会見では、この8つの疑問のいずれにも明確な回答がありませんでした。米国の科学者たちは激しく失望しています。

MITの研究者も再現できず

また、今回の会見で、小保方氏は論文を撤回しないと主張していますが、私の知る限り、米国の幹細胞の研究者らは、不正の見つかったこの論文は撤回せざるを得ないと述べています。4月2日付の米紙『ボストン・グローブ』にはその議論が掲載されています。

 【Fraud alleged in findings on stem cells,The Boston Globe,Apr.02】

この記事の中で、世界トップクラスの研究所である『MITホワイトヘッド研究所』の幹細胞の科学者ルドルフ•イェーニッシュ教授は、「とても残念だ。科学の世界にとって悪い意味をもたらします」と述べ、さらに、「この論文は発表された直後は、とても興奮しました。

ところが発表後すぐに、科学者の間でこの論文に疑いが浮上しました。最初は、STAP細胞作製方法の簡単さと、この研究に関与した経験のある日本の研究者への敬意から、この論文に興味を抱いたのだが」と述べています。そこで、イェーニッシュ教授の研究室の研究者らは、すぐに同じ方法で幹細胞を作製しようとしましたが、彼らは幹細胞を得ることができませんでした。

さらに最近、この論文に問題が生じた後、論文の主要共著者の1人で、論文の撤回に終始反対しているハーバード大学のバカンティ教授らがインターネットに掲載した方法も試してみましたが、やはり幹細胞は得られませんでした。

小保方氏の2時間半に及ぶ会見は終了しましたが、残念ながら、この会見では科学的なエビデンスはまったく得られず、科学のコミュニティーや米国民の疑問点は何も解決しませんでした。むしろ、この研究結果の信頼を得ることは、さらに厳しい状況になったと思います。

 (文)大西睦子:内科医師、米国ボストン在住、医学博士。1970年、愛知県生まれ。東京女子医科大学卒業後、同血液内科入局。国立がんセンター、東京大学医学部附属病院血液・腫瘍内科にて造血幹細胞移植の臨床研究に従事。2007年4月からボストンのダナ・ファーバー癌研究所に留学し、2008年4月からハーバード大学にて食事や遺伝子と病気に関する基礎研究に従事

参考:

日本式エイプリルフールの楽しみ方 (理化学研究所の場合)

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矢面に立つ小保方氏、「入院してもいいですか?」会見キャンセルも

2014/4/5

STAP細胞の論文捏造(ねつぞう)疑惑に揺れる理化学研究所(理研)の小保方晴子研究ユニットリーダー(30)の代理人は4日、小保方氏から「入院してもいいですか?」との内容のメールを受け取ったことを明かした。一連の問題の影響から体調が悪化しているといい、現在検討されている記者会見への出席もキャンセルとなる可能性が浮上した。

大阪市内で取材に応じた代理人のひとり三木秀夫弁護士によると、メールは3日夜、今後のスケジュールについてやり取りをしている最中に届いたという。実際に入院はしていないが、「精神状態がさらに悪くなっている。代理人として非常に不安」と説明した。

小保方氏は現在、理研の調査委員会から画像の捏造・改ざんにあたると指摘された報告書への不服申し立てについて、代理人と準備を進めている最中。当初は自ら会見に出席し、説明する意向だったが、今では会見に対して消極的になっているという。

米紙ウォール・ストリート・ジャーナルが報じるなど、海外を含め、一連の問題への関心が高まっていることも理由のひとつ。1日に都内で行われた調査委の最終報告会見には約300人の報道関係者が集まった。小保方氏は3日に電話で「あんな雰囲気のところに、私は到底出て行けない!」と訴えたといい、三木弁護士は「悲鳴のような、泣きそうな感じでした」と振り返った。

代理人は早ければ8日に不服申し立ての文書を提出する予定。同日に会見を開く案も出ているが、小保方氏が欠席になると「弁護士だけでは説明できない」(三木弁護士)として、見送られる可能性もある。

 

 


日本式エイプリルフールの楽しみ方 (理化学研究所の場合)

2014-04-01 | Weblog

 

本日4月1日は嘘をついてもよいとされる4月馬鹿(エイプリルフール、April fools' day)の日だ。この日騙された方が馬鹿なのか、騙した方が馬鹿なのか知らないが、嘘をつくのは4月1日の正午までに限るとされているため、理研の調査委員会は、慎重に午前10時半という時間をはかって会見を開いた。会見ではSTAP細胞の存在の真偽については明らかにされなかった。管理人

 

STAP細胞 理研「小保方さんが捏造と判断」

毎日 4/1/10:34

新たな万能細胞「STAP(スタップ)細胞」の作製成功を発表した英科学誌ネイチャーの論文に多数の疑問点が指摘されている問題で、理化学研究所の調査委員会(委員長、石井俊輔・理研上席研究員)は1日午前、東京都内で会見を開き、研究を主導した小保方晴子・研究ユニットリーダーについて「捏造(ねつぞう)にあたる研究不正行為を行ったと判断した」と発表した。

調査委は「小保方氏は科学的に許容しがたいプロセスによる2枚の異なるデータの切り張りや、条件が異なる実験データの使用など、到底容認できない行為を重ねて行っている」とし「研究者としての未熟さだけに帰することのできるものではない」とした。

関連記事


参考3/17:

「STAP細胞」騒動「ハーバード大学」研究者たちはこう見る

理化学研究所発生・再生科学総合研究センター(理研CDB)の小保方晴子・研究ユニットリーダーらによる「STAP細胞」の報告が、2014年1月29日、英国の超一流科学誌『Nature』に発表されました。この大発見は世界中の注目を浴び、米国のメジャーなメディアも、発表直後一斉に、STAP細胞に関する報道を開始しました。ところがその後状況が一転し、今は捏造疑惑で注目を浴びています。この一連の騒動を、米国 ボストンの仲間の反応やコメントなどを中心に考えたいと思います。

距離を置き始めたハーバード大教授

 ここボストンには、世界中から野心にあふれた研究者が集まっています。もちろん「STAP細胞」の発表直後、多くの研究者らは、この偉大な発見に大きな関心を抱きました。競争の激しい研究の世界で、『Nature』や『Cell』、『Science』誌に論文を発表することは、世界の研究者の目標、憧れです。なぜなら、これらの雑誌で研究を発表することは、その後の 研究費やポジションの獲得につながるからです。ですから、研究者らは、新しい情報を常に収集し、自分の研究に有利なアイデアがあれば、すぐに活用したいのです。同時に勉強会を開き、この斬新な研究報告の結果の再現性や信頼性などの詳細を議論する研究室もありました。

 ところが、その3週間後の2月19日、地元紙の『ボストングローブ』が、この論文に関する、画像の使い回しなどの疑惑を報道しました。

Researchers scrutinize findings on stem cells,The Boston Globe,Feb.19

 ただし、この頃はボストングローブ紙以外のニュースは、この問題を それほど取り上げていませんでしたので、日本人以外の仲間は、まだ単純ミスの連発くらいの認識でした。その辺は日本の報道とかなり温度差がありました。その記事で、「STAP論文」の共著者である ハーバード大学チャールズ・バカンティ教授は、「発見に自信がある」と弁明しました。周囲の仲間たちの間で は、再現性の結果を待つ、という意見が多かったのです。ただし誰もが、「小保方氏は、まず声明をすぐに出すべきだ」と指摘していました。米国の研究者たちは、 彼女が何も言わなければ 、この件は 彼女の罪なのだと判断するのです。

 さらに3月6日、バカンティ教授は、ボストングローブ紙に対して、「ほとんどの研究は時間がかかり、確信するまでに何度も繰り返さなければならない」と、今回の発表が時期尚早だったことを示唆 し、「実験の方法がこちらでやっているやり方と日本の著者のやり方が少し異なる」と、この問題から距離を置き始めました。このニュースに関して、私の周囲の仲間たちは、論文発表直後はその成果により賞賛を得た人々が、その直後に疑惑が発覚した途端、一斉に 小保方氏から離れて行く状況を感じ取りました。

 ハーバード 大学医学部の教授であるバカンティ氏は 、ハーバード大学医学部の関連医療機関であるブリガム&ウィメンズ病院の麻酔科部長でもあります。そうした教授の これまでの数々の実績に鑑み、ハーバード大学側は、世論などを踏まえつつ、教授自身の問題ともなっている今回の件には、 しばらく静観すると思います。

Scientists work to repeat stem cell finding,The Boston Globe,Mar.6

米研究者たちの「最大の疑問」

 そんな中、3月10日には、『Nature』自らも、この問題に関する経緯と編集部としての見解も含めた記事を掲載しました。

Call for acid-bath stem-cell paper to be retracted,Nature,Mar.10

 ここには、衝撃的な論文の公開後わずか40日弱で、論文を撤回すべきだとの訴えまで寄せられた深刻な経緯が 書かれています。論文発表の2週間後に 不自然な重複画像が指摘され、簡単な方法のはずの実験が、数多くの科学者が試しても再現性が確認できない点が批判されていました。

 さらに、より深刻な2つの問題 も出現しました。『Nature』の論文に使用されている画像が、まったく別の実験である小保方氏の 博士論文の複製であるということ。しかももう1つ、それらは全く別の実験だということが判明したのです。そして、論文の共著者である山梨大学生命環境学部の若山照彦教授 が、論文撤回の意思を初めてコメント しています。

 この『Nature』の記事を読んだ知り合いの研究者 は、若山照彦先生の、「私はこの論文へ の信頼 を失っている(I have lost faith in the paper)」というコメントに対して、「I have lost faith in our paper」とは書かれていない点に注目し 、「研究チームが小保方氏から離れていって、これからすべての責任は彼女に委ねられるね」と言いました。

 この記事が『Nature』に掲載されるや 、多くの米国のメディアは、報道を再開しました。私の仲間たちも、さすがに誰もがこれを小保方氏らの単純ミスとは受け止めず 、事態の深刻さを議論するようになりました。多くの研究者仲間が、例えば『ロサンゼルス•タイムズ』に指摘されているように、「日本のセレブとなった小保方氏がこの論議に反論して いない(周囲のコメントがあっても、本人が無言なのでそう解釈されます)」という“異常な状況”が理解できないと異口同音に言います 。

 さらに、博士論文の画像流用や他論文の文章盗用などの問題で、指導教官や周囲の研究者たちの 誰もが気づかなかったことに驚いています。実際、小保方氏の博士論文の約20ページが米国立衛生研究所 (NIH)のサイトとほぼ同じ、つまりコピーペーストしたというニュースが流れてきました。このニュースには、さすがに同僚の研究者たちも呆れてしまいました。ハーバード大の博士論文では、コピーペーストしてもすぐにボスに見つかります。彼らの一番の疑問は、「どうして博士論文の審査で見つからなかったのだろうか」という点です。

博士号を“乱発”してきた日本

 そもそも、米国と日本では、博士号の品質が大きく異なります。2011年4月20日付 の『Nature』誌に、日本を始め中国、シンガポール、米国、ドイツ、インド、など世界各国の博士号の問題点が論じられています。

The PhD factory,Nature,April.20.2011

 その中で、日本の博士号のシステムは危機に陥っていて、すべての国の中で、日本は間違いなく最悪の国のひとつだと書かれています。1990年代に、日本政府が、ポスドク(博士号を取得した後、常勤研究職になる前の研究者のポジション)の数を3倍の1万人に増やすという政策を設定しました。その目標を達成するために、博士課程の募集を強化したのです。なぜなら、日本の科学のレベルを一刻も早く 欧米と対等にしたかったからです。その政策で確かに 人数だけ は増えましたが、大学などのアカデミアでは、地位につける人数に制限がありますし、企業の就職には年齢の制限があるため、逆に、 ポスドクの最終的な職場がみつからないという状況に陥りました。さらに、博士号を取得する研究者 の質も低下しました。

 日本の場合、ほとんどの学生が、修士号取得後のわずか 3、4年で博士号を取得して卒業します。いわば、博士号の“安売り”とも言える状況です。

 しかし 米国では、政府の報告によると、大学学士を得てから博士号を取得できるまでにかかる 平均年数は10.1年で、博士号を取得できた時点 の平均年齢は33.3歳です。しかも、最終的に博士号を取得できるのは半分程度で、多くの学生がドロップアウトします。ただし、博士号を取得すると、キャリアアップにつながります。特に、サイエンスの博士号には価値があります。収入を考えると、例えばマサチューセッツ工科大学 (MIT)の学士、修士(サイエンス)、博士号をとった人のそれぞれの平均年収は、750万円、870万円、1100万円。その他の大学でも、博士号取得後の平均年収は760万円以上です。そしてもちろん 収入だけではなく、博士号取得は、人生の様々な選択肢やチャンスにつながるのです。

MIT Students after Graduation】 【Occupational Outlook Handbook

教育システム改革も急務

 それだけに、博士号を取るために米国で 大学院に入学した学生のモチベーションは、日本とは まったく違います。キャリアアップのために、なんとしても博士号を取得したいという熱意と情熱に溢れています 。そして大学側は、優秀な人材育成に投資し、博士号の授与にふさわしい人材にのみ学位を与えます。なぜなら、優秀な人材の将来の活躍で大学の知名度が上がり、さらに優秀な人材を獲得できるからです。逆に、学位の授与にふさわしくない人材には学位を与えません。当たり前のことですが、将来問題がおこったとき、大学の評判が落ちるからです。ですから、博士課程の学生は、繰り返し繰り返し厳密な審査を受け、 厳しい評価がなされます。こうした環境では、さすがにコピーペーストの博士論文などあり得ないのです。

 さらに、学生の側も、常に教員を評価します。教員の教育が不十分な場合、最悪、職を失う場合もあります。逆に優秀な教員には、大学等の高等教育における教職員の終身雇用資格であるテニュア(academic tenure)が与えられます。ですから、教える側も必死なのです。

 今回の一連の問題で私が最も強く言いたいのは、小保方氏本人は一刻も早く 状況説明をしなければならないという ことです。3月14日、理研が中間報告の記者会見を開いた際、小保方氏の短いコメントが示されましたが、そんな程度ですませられる状況ではないでしょう。そして、今後の再発防止のために、日本の教育システムの改革も早急に必要だと思います。

(文)大西睦子内科医師、米国ボストン在住、医学博士。1970年、愛知県生まれ。東京女子医科大学卒業後、同血液内科入局。国立がんセンター、東京大学医学部附属病院血液・腫瘍内科にて造血幹細胞移植の臨床研究に従事。2007年4月からボストンのダナ・ファーバー癌研究所に留学し、2008年4月からハーバード大学にて食事や遺伝子と病気に関する基礎研究に従事。