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アップル スティーブ・ジョブズIII

2014-04-12 | Weblog

 


ビデオ:「サッコ・ヴァンゼッティ事件(Sacco e Vanzetti)・死刑台のメロディ」の主題歌

:ジョブズが青春を過ごした60年代から70年代にかけてのミュージシャンたち。ネット版朝日新聞に「スティーブ・ジョブズが愛した音楽」と題した記事がでている。

この10月に出版された伝記「スティーブ・ジョブズ」のなかで紹介されているようだが、お決まり歌詞のポピュラーソングソングではなく、社会的弱者の立場から政治的抗議メッセージを込めたプロテストソングを歌いあげる知的なミュージシャンを好んだようだ。

一方がIT業界のジョブズなら、彼らもまた音楽業界で一時代を創り上げてきたプロ(芸術職人)たちだ。単にフォークソングの一部門にとどまらず、ロックなど他のジャンルにも多大な影響を及ぼしてきた。

ジョーン・バエズもその一人だ。かってジョブズの恋人だった彼女はメキシコ系の家庭で育ち、兵器開発に協力を拒否する物理学者の父親に影響され、公民権運動や反戦活動に積極的に参加するようになった。60年代フォーク・ブームの象徴的な存在だ。彼女の美しくも力強い歌声は聴衆に真実を問いかけ、世代を超えて共鳴の輪を広げていく。ジョブズの信条と相通じさせるものがある。

その彼女が歌う「勝利への讃歌(Here’s to you)」という曲、1971年に、実話をもとに伊&仏合作で映画化された「死刑台のメロディ」の主題歌だ。

1920年、強盗殺人容疑でイタリア移民の靴職人二人が検挙され、十分な証拠開示や公正な審理が行われずに電気椅子に送られる。当時、全米の移民たちばかりか著名人までも巻き込んで国際的な抗議運動へと発展した。

この実話はマサチューセッツ州サウス・ブレーンツリーにおける「サッコ・ヴァンゼッティ事件(Sacco e Vanzetti)」と呼ばれ、米国裁判史上、最大の冤罪事件といわれている。ジョーン・バエズは二人の生前の書置きをもとに作詩したという

 

:以下は朝日新聞「スティーブ・ジョブズが愛した音楽」からの引用である。
ザ・ビートルズ
ジョブズとアップルにとって、ビートルズは二重の意味で重要な存在だった。
一つは、「アップル」の商標をめぐっての裁判の被告として。もう一つは、ジョブズ自ら親しみ、音楽配信サービス「iTunes」への収録を長い間望んでいて果たせなかったミュージシャンとして、である。

ビートルズの著作権管理会社、アップル・コアは「アップル」の商標をめぐって1991年以降数回にわたってアップルを提訴、最終的に決着したのは、2007年のことだった。訴訟終結を受けて、ビートルズ楽曲のiTunesからの配信が始まったのは2010年11月17日のことである。
 

ボブ・ディラン
ジョブズにとってのヒーローであり、海賊版のテープを多数収集するなど、心酔していたのがボブ・ディラン。アップルの共同創設者、スティーブ・ウォズニアックに感化され、二人一緒に海賊版テープを探し回った。

ジョブズの証言によれば、集めたテープは100時間を超え、1965、66年に行われたコンサートの録音は、すべて所持していたのではないかという。
 

 

ジョーン・バエズ
ジョーン・バエズはアメリカの代表的なフォーク・シンガーの一人。1961年、62年の二度、ゴールドアルバム(100万枚)を獲得している。


バエズはボブ・ディランの恋人として、彼を世に出したことでも知られる。バエズはその後ジョブズと出会い、1960年代の初め頃、数年間にわたって交際した。

伝記には、バエズの前夫との間の子供、ガブリエルがタイピングを習おうとしていることを知って、発表前のマッキントッシュを見せるシーンがある。ガブリエルにはアップルIIを、バエズにはマッキントッシュを個人的にプレゼントしたという。
(試聴) http://listen.jp/store/trackList_15556.htm



グレン・グールド
伝記著者が第二巻の終盤、音楽について取材したときに、ジョブズがiPad2のプレイヤーで再生してみせた曲の一つ。


ジョブズはクラシックの中ではバッハを好み、中でもグレン・グールドの「ゴールドベルク変奏曲」の二つのバージョンを聞き比べるのが好きだった。グールドは「ゴールドベルク」を無名時代の1955年、死の直前の81年の二度録音しており、まるでロックのように激しくグルーブする前者と、静かに盛り上がる後者の聞き比べはクラシック・ファンにはおなじみ。

ジョブズは最後の病気療養に入ったころ、著者にこう述べたという。「グールド自身はあとのほうがずっといいと思っていた。僕は若いころの方がいいと思っていた。元気なほうだ。でもいまは、彼がどうしてそう思ったのかわかる気がするよ」
 (試聴)http://listen.jp/store/trackList_16379.htm


ヨーヨー・マ
ジョブズが人間としても音楽家としても尊敬していたのがチェロ奏者のヨーヨー・マ。二人の出会いは1981年、米コロラド州のアスペン。その後ジョブズの自宅を何度か訪れて演奏している。あるときジョブズは演奏の後、こんな賞賛の言葉を口にした。「あなたの演奏ほど、神の存在を示す論拠として優れたものを聴いたことがありません。


 人間ひとりでこれほどのことができるとは信じられないからです」。ヨーヨー・マはジョブズ自身の依頼で、2011年10月16日、スタンフォード大学内のメモリアル・チャーチで開かれた告別式でライブ演奏を行った。
(試聴) http://listen.jp/store/trackList_73781.htm


参考::音楽サイトからの引用
The Beatles(1960-1970)
http://listen.jp/store/artist_10184.htm
ビートルズ、彼らの存在そのものが地球を丸ごと飲み込んだ巨大な現象だった。ジョン・レノン(g&vo)、ポール・マッカートニー(b&vo)、ジョージ・ハリスン(g&vo)、リンゴ・スター(dr&vo)というリヴァプール出身の4人組は、50年代R&Rを基調としたスタンダードで馴染み深いロックを展開し、空前絶後の大ヒットを飛ばし続けた。また、5枚目のアルバム『ラバー・ソウル』から、特に音楽的に革新性が際立つようになった。66年にリリースされた『リボルバー』で発芽したインド音楽への接近や逆回転テープ録音などの実験精神は、67年の『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』で一気に開花。コンセプチュアルな視点から、クラシック、インド音楽、前衛音楽などさまざまな要素を取り入れたサイケデリックな音世界を展開した。それでも、彼らの音楽に対する探究心は飽くことなく、68年の2枚組アルバム『ザ・ビートルズ』(俗に言うホワイト・アルバム)では、自らのルーツを再確認するかのようにブルースやフォークを、さらにはスカやハード・ロックにまで手を伸ばし、底なしの創作意欲を発揮した。この頃になると、メンバーそれぞれの個人活動も増え、ジョンとポールの不仲などが取り沙汰されるようになり、69年に事実上のラスト・アルバム『アビイ・ロード』が発表された。およそ10年足らずの活動ではあったが、音楽界のみならず、あらゆる社会現象に大きな影響を与えた功績は、4人という希代の才能(そして5人目のビートルズといわれたプロデューサーのジョージ・マーティン)が地球規模のスパンの中で偶然的に合致した奇跡の産物といえるものである。そして、彼らの「歴史」は、単なる歴史としてそこにとどまることなく、後生のあらゆるバンドやアーティストによって何度も書き換えられ、常に「現在」として生きつづけている。
 
Bob Dylan(1941/5/24 - )
http://listen.jp/store/artist_10126.htm
フォーク/フォーク・ロック界のロンリー・ゴッド、ボブ・ディラン。ライト&メロウなAOR、カタルシス全開のハード・ロック、ダンサブル&スウィートなR&B……といった、いわゆる「使える音楽」から、数千マイル離れた極北に位置し、その孤高の存在感でもって全世界に(私財をなげうつほどの)熱狂的なファン/マニアを数多く有する。ぼくらは何度、彼の“コクのある歌”に救われたことか。ぼくらが彼を敬愛して止まないのは、ひとえに「自己の表現欲求に対する猛烈なまでの真摯さ」ゆえだろう。例えば、保守的なフォーク・ファンから猛烈な罵声を浴びつつも、勇敢にエレキ・ギターを手にして生み出した、65年発表の『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』『追憶のハイウェイ61』、ちなみに当時、ロック・バンドを率いた初のツアーにおいて、名曲「ライク・ア・ローリング・ストーン」はジミ・ヘンドリックス並みの爆音でカッコよく演奏されたという。そして、ザ・バンドとの魂の交流が生み出した『プラネット・ウェイヴズ』、結婚生活の破綻による苦悩に満ちた『血の轍』などなど(挙げれば本当にきりがない)……。それら至高の作品群に触れれば、彼がいかにシリアスに音楽と向き合っていたか、一目瞭然である。また、メロディ/アレンジは演奏するたび大胆に変更され、熱心なファンでさえその曲が何なのか即座に判断できないらしい。つまり、己にもっともジャストな表現を求めて止まないのだ。現在も依然、輝き続ける生涯現役のロック詩人ボブ・ディラン、この先最高傑作を生み出す可能性は十分にある。
 
Joan C. Baez(1941/1/9- )
http://listen.jp/store/artist_15556.htm
ボブ・ディランと共に60年代フォーク・ブームの象徴である、ジョーン・バエズ。その処女性を秘めた清らかなソプラノ・ヴォイスは、"天使の歌声"と評され、絶大なる支持を得た。弱冠18歳でニューポート・フォーク・フェスティヴァルのステージに立ち、劇的なデビューを飾ったバエズは、翌60年に1stアルバム『ジョーン・バエズ』を発表。これがポップス・ファンをも巻き込む大ヒットを記録し、一躍"フォークの女王"と祭り上げられる。ディランとも親密な交際を重ね、幾度となくステージを共にするなど、フォーク・ブームの推進力となった。70年代には、ロック的なサウンドも取り入れ、幅広い聴衆にアピール。いまも現役フォーク・シンガーとして活動中である。
 
Glenn Herbert Gould(1932/9/25-1982/10/4)
http://listen.jp/store/artist_16379.htm
とてつもない天才ピアニスト。「とてつもない」とは?その演奏を聴けば、その意味は誰にも一目瞭然。リズム/テンポ/アクセントどれもが強烈で躍動感に満ち、痛快とさえ感じられる。「ジャズ風」などと評されることもあるが、もっとも彼にはそういった意識はない。奇抜な新しい演奏を目指したのではなく、作品や作曲家を愛するがゆえの解釈なのである。それは、彼の全生命や限りない愛情が、一つ一つの音に込められているのを聴けば、納得がいくだろう。1932年トロントに生まれ。14歳でトロント交響楽団と共演し、デビュー。55年に、当時誰も取り上げることのなかったバッハの「ゴルトベルク変奏曲」を弾いてアメリカ・デビューを果たし、57年にはカラヤン/ベルリン・フィルとの共演でヨーロッパ・デビューを飾る。しかし、64年からは一切のコンサート活動を停止、レコーディングに専念することとなった。レパートリーは幅広いが、バッハ演奏はとりわけ高い評価をされており、バッハといえばグールドを思い浮かべる人も多い。また作曲家としても、いくつか作品を残している。夏でも冬並みの支度をして外出したりビタミン剤を常用したりと、健康には異常なほど気を配っていたが、82年、50歳で急逝した。演奏をしながら歌い、体を揺すり(しかも曲に合っているとは限らない)、椅子の高さを極端に下げ、背を丸め、今にも壊れそうな愛用のピアノからは驚くほどデリケートな音色。この独特の世界に魅せられる人は後を絶たない。
 
Yo-Yo Ma(馬 友友、1955/10/7-)
http://listen.jp/store/artist_73781.htm
TV-CMへの出演で、クラシック・ファン以外にもすっかり人気となった、現代を代表するチェリストの一人。傑出した技巧、色むらのない豊かな音色で、叙情に溢れる感傷性、洗練された美しさ、深い表情を、自在に歌い上げている。レパートリーも広く、バロックから現代にまで及ぶが、近年はプロコフィエフやショスタコーヴィチといった近現代のロシア作品に重きを置いているようだ。そしてソロと並行して室内楽にも力を注いでおり、スターン、アックスなどと共演、高評を得ている。その他、クラシックの枠にとらわれず、ジャズ・ミュージシャンや、舞踊家などとも共演、またタンゴ演奏はCFでもおなじみとなり、CDは爆発的な売り上げを記録した。ヴァイオリニストの父とメゾ・ソプラノ歌手の母のもと、1955年パリに生まれる。6歳でパリ大学芸術考古学研究所にてリサイタルを行いデビュー。62年に家族で渡米し、ジュリアード音楽院でヤーノシュ・シュルツ、レナード・ローズに学んだ。63年バーンスタイン指揮のテレビ番組に出演した後、アメリカ各地でコンサート活動を始め、アメリカの主要音楽祭にも参加。77年からはヨーロッパにも活動の場を広げ、ベルリン・フィル、ウィーン・フィルなど一流オーケストラとも共演を果たしている。

 

(続く)

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アップル スティーブ・ジョブズ II 

2014-04-12 | Weblog

:ジョブズの遺言ともいえる、2005年6月のスタンフォード大学卒業式でのスピーチ。

 将来をたくす20代の若者たちを前に、彼は人生の節目となった3つのストリーを教訓として話(告白)している。

:彼は、1972年、リベラルな州として知られるオレゴンにある全校生徒1500人ほどの文化系単科大学(Reed College)に入学する。

この入学は、実母と養親との間で約束されていた。ジョブズを大学に入学させることが養子縁組の条件だった。これを破れば告訴される法的に拘束力がある契約だった。そのため、養親はつましい暮らしの中で息子のために学費を貯めていた。

ジョブズはこの事実の上で一端入学するが、なんとなく目的もなく在籍することに居心地が悪くなる。そして養親が一生懸命に蓄えてくれたお金を浪費しているという罪悪感が強くなり一学期で退学する。

退学後寮をでて、友人宅に転がり込んで寝起きし、空き瓶を集めては業者に5セントで売るホームレス生活。ここでの自分も、実親に棄てられたという怒りと存在する価値があるのかという自問自答する日々だった。

そして将来がみえず悶々とした不安がさらに増幅させていく。ジョブズが友人を誘って、インドに放浪の旅にでるのもこの頃だ。7ヶ月ほど自分探しの旅に出て帰国すると、サンフランシスコにある曹洞宗禅センターで知野(乙川)弘文老師に出会い、禅道の教えを諭される。以来、2002年に老師が遷化されるまで互いの親交は続いていた。

:1983年、ジョブズはマーケティング戦略に長けていたジョン・スカリーをペプシコーラからアップルの社長にヘッドハントとするが、1984年にはマッキントッシュのデビューに立会うなど順調に経営が進行するも、次第に対立し始め、退任を要求され取締役会も承認する。

1985年、アップルを辞めたジョブズはNeXTを創業する。しかしもっと重要なことは、彼の心にあらわれた変化だった。

彼は私生児で生まれた運命に困惑し、養子にだされた仕打ちに対して常に「怒り」を抱えて生きた人生だった。そして頑なに実父母や実妹とあうことを拒否してきた。

ところが、ジョブズは1986年初めて実妹にあう決心をする。そして妹を介して実母とも対面する。すでに30年の歳月が経っていた

アップルを追放された挫折感が皮肉にも、ジョブズの怒り(心の傷)を癒すことになった。人の心の痛みが分かるようになったのだ。それまでの彼は自己中心的で、粗雑で傲慢な経営者だった。

彼の心境の変化は仕事ばかりでなく私生活にもあらわれていた。1991年に歳下のローレン・パウエル(Laurene Powell)と結婚し家庭をもうけている。また過去に、自分と同じ私生児の運命を背負わせ、認知を拒否し続けていた未婚の女性との娘(Lisa)を実子として認知し家族にむかえている。

1996年、ジョブズはアップルに復帰する。以前のような経営者ではなかった。生まれ変わったように革新的な商品をヒットさせ、世界のIT産業をけん引し、多くの消費者のライフスタイルを変えた。そればかりか、インターネットを使った情報流通にも変革をもたらし、産業界の構造や商習慣にも多大な影響を与え続けてくれた。

:最後は自身の病だ。10月21日付朝日新聞によると、ジョブズは2004年膵臓癌と診断されたが、家族の説得にも摘出手術を拒否し、ハリや漢方の療法を9ヶ月間試みたという。ジョブズはこの9ヶ月間の遅れなければ一命を取り留める可能性があったと、深く悔やんでいたという。 

自分に厳しいジョブズだったが、決断を誤った。彼は自力本願の思想が反映された禅文化に馴染んでいたために、ハリや漢方の東洋治療にかけたのかもしれない。大変に悔やまれることである。

: アップルは2011年8月10日、ニューヨーク株式市場の終値で、初めて時価総額世界一になった、米エクソンモービルの3310億ドルを上回った。宿敵、IBMやマイクロソフトはすでに前年に抜いている。

1976年、ジョブズが4歳年上の親友スティーブ・ウォズニアックウォズと一緒に自宅の車庫ガレージで製作したAppleI(マニア向けのパソコンキット)の誕生から35年,また1980年に自社株式を市場公開(IPO)してから20年で世界のトップにまで登りつめた

:1891年、セントラルパシフィック鉄道を設立し、カリフォルニア州知事を務めたリーランド・スタンフォード夫婦は、夭折した息子の記念に、カリフォルニアのパルアルトに所有していた広大な牧草地に大学を開学した。それがスタンフォード大学の前身である。

その後、大学は広大なキャンパスを有効活用し、敷地内に工業団地を建設した。この団地を礎にIT企業が集積しシリコンバレーを形成していく。

そしてまた、スタンフォード大卒フレデリック・ターマン教授が中心となり、産学協同を目的に積極的な企業誘致をはかる。まず、教え子だったデビット・パッカードとビル・ヒューレットを東部から呼び戻し、1939年にヒューレット・パッカード社を起業させ、ゼネラル・エレクトリック、イーストマン・コダックなどの企業が次々と進出してくる呼び水にした。

また東部のベル研究所にいたウィリアム・ショックレーは、トランジスタの発明によりノーベル物理学賞を受賞することになるが、独立し育ったカリフォルニアに戻ると半導体研究所をもうけている。

そして同研究所にいた若手所員らは更に独立しフェアチャイルドセミコンダクター社を設立している。そしてさらに独立し、ロバート・ノイス、ゴードン・ムーアがインテル(INTEL)を1968年に設立し、その一年後には、ウォルター・サンダースがアドバンスト・マイクロ・デバイセズ(AMD)を設立した。

このように、IT企業間のソーシャルネットワーク網が広がるにつれ、従業員を家族のように遇し、チームワークを重視した経営スタイルが徐々に各企業にも受け継がれていきシリコンバレーの企業カルチャーになっていった。

:ジョブズが生きた1970-80年代は、北東部ボストンを半円形に囲む環状道路ルート128、別名ヤンキー・ハィウエイが米国のIT産業を代表する地域だった。とくに、デック(DEC)、ウォング(WANG)、データー・ジェネラル(DATA GENERAL)といった大手のミニ・コンピュータ・メーカーが集まっていた。

オレンジ果樹林が広がるカリフォルニア州シリコンバレーなどは知られていなかった。西海岸での大学卒業生すら、東部での就職を求め移動した。

ところが、1990年代、アップルを含むパーソナル・コンピュータの時代が到来すると、ルート128にある大手メーカーはシフトに乗り遅れてしまい、シリコンバレーに主導権を奪われてしまう。

:米国のノーベル文学賞作家ジョン・スタインベックの小説「The Grapes of Wrath」(怒りの葡萄)では、カリフォルニアは新天地であり、また“乳と蜜の流れる約束の地”でもある。

この日本より広いカリフォルニア州には、全米最多の約3700万人が住んでいる。州内総生産額(GDP)は2010年度約1兆9000億ドルで、米国全体の7分の1、国別に比較すると、ほぼイタリアに匹敵する規模だ。いわばカリフォルニア独立国家だ。

現在のカリフォルニア州知事は民主党ジェリー・ブラウンだ。共和党の前知事シュワルツェネッガーを破って第34代知事に就任した。1970年から83年まで2期務めており、知事に返り咲いたことになる。

ブラウンは48歳のときに来日し、半年ほど鎌倉に滞在し禅の教えを学んでいる。今もサンフランシスコにある曹洞宗禅センターで坐禅修業しており、ジョブズとも知り合いだった。

ネット版ウォールストリートジャーナル紙によると、ブラウン知事はアップルが10月16日に、スタンフォード大学のキャンパス内で、ジョブズ氏の告別式を行うのにあわせて、16日を「スティーブ・ジョブスの日」とする事を発表した。

ジョブズはまさに、カリフォルニアの自由な風土が生んだ人物だ。日本ではこうした人物の誕生は絶対に期待できない。

(2011/11/2 続く)

2005年スタンフォード大学卒業式でのジョブズ氏のスピーチ

 

 
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アップル スティーブ・ジョブズ I 

2014-04-12 | Weblog

:昨年、フランスで発刊された数十ページの冊子、「怒れ!」(Indignez-Vous!、Time for Outrage)が190万部のベストセラーになり、今年世界30カ国で翻訳され、さらに売り上げを伸ばしているという。著者は第2次大戦中、ヒットラーに占領された仏で対独レジスタンス運動に参加し、捕虜、拷問、強制労働、死刑判決、脱走、あらゆる経験した闘士ステファン・エッセルStephane Hessel。戦後は外交官として世界人権宣言起草に参加した多彩な経歴をもつ94歳のユダヤ人だ。

 

沈黙する大衆にむかって、「怒れ!」と呼びかけている。彼が呼びかける怒りは、反社会的な暴力による怒りではなく、変化への一歩となる怒りだ。だから怒りの声をあげて、積極的に社会との関わりあいをもちなさいと説いている。

 

この9月、カナダの非営利雑誌アドバスターズの創設者カレ・ラースンKalle Lasnらが、インターネットのブログで呼びかけ始まったニューヨークウォール金融街の抗議占拠。エッセルに共鳴し、格差という「社会の矛盾」に対して怒りの声をあげた若者たちだった。

 

日増しに抗議行動の要求を多様化させながら、怒りの声は、全米自動車労組や教職員組合のほか、支持を表明した全米最大1200万人の労働総同盟・産別組合を巻き込んで、全米各地に広がりをみせている。

 

エッセルは日本人が原発事故の対応で東電や政府への不満の声がでていないことを疑問視しながらも、正面から怒りを表明せよ、と訴えている。

 

:米アップル社創業者スティーブ・ジョブズは10月5日に黄泉の世界に旅立った。伝記本「スティーブ・ジョブズ」は24日に世界で同時発売され、この3日間で75万部を売り上げたという。

 

この発売に先立ち、著者ウォルター・アイザックソン
Walter Isaacsonは米CBSテレビとのインタビューの中で、ジョブズの経営スタイルは素晴らしいものではなかったと指摘し、時々とても意地悪だったと評している。

 

ジョブズは生前、マイクロソフト共同創業者ビル・ゲィツWilliam “Bill” Gatesとよく比較されたが、米国人の間では慈善活動に尽力するゲィツよりも人望があった。彼の生い立ちに惹かれるようだ。

 

この同世代の両雄はまったく生い立ちが異なる。ゲィツは裕福な家庭で育ったが、ジョブズのほうは、常に自分の生い立ちに「怒り」を抱いていた。

 

:ジョブズは1955年にカリフォルニアのロスアルトス市で生まれた。だが彼の出生は、決して祝福されたものではなかった。この世に婚外子として誕生し、血縁関係のないポールとクララ・ジョブズ夫婦Jobs,Paul/1922–93 & Clara/1924–86にもらわれていく運命だった。

 

彼の実母ジョアン・シンプソンJoanne Simpsonは当時、ウィスコンシン大学の院生だった。シリア系アラブ人留学生アブドゥルファター・ジャンダーリAbdulfattah Jandaliと恋におちるが、ドイツ系スイス移民の父親は娘がイスラム教信者と結婚することを許さなかったためだ。

 

しかし養子に出して10ヶ月後、反対した父親が亡くなり、すぐに結婚している。そしてジョブズとは2歳下の妹モナMonaにあたる娘も生まれたが、その5年後には離婚した。

 

もしもジョブズが私生児(婚外子)としての運命を背負っていなければ、父は政治学教授(現在、ネバタ州リオにあるカジノホテルの副社長)、そして母は言語療法士という、ともに大学院卒の肩書きをもつた高学歴の両親のもとで、ゲィツのように裕福に育っていただろう。

 

ところが、神はジョブズに試練を与えた。彼は私生児で生まれた運命に困惑し、養子にだされた仕打ちに対して、「怒り」を抱えていた。この怒りこそ、後々、彼をアップルの創設に向かわせ、数々のヒット商品をクリエイトするための原動力になっていく。

 

だが、幼少・青年期の怒りはまだ社会との接点をもっておらず、純粋に自分の産みの親に拒絶されたという病んだ心の傷から生じていた。

 

:ジョブズは、十代の頃から私生児の生い立ちが劣等感となり、自分の性格を内向きに追い込んでいく。そして人と折り合っていくことが難しくなり、高校を一度、転校している。

 

当時通学していたカリフォルニアのマウンテンビュー市にあるホームステッド高校の教師マッカラムJohn McCollumは、「どこか孤立して(" something of a loner")」、そして「常に人と違ったものの見方をしていた(" always had a different way of looking at thing")」と振り返っている。

 

:一般的に、こういう生徒は怒りの矛先をどこに向けるかで紙一重だ。自分の運命をうらみ荒んでしまうか、それとも100%運命を受け入れバネにするか、のいずれかだ。

 

ジョブズにとって唯一の救いだったのはよい家庭にもらわれたことだ。養親はつましい共働きの労働者階級だったが、息子をとても大切にした。特に夫は、高校中退で学才がなかったが、レーザー製作工場の機械工としてまじめに働いており、息子に初歩的な電気工作や物づくりの楽しみを教えている。また一人っ子の寂しさを心配したためか、息子の妹に一人女の子パティPattiを養女にむかえている。

 

:2005年6月のスタンフォード大学でのスピーチのなかで、ジョブズは大学を中退した後、友達の家に転がり込んで寝起きしながら、コカ・コーラの空き瓶を集めては業者に5セントで買い取ってもらう日々だったこと、また毎週日曜日には温かい食べ物にありつくために7マイル先にあるクリシュナ寺院(貧困者に無料で食事を提供する宗教教団)まで徒歩で通ったことを告白している。

 

(2011/10/30 続く)

 

参考:

>知野(乙川)弘文老師

http://www.sotozen-net.or.jp/syumucyo/j20111018-2.html

http://www.kobun-sama.org/english/bilder.htm

 

 

 

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