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海外メディア、安倍に国連で説明を(マスコット芸者閣僚高市早苗 ネオナチのおもてなし)

2014-09-23 | Weblog

安倍は22日、国連総会出席のためニューヨークに出発した。最大の狙いは国連安全保障理事会改革と日本の安保理常任理事国入りへの機運を盛り上げることだという。しかし海外メディアの関心は違う。国連の場で「マスコット芸者閣僚とネオナチ団体との関係」について安倍の説明を求めているという。

「説得できない有権者は抹殺」高市早苗推薦、自民党のヒトラー本

安倍改造内閣に入閣した高市早苗総務大臣や、稲田朋美政調会長ら自民党議員3名が、ネオナチ団体代表とツーショット写真を撮っていたことが国内外で波紋を呼んでいる。(参考*1参照)

団体の名称は「国家社会主義日本労働者党」。公式サイトに国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の「かぎ十字」(ハーケンクロイツ)を掲げ、「日本民族の優秀性を確認し血の純潔を保持」「民族浄化を推進せよ!国家社会主義闘争に立ち上がれ!」などと主張する組織である。

高市総務大臣は12日の会見で、「不可抗力だった」「思想信条が分かっていたら、会いもしなかったし、写真も撮らなかった」などと釈明した。しかし、本当にそうだろうか。少なくとも高市はナチスになんら拒否感や批判的視点をもっておらず、それどころか学ぶべきものがあるとさえ考えていたのではないか。

というのも、一部で報道されているように、高市は過去にナチス礼賛本に推薦文を寄せていたことがあるからだ。この本は『HITLER ヒトラー選挙戦略』(小粥義雄/永田書房)。ヒトラーの選挙戦略を学ぼうという本で、94年4月に出版されたが、米ニューヨーク・タイムズ紙などから「ヒトラー称賛」と批判をうけ、ユダヤ人団体も抗議。わずか2ヶ月後に絶版回収となった“発禁本”である。ところが、この本の広告に、高市早苗がこんな推薦文を寄せていたことが判明している。

「著者の指摘通り勝利への道は『強い意志』だ。国家と故郷への愛と夢を胸に、青年よ、挑戦しようよ!」

だが、この問題は高市ひとりの責任にはできないだろう。このヒトラー礼賛本の著者・小粥義雄氏は自民党東京都支部連合の事務局広報部長(当時)。つまり、この本は自民党の候補者に向けた選挙戦略啓発本だったというわけだ。

公党の広報部長が候補者への啓発本にヒトラーを使うというセンス自体信じられないが、もっと唖然とさせられたのはその中身だ。ユダヤ人団体の抗議には過剰対応のものも多いため、今回、この『HITLER ヒトラー選挙戦略(参考*2参照)』を実際に入手して読んでみたが、結論から言うと、これは誰がどう読んでもヒトラー礼賛といわれてもしようがないものだった。

まず、表紙からしてすごい。ハードカバーにハーケンクロイツ。表紙をめくると、ヒトラーの肖像画と、キャラクター化したイラストがとびこんでくる。そして、最初に掲載されているのはヒトラー政治戦略研究会によるこんな“あいさつ”だ。

「私たちは短期間に国論を統一、政権を奪取して第三帝国を建設したヒトラーは、現代選挙を考えるうえで、とても重要な教えを私たちに示しているんだと思います」

具体的には「カギ十字の統一したイメージマーク」に「ポスター、ビラ、ラジオ、映画などのマスメディアを駆使した宣伝攻勢」などが「重要な教え」にあたるという。これが「混迷の時代、大衆文化時代の今日『ピタリ』とあてはまる政治戦略」らしい。

いきなりの“かぎ十字の肯定”。こんなことを語っている「ヒトラー政治戦略研究会」というのはなんだろうと思って、奥付をみると「編集 ヒトラー政治戦略研究会」とある。どうも、同書は自民党広報部とこの団体の合作らしい。

本文を読み進めていくと、各章の頭に『わが闘争』など、ヒトラーやヒトラー側近の著作からの引用文を掲げ、それをフックに、著者の自民党広報部長が「現代選挙の必勝法」を述べていくという構成になっているのだが、この本文もすごい。
 
たとえば、「勝利に一直線」という項目の冒頭には、ヒトラーの側近であったへルマン・ラシュニングの著書『永遠なるヒトラー』から、まず、こんな文章が引用されている。

《私はいかなる手段もためらいはしない。私はあらゆる手段が、正当なものとなる。私のスローガンは“敵を挑発するな!”ではなく、“非常手段に訴えて敵を殲滅せよ!”である。戦争を遂行するのは私なのだ。》

「敵を殲滅せよ!」「戦争を遂行するのは私なのだ」とか、物騒きわまりない引用だが、その引用を批判するような記述は一切ない。それどころか、著者の自民党広報部長はこれを受けて、人間全てを納得させることは不可能だから、一人が反対したら三人の賛成者を生むことが大事だと説いた後、こう檄を飛ばすのだ。

「そして、説得できない有権者は抹殺するべきです」

自民党広報部長が殺人教唆!?と驚愕していたら、次に「この抹殺とは人を殺すことではありません。政治的活動を一切させないように工作することです」と続き、ホッと胸をなで下ろしたのだが、いやいや、考えてみると、「政治的活動を一切させないように工作」というのも相当に恐ろしい。それって、反自民党的な有権者ならびに市民団体や政治勢力を弾圧して、政治に関与させないようにする!ってことじゃないか?

とにかく万事がこの調子で、ヒトラーの行為や政策を批判するような文言はほとんどなし、ひたすらヒトラーはすごい!というイメージを煽り、ヒトラーの独裁的政治手法やデマゴギーに満ちた宣伝戦略に学べ!とアジり続けるのだ。

本来なら、「ヒトラー礼讃」や「ネオナチと関係」などの話が取りざたされれば国際的な非難は免れないのだから、政治家であれば十分すぎるほど気を払うべきこと。

ところが、広報部長がこんな礼賛本を出版し、安倍首相の側近中の側近である高市早苗総務相がそれを「著者の指摘通り勝利への道は『強い意志』だ」などと絶賛していたのだ(参考*3参照)。これがほんとうに民主主義国家の政権を担う政党なのか、疑わしくなってくる。

しかし、考えてみれば、それも当然なのかもしれない。昨年7月には、麻生太郎副総理が、憲法改正を巡る講演で「ドイツのワイマール憲法はいつの間にかナチス憲法に変わっていた。誰も気が付かなかった。あの手口に学んだらどうかね」と発言して物議をかもしたことがあったが、この政党にはもともとナチスに対する批判的視点や拒否感が欠落しているのだ。というのも、戦前、大日本帝国はヒトラーのドイツ、ムッソリーニのイタリアという独裁主義国家と三国同盟を結んで、アメリカやイギリスなどの民主主義国家と戦争を繰り広げていたのだ。そして、安倍首相の祖父である岸信介元首相をはじめ、そのナチスドイツと日本が結びついていた時代に政権の内部にいたり官僚だった人間たちが参加してつくったのが自由民主党なのである。

そういう意味では、敗戦と占領によってアメリカに対して恭順の意を示しているだけで、この政党の底流に流れている考え方はアメリカやイギリスなどの連合国的価値観よりも、ドイツ、イタリアなどの枢軸国的価値観に近い(とくに、安倍首相の出身派閥である清和会はその傾向が強い)。

そして、そのDNAは安倍晋三首相や菅義偉官房長官、麻生太郎副総理、そして、高市早苗総務相や稲田朋美政調会長にも受け継がれ、ネトウヨ的な大衆の熱狂とあいまって再強化されている。今回、高市早苗や稲田朋美がなんの警戒感ももたずネオナチと接近したのも、こうした流れの延長線上に起きたことなのだ。若い世代は天皇制信仰が薄い分、古い世代よりももっとナチスとの親和性が高いといっていいだろう。

実際、今回、高市や稲田とツーショットにいおさまっていたネオナチ団体は過去にもっとディープな形で自民党と関わりがあったこともわかっている。

00年の衆院選の際、全国で日本共産党を攻撃するビラが大量に撒かれたことがあったのだが、このビラは、同年5月に雷韻出版という会社から出版された『誰も知らない日本共産党のホンネ』という本の“宣伝ビラ”だった。00年6月21日の『赤旗』は自民党広報本部長の名で全国の支部にあてた「通達文書」をすっぱ抜き、自民党本部がこの本を大量に買い取り、選挙に活用するよう全国に通知していたと報じている。

ようするに選挙違反にならないよう、自民党が本の宣伝の体裁をとって共産党攻撃を仕掛けていたわけだが、問題はその本の出版元だ。先述したようにこの出版元は雷韻出版という会社だが、同社の当時の代表と今回のネオナチ団体「国家社会主義日本労働者党」の代表が同一人物だったのである。これは偶然の一致ではないだろう。

ネットで安倍政権=自民党をナチスになぞらえると、返ってくるのは大抵「ブサヨの妄想」という嘲笑だ。筆者も妄想であってほしいと思う。だが、こういう事実を見せつけられると「こいつらもしかしたらマジなんじゃないか」という恐怖がこみ上げてくるのである。


参考*1:安倍の閣僚高市と稲田、ネオナチとの親密な関係

第2次安倍内閣の命取りになりかねないのが女性大臣や党幹部と極右活動家とのつながりだ。高市早苗総務相と稲田朋美政調会長が「国家社会主義日本労働者党」の代表者・山田一成氏と撮ったツーショット写真が海外メディアに報じられてしまった。

山田氏はヒトラーを崇拝する活動家。「民族浄化を推進しなければならない」「在日朝鮮人殲滅」など、ナチそっくりのスローガンを掲げ、HPにカギ十字によく似たマークを掲げている。ユダヤ人へのホロコーストを「日本の南京大虐殺とまったく同じで、戦勝国がつくったデマ」と否定している。まさに日本版「ネオナチ」だ。一体、どんな人物なのか。

「東京出身で、80年代から海外のネオナチ団体とつながりを持っています。82年に国家社会主義日本労働者党を創設し、『雷韻出版』という出版社も設立。この会社と山田氏が有名になったのが2000年6月の衆議院選挙でした。『誰も知らない日本共産党のホンネ』という本を出版し、この本の広告として共産党を攻撃する謀略ビラを配った。3000万枚ばらまかれたといわれています。その前年にカギ十字の旗を掲げて米国大使館に押し掛けてもいる。高市と稲田の写真を撮り、自分のHPにアップしたのは自分とのつながりを誇示したかったのでしょう」(民族運動関係者)

■オウム真理教を絶賛

雷韻出版は元オウム真理教幹部の上祐史浩の対談本を出版している。山田氏はHPでオウムのテロ事件を「我々こそが実践しようとしていた世界をオウム真理教という宗教団体が、たった今演じている」「優秀な理化学系の学者や自衛隊員までを引き付けてしまったオウムの教えは、この混迷する世紀末にあって、右翼も左翼も示唆出来なかった方向性を示した」と称賛している。

とはいえ右翼・民族派の活動家としてはあまり知られていないようだ。

「彼は右翼の会合に顔を出しては党と出版社の名刺を配っていた。でも最近は体調を崩して通院しているため、ほとんど動けないようです」(事情通)

こんな人物との写真を公開された高市氏と稲田氏の頬かむりは許されない。(gendai

 

A screen shot of the website of a neo-Nazi party, the National Socialist Japanese Workers Party, shows photos of leader Kazunari Yamada posing with Liberal Democratic Party policy chief Tomomi Inada (upper photo) and internal affairs minister Sanae Takaichi.


参考*2:「ヒトラー選挙戦略」本

 
Hitler's Election Strategy: A Bible for Certain Victory in Modern Elections Sanae Takaichi
The cover of controversial 1994 book Hitler's Election Strategy, A Bible for Certain Victory in Modern Elections

参考*3:「ヒトラー選挙戦略」本の 高市早苗推薦文

Sanae Takaichi Japan Hitler
Japan's new Interior Minister Sanae Takaichi appeared on an ad promoting a book lauding Adolf Hitler's electoral tactics。
 

密着24時!日本のネオナチ - A Japanese Neo-Nazi

 


安倍と共謀し産経・読売の真相隠し、その手口は誤報批判キャンペーンによる世論の目くらまし(吉田調書)

2014-09-20 | Weblog

3・11東日本大震災による東電福島第一原発事故。

その事故現場の所長だった吉田昌郎は2013年に病死した。そして吉田調書(政府の事故調査・検証委員会が2011年に吉田から聴き取りをおこなった一問一答形式の聴取記録)は国民にむけた遺書となった。

調書では電源喪失で打つ手をたたれた現場の絶望と恐怖が吉田の肉声で告白証言されている。

一般人としては所長個人が死のうが、東電社員が全滅しようが、どうでもよいことだが、吉田の告白証言から日本全土が放射能でやられる危険性があったということだ。そうなれば国家の死滅だった。何とも恐ろしいことだ。

安倍は調書を非公開としてきた。「本人から非開示を求める上申書が出ている」ことを理由に挙げていた。だが朝日のスッパぬきで方針を転換し公開に踏み切った。これは朝日のおかげだ。

ところが安倍は自ら公開を決めながら自ら公開の妨害にでた。

再稼動を急ぐ安倍と原発安全神話を垂れ流してきた産経・読売が共謀し、その日その時に現場で何が起こり、現場はどう対応したのか、その告白証言の真髄を隠しはじめたのだ。

要は「朝日誤報の批判キャンペーン」を展開して、国民の目を真髄から遠ざけ朝日の誤報に目がいくように仕向ける悪巧みにでた。

日本ばかりか世界中を震撼させた福島原発事故。

その真髄を隠すために、たかだか一民間新聞社朝日の誤報を攻撃材料に利用するとは、いかに安倍・産経・読売連中のレベルが低いかがわかるというものだ。それに隠すということは死人吉田の口封じこめでもある。まさに異常な連中だ。

本来まともなメディアであれば、国民の側に立って公開された調書を検証し、「原発事故の深刻さと東電の事故対応のもろさ」を暴いて、国民に報道する使命感にかられるはずだ。

それが真髄隠しに走るとは、何度も繰り返すが、いかに安倍・産経・読売はレベルの低い連中かがわかる。それに朝日誤報の批判キャンペーンを繰り返せばそれだけ、”自分たちはレベルが低い”と自ら告白・宣伝しているようなものだ。それすらわからないとは。よほどの道理を解せぬバカ連中だ。

海外メディアは笑い転げている。朝日の誤報など小さな扱いだ。むしろ、安倍のネオナチ問題を大々的に報道している。この問題こそ関心がある。とにかく安倍と右派メディアの連中が日本をますます奇怪で不可解な国にしている。

朝日誤報問題は目くらましだ!マスコミが隠す吉田調書の恐ろしい本質

「福島第一事故『吉田調書』、『全面撤退』明確に否定」(産経新聞2014年8月18日)

「福島第一事故吉田調書 『全面撤退』強く否定」「朝日報道 吉田調書と食い違い」(読売新聞2014年8月30日)

福島第一原発事故で陣頭指揮をとった故・吉田昌郎所長の聴取結果書、通称「吉田調書」に再び焦点が当たっている。吉田調書は9月中旬に政府の手で公開されることが決まっていたのだが、それに先がけてこの8月、産経、読売が立て続けに全容をスクープしたのだ。

ただし、どちらの記事もメインにしているのは事故の深刻さや東京電力本社の対応の問題点ではなく、朝日報道への批判だった。今年5月20日、朝日新聞は吉田調書をもとに、「所長命令に違反 原発撤退」という見出しを掲げ、当時、待機命令に反して9割の作業員が第二原発に逃げたと報道していた。

ところが今回、産経、読売が吉田調書の正確な中身を紹介。実際には吉田所長は「線量が低いようなところに一回退避して次の指示を待てと言った」が、その指示がうまく伝わらなかったため9割の所員が第二原発に退避した、「よく考えれば、2F(第二原発)に行った方がはるかに正しいと思った」と語っていたとして、朝日新聞の報道は事実を歪めていると指摘したのだ。

たしかに朝日の記事は証言をつぎはぎして意図的に別の結論に誘導しようとする明らかなミスリードだった。しかも、この報道の背後には、政治的な思惑があったともいわれている。

「朝日のネタ元は事故当時の民主党政権幹部ではないかといわれ、細野豪志・元原子力防災担当大臣などの名前があがっている。原発事故の対応をめぐっては菅直人元首相や民主党関係者が語った『東京電力が全面撤退を言い出した』という証言の真偽が論争になっており、朝日はネタ元の民主サイドの主張を裏付けるために、無理矢理、吉田証言を切り貼りしてこじつけようとしたのではないか」(全国紙社会部記者)

これが事実なら、今なお責任逃れに終始する民主党の体質とそれにくっつく朝日の不見識にうんざりさせられるが、しかし実を言うと、政治的なふるまいをしているのは、朝日を追及している産経、読売も同じなのだ。

そもそも、9月に政府から発表される予定のものがなぜ、それより早くこの2社にだけ流出したのか。官邸担当記者が語る。

「産経、読売に吉田調書を流したのは官邸です。内閣の事故調の聴取結果は内閣官房、官邸が握っていて、あそこまで正確な内容は官邸からしか出ない。官邸は今、本気で朝日を潰しにかかっている。官邸がこの吉田調書を本人の非公開の意志があったにもかかわらず公開にしたのは、5月に朝日の例の誤報があって、本物を出せば、民主党と朝日潰しの材料にできると考えたからです。そして、自分たちに近い産経と読売に前打ちさせた。産経のネタ元は菅義官房長官、読売のネタ元は今井尚哉首相秘書官だといわれています。とくに今井秘書官と読売の関係は有名で、TPP交渉はじめこのところの官邸がらみの重要なニュースは今井秘書官のリークでことごとく読売がスクープしている」

実は今回の吉田調書で誤報が発覚したのは朝日だけではない。読売新聞は事故後しばらくたった2011年5月、一面トップで当時の菅首相が「海水注入中断」を命じ、「震災翌日、55分間」に中断があったと報道しているが、吉田調書では海水注入を止めてきたのは「(東電の)武黒フェロー」であり、しかも、吉田所長は中断をせずに海水注入を続けたと証言していた。読売も完全に誤報をおかしていたわけだが、こちらの方は菅元首相がブログでひとり騒いでいるだけでまったく問題になっていない。読売、産経、官邸連合軍によって、明らかに朝日だけが狙い撃ちされているのだ。

まあ、朝日がどうなろうが知った事ではないし、ひもつきの新聞同士の醜い争いもメディアの裏がどんどん露呈されることになるので悪いことではない。しかし、この吉田調書をめぐる報道が問題なのは、調書のもっとも重要な部分が別の問題にすりかえられてしまったことだ。

A4版で約400頁という吉田調書には、細かい退避命令の行き違いなどとは比べ物にならない、恐るべき“実態”が描かれている

「われわれのイメージは東日本壊滅。本当に死んだと思った」
 
これは2号機の原子炉水位が低下し、危機的な状況に陥った3月14日夜のことを吉田所長が思い出して語ったものだ。「東日本壊滅」。この一言だけでも、原発事故がどれほどの状況だったかがわかるだろう。吉田所長によれば、この時、2号機はまさに危機的状況だったという。格納容器の圧力が上昇し、消防車の注水ができない。

「われわれのイメージは東日本壊滅ですよ。完全に燃料露出しているにもかかわらず、減圧もできない、水も入らないという状態で、本当にここだけは一番思い出したくないところです。ここで本当に死んだと思ったんです。2号機はメルト(ダウン)して、完全に格納容器の圧力をぶち破って燃料が全部出ていってしまう。最悪の事故ですから。チェルノブイリ級ではなくてチャイナシンドロームではないですけれども、ああいう状況になってしまう」

東日本壊滅、そしてチャイナシンドロームが目前に迫っていたのだ。すんでのところで、踏みとどまることができたが、もしもう一歩、ほんの一歩間違えれば、東日本一帯が壊滅し、首都圏を含む広大な地域とそこに生活する人間が被爆するところだった。多くの人間が逃げ惑い、人口の密集する東京は大パニック、人々は西へ西へと向かう。もちろん交通機関もマヒし、物資は滞り、そのために略奪や殺人さえ起きていても不思議はなかった。直接的原発事故の被害だけでなく、そうなれば多くの人々が命を落としていただろう。本当にもう一歩──。この証言は、原発事故がいかに恐ろしい事態を生み出すかをリアルに伝えるものだった。

ところが、読売や産経は朝日新聞誤報と菅首相の対応のまずさだけを書きたてるばかりで、このもっとも重要な部分をほとんど報じなかったのである。読売は吉田所長が「東日本壊滅」を覚悟した部分の記述は一切なし、産経も第一報の9日後に、連載の最終回で触れただけだった。

周知のように、産経、読売は何十年も前からから自民党政権とともに原発導入の旗ふり役をつとめ、福島原発の事故後も原発再稼働を叫んできた。まさに原発シンジケートの一角をなしている2 つのメディアが、同じく原発再稼働をもくろむ安倍政権とともに仕掛けた情報誘導―—それが今、起きている吉田調書騒動の本質なのだ。

だが、残念ながら、多くの読者やネットユーザーはまんまとその情報操作に踊らされ、吉田調書の本質については見向きもせずに、朝日批判に目を奪われている。

たしかにミスリードをしながら官僚的対応を続ける朝日はどうしようもない。だが、一報道機関の誤報よりももっと恐ろしい事態が進行していることになぜ誰も気づかないのだろうか。

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朝日新聞デジタル「特集・連載:吉田調書」より

 


産経・読売の大罪、垂れ流した安全神話の誤報(いまだ国民に謝罪せず)

2014-09-16 | Weblog

朝日謝罪会見でハシャぐ読売、産経の“トンデモ誤報”集:

こいつら、恥というものを知らないのか。朝日新聞・木村伊量社長の謝罪会見を見ていて、思わずこんな台詞が口をついて出た。断っておくが「こいつら」というのは壇上で頭を下げていた木村社長や朝日の幹部のことではない。朝日を追及していたマスコミ、とくに読売新聞、産経新聞のことだ。

この日の2時間にわたる会見で読売、産経の記者は全質問の実に4分の1もの数の質問を商売敵の朝日に浴びせ続けた。だが、その質問のほとんどはネットスラングでいうところの“ブーメラン”というヤツだった。

読売「御社には自発的に物事を検証する能力がないのではないか。自浄能力がないのではないか。そのことを社長はどうお考えか」

はあ? じゃあ聞くが、渡辺恒雄会長の政界との癒着を放置し、巨人軍の裏金問題や暴力団疑惑にほおかむりし、部数水増しの“押し紙”内部告発を封じ込めてきたオタクの会社に自浄能力はあるのか。

産経「都合のいい方にねじまげる吉田調書の報道は、慰安婦報道と同じではないのか」

おいおい、「都合のいい方にねじまげる」常習犯はオマエたちの新聞だろう。産経は今年5月、安倍首相がアジア安全保障会議でスピーチした際、「靖国参拝発言」で会場が「拍手に包まれた」と報道した。ところが、ネットの指摘で拍手があったのは靖国発言でなく「ひたすら平和国家としての歩みを進めてまいります」という発言後だったことが発覚。政治的プロパガンダのために平気で事実をねじまげる体質が失笑をかったのではなかったか。

別に朝日の肩を持ちたくてこんなことをいっているのではない。今回の朝日の記事は従軍慰安婦の吉田証言も、福島原発事故の吉田調書の記事も明らかな誤報だ。だが、冷静に考えてみてほしい。このレベルの誤報なら会見会場にいたすべてのマスコミがやっていることだ。もちろん読売と産経もやっている。

たとえば、読売新聞は2012年10月、ハーバード大学研究員の森口尚史氏が「iPS細胞を使った世界初の心筋移植手術に成功」と一面で大々的に報道したが、後に研究の内容も森口氏の肩書きもすべて嘘だったことが発覚した。これなどは吉田証言に騙された朝日とそっくりではないか。

他にも、宮崎勤事件で存在しない宮崎のアジトを発見したと報道したり、福岡の広域暴力団工藤会のガサ入れ報道で存在しない押収書類をでっちあげたり、まさに誤報の山を築いている。

また、読売は福島原発の事故報道をめぐっても誤報をおかしたことがわかっている。2011年5月、一面トップで当時の菅直人首相が「海水注入中断」を命じ「震災翌日、55分間」の中断があったと報じたが、これを命じたのは東電の武黒フェローだったことが吉田調書から判明したのだ。しかしこの件について、読売は謝罪はおろか、何の説明もしないまま未だ無視し続けている。

産経も同様だ。2011年7月には中国の江沢民前国家主席が死去したとの大誤報を犯している。この記事については当初から誤報の可能性が強く指摘されていたが、産経はそれを認めようとせず、10月に氏が公式行事に姿を現してようやく誤報を認めた。しかも、この時に発表した「誤報の経緯」に明らかな矛盾があり、虚偽の説明をしていたことが発覚している。

2012年7月には、東京23区で行われた陸上自衛隊の総合防災演習をめぐってとんでもないでっちあげまで行っている。このとき、産経は23区のうち11区が市民グループから『自衛隊に区の施設を使わせるな』との申し入れを受けて、自衛隊を拒否していたと報道。7区の担当職員が演習に立ち会わなかったと名指しで批判した。さらに翌日の「産経抄」でもこのことに触れ、「迷彩服をなぜか受け入れられない人の存在は、承知している。まさかそんな一部の声に配慮するあまり、首都直下地震に向けた自衛隊の訓練をないがしろにする防災担当職員が、東京都内の区役所にいるとは」などと記した。

ところが、これに対して、11区の自治体が抗議文を送り、実際には立ち入りも認めたうえで立ち会いにも応じており、報道とは異なると強く主張。産経新聞は「おわび」の記事を出すとともに、同日の産経抄でも訂正と謝罪をおこなったのだが、その文面はなかなか興味深い。

「記者生活ウン十年、これまでも数多くのミスを重ねてきた。ミスの最大の原因は『思い込み』だ。今回の場合、迷彩服姿の自衛隊員が行う訓練に対して、一部に批判的なムードがあるのは事実だから、区役所の非協力もあり得ると、納得してしまった」

産経新聞は自衛隊への「批判的ムード」を攻撃するために存在しない“左翼市民グループ”を空想してしまったらしい。これではまるで陰謀論好きのネトウヨではないか。

いずれにしても、とんでもない誤報を繰り返しているのは読売や産経も同じなのだ。そして、誤報発覚後もやはり朝日と同じように、その間違いをぎりぎりまで認めなかったり、認めても虚偽の経緯説明をするなど、狡猾な隠蔽工作を行っている。

にもかかわらず、読売、産経は自分たちのことを棚に上げ、官邸や右派グループと組んで、この朝日叩きを大々的に仕掛けたのだ。

もちろんメディアが誤報を犯したらきちんと訂正・謝罪するのは当然のことだ。しかし、この程度の誤報で「世紀の犯罪」を犯したかのように報道機関を袋だたきにして、「社長の辞任」や「過去の社員の処罰」まで求めるのは明らかにおかしい。報道には誤報がついて回るものであり、こういう過剰反応の前例をつくることは、現場を萎縮させるだけだろう。

こういうと、「朝日の場合は国際社会で日本人の誇りを傷つけたのだから、断罪されて当然だ」という声があがるかもしれない。しかし、それなら読売、産経のほうがずっと罪は重い。なぜなら、彼らこそがあの福島原発事故を引き起こした戦犯だからだ。
 
日本の原発導入の立役者だった正力松太郎がオーナーだった読売新聞と、財界右派の意向を受けて誕生した産経新聞は、1970 年代から原発推進の旗ふり役をつとめてきた。マスコミ各社の中でも突出した量の広告を電力会社からもらい、紙面では安全神話を喧伝し、反対運動潰しの論陣をはってきた。原発シンジケートの一角を占めていたマスコミの中でも、彼らは最大の戦犯なのだ。

たとえば、1986年のチェルノブイリ事故の直後の読売の紙面を読んでみると、社説で主張していたのは「我が国の安全対策に変更を迫るほどのことはなかった」「資源エネルギーに恵まれない日本は、技術エネルギーの開発で、世界に貢献しようではないか」という信じられないような楽観論だった。

また、1996年、巻町で原発住民投票が実施されることになった際、産経新聞は反対運動を「本当に「自治」を貫くなら電力会社からの送電を拒否して自前で発電設備を備えるくらいの気構えが求められる」と脅し、「反対をあおる勢力が「政府の原発政策を見直させよう」というのは日本の国際信用をおとしめる意図があるとしか思えない」と、テロリストよばわりまでしている。

さらに、JCO東海村で日本初の臨界事故が起きた時の産経新聞の社説のタイトルは以下のようなものだった。
「初の臨界事故 徹底的に原因究明はかれ 原発否定の口実にさせるな」

こうした安全神話垂れ流しと反対派つぶしの果てに、あの福島原発事故が起きたのだ。何十万人もの人の故郷を奪い、放射能汚染で自然環境を破壊し、何十年、いや何百年かかっても処理できないような大量の核のごみを作り出した。東電社員の退避や強制連行の有無というレベルの誤報とどちらが罪深いか、火を見るより明らかだろう。

しかも、読売と産経は今、安倍官邸と完全にタッグを組んで、吉田調書の本質を朝日叩きの問題にすりかえようとしている。そして、朝日のシェアを奪って自社の新聞の拡販のために、従軍慰安婦問題を意図的にエスカレートさせようとしている。

我々がほんとうに追及すべきなのはいったい誰なのか。ぜひ冷静に考えてみてほしい。

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2014-09-14 | Weblog

故人鹿内信隆(1911-1990)は「商業右翼」を社是とするフジサンケイグループをつくりあげた創始者だ。

戦後の混乱期に乗じて、いわくありげな人脈・金脈を使い電波事業に手を拡げ、メディア(ニッポン放送・フジテレビ・産経新聞)の実権を次々に手握して、着々と支配力を強め、ついに1968年、フジサンケイグループをつくりあげた。

その手握は当時の白木屋乗っ取り事件(山師・横井英樹が株主総会に総会屋・ヤクザ・右翼を送り込んで経営陣を揺さぶりながら敵対的に株式を買占めて百貨店を乗っ取った)にならったかたちだ。

またその支配は絶対服従を強いる傲慢な経営だった。労働組合の存在すら認めず、従業員を物として扱い、逆らえばそっこく解雇された。特に女性を蔑視し25歳での結婚退社を強制していた。鹿内の部下だった現フジテレビジョン会長日枝久も「恐怖経営」だったと回顧している。

鹿内信隆は193827歳で応召され、予備役召集第1回の士官候補生となり陸軍経理部に進み、のち陸軍主計将校として戦地におくられた。管理人

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土人女狩りの実録、帝国海軍主計将校・中曽根康弘の関与疑惑(ボルネオ島慰安婦強制連行)

 

「女の耐久度」チェックも! 産経新聞の総帥が語っていた軍の慰安所作り:

朝日新聞の慰安婦報道の失態で勢いづいている右派・保守陣営だが、中でも、一番大はしゃぎしているのが産経新聞だろう。産経は慰安婦が政治問題化した1990年初頭から、慰安婦の強制連行はなかったと否定し、河野談話や村山談話を批判、慰安婦を記述した教科書を糾弾するキャンペーンを展開してきた。

さらに同紙の社説にあたる「主張」や月刊オピニオン誌「正論」では、強制連行の否定だけでなく、慰安婦は「民間業者が行っていた商行為」で、「自ら志願した娼婦」。日本軍は従軍慰安婦に「性病予防対策などで関与していた」だけ、「公衆衛生面で関与していた」にすぎないという主張を繰り広げてきた。

そして今回、朝日が「吉田証言」の間違いを認めた事で、こうした自分たちの主張がすべて正しかったと勝ちどきをあげているのだ。

97年に結論が出ていた「吉田証言」の虚偽を朝日が今になって認めたというだけで、どうしてそういう結論になるのかさっぱりわからないが、とにかく産経は自信満々で、日本軍に慰安婦の責任はまったくないかのような論調を繰り広げている。

だが、彼らは自分たちの会社で中興の祖とあおがれている人物が、その「軍は公衆衛生面で関与していただけ」という主張をくつがえすような衝撃的発言をしていたことを知っているのだろうか。

その人物とは元産経新聞社長で、フジサンケイグループ会議議長だった故・鹿内信隆。鹿内は日経連専務理事からニッポン放送、フジテレビを開局して社長を歴任した後、産経新聞の経営権を握り社長に就任。現在、フジサンケイグループの原形を築き上げた人物だ。その権力と政治力は絶大なものがあり、1990年になくなるまで、事実上のオーナーとして同グループを独裁支配。経営方針だけでなく、現在の同グループのタカ派的な姿勢もすべて鹿内がつくりあげたものだ。

「鹿内さんは産経新聞社長に就任時するや同紙を反共タカ派の拠点にする方針を掲げ、自分にさからうリベラルなスタンスの社員のクビを片っ端から切っていった。800人に及ぶそのリストラの凄まじさは当時、マスコミ界でも“産経残酷物語”といわれたほどです。こういうことがあって、産経は今のゴリゴリの右派一色に染まった訳です。この鹿内さんのDNAはもちろん、現在の経営陣、編集幹部にも引き継がれています」(産経新聞OB)

その鹿内は戦中、陸軍経理部に招集されていたのだが、産経新聞社長就任後に桜田武・元日経連会長との対談集『いま明かす戦後秘史』(サンケイ出版/絶版)を出版。陸軍時代の思い出話をこんなふうに語っている。

「鹿内 (前略)軍隊でなけりゃありえないことだろうけど、戦地に行きますとピー屋が……。
 桜田  そう、慰安所の開設。
 鹿内  そうなんです。そのときに調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの“持ち時間”が将校は何分、下士官は何分、兵は何分……といったことまで決めなければならない(笑)。料金にも等級をつける。こんなことを規定しているのが「ピー屋設置要綱」というんで、これも経理学校で教わった」

鹿内は召集後、1939年4月から9月にかけて陸軍経理学校で軍の後方支援のノウハウを学んでいたのだが、そのときに、慰安所の作り方も叩き込まれたというのだ。しかも、その内容は今、右派メディアがしきりに喧伝している「公衆衛生の管理だけ」というようなレベルではない。鹿内の発言に「調弁する女」という表現が出てくるが、「調弁」というのは軍隊用語で兵馬の糧食などを現地で調達するという意味。つまり、これは陸軍が慰安婦の調達に関与していたということではないのか。

さらに衝撃的なのが「女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとか(中略)といったことまで決めなければならない」という発言だ。当時の日本軍が現地の女性を完全にモノ扱いし、どんな女がいいのかを品定めする作業までをも士官に命じていたことを証明するものだ。

断っておくが、この鹿内発言は老人の妄想でも記憶違いでもない。靖国神社の一角に靖国偕行文庫という図書館があるのだが、そこにこの鹿内発言を裏付ける一冊の本が所蔵されている。

300ページ以上はあろうかという分厚いその本のタイトルは『初級作戦給養百題』。昭和16年に陸軍主計団記事発行部が発行した、いわば経理将校のための教科書だ。
 
表紙はハードカバーで、「日本将校ノ外閲覧ヲ禁ス」という文字。その9ページ目、第一章総説に、師団規模の部隊が作戦する際に経理将校が担当する15項目の「作戦給養業務」が解説されているのだが、その最後の項目「其他」の解説に以下の任務が列挙されていたのだ。

1 酒保ノ開設
2 慰安所ノ設置、慰問団ノ招致、演藝會ノ開催
3 恤兵品ノ補給及分配
4 商人ノ監視

ようするに、陸軍の経理将校向け教科書に任務として「慰安所ノ設置」が掲載されていたのである。軍が関与したのは衛生面の管理だけという保守派の主張が、明らかな嘘だということがよくわかるだろう。

もちろん、こうした事実を産経新聞をはじめとする右派、保守派が知らなかったわけはない。少し前に中曽根康弘元首相が「土人女を集め慰安所開設」していた(*関連ブログ)という戦時記録を紹介したが、今回は自分たちが中興の祖とあおいでいる人物が自社の単行本で軍の組織的な関与を認めていたのだ。

しかも、中曽根元首相の証言でも明らかになったように、軍は現地で娼婦でない女性たちも徴収している。これでほんとうに、従軍慰安婦のことを「自ら志願した高級娼婦」などと信じているとしたら、どこかおかしいとしか思えない。

ようするに、保守系メディアはこうした事実を知っていながらそれをネグり、あらかじめ強制連行の定義を「軍が銃剣を慰安婦に直接突きつけて連行した」という非常に狭いものに限定し、それを否定することで、巧妙に情報を誘導してきたのである。朝日が歴史を捏造したというなら、産経をはじめとする保守メディアもまったく同罪なのだ。

しかも、中曽根首相、今回の鹿内信隆フジサンケイグループ元議長の発言でもうひとつはっきりしたことがある。それは、彼らが従軍慰安婦に対していささかも自責の念を抱いていない事だ。それどころか、まるで笑い話のように、「慰安所をつくってやった」「女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとかまで決めなきゃならない」と語っている。

狂気のるつぼだった戦中ならともかく、戦後20年以上たってもこんな発言を嬉々としてできるというのは、そのベースに「女性はセックスのための使い捨ての道具」という差別意識が横たわっているという事に他ならない。そして、このメンタリティは、従軍慰安婦像に紙袋をかぶせるような性差別ギャグを嬉々としてほめたたえる今の右派メディアや嫌韓本、百田尚樹などの右派言論人にもしっかりと引き継がれている。

彼らの姿が今の日本人を代表するものだと思われているとしたら、それこそが「日本の恥」ではないか。

 

 

『いま明かす戦後秘史 下』(サンケイ出版)

 


土人女狩りの実録、帝国海軍主計将校・中曽根康弘の関与疑惑(ボルネオ島慰安婦強制連行)

2014-09-10 | Weblog

中曽根元首相が「土人女を集め慰安所開設」、 防衛省に戦時記録が

朝日新聞の慰安婦訂正記事で右派陣営が勢いづいている。「朝日は責任をとれ!」と気勢をあげているのはもちろん、自民党の政務調査会議は河野談話も朝日報道が前提だとして「河野談話を撤回し、新たな官房長官談話を!」とぶちあげた。また、同党の議連では朝日新聞関係者、さらに当時の河野洋平元官房長を国会に招致して聴取すべき、という意見までとび出している。

だが、朝日や河野洋平氏を聴取するなら、もっと先に国会に呼ぶべき人物がいる。それは第71代日本国内閣総理大臣の中曽根康弘だ。

大勲位まで受章した元首相をなぜ従軍慰安婦問題で審訊しなければならないのか。それは先の大戦で海軍主計士官(将校)の地位にあった中曽根元首相が、自ら慰安所の設置に積極的に関わり、慰安婦の調達までしていたからだ。

何かというと左翼のでっちあげとわめきたてて自分たちを正当化しようとする保守派やネトウヨのみなさんには申し訳ないが、これは捏造でも推測でもない。中曽根元首相は自分の“手記”の中で自らこの事実を書いており、しかも、防衛省にそれを裏付ける戦時資料が存在していたのだ。そこには、部隊の隊員によるこんな文言が書かれていた。

「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設」

まず、“手記”の話からいこう。中曽根が慰安所設立の事実を書いたのは『終りなき海軍』(松浦敬紀・編/文化放送開発センター/1978)。同書は戦中海軍に所属し、戦後各界で活躍した成功者たちが思い出話を語った本だが、その中で、海軍主計士官だった中曽根も文章を寄稿していた。

タイトルは「二十三歳で三千人の総指揮官」。当時、インドネシアの設営部隊の主計長だった中曽根が、荒ぶる部下たちを引き連れながら、いかに人心掌握し戦場を乗り切ったかという自慢話だが、その中にこんな一文があったのだ。

「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである」

おそらく当時、中曽根は後に慰安婦が問題になるなんてまったく想像していなかったのだろう。その重大性に気づかず、自慢話として得々と「原住民の女を襲う」部下のために「苦心して、慰安所をつくってやった」と書いていたのだ。

ところが、それから30年たって、この記述が問題になる。2007年3月23日、中曽根が日本外国特派員協会で会見をした際、アメリカの新聞社の特派員からこの記載を追及されたのだ。

このとき、中曽根元首相は「旧海軍時代に慰安所をつくった記憶はない」「事実と違う。海軍の工員の休憩と娯楽の施設をつくってほしいということだったので作ってやった」「具体的なことは知らない」と完全否定している。

だが、これは明らかに嘘、ごまかしである。そもそもたんなる休憩や娯楽のための施設なら、「苦心」する必要があるとは思えないし、中曽根元首相の弁明通りなら、『終りなき海軍』の“手記”のほうがデタラメということになってしまう。だが、同書の編者である松浦敬紀はその10年ほど前、「フライデー」の取材に「中曽根さん本人が原稿を2本かいてきて、どちらかを採用してくれと送ってきた」「本にする段階で本人もゲラのチェックをしている」と明言しているのだ。

いや、そんなことよりなにより、中曽根元首相の慰安所開設には、冒頭に書いたように、客観的な証拠が存在する。 

国家機関である防衛省のシンクタンク・防衛研究所の戦史研究センター。戦史資料の編纂・管理や、調査研究を行っている研究機関だが、そこにその証拠資料があった。

資料名は「海軍航空基地第2設営班資料」(以下、「2設営班資料」)。第2設営班とは、中曽根が当時、主計長を務めていた海軍設営班矢部班のことで、飛行場設営を目的にダバオ(フィリピン)、タラカン(インドネシア)を経てバリクパパン(インドネシア)に転戦した部隊だが、この資料は同部隊の工営長だった宮地米三氏がそれを記録し、寄贈。同センターが歴史的価値のある資料として保存していたものだ。
 
本サイトは今回、同センターでその「第2設営班資料」を閲覧し、コピーを入手した。

宮地氏の自筆で書かれたと思われるその資料にはまず、「第二設営班 矢部部隊」という表題の後、「一 編制」という項目があり、幹部の名前が列挙されていた。すると、そこには「主計長 海軍主計中尉 中曽根康弘」という記載。そして、資料を読み進めていくと、「5、設営後の状況」という項目にこんな記録が載っていたのだ。

「バリクパパンでは◯(判読不可)場の整備一応完了して、攻撃機による蘭印作戦が始まると工員連中ゆるみが出た風で又日本出港の際約二ヶ月の旨申し渡しありし為皈(ママ)心矢の如く気荒くなり日本人同志けんか等起る様になる.主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設気持の緩和に非常に効果ありたり」

さらに「第2設営班資料」のなかには、慰安所設置を指し示す証拠となる、宮地氏の残したものと思われる手書きの地図も存在していた。

それはバリクパパン「上陸時」の様子(昭和17年1月24日)と、設営「完了時」の様子(17年1月24日〜同年3月24日)を表す2点の地図資料だ。バリクパパン市街から約20km地点のこの地図から、中曽根たちが設営したと思われるマンガル飛行場滑走路のそばを流れるマンガル河を中心に民家が点在し、またマンガル河から離れた場所に民家が一軒だけポツリと孤立していることがわかる。

そして2つの地図を見比べてみると、“ある変化”があることに気づく。「上陸時」から「完了時」の地図の変化のひとつとして、その孤立した民家の周辺に、設営班が便所をおいたことが記されている。さらにその場所には「上陸時」にはなかった「設営班慰安所」との記載が書き加えられている。

つまり、上陸時に民家だった場所を日本軍が接収し、「設営班慰安所」に変えてしまったと思われるのだ。 

もはや言い逃れのしようはないだろう。「主計長 海軍主計中尉 中曽根康弘」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設」という記載。それを裏付ける地図。中曽根元首相が自分で手記に書いたこととぴったり符号するではないか。

しかも、「土人女を集め」という表現を読む限り、中曽根主計長が命じて、現地で女性を調達したとしか考えられないのである。

実際、インドネシアでは多くの女性が慰安婦として働かされており、彼女たちは日本軍に命じられた村の役人の方針で、どんなことをさせられるのかもしらないまま日本兵の引率のもと連れ去られたことを証言している。そして、年端も行かない女性達がいきなり慰安所で複数の日本兵に犯されたという悲惨な体験が語られ、その中にはこのパリクパパンの慰安所に連れてこられたという女性もいる。
 
つまり、中曽根首相がこうした“強制連行”に関与していた可能性も十分あるのだ。

朝日新聞の訂正で勢いづいた保守・右派勢力は銃剣を突きつけて連行したという吉田証言が虚偽だったという一事をもって、強制連行そのものを否定しようとしている。さらには従軍慰安婦への軍の関与そのものを否定するかのような虚偽を平気でふりまいている。

しかし、もし、強制連行はない、軍の関与もないといいはるならここはやはり、「土人女を集め」たという元主計長・中曽根康弘を国会に喚問して、どう「集め」たのか、「苦心」とはなんだったのか証言させるべきではないのか。一メディアの誤報をあげつらうより、そのほうがはるかに「歴史の検証」になると思うのだが、いかがだろう。(日刊サイゾー/リテラ)

中曽根元首相の“手記”が収録されている『終りなき海軍』(文化放送開発センター)

 

*関連ブログ:

 フジ産経・初代社長の実録 鹿内信隆の強制連行関与(女を性器として品定め)


参考:

1.「中曽根元首相 「慰安所」設置に関与 ボルネオ・バリクパパン 草の家が証拠公表(2011/11/6 高知民報

http://www11.ocn.ne.jp/~jcpkochi/minpo/topic/2011/111106nakasone.html

2.「土人女を集め慰安所開設」 中曽根元首相関与示す資料 高知の団体発表(2011/10/28  しんぶん赤旗

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-10-28/2011102814_02_1.html

3.旧海軍時代に慰安所つくった記憶ない(2007/3/23 Bloomberg.co.jp)

http://www.bloomberg.com/apps/news?pid=newsarchive&sid=auVti5ZLiSxw&refer=jp_asia%253Cbr/%253E


1.中曽根元首相 「慰安所」設置に関与 ボルネオ・バリクパパン 草の家が証拠公表

中曽根康弘・元首相が太平洋戦争中にボルネオ島で「慰安所」設置に関与していた事実を証明する資料を10月27日、「平和資料館・草の家」が発表しました。

高知市升形の「草の家」で開かれた会見では、岡村正弘館長、馴田正満研究員らが、防衛省防衛研究所戦史研究センターが複製・保存(※)している「海軍航空基地第2設営班資料」を示し説明。

当時の中曽根海軍主計中尉は、2300人の工員を徴用し飛行場を建設した第2同設営班に主計長として所属していたこと、ボルネオ島バリクパパン322基地に1942年3月11日「慰安所」を設営し、見取図もあること、「氣荒くなり日本人同志けんか等起る」中で「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設氣持の緩和に非常に効果ありたり」という記載があることを示しました。

中曽根元総理は回顧録 (『終りなき海軍』)に「三千人の大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんな彼らのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある」と自ら書いていたことに国際的な批判が高まり、07年3月23日の日本外国特派員協会記者会見では「慰安所」への関与について追及され「碁を打つなど休息所の目的で設置した」としていました。

今回、公表された文書は「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設」と明記されており、中曽根元首相の言い訳を覆しました。

岡村館長は「中曽根氏は真実を明らかにすべきだ。政府にも調査と事実公表を求めたい」と話しました。

※第二設営班の徴用技師・宮地米三・元工営長が防衛省戦史編纂官の依頼で1962年に複製し、同省が保管している文書であり信頼性は高い。

土人女を集め慰安所を開設」という記述がある。これまで中曽根氏は「慰安所とは碁を打つ所」としていた。
(海軍航空基第2設営班資料)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2.中曽根元首相関与示す資料:

高知の団体発表「土人女を集め慰安所開設」

中曽根康弘元首相が、戦時中に慰安所設置に積極的に関わっていた資料が防衛省の公開している文書の中から見つかったと、高知市の平和団体が27日、高知市内で発表しました。

明らかにしたのは、高知県内の戦争遺跡の調査や保存に取り組んでいる民間団体「平和資料館・草の家」の岡村正弘館長や馴田正満研究員(63)ら。

今回見つけたのは「海軍航空基地第2設営班資料」。当時の第2施設隊(矢部部隊)工営長の宮地米三氏(海軍技師)の自筆を含めた資料をもとに1962年に防衛省(当時庁)がまとめたものです(26ページ)。第2設営班の主計長が中曽根氏です。

資料には班の編成や装備、活動内容とともにバリクパパン(インドネシア・ボルネオ島)で飛行場整備が終わり、「氣荒くなり日本人同志けんか等起る」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設氣持の緩和に非常に効果ありたり」(原文のママ)と書いています。バリクパパン上陸前の地図と上陸後、民家を接収し垣やトイレをつくり慰安所にした地図もあります。

中曽根氏は『終りなき海軍』の本で「私は苦心して、慰安所をつくってやった」と書くなど慰安所建設は認めていました。しかし、外国特派員協会の記者会見でも「慰安所は軍人らが碁を打つなど休息所の目的で設置した」と、いわゆる「慰安婦」を置く慰安所設置は否定していました。

研究員は資料で(1)中曽根氏が慰安所建設に積極的にかかわった(2)インドネシア人女性を集めて慰安所をつくった(3)42年3月11日に海軍基地内に慰安所が開設されたなど具体的な記述がある(4)慰安所内の配置図が明らかになった―と説明。「防衛省の所蔵文書で確証は高い。中曽根氏が慰安所設置に能動的に動いたことが分かる。中曽根氏自ら真実を明らかにするとともに、政府はさらなる調査をすべきだ」とのべました。

(写真)中曽根氏が慰安所建設に積極的に動いたと発表する「草の家」の岡村館長(右端)ら


3.中曽根元首相:旧海軍時代に慰安所つくった記憶ない-慰安婦問題:

中曽根康弘元首相は23日午後、日本外国特派員協会で記者会見し、自らが旧海軍時代に従軍慰安婦が詰める「慰安所」を設置したと指摘されていることについて「事実と違う。海軍の工員の休憩と娯楽の施設をつくってほしいということだったので作ってやった」と否定した。

従軍慰安婦問題への旧日本軍の関与の実態に関しては「具体的なことは知らない」と述べるにとどめたが、「日本として謝罪すべき問題だ」とも指摘した。また、米下院に提出された旧日本軍の従軍慰安婦問題に関する対日非難決議案へ日本政府が取るべき対応について「結果次第だ。考えるべき問題があれば考え、処置すべきことがあれば処置すべきだ」と語った。

また、安倍晋三首相が、当時の官憲などが慰安所の設営や慰安婦の募集・移送に関与していたことを認めて「おわび・反省」を表明した1993年の河野洋平官房長官談話を継承する、としていることに賛同する考えを強調。その上で、「日本政府、国民は正式な謝罪を行っている。改めて政府が言うチャンスがあれば必要だ」とも語った。


 

 


2014年9月8日運命の決勝 歴史はどう味方するか(錦織、がんばれ!)更新9/9

2014-09-09 | Weblog

更新 9/9日

【AFP=時事】テニス、全米オープンは8日、米ニューヨーク市のUSTA・ビリー・ジーン・キング・ナショナル・テニスセンターで男子シングルス決勝が行われ、大会第14シードのマリン・チリッチ(クロアチア)は6-3、6-3、6-3で第10シードの錦織圭を退け、四大大会(グランドスラム)初優勝を飾った。 25歳のチリッチは、2001年のウィンブルドン選手権王者で、現在自身のコーチを務めるゴラン・イワニセビッチ氏以来となる、クロアチア出身のグランドスラム覇者になったと同時に、アジア勢男子初のグランドスラム制覇を目指していた錦織の夢を絶った。

ドーピング違反で昨年大会に出場することができなかったチリッチにとって、このタイトルは感慨深いものになったことだろう。

チリッチはまた、世界ランク17位で2002年大会を制したピート・サンプラス氏以来となる、下位シードでの全米オープン覇者となった。

それでも、チリッチは優勝に見合うだけのプレーをみせている。錦織が迎えた9度のブレークチャンスのうち8度をしのいだチリッチは、17本のサービスエースと38本のウイナーで錦織を圧倒した。これには、ミロス・ラオニック(カナダ)、スタニスラス・ワウリンカ(スイス)、そして世界ランク1位のノバク・ジョコビッチ(セルビア)を破った錦織もたじたじの様子だった。

錦織と同様にグランドスラムで初の決勝進出を果たしたチリッチは、「ここ数年は厳しい練習をしてきたし、昨年からは一層の努力をしてきた。チームが僕に特別なものをもたらしてくれたんだと思う。とりわけゴランがね」と語った。

「本当に一生懸命やってきたけど、コーチが僕に教えてくれた一番のことは、テニスをプレーすることの喜びと、いつも楽しむことだ。ここで自分のテニスを楽しんだし、人生最高のプレーができた」

チリッチは、ジョコビッチやロジャー・フェデラー(スイス)、故障により欠場した昨年覇者のラファエル・ナダル(スペイン)といった選手でさえも、負ける可能性があるのだと指摘した。

「頑張っていれば、それは報われるということを証明できたと思う」

■錦織、チリッチへの完敗を認める

錦織は、チリッチに完敗したと語っている。

「マリンは今日、本当に良いプレーをしていた。僕は自分のテニスができなかった。厳しい負けですが、初めて決勝に進出できて幸せです」

「でも、次回は必ずトロフィーを手にする。楽しい2週間でした」

ジョコビッチ、フェデラー、ナダルの3選手がグランドスラムの決勝進出を逃すのは2005年の全豪オープンテニス以来で、ツイッターもないような時代だった。

8日の決勝は、178センチで68キロの錦織と、198センチで82キロのチリッチという、対照的なスタイルの選手同士の対戦でもあった。

高温多湿のコンディションが選手を苦しめた2週間の大会で、最も過ごしやすい天候の日に行われた決勝で、チリッチは序盤から積極的なプレーでブレークを奪い、33分で第1セットを先取した。第1セットだけで11本のウイナーを決めたチリッチに対し、錦織はわずか2本を記録するにとどまった。

ラオニックとワウリンカに勝利した試合でも、第1セットを落としていた錦織は、ここから巻き返しを図るかに見えた。

しかし、厳しい角度から打ち込んでくるチリッチのショットに苦しめられた錦織は、第2セットでも3度ブレークを許し、これを奪われてしまう。

後がない錦織だが、第3セットでもチリッチにリードを許し、3度のブレークチャンスをすべて逃す。迎えたマッチポイントでダブルフォールトを犯したチリッチだが、最後はバックハンドで1時間54分の試合に決着をつけた。AFPBB News

 

 

 

 

 

 



当時の男子プロテニス界。まったくタイプの異なる二人の選手がメディアを沸かせていた。なかでも二人が好勝負を繰り広げた1996年の全豪決勝はこの6日の錦織対ジョコビッチ戦そのものだった。

二人とはマイケル・ターペイ・チャン(Michael Te-Pei Chang)とボリス・ベッカー(Boris Becker)の両プロテニス選手だ。台湾系米国人チャンは、身長175cmの小柄だが、ベースライン・プレーヤーと称され、両手打ちのバックハンド・ストロークでどんな球でも粘り強く拾いまくるフットワークを持ち味とした。一方のドィツ人ベッカーは190cmの大柄で、オープンスタンスから大砲の爆撃音と呼ばれた強烈なサーブをはなつビッグサーバーだった。

そして両氏は現役引退後、チャン(2003年全米オープンを最後に31歳で現役引退)は錦織のコーチに、ベッカーはジョコビッチのコーチに、それぞれ就任している。ちなみに、チャンは1996年の全豪決勝でベッカーに敗れており、今回の対ジョコビッチ戦で教え子錦織の勝利を介してベッカーへのリベンジをはたしたことになる。

決勝は米NY東部時間8日(日本時間9日)。錦織の対戦相手は過去5勝2敗でリードしているチリッチ(身長198cm、時速200キロ以上の高速サーバ)、ともに初出場だ。錦織、がんばれ!管理人

<全米テニス>夢の頂点へあと1勝 錦織、渡米11年

慣れ親しんだ米国で歴史史を刻んだ。6日に行われたテニスの全米オープン男子シングルス準決勝。錦織圭選手(24)=日清食品=が世界ランキング1位のノバク・ジョコビッチ選手(27)=セルビア=に勝利して、日本勢として初の決勝に進んだ。試合直後、センターコートで行われた勝利者インタビューで錦織選手は「何が起きているのか分からない」と、よどみない英語で答えていた。

松江市出身の錦織選手は5歳でテニスを始め、13歳で米国に留学した。非凡な才能にソニーグループで要職を務めた盛田正明・日本テニス協会名誉会長が私財を投じて創設したジュニア選手留学制度「盛田ファンド」から声がかかったのだ。留学先は女子のマリア・シャラポワ選手(ロシア)らを輩出した米フロリダ州の名門アカデミーだった。テニスが大好きだった錦織選手に迷いはなかった。

厳しさは想像を超えていた。朝から練習が始まり、勉強を挟んで午後5時までみっちり繰り返される。英語も分からない。盛田ファンドの援助を継続するにはランキングなどノルマが課せられ、1年ごとに見直しがある。「テニスで生き抜く」。錦織選手は歯を食いしばって打ち込んだ。18歳のとき、同州で行われた国際大会でツアー初優勝を飾り、プロの第一歩を踏み出した。

小学校の卒業文集に「夢は世界チャンピオンになることです」とつづった錦織選手。コートでは厳しい表情を見せる24歳の素顔は、はにかみ屋だ。心は少年時代のまま大きく成長を遂げた日本のエースが夢の実現まで、あと一歩のところまでたどり着いた。毎日9/7

マイケル・チャンと錦織圭「まだやることがある」 [全米テニス]

マイケル・チャンは、何が選手にグランドスラムタイトルを取らせるのかを知っている人物だ。コーチとしての今の彼は、錦織圭(日清食品)を全米オープンの決勝に導いた。

チャンはコートサイドでこの2週間、その存在感を示してきていた。この土曜日に錦織が第1シードのノバク・ジョコビッチ(セルビア)を6-4 1-6 7-6(4) 6-3で破り、日本人男子としては初となる決勝進出を決めたが、そのときもまた、彼は錦織の選手席に陣取っていた。

大事な場面でのチャンは、ジャンプするように立ち上がって拳を突き上げ、時には大きな声で声援を送っていた。

「彼らが来てくれて、本当に大きな力になっている。疲れるとかイライラするとかはなくなってきた」と錦織は言う。「彼が選手席から僕を助けてくれるんだ」と錦織は続けている。

1980年代から90年代、チャンとともにツアーを賑わせたのがステファン・エドバーグだ。今の彼はロジャー・フェデラー(スイス)のコーチを務めている。エドバーグは、チャンが錦織の試合中には1ポイントごとに熱くなっていることに気づいていた。

「昨日、ステファンが私に話してきたよ。"君がコートの上に立っているわけでもないのに、まるで君がプレーしているみたいだ"とね」とチャンは言う。彼が17歳だった1989年全仏では最年少での優勝を果たしている。

「でも興奮するなというほうが難しいよ。圭を見ていて情熱を感じないというのは難しいね」とチャンは続ける。

チャンが被る黒いベースボールキャップにはピザ屋の広告が書かれている(彼の兄が経営する店)。「彼は非常に確立された個性を持っている。とてつもなくハードな練習を積めているし、自分のテニスに対する集中力もある。だからこそ彼は素晴らしい結果を残せているというわけさ」。

錦織の代理人であるオリバー・バン リンドック氏は、チャンとのコンビ結成のアイデアを最初に聞いたのは昨年の全米オープンのときだったと振り返る。

その2ヵ月後、錦織は日本で行われたチャリティーイベントで初めてチャンと出会い、12月には一緒に仕事をスタートさせたのだという。

海外遠征時のチャンは基本的にはパートタイムのコーチとしての就任だった。錦織にはフルタイムのコーチとして、この4年コンビを組んでいるダンテ・ボッティーニがいる。この3人とのコンビネーションで錦織は昨年5月に9位に入り、日本人男子初のトップ10入りを果たしたのだ。

ボッティーニはチャンについて「彼の選手としてのすべての経験は、私たちみんなにとってすごくいい形で働いてきていると思う」と話し、「僕たちはお互いをいい感じで補完しあっていると思う」と続けている。

錦織はチャンについて「厳しい」コーチだと表現する。しかし、同時に彼が精神面での重要性を教えてくれるのだとも話している。

チャンはいくつかの部分で、彼らが似た部分を持っているのだと話している。それは対戦相手たちが、自分たちよりも大きいことで有利になっているということもその一部だ。チャンは175cmで、錦織はそれよりほんの3cmほどしか大きくない。

「圭と私が少し似たスタイルになっているのは、そういう部分によるものだろうと思う」とチャンは言う。「だから彼に対してのアドバイスもより簡単なんだ。大きくてビッグサービスを持っている相手に対してどうするか、というのが中心になるからね」。

コートを離れても共通点は見出せる。チャンはニュージャージー生まれの台湾移民の子どもとして育った。「文化的な違いはある。でも、同じぐらい似た部分もあるんだ。同じアジアだからね」とチャンは言う。「似た部分があるからよりコミュケートしやすいんだよ」。

チリッチと錦織の決勝は、どちらが勝っても初のグランドスラム優勝だ。
 
ジョコビッチに勝ったあと、24歳の錦織に決勝に向けてどんなアドバイスをするのかと聞かれたチャンは、「また何も話していない」と答えつつ、「彼が勝つ度に言っているのは、まだ僕らにはやることがある、ということだよ」と続けている。AP (テニスデイリー)9/7

 

Nishikori takes down Raonic, ties for history’s latest match finish

They say history doesn’t repeat itself. Just don’t tell Milos Raonic or Kei Nishikori that.

In a match that pitted Raonic’s power against Nishikori’s agility, it was the tenth-seeded Nishikori who prevailed in what was tied for the latest finish to a match in U.S. Open history.

Digging out of a two-sets-to-one hole, Nishikori advanced to his first U.S. Open quarterfinal by outlasting the fifth-seeded Raonic, 4-6, 7-6(4), 6-7(6), 7-5, 6-4 in a match that lasted four hours and 19 minutes and ended at 2:26 a.m.

“It’s going to bring confidence for sure for the next round,” Nishikori said. “I tried to fight every point and when I [had] to play well, I did — I took some chances and broke his serve.”

It was the second consecutive year that Raonic lost a five-setter in the fourth round at the U.S. Open, after Richard Gasquet bested him last Labor Day. Raonic led that match by two sets to one as well.

“I wish I could have been more efficient in many aspects, like my serve and other things. I was losing my serve way too many times,” said Raonic, who was broken five times and gave Nishikori 19 break points. “I kept fighting and that’s all I can ask. [I] fought through that third set, and then he just got a little bit over me. I was just playing to stay alive.”

The match became the third U.S. Open match to end at 2:26 a.m. The other matches took place two years ago, in a third-round match between John Isner and Philipp Kohlschreiber, and in 1993, in a second-round match between Mats Wilander and Mikael Pernfors.

Nishikori, who hit 53 winners compared to only 41 unforced errors, advanced to his second Grand Slam quarterfinal and first since the 2012 Australian Open.

Next up for Nishikori on Wednesday is Stanislas Wawrinka, who defeated Tommy Robredo in four sets earlier Monday. Wawrinka leads the head-to-head 2-0, with one of those matches coming on hard courts.


国民の不安、”安倍は果たしてマトモなのか”(精神科医が一刀両断)

2014-09-04 | Weblog

精神科医・香山リカ氏が安倍首相の「言動」を一刀両断

「いいね」を支持だとする恐るべき勘違い

安倍首相は果たして、マトモなのか。

多くの人が漠然と抱いている不安ではないか。

国民が頼みもしない解釈改憲に突き進み、野党に突っ込まれるとブチ切れ、暇さえあればゴルフをし、しかし、広島の土砂災害では、のんきに別荘に戻っていた。

仰々しい言動、独善的な振る舞い、その裏に見え隠れする不安。

得体の知れない最高権力者をリベラルな言論活動で知られる専門家香山さんが一刀両断――。

■自分への批判は聞こえない

――香山さんは安倍首相が集団的自衛権の行使容認を閣議決定し、記者会見を開いたとき、欺瞞的と切り捨てましたね。

 情緒的な部分に訴えたでしょう。邦人の保護とかNGOの駆け付け警護だとか。誰もが「それは救うべきだ」と反応する事例を持ち出し、しかも子供やおばあさんが描かれている絵を見せて、「助けなくていいのか」と。あの瞬間、集団的自衛権の議論は、次元の違う話にすり替わってしまったんです。

――安全保障や平和憲法の話ではなく情緒論に?

 そうです。国民は踏み絵を踏まされたような感覚です。特に絵を使ったことが欺瞞的だったと思います。小泉政権のときにワンフレーズポリティクスの是非が問われた。ワンフレーズでも言葉があった分、マシだったと思います。死刑廃止論者にあなたの家族が殺されていいんですか、と問いかけ、そういう映像を見せるのと一緒です。誰でもそれは困る、と言うでしょう。

――狡猾な心理学的手法、トリックですね。

 ただ、私は安倍首相がそこまで意識、計算していたか、というと違うと思います。

――というと?

 こういう絵を見せれば、国民をだませるということでもなく、自分自身も「こうなったら困るな」と、この程度の理解じゃないのかなって。

――そう見えますか?

 安倍さんて、フェイスブックなどSNSを利用して、「いいね」が何万件もあると、それだけで支持されていると単純にうのみにしちゃうようなところがある。ストレートにそう思える精神構造っていうんですか。

――えらく単細胞というか、アバウトですね。

 国会答弁でもこういう場合はこういうことが起こって、だからこうするんだということを論理的にきちんと説明するのではなく、私には国民を守る責任があるんだ、という大きな話にして、すり替えてしまうでしょう。

――野党がそれでも突っ込むと、感情的になってブチ切れる。

 聞かれたことに答えるのはコミュニケーションの基本だと思いますが、それをしない。なんだか、自分に都合のいい声ばかりを聞いて、批判的な声には耳をふさいでしまう、見なかったことにしてしまう。そういうところがありますね。

――子供じゃないですか?

 2世3世の政治家は多いけど、批判的なことを言う人がいない環境で育ったのではないか。そんなふうにも見えますね。確かに、第1次政権では政権を投げ出し、大きな挫折を味わったとは思います。でも、その後、本当の意味で苦汁をなめて、あらゆる批判も全部受け入れて、這い上がってきたというより、「安倍さん、あなたしかいないよ」という人々が周りにいっぱいいたわけですよね。批判を受け止めるというより、そういう人の慰めの声だけを聞いて、励みにしてきたんじゃないでしょうか。

――いわゆるお友達ですね。

 安倍さんって、奥さんが家庭内野党とかいわれていますよね。昭恵さんは原発再稼働にも批判的だし、社会的弱者にも寄り添っています。ここまで考え方が違う夫婦は珍しい。本来であれば、徹底的に論じ合うか、あるいは一緒にいられなくなるか、だと思いますが、あの夫婦はお互いの自由を認めているというか、外遊の時には何事もなかったかのように仲良く手をつないでいる。信頼関係があるというより、安倍さんは会話をしていないのだと思います。自分に批判的な言動は見たくないし、考えたくない。だから、たとえ昭恵さんが話しかけても遮ってしまうのではないか。ゴルフとか外遊とか楽しいことだけ、一緒にやる。

「安倍首相はオイディプスコンプレックス」

■広島への対応で分かったお友達優先

――なるほど。野党に対する態度もそうですね。批判には聞く耳を持たない。説明する気もない。そんな感じを強く受けます。こういう人を精神分析すると、どうなるんですか?

 一般論ですが不安が強い人です。気弱な方です。バリアーを広げ、虚勢を張って、痛いところを突かれても、聞かなかったことにしてしまう。ただし、国会答弁では聞かなかったことにはできませんから、感情的に反発する。

――となると、安倍さんも相当、不安なんですかね?

 だと思いますよ。今度の改造でも、石破幹事長を外すといわれていますよね。切り捨てて、いなかったことにしたいんですよね。自分と考え方が違う人も取り込むことができない。抱き込み、取り込めば、強力な政権ができるのに、そうしない。半ば恐怖だと思いますね。

 


タグマッチ2件 ビフォー&アフター

2014-09-04 | Weblog

 

 

件:朝日vs新潮

after

朝日新聞、一部黒塗りで掲載へ 週刊新潮の広告

 「週刊新潮」を発行する新潮社は3日、朝日新聞から9月11日号(4日発売)で同紙を批判する内容の新聞広告について、一部を黒塗りにすると連絡があったことを明らかにした。朝日新聞は従軍慰安婦問題に関する報道を批判した先週号の週刊新潮について、広告の掲載を拒否していた。

 黒塗りになるのは「売国」「誤報」との文言。

 一方、従軍慰安婦問題の報道に関し朝日新聞を批判した先週号の広告を掲載拒否された週刊文春は、11日号(同)でも批判記事を掲載。発行元の文芸春秋は同紙から広告の黒塗りの連絡があったかについて「個別の案件で回答できない」としている。

before

朝日新聞が週刊新潮の広告も拒否 慰安婦記事で

 新潮社は28日、朝日新聞に「週刊新潮」9月4日号(8月28日発売)の新聞広告の掲載を拒否されたと明らかにした。

 新潮社によると、当該号の広告には朝日新聞の旧日本軍の従軍慰安婦問題に関する報道をめぐり、「『朝日新聞社』の辞書に『反省』『謝罪』の言葉はない!」などの文言があった。

 朝日新聞が26日、「反省」の文字や読者が減っているとした見出しを修正するよう求め、新潮社が拒否したところ、27日に掲載を見送ると連絡があった。新潮社の広報担当者は「批判されたから広告を拒否するとは言語道断。来週号で今回の問題を検証したい」と話している。


 

件:朝日vs池上

after

池上氏のコラム、朝日新聞掲載へ 慰安婦報道に言及

 朝日新聞は3日、同紙の従軍慰安婦報道の検証記事に言及したジャーナリスト池上彰氏のコラムを、4日付の朝刊に掲載する(*)と明らかにした。池上氏は共同通信の取材に、今後もコラムを続けるかは「まったくの白紙だ」と明らかにした。

 池上氏によると、コラムは8月分として掲載予定だったが、同紙に掲載を断られたため、池上氏が連載打ち切りを申し入れていた。3日夕、同紙側から掲載したいと連絡があり、朝日新聞としての「お断り」と池上氏のコメントを載せることを条件に掲載を認めた。

before

池上氏が連載中止申し入れ 朝日新聞に掲載断られ

ジャーナリスト 池上彰 (いけがみ・あきら) 氏が朝日新聞に連載しているコラムで、同紙による従軍慰安婦報道の検証記事を取り上げようとして掲載を断られたため、連載打ち切りを申し入れていたことが3日、池上氏への取材で分かった。

 コラムは「池上彰の新聞ななめ読み」。池上氏が毎月1回、テーマを絞って朝日を含む各紙の報道ぶりを読み比べ、内容を論評している。

 池上氏によると、 8月分として 掲載予定だった原稿で、同紙が慰安婦報道を検証した特集(8月5、6両日掲載)に言及。同社側から「掲載できない」と通告されたため「連載を打ち切ってほしい」と申し入れたという。

 コラムは8月1日付紙面で危険ドラッグ問題を取り上げて以降、掲載されていない。

 池上氏は6月の同コラムで東京都議会のセクハラやじ問題について、朝日新聞の看板コラム「天声人語」で取り上げるのが遅れたと指摘し、「反応の鈍さは残念」と厳しく批判していた。

 池上氏は「これまで、いつも自由に書かせてもらっていたが、今回に限って『掲載できない』と言われた。それでは信頼関係が崩れると考え、打ち切りを申し入れた」としている。

 朝日新聞社広報部は「連載中止を正式に決めたわけではなく、今後も池上氏と誠意を持って話し合う方針だ」とするコメントを出した。


 

(*)4日付朝刊に掲載された記事

<池上彰の新聞ななめ読み>慰安婦報道検証

2014年9月4日03時00分

過ちがあったなら、訂正するのは当然。でも、遅きに失したのではないか。過ちがあれば、率直に認めること。でも、潔くないのではないか。過ちを訂正するなら、謝罪もするべきではないか。

 朝日新聞は、8月5日付と6日付朝刊で、「慰安婦問題を考える」と題し、自社の過去の慰安婦報道を検証しました。これを読んだ私の感想が、冒頭のものです。

 6日付紙面で、現代史家の秦郁彦氏は、朝日の検証について、「遅ればせながら過去の報道ぶりについて自己検証したことをまず、評価したい」と書いています。これは、その通りですね。

 しかし、今頃やっと、という思いが拭い切れません。今回の検証で「虚偽」と判断した人物の証言を掲載してから32年も経つからです。

 今回、「虚偽」と判断したのは、吉田清治氏の証言。氏が自らの体験として、済州島で200人の若い朝鮮人女性を「狩り出した」などと証言したと朝日新聞大阪本社版朝刊が1982年9月2日に報じました。その後も朝日は吉田氏に関する記事を掲載しました。

 これについて今回、「読者のみなさまへ」と題し、「吉田氏が済州島で慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します。当時、虚偽の証言を見抜けませんでした。済州島を再取材しましたが、証言を裏付ける話は得られませんでした」と書いています。裏付けできなければ取り消す。当然の判断です。

 ところが、この証言に疑問が出たのは、22年前のことでした。92年、産経新聞が、吉田氏の証言に疑問を投げかける記事を掲載したからです。

 こういう記事が出たら、裏付け取材をするのが記者のイロハ。朝日の社会部記者が「吉田氏に会い、裏付けのための関係者の紹介やデータ提供を要請したが拒まれたという」と検証記事は書きます。この時点で、証言の信憑(しんぴょう)性は大きく揺らいだはずです。朝日はなぜ証言が信用できなくなったと書かなかったのか。今回の特集では、その点の検証がありません。検証記事として不十分です。

 検証記事は、「慰安婦」と「挺身隊(ていしんたい)」との混同についても書いています。「女子挺身隊」は、戦時下で女性を労働力として動員するためのもの。慰安婦とは別物です。91年の朝日新聞記事は、女子挺身隊と慰安婦を混同して報じたものだと認めました。

 これについて「読者のみなさまへ」というコーナーでは「当時は、慰安婦問題に関する研究が進んでおらず、記者が参考にした資料などにも慰安婦と挺身隊の混同がみられたことから、誤用しました」と書いています。

 ところが、検証記事の本文では「朝日新聞は93年以降、両者を混同しないよう努めてきた」とも書いています。ということは、93年時点で混同に気づいていたということです。その時点で、どうして訂正を出さなかったのか。それについての検証もありません。

 今回の検証特集では、他紙の報道についても触れ、吉田氏の証言は他紙も報じた、挺身隊と慰安婦の混同は他紙もしていたと書いています。問題は朝日の報道の過ちです。他社を引き合いに出すのは潔くありません。

 今回の検証は、自社の報道の過ちを認め、読者に報告しているのに、謝罪の言葉がありません。せっかく勇気を奮って訂正したのでしょうに、お詫(わ)びがなければ、試みは台無しです。

 朝日の記事が間違っていたからといって、「慰安婦」と呼ばれた女性たちがいたことは事実です。これを今後も報道することは大事なことです。

 でも、新聞記者は、事実の前で謙虚になるべきです。過ちは潔く認め、謝罪する。これは国と国との関係であっても、新聞記者のモラルとしても、同じことではないでしょうか。

■池上さんと読者の皆様へ

 今回のコラムは当初、朝日新聞社として掲載を見合わせましたが、その後の社内での検討や池上さんとのやり取りの結果、掲載することが適切だと判断しました。池上さんや読者の皆様にご迷惑をおかけしたことをおわびします。

■池上さんのコメント

 私はいま、「過ちては改むるに憚(はばか)ることなかれ」という言葉を思い出しています。今回の掲載見合わせについて、朝日新聞が判断の誤りを認め、改めて掲載したいとの申し入れを受けました。過ちを認め、謝罪する。このコラムで私が主張したことを、今回に関しては朝日新聞が実行されたと考え、掲載を認めることにしました。