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アップル スティーブ・ジョブズ II 

2014-04-12 | Weblog

:ジョブズの遺言ともいえる、2005年6月のスタンフォード大学卒業式でのスピーチ。

 将来をたくす20代の若者たちを前に、彼は人生の節目となった3つのストリーを教訓として話(告白)している。

:彼は、1972年、リベラルな州として知られるオレゴンにある全校生徒1500人ほどの文化系単科大学(Reed College)に入学する。

この入学は、実母と養親との間で約束されていた。ジョブズを大学に入学させることが養子縁組の条件だった。これを破れば告訴される法的に拘束力がある契約だった。そのため、養親はつましい暮らしの中で息子のために学費を貯めていた。

ジョブズはこの事実の上で一端入学するが、なんとなく目的もなく在籍することに居心地が悪くなる。そして養親が一生懸命に蓄えてくれたお金を浪費しているという罪悪感が強くなり一学期で退学する。

退学後寮をでて、友人宅に転がり込んで寝起きし、空き瓶を集めては業者に5セントで売るホームレス生活。ここでの自分も、実親に棄てられたという怒りと存在する価値があるのかという自問自答する日々だった。

そして将来がみえず悶々とした不安がさらに増幅させていく。ジョブズが友人を誘って、インドに放浪の旅にでるのもこの頃だ。7ヶ月ほど自分探しの旅に出て帰国すると、サンフランシスコにある曹洞宗禅センターで知野(乙川)弘文老師に出会い、禅道の教えを諭される。以来、2002年に老師が遷化されるまで互いの親交は続いていた。

:1983年、ジョブズはマーケティング戦略に長けていたジョン・スカリーをペプシコーラからアップルの社長にヘッドハントとするが、1984年にはマッキントッシュのデビューに立会うなど順調に経営が進行するも、次第に対立し始め、退任を要求され取締役会も承認する。

1985年、アップルを辞めたジョブズはNeXTを創業する。しかしもっと重要なことは、彼の心にあらわれた変化だった。

彼は私生児で生まれた運命に困惑し、養子にだされた仕打ちに対して常に「怒り」を抱えて生きた人生だった。そして頑なに実父母や実妹とあうことを拒否してきた。

ところが、ジョブズは1986年初めて実妹にあう決心をする。そして妹を介して実母とも対面する。すでに30年の歳月が経っていた

アップルを追放された挫折感が皮肉にも、ジョブズの怒り(心の傷)を癒すことになった。人の心の痛みが分かるようになったのだ。それまでの彼は自己中心的で、粗雑で傲慢な経営者だった。

彼の心境の変化は仕事ばかりでなく私生活にもあらわれていた。1991年に歳下のローレン・パウエル(Laurene Powell)と結婚し家庭をもうけている。また過去に、自分と同じ私生児の運命を背負わせ、認知を拒否し続けていた未婚の女性との娘(Lisa)を実子として認知し家族にむかえている。

1996年、ジョブズはアップルに復帰する。以前のような経営者ではなかった。生まれ変わったように革新的な商品をヒットさせ、世界のIT産業をけん引し、多くの消費者のライフスタイルを変えた。そればかりか、インターネットを使った情報流通にも変革をもたらし、産業界の構造や商習慣にも多大な影響を与え続けてくれた。

:最後は自身の病だ。10月21日付朝日新聞によると、ジョブズは2004年膵臓癌と診断されたが、家族の説得にも摘出手術を拒否し、ハリや漢方の療法を9ヶ月間試みたという。ジョブズはこの9ヶ月間の遅れなければ一命を取り留める可能性があったと、深く悔やんでいたという。 

自分に厳しいジョブズだったが、決断を誤った。彼は自力本願の思想が反映された禅文化に馴染んでいたために、ハリや漢方の東洋治療にかけたのかもしれない。大変に悔やまれることである。

: アップルは2011年8月10日、ニューヨーク株式市場の終値で、初めて時価総額世界一になった、米エクソンモービルの3310億ドルを上回った。宿敵、IBMやマイクロソフトはすでに前年に抜いている。

1976年、ジョブズが4歳年上の親友スティーブ・ウォズニアックウォズと一緒に自宅の車庫ガレージで製作したAppleI(マニア向けのパソコンキット)の誕生から35年,また1980年に自社株式を市場公開(IPO)してから20年で世界のトップにまで登りつめた

:1891年、セントラルパシフィック鉄道を設立し、カリフォルニア州知事を務めたリーランド・スタンフォード夫婦は、夭折した息子の記念に、カリフォルニアのパルアルトに所有していた広大な牧草地に大学を開学した。それがスタンフォード大学の前身である。

その後、大学は広大なキャンパスを有効活用し、敷地内に工業団地を建設した。この団地を礎にIT企業が集積しシリコンバレーを形成していく。

そしてまた、スタンフォード大卒フレデリック・ターマン教授が中心となり、産学協同を目的に積極的な企業誘致をはかる。まず、教え子だったデビット・パッカードとビル・ヒューレットを東部から呼び戻し、1939年にヒューレット・パッカード社を起業させ、ゼネラル・エレクトリック、イーストマン・コダックなどの企業が次々と進出してくる呼び水にした。

また東部のベル研究所にいたウィリアム・ショックレーは、トランジスタの発明によりノーベル物理学賞を受賞することになるが、独立し育ったカリフォルニアに戻ると半導体研究所をもうけている。

そして同研究所にいた若手所員らは更に独立しフェアチャイルドセミコンダクター社を設立している。そしてさらに独立し、ロバート・ノイス、ゴードン・ムーアがインテル(INTEL)を1968年に設立し、その一年後には、ウォルター・サンダースがアドバンスト・マイクロ・デバイセズ(AMD)を設立した。

このように、IT企業間のソーシャルネットワーク網が広がるにつれ、従業員を家族のように遇し、チームワークを重視した経営スタイルが徐々に各企業にも受け継がれていきシリコンバレーの企業カルチャーになっていった。

:ジョブズが生きた1970-80年代は、北東部ボストンを半円形に囲む環状道路ルート128、別名ヤンキー・ハィウエイが米国のIT産業を代表する地域だった。とくに、デック(DEC)、ウォング(WANG)、データー・ジェネラル(DATA GENERAL)といった大手のミニ・コンピュータ・メーカーが集まっていた。

オレンジ果樹林が広がるカリフォルニア州シリコンバレーなどは知られていなかった。西海岸での大学卒業生すら、東部での就職を求め移動した。

ところが、1990年代、アップルを含むパーソナル・コンピュータの時代が到来すると、ルート128にある大手メーカーはシフトに乗り遅れてしまい、シリコンバレーに主導権を奪われてしまう。

:米国のノーベル文学賞作家ジョン・スタインベックの小説「The Grapes of Wrath」(怒りの葡萄)では、カリフォルニアは新天地であり、また“乳と蜜の流れる約束の地”でもある。

この日本より広いカリフォルニア州には、全米最多の約3700万人が住んでいる。州内総生産額(GDP)は2010年度約1兆9000億ドルで、米国全体の7分の1、国別に比較すると、ほぼイタリアに匹敵する規模だ。いわばカリフォルニア独立国家だ。

現在のカリフォルニア州知事は民主党ジェリー・ブラウンだ。共和党の前知事シュワルツェネッガーを破って第34代知事に就任した。1970年から83年まで2期務めており、知事に返り咲いたことになる。

ブラウンは48歳のときに来日し、半年ほど鎌倉に滞在し禅の教えを学んでいる。今もサンフランシスコにある曹洞宗禅センターで坐禅修業しており、ジョブズとも知り合いだった。

ネット版ウォールストリートジャーナル紙によると、ブラウン知事はアップルが10月16日に、スタンフォード大学のキャンパス内で、ジョブズ氏の告別式を行うのにあわせて、16日を「スティーブ・ジョブスの日」とする事を発表した。

ジョブズはまさに、カリフォルニアの自由な風土が生んだ人物だ。日本ではこうした人物の誕生は絶対に期待できない。

(2011/11/2 続く)

2005年スタンフォード大学卒業式でのジョブズ氏のスピーチ

 

 
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