堀辰雄『風立ちぬ』(新潮文庫、1964年。講談社文芸文庫、2011年。小学館文庫、2013年)を読んだ。
最初は、家にあった新潮文庫で読み始めた。手元にある新潮文庫は、丸岡明の解説が付いた昭和26年初版のもので、原文に最も忠実なのはこの新潮文庫版だが、その後改版されたらしい。
この新潮文庫の旧版は、旧字体、旧かな遣いはまだ良いとして、活字が小さいため老眼には厳しいうえに、時おりぼくには読めない漢字が出てくる。最近では「漢和辞典」も使いこなせなくなったので、ワード文書にIMEパッドで手書き入力して読み方を調べながら読み進めることになる。
新潮文庫旧版の『風立ちぬ』で、ぼくが調べなければならなかった漢字は以下のようなものである(もう少しあったかもしれない)。
莟(つぼみ)、生墻(いけがき)、顫え(ふるえ)、徐かに(しずかに)、竝み立つ(なみたつ)など。
前後の文脈や送り仮名から意味や読み方が推測できるので読み飛ばしてもよかったものもあったけれど、ボケ防止、脳活?のために逐一調べながら読んだ。
しかし主人公である「私」の婚約者が、八ヶ岳高原にあるサナトリウムに入ったところで出てきた「病竈」(「びょうそう」と読むらしいが、病巣ではいけないのか)で、このまま新潮文庫で読んでいて大丈夫か、心配になった。
読めない漢字に出会うたびに調べる煩わしさと、活字の小ささ(古い本なので印刷も薄くなっている)に耐えながら読むのも限界に近づいた。最近のルビの多い文庫本に悪態をついた手前、ルビ付き文庫本の軍門に下るのは男が?廃るーーというやせ我慢にも限界が来た。※
そこで、図書館から借りてきた『風立ちぬ/ルウベンスの偽画』(講談社文芸文庫、2011年)と『風立ちぬ/菜穂子』(小学館文庫、2013年)を見比べてみた。
両方とも、新字体(新漢字)、新かな遣いに改められており、手持ちの新潮文庫に比べてかなり読みやすそうである。
誌面(字づら)が一番すっきりしていたのは、講談社文芸文庫だったが、ルビは少ない。それでいて、「睡眠剤」にわざわざ「くすり」などと振ってあったりもする(190頁)。「すいみんざい」では不可なのか、原文で堀自身がそう振り仮名を振ったのだろうか。「作用」に「はたらき」、「禍害」に「わざはひ」と振ってあるのもあった。
小学館文庫は、新字体で新仮名遣い、活字も大きく、ルビもたくさん振ってあるが、のど一杯にまで印刷があって誌面が立て込んだ感じがする。
「序曲」「春」「風立ちぬ」までは新潮文庫で読んできたが、残りの「冬」と「死のかげの谷」は、小学館文庫で読むことにした。
読みやすいし、読めない漢字を調べる手間は省けるが、何故か、あまり堀辰雄を読んでいるという感じはしなくなってしまった。そもそもこの文庫が、宮崎アニメの「風立ちぬ」に便乗した出版だったらしく、表紙の挿絵も堀の世界ではない。
しかし、ぼくの国語力では読めなかった次のような漢字にルビがふってある便利さにはかなわない。
IMEパッドのお世話にならずにすんだ漢字は以下のごとし(ただし、マウスでなぞる手間を除けば、IMEパッドはきわめて有能である。IMEで分からない漢字、読み方は今のところ皆無である)。
微睡んで(まどろんで。当て字か? 小学館文庫版、以下同じ)55頁、橅(ぶな)61頁、言い畢える(いいおえる)64頁ほか、歇んだ(やんだ)90頁ほか、「瞠り」(みはり)95頁、隙々(すきすき)93頁、屡々(しばしば)106頁などなど。
「歇んだ」の「歇」は、間歇泉の「歇」だから、断続的に降ったりやんだりする雪がやんだ時を表現するにはふさわしい。「止んだ」では永久に雪がやんだようにも思えてしまう。
「橅」などは、木であれば名まえなど読めなくてもぼくはかまわない。「瞠り」や「屡々」などは、文脈や送り仮名から読み方も意味も想像できるが、ルビがあればなおよい。堀は「屡々」と書いているが、広辞苑では「屡」一文字で「しばしば」となっていた。
足袋跣し(たびはだし)92頁には、ルビは振ってあるが意味は分からない。広辞苑で引いてみると、「(足袋跣足) 足袋をはいたままで、下駄や草履をはかずに地面を歩くこと」とある。
12月の軽井沢で、山の中腹に小屋を借りて一人で生活することになった主人公の「私」を、ふもとの町から雪のなかを道案内し、毎日夕刻になると彼のために夕食の支度をしにやって来る地元の娘の足元が「足袋跣し」なのである。
当然草履くらいは履いているものと勝手に思い込んでいただけに、草履もはかずに足袋だけで雪道を歩いて通ってきたとなると、この無口な村の娘がいっそういじらしく思えてくる。そしてその娘に対する主人公「私」のぞんざいな人あしらいに腹立たしさすら覚えた。少しくらい津村信夫を見ならえ!
※ 下の写真は冬の旧軽井沢の古い別荘(旧菊池山荘という表札が立っていた)。
1934年の夏、主人公の「私」とヒロイン節子は追分で出会う。草むらに画架を立てて絵を描く節子を、私は白樺の木陰に身を横たえて眺めている。
肺結核の病状が悪化した節子のサナトリウムでの療養生活は、「私」の1935年10月20日からの日記の形式で綴られる。日記は11月28日で終わっているが、堀の年譜(講談社文芸文庫所収、大橋千明作成)を見ると、節子のモデルとなった矢野綾子はその年の12月6日に亡くなっている。
つづく「死のかげの谷」の章は、翌「1936年12月1日 K・・村にて」で始まる。年譜では、堀はこの年の冬は軽井沢に滞在していないが、1937年はほぼ1年間を追分で過ごしたと年譜にある。『風立ちぬ』の発表は1938年だから、1937年に経験した軽井沢の冬景色を1936年の日記として描いたのだろう。
「死のかげの谷」は、節子の死から1年以上にわたって書き継いできたものだった。
堀辰雄『風立ちぬ』の感想文としては、あまりに散文的なものになってしまった。
罪滅ぼしに、2、3年前の初秋に碓氷峠の見晴台で撮った写真を。
散文ついでに、ぼくの結核物語を。
1968年の冬、大学受験のための健康診断のX線検査で引っかかり、「要精密検査」となってしまった。水道橋にあった結核予防会付属の診療所で再検査を受けたところ、現在は治癒しているが、左鎖骨のあたりにかつて肺結核に罹った痕跡があると言われた。診断書には「左鎖骨下陳旧性肺結核痕」とか書いてあった。
昭和31年、ぼくが小学1年生の時に母親の肺結核がわかった。閉鎖性だったので、自宅の一室にベッドを入れてそこで療養生活を送っていた。感染しないはずの閉鎖性だったが、安静のため外を出歩くことはできず、子どもとの接触も制限されていたので、PTAなどは叔母が代わりに来てくれた。母が専用で使った部屋の本箱には壷井栄の小説などと並んで、松田道雄の『療養の設計』(岩波新書)が置いてあった。
おそらくその頃に、ぼくも母親からか、母に感染させた誰かから感染したのだろう。
それから10年以上たって、高校生も終わろうというときになって要精密検査を言い渡されたぼくは、「もし結核だったら、作家にでもなるしかない」と思った。堀辰雄の小説の影響だったのではないか。結局ぼくは結核にもならなかったかわりに、作家にもなれなかった。
その時の医師からは「毎年検査のたびに引っかかりますよ」と宣告されたが、その後50年の間、レントゲン検査で結核痕の所見を指摘されたのは、せいぜい5~6年に1回程度である。一昨年の検査でも指摘されたから、痕跡が消えたわけではない。わが国の健康診断、読影の精度はその程度のものである。
2021年10月11日 記
--2021年10月11日の東京は『風立ちぬ』を読むにはいささか暑すぎた。風は多少あったけれど、風立ちぬという感じではなかった。
※ 何年か前に、モームの『英国秘密諜報員 アシェンデン』(新潮文庫)の新版を見て、誌面がスカスカ(隙々?)で、ルビの多いことに唖然としたと書きこんだが、悲しいことに、数年を経ずしてぼく自身が大きな活字とルビのご厄介にならなければならない状態に陥ってしまった。