年下研究

『けいおん!!』トンデモコジツケ連鎖中!涼宮ハルヒの憂鬱の謎解きコジツケの履歴保管庫。

ギャグ漫画家の寿命と、2つの「面白がらせ方」

2007-03-20 01:48:13 | 涼宮ハルヒ
ギャグ漫画家は、エネルギーを使うので、廃人になってしまう、というイメージがあります。赤塚不二夫、鴨川つばめ、吾妻ひでお辺りは、頂点からの転落で強い印象を与えます。
メディアワークスの編集さんとお話した際に、「ギャグは破壊」と言われました。ギャグ作家の短命は破壊が徹底して、自分まで否定してしまい、ビジネスとしての漫画生産体制を維持できなくなるために発生する、と言えます。
「爆笑でないものはギャグではない」という考え方は、伝統的なギャグの指導理念と言えますし、「オチが弱いと没」という伝統的「結」盛り上がりの考え方も、この様式の一部と考えられます。
ところが、世の中にはもうひとつの笑いがあります。「落語」の展開です。
落語はオチで笑わせるものでは無いそうで、途中で面白がらせる娯楽です。   また、先が読めていても繰り返し楽しめるというのも、マンネリに批判的な日進月歩の漫画界とは違った面白がり方です。こちらを研究すれば、ギャグ漫画家の短命を何とかできると思います。短命でないと入手できない面白さもあるでしょうが。
漫画にも「お約束」というのは有りますが、アニソンのシャウトや、ヒーローモノの変身シーンや必殺技、といった様式美の事を指すようです。要素を超えて展開まで「お約束」の場合、自嘲気味のギャグになっていると思います。
落語では、座布団の上に扇子に着物で正座、「えー毎度馬鹿馬鹿しいおはなしを」という辺りのことです。
もう一歩進んで、「毎度おなじみ」の辺りが「マンネリだけど笑える」という「期待を裏切らない」展開と思われます。
こういう定石を踏まえると、たまの奇策が効果的なわけで、仮面ライダーの「今回のライダーは違うぜ」「子供向けとは思えない深い内容」という評価が出てくるのも、そうでないお約束の反復あればこそのショックだとおもいます。
私が、自己破壊型で無いせいか、「ギャグは破壊」という言葉にピンと来ません。
ギャグはもっと広いのではないか、それ以外にもフロンティアは有るのではないか、と思ってしまいます。
前に書いた、展開の「直線型」「円環型」のうち、円環型が反復になじみます。木村説の、「承承承…」と承が引き伸ばされる部分。
また、作品の一本一本は直線でも、お約束の展開の作品の量産の場合、作品群は円環します。「面白い部分をさっさと終わらせるのは損」という合理性です。
面白さのために敢えて形式の方を歪める、変則4コマ、連作4コマになじむ様式だと思われます。
ただ、どういうギャグが反復向きで、どういうギャグが一発ギャグか、という区別がされる場合があります。「このギャグは続けても効果的ではない」と批評される部分です。反復によってだんだん弱くなるギャグ素材が有るようです。
それが展開のさせ方でクリアできるのか否かが興味深いところですが。あるネタが一番可能性を尽くせる形を与えるにはどうしたら良いか、が課題です。


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5 コメント

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お約束の美学 (UDO)
2007-03-20 09:21:21
タイムボカンを思い出しました。
同じキャラクタで同じようなドジをして、同じようにやっつけられるのだけど、それが楽しい。

近年出したシリーズは、子供にウケなかったようですが、長年にわたってシリーズを休んでいたせいで、ボカンシリーズのお約束の美学を理解できる層が揃って大人になっちゃってた、というのが痛かったなあ、と個人的に分析しています。

お約束を笑えるということは、土壌あってのことで、落語もタイムボカンも面白く無い人にとっては面白くないのかもしれませんな。
ライダーの「奇策」もシリーズのファン以外が、どのように受け取るかといえば、単なる特撮作品でしかないでしょう。
そうなると、消耗の少ない展開をしていくのに必要な土壌・・条件とは何かと考えさせられたりします。

それは閉じた世界の中での楽しみになってしまう可能性がある?いや、それはそれで良いのか?等等。

あ、私はボカンも落語も好きですが。
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書き込みありがとうございます! (malcolm.X)
2007-03-20 13:26:42
大塚英志が、クリエイター予備軍の若者が、往年の名作を観ていない、漫画やアニメ、ゲームの発展史を知らない、と言うことを心配してましたね。
「まだやられていないかどうか知らずに、新しいこともやれないだろう」と言うわけです。
「今では知らない人の多い古典」の引用は、確かに古典知識のある一部作家の隠し芸になっていますね。
パロディが90年代以降、商業でも当たり前になってますが、同時代か復刻版で事実上新作の引用だと思います。ネタが廃るのが早いのですね。
ギャグで、奇人変人の作家を鑑賞する動物園見世物小屋型のギャグや、天然系の作家ののほほんに当てられる環境音楽アロマテラピー型のようなギャグへと振り子が振れたのも、こうした状況があるかもしれません。
私は、奇人変人や天然系でない人でもやれるギャグを何とかやりたいと考えています。
UDOさんの指摘を考慮すると、とりあえず反復可能性を古典知識から解放して、「盛り上げの形式のひとつ」として確立することが必要になりそうですね。
古典引用ももちろん一形式として残る訳ですが。
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Unknown (eee)
2007-03-27 02:45:36
久米田康治なんかは多少そのへんを自覚してるように思います。
オチはつまらなくても途中で笑わせてますし。(やり方はパロディですが)
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Unknown (1026)
2007-03-27 11:24:09
はじめまして。

以前落語のライブを見て、同じように漫画への応用を考えた事があるのですが、あれの魅力は単なるパターンの踏襲というより、パターンである事を忘れさせる「つかみ」や「演技力」にあるように思いました。
落語家には絶えず観客を意識して、観客も目の前にいる人間である落語家を意識せざる得なくさせる力があって、それはとても紙上やスクリーンでは再現出来ないと思うのです。
その力無くして、単なるパターンを繰り返しても飽きられるものになるように思います。
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コメント有難うございます! (malcolm.X )
2007-03-31 03:08:13
実際、楽太郎のテコ入れで代アニが改善したと言う話も聞きませんし、歌丸が声優してるアニメが受けたと言う話も聞きませんね。落語自体、衰退産業ですし、社会の変化に改革のスピードが合ってないのだと思います。落語も改革の時代です。
ギャグだけにとどまりませんが、ジョージルーカスによると、ハリウッド映画は戦後60年間マイナス成長なのだそうで、ルーカス自身、映画からテレビへ転進するらしいですね。スクリーンの限界です。テレビもすぐにそうなるでしょう。むろんネットも。
漫画も、1997年辺りからマイナス成長だそうで、紙の限界なのでしょうか。原理的に無理ならデジタル化しても運命は変わらないでしょう。変わらないといけません。
いずれも送り手が面白いと考える思いつきを、受け手に共有させられていないわけですね。
別の人格の間に真の共感はありえるかという問題にまで行くのでしょうが。
最近、作家本人が面白い人間であるような作品が台頭してきたのも、こういう時代背景があるのかもしれません。送り手の意図に関係なく面白いわけで、受け手の面白いと感じる体験だけで済みますから。
私自身は、既存のモノ作りが変身を余儀なくされる時代に生まれ合わせて幸運だと思っております。
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