年下研究

『けいおん!!』トンデモコジツケ連鎖中!涼宮ハルヒの憂鬱の謎解きコジツケの履歴保管庫。

たはぶれあそび…改訂版裏表紙

2007-11-09 00:28:02 | 涼宮ハルヒ
またイベントに来てくださった方々や、挨拶したサークルの方へのお礼を書いておりませんでした。申し訳ありません。来て下さってありがたいことです。頑張ります。変なやつが押しかけて驚かせてすみません。
コロムビアのCDを聴いて確認したところ、コピー本の方の歌詞は記憶だけで書いたので歌詞に間違いがありました。失礼いたしました。改訂版では裏表紙の差し替えに応じて訂正しております。日々勉強ですよ。
1887年の曲なので、2006年や2008年でなく、2007年に使えたことがラッキーですね。ハルヒ効果。女子教育に熱心だった昭憲皇太后と、「平成の才媛」佐々木さんはそれほど違和感の有る取り合わせではないと思いました。
私の姉が利口だったので、女性は全教科偏差値70以上(英語は80以上)が普通だと思って話すようにしております。
朝鮮民主主義人民共和国の船が海賊に襲われたところをアメリカが助け、朝鮮は感謝したそうですね。「西施捧心」で「青鬼」「呉越同舟」ネタを振った折に偶然にしては面白い事態だと思いました。同時代性。ハルヒ効果。
海賊がアメリカのヤラセで、朝鮮の感謝が嘘でも、本当の殺し合いと嘘の平和なら、嘘の平和の方がオタクライフには好都合だと思いますね。
谷川さんは佐々木×ハルヒ対決を上手く回避する方向で我々に「驚愕」を与えてくれると願っております。
さて、見せ場がまずあって、見せ場までの発端からの流れを逆にたどるのが「演繹法」、見せ場からオチまでをたどるのが「帰納法」という使い方をすると、教科書では発端が決定している場合に活用する「帰納法」が発端から切断され、演繹法は教科書通りに発端へ遡及することになるので、混乱します。
以前、演繹と帰納の説明が逆になっている教科書の事を書きましたが、実務が「見せ場から発端とオチをでっち上げる」式のために起きた混乱だとも考えられますね。
見せ場からどう発端やオチへ繋げるか?について、「テキトーにでっち上げる派」と、「どうせだから発端も見せ場、オチも見せ場、全編見せ場だけの作品を作る派」が有ると思います。
過去の名作の名場面だけを繋ぎ合わせ、名セリフだけを引用して完璧な「絵になる場面だけの一作」を作ってしまおうと言うのはこの20年くらいの流行かもしれません。パクリだと問題になったり、オマージュやリスペクトなる横文字が発せられるのは、「見せ場のツギハギ」=作品という実務で生計が成立していると言うことなのかもしれません。
見せ場=絵になるシーンの引用は、トレスの活用まで及びますが、起承転結の変容(木村の「承」中心主義とか)、帰納・演繹の変容の延長上に有るのかも。
マンガ教室では好きな作家やプロの作品の模写をして技法を盗む授業があるそうですが、それが実務に漏れているのですかね。
商業でも、高遠さんの板垣引用のように積極的に引用が許容される時代です。こういう実務が、引用で起承転結を組み上げてより良い作品を作ると言う技法の普及を促しているのかと。将来的には、その次の「技法」に取って代わられてゆくのでしょうが、skirthikeさんのように、webを活用しつつもオーソドックスな作風の方がおられるように「原点回帰で起承転結とかがきっちりする」か、マギラーさんのように紙媒体を超えそうな何かを出してくる方がいるように、「より効果的な表現法に組み変わる」か。


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4 コメント

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Unknown (鈴木)
2007-11-10 08:28:01
読みましたー
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webの発達によって (takuji)
2007-11-11 02:11:53
作品の名セリフだけが一人歩きしたり、映像作品の名(迷)シーンだけで編集されてループするこの時代。
作品を一本まるまる飲み込んで貰うということが難しくなったように感じます。もしかしたら、もうそんなことは不可能なのかもしれません。今のところ、それを可能にするのはキャラクターの魅力しかないのではないか? そんな風に感じます。
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コメント有り難いです。 (malcolm.X)
2007-11-19 23:19:43
書き込み有難うございます。ようやく冬合わせ新刊1冊目入稿いたしまして、次の活動に掛かっております。
楽しく読んでいただけるものを準備したいところです。
頑張ります。
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歴史 (malcolm.X)
2007-11-19 23:50:32
情報が膨大だと、脳がパンクしないように安全装置が働いて、自閉したり、忘れ易くなったりするのでしょう。
低情報化時代の社会で可能だった、作品の「読み込み」「記憶」は、高度情報化時代の社会では脳が受け付けない習慣として流行らなくなるのかもしれません。
グローバル化の時代、国民国家=国民経済が中途半端な大きさの制度になって機能不全に陥っている一方、他方で大衆が分衆になり、ネットの端末がモバイル中心になっているように、社会は島宇宙化しつつあって、こうした部分社会で古典的作品受容習慣も生き残れると思います。
キャラの存在形式も、各部分社会での需要に応じて多様な形態を採って行くと思います。
金融商品にバラ売りと組み合わせが有る様に、メディアミックスの一方で、各メディア固有の展開も有ると思いますし、今は一枚絵や声優の力が突出していますが、均されて行くでしょう。
キャラの魅力は、どのメディアか、どんな需要かに応じて求められてゆくと思われます。作家が自分の好みに合ったキャラの活躍をさせられるような発表先を上手く見つけることが幸不幸の分かれ道ですね。
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