4コマは制限されたコマで描くから練習になるという話が有りますが、起承転結の各々に1コマずつかけると面白くなる場合と言うのは、ストーリー漫画に直すと、24ページで起承転結が6ページずつになる場合と言うことでしょうか…。
新井一は、弟子が起承転結にこだわって盛り上がりに欠ける作品を作らないように、起承転結やる余地の無い短い尺で作品を作る訓練をさせたと聞きますが。すると、起承転結に1コマずつ割いている尺の取り方で練習になる事を練習したい場合にやれということでしょうか。謎は解けた!
米澤さんの論を、「消費者の論であって描き手の論ではない」と人によっては批判するのですが、理屈と膏薬はどこにでも貼れるものですから区別は出来ないと思います。たとえばどちらの場合でも権威付けとかには使えるのでは?
我田引水で、あるいは鰯の頭も信心で、こじつければかなり使えると思います。
そう前置きした上で考えてみたのですが、米澤さんは、涙も笑いも人と人とを繋ぐと考えておられますが、涙はともかく笑いには攻撃的な面が強いので、共感より対立をもたらすような気がします。
米澤さんの好きな吾妻ひでおの失踪日記が、「本当に有った事をユーモラスに描いているから凄い」と誰もが思えるとも思えません。
全部フィクションだった方が凄い、という場合も有るのではないでしょうか。
米澤さんは、近松門左衛門同様に、現実と虚構の中間を攻めるべきだと考えておられるのですが、じつは現実自体が確定が困難な場合も有ります。
キャラの表情の変化をキャラが崩れると嫌って、驚いた顔とかを別の絵柄を描いてごまかす技法を宮崎駿は「過剰表現主義」と呼んで批判するのですが、宮崎キャラ自体は驚いた顔もさせられる様にデザインされた別の様式にすぎないわけで、彼は「俺のほうがリアルで、奴等は嘘だ」と言いたいようですが、そう感じる人ばかりではないと思います。というか、嘘のせいでつまらなくなって無ければよいのではないでしょうか。
デフォルメにはまずフォルムが前提で、キャラ作りにはデッサンが大事だという意見はあるわけですが、それは又の機会に。
新井一は、弟子が起承転結にこだわって盛り上がりに欠ける作品を作らないように、起承転結やる余地の無い短い尺で作品を作る訓練をさせたと聞きますが。すると、起承転結に1コマずつ割いている尺の取り方で練習になる事を練習したい場合にやれということでしょうか。謎は解けた!
米澤さんの論を、「消費者の論であって描き手の論ではない」と人によっては批判するのですが、理屈と膏薬はどこにでも貼れるものですから区別は出来ないと思います。たとえばどちらの場合でも権威付けとかには使えるのでは?
我田引水で、あるいは鰯の頭も信心で、こじつければかなり使えると思います。
そう前置きした上で考えてみたのですが、米澤さんは、涙も笑いも人と人とを繋ぐと考えておられますが、涙はともかく笑いには攻撃的な面が強いので、共感より対立をもたらすような気がします。
米澤さんの好きな吾妻ひでおの失踪日記が、「本当に有った事をユーモラスに描いているから凄い」と誰もが思えるとも思えません。
全部フィクションだった方が凄い、という場合も有るのではないでしょうか。
米澤さんは、近松門左衛門同様に、現実と虚構の中間を攻めるべきだと考えておられるのですが、じつは現実自体が確定が困難な場合も有ります。
キャラの表情の変化をキャラが崩れると嫌って、驚いた顔とかを別の絵柄を描いてごまかす技法を宮崎駿は「過剰表現主義」と呼んで批判するのですが、宮崎キャラ自体は驚いた顔もさせられる様にデザインされた別の様式にすぎないわけで、彼は「俺のほうがリアルで、奴等は嘘だ」と言いたいようですが、そう感じる人ばかりではないと思います。というか、嘘のせいでつまらなくなって無ければよいのではないでしょうか。
デフォルメにはまずフォルムが前提で、キャラ作りにはデッサンが大事だという意見はあるわけですが、それは又の機会に。