年下研究

『けいおん!!』トンデモコジツケ連鎖中!涼宮ハルヒの憂鬱の謎解きコジツケの履歴保管庫。

『けいおん!!』と『AngelBeats!』トンデモ…『創造主との戦い』は誰がけしかけてるのか?

2010-11-12 00:24:58 | けいおん!!
えー今更ですが、前振り長くなります。

このブログで繰り返し書いて来ましたが、

『涼宮ハルヒの陰謀』~『分裂』読むと、『消失』にはキョンが知らない裏が有るような気がしてきます。

しかも、キョンの不注意で裏が見えないのではなく、
何者かによって、情報操作がなされて、キョンが誤誘導されている可能性があります。

読者は、キョンの視点で読んでるので、キョンと同じ目くらましに遭う可能性があるのですね。


『朝倉がキョンを襲ったのは有希をキョンに接近させるための茶番?』

『有希の暴走の原因は誰かに仕組まれた?』

『有希の処分は中止されていない?』

『鶴屋さんが結構暗躍している?』

『キョンはとんでもない誤った選択を正しいと信じさせられて選択してしまっている?』

等々。ドンデン返しの心配があるわけですね。



今回の更新漫画は、『宇宙人・未来人・超能力者・異世界人』がいない『日常学園モノ』でも、

『裏』がありうるということで。


今までは、

『けいおん!!』と『ハルヒ』に登場する『固有名詞』『聖地』、

関連する事物からトンデモコジツケしておりましたが、

今回は珍しく話の『構造』の類似のコジツケ。



山田監督が仰るように、『けいおん!!』はあくまで唯たちが楽しく学園生活を謳歌するのが描かれる訳ですが、

彼女たちを楽しく過ごさせることによって、自己の利益を実現している存在がいた可能性があると思っています。


『谷川流』先生は、推理小説好きな方ですから、意図的にやっておられると思ってますが、

『けいおん!!』の場合は、脚本家の『遊び』で、

エピソードが何通りかに解釈可能なように多義的に仕組まれてるのだろうかと勝手に思っております。



唯たちをコスプレさせるさわちゃん、

『女子×女子』を眺めてハァハァしてるムギちゃん、

は『かきふらい』先生の原作漫画も京アニのアニメ本編も明示してますから、『キョン視点の物語』に相当。


まあ、和ちゃんが唯たちを利用して高校生活を楽しんでいた、というのは別に本編と矛盾しませんし、

これ以外でも、恐らく27話、劇場版でも『ドンデン返し』はないと思います。

『ハルヒ』と違って、そういう『驚愕』を楽しむ娯楽装置じゃなさそうですから。


ここから勝手で乱暴な特殊の一般化コジツケに入りますが、

『和ちゃんが裏で糸を引いている』
      ↓
『主人公たちが自分の意思で楽しんでると思ったら、他の誰かの利益のためだった』

という構造は、

『黒幕=一神教の神』

『操り人形=被造物』

という構造のパロディじゃないか?と異端解釈。

…別に、『黒幕』が『フリーメーソン』や『300人委員会』のパロでも良いのですが、


『一神教の神は否定するが、八百万の神はエコロジーにも合致してて全肯定』


というシンプルな立場が、

『江原啓之』さんの『スピリチュアル』や、

『梅原猛』先生の『縄文マンセー』、

『安田喜憲』先生の『多神教マンセー』、

『松岡正剛』先生の『外国の真似したのがイカン』仮説、

等々の影響か、私の勝手な主観では、漫画、アニメ、ゲーム等で目にするようになって来たので、

まあ、『黒幕=一神教の神』で代表させて勝手なことを垂れ流します。



『奈須きのこ』先生の『空の境界』のCMで『神だって殺せる』というセリフを聞きましたが、

『一番うしろの大魔王』でも、たしか『神なんて人が作り出したモノ』というモチーフがあって、

キョンの統合思念体への反感も、『神への反逆』のパロディと見えなくも無い。

『麻枝准』先生の『AngelBeats!』は『神への反逆』を2010年で一番明快に打ち出していた作品だと思います。
(ハルヒみたいなキャラ出して、ハルヒ以上にハルヒしていたと思います)

一部では『神殺し』『神批判』が、『若者の自由のための闘争』と重ねて考えられているのかも知れませんが…


私の勝手な解釈ですが、

『マリみて』からキリスト教色が払拭されて、『釈迦見て』に作者の関心が傾注するのも、

オタ界の

『とにかく一神教だけ否定してりゃオッケー』

の具体化してしまった例かもしれません。


『けいおん!!』では、『ふわふわ時間』で『神様お願い』と歌うように、

『神との対決』は見えてきません。


高3で、将来の進路を自分で決めて、自立する唯たち、

ムギ、律、澪が料理や裁縫できちんと技能を発揮する様子が描かれてましたが、

料理裁縫ぐらい、一神教徒も出来る訳でして、

『一神教』から自由にならなくても人生は過不足無く過ごせそうです。


ムギの母は、キリスト教である可能性もありますが、問題にならない。

一神教は全く『けいおん!!』世界の幸せを破壊しない。


これは、京アニ社長八田さんが『秦氏』じゃないのか?というこのブログでのコジツケを踏まえると、

『飛鳥昭雄』先生が『ムー』で述べておられるように、

『一神教』を日本に持ち込んだのが『秦氏』

ということと関連があるのかもしれません。


ルーツを大事にしてるから『一神教の神』を否定できない??(勝手なこと言って済みません)


こう考えると、ヤマカンさんが関わった『かんなぎ』の『ナギ様』のライバル(?)が

『ザンゲちゃん』なのが面白いですけど。
(武梨えり先生が描きたい様に描いてるだけなんでしょうが…)


『一神教は不寛容』というのが自由を好む人には嫌われる理由だと思われますが、

『魔女』『エスパー』『宇宙人』を扱った作品では、

『人類が「魔女」「エスパー」「宇宙人」を排除したのがキリスト教の「魔女狩り」の真相』

という過去話が、よく見受けられます。これからも何度でも描かれるでしょう。


蛇足1。

日本でも『魔女狩り』見たいなモノは有りました。

『キリシタン弾圧』は『かみあり』的な

『八百万神の信仰はキリスト教と違って寛容』

という作品ではどう調和してるのか、興味深いですね。

今より自然と人とが共生してた時代に起きたんですよ?


創価学会によれば『諸天善神』は『法華経』を守護するそうで、

『多神教』と『創価学会』は矛盾しません。

前述の『安田喜憲』先生の


『多神教は一神教より優れている』


という内容の本が創価学会系の出版社から出てるのが判ります。

仏教の中でも『一神教』に近い『法華経第一主義』の立場が、『キリスト教』批判の道具として

『多神教マンセー』と共闘してるという形。

『神を殺す』という作品は、知らない内に新興宗教団体の宣伝になってるかもしれませんね。


蛇足2。

まあ、『神のみぞ知る世界』ではゲーマーの主人公が『神』なわけで、


厨二病の自嘲的な自己イメージ『自分=唯一神』


でもあるわけですが。

岡田斗司夫さんは、自分がデブだったのは『自己否定の一種』と痩せる前に仰ってた気がしてますけど、

まあ、『オタク』という一般人から見て否定的な立場を、

積極的に肯定してるような『オタキング』(自称?)ですら、

一種の『自殺願望』、『自己否定』を内面に抱えていたということで、

『エホバ殺し』は、オタクの自殺願望、否定的自己イメージの作品化なのかもしれませんが。


蛇足3。

『多神教マンセー』は『神道』を評価する立場と重なるんですが、面白いことに、

飛騨国一宮『水無神社』に青木さんと伺った時、禰宜さんは『神道は教義はありません』と仰いました

愛知県の『猿投神社』でも、滋賀県の『阿賀神社』でも、同様の返答。

これは、神社本庁か、誰かが、キリスト教や創価学会から論破されないように入れ知恵してるのかもしれません。


ところが、宇佐八幡宮や出雲大社、弥彦神社等以外ではほとんど『二拝二拍一拝』でお参りせよと指導しているそうで。
(厳密には神職は『礼』より深いお辞儀の『拝』で、一般参詣者は『礼』ですけど面倒なのでスルー)

天皇家の儀式では拍手はほぼ行われないという事実から、

『女性皇族』が拍手しないと勘違いした『細木数子』さんが、


『女性は神社で拍手しない方が良い』


と主張したのに対し、

北海道の西野神社宮司が


『拍手しないのは誤った儀礼』


と断言しておられて、

カソリックの『典礼問題』に明らかなように、『儀式』に正誤があるっていうのは『教義がない』とは言えず、

信仰上の理由があって個人の行動を束縛するんですから立派に『教義』がありますよね。


田頭宮司によれば、

1875年(明治8)まで、神社でお参りは様々だったが、政府が『神社祭式』を公定して、『二拝二拍』
(原文は『再拝拍手』らしいので『一拍』かも…最後の一拝無し!)
                    ↓
1881年(明治15)、『神主』の学校、『皇典講究所』が『二拝二拍一拝』
(甲斐奈神社の高原光啓禰宜は『二拍で終りはしまりが無いからじゃないか?』と推測してるそうで…別に無くても良いのに一拝導入?)
                    ↓
1907年(明治40)、『神社祭式行事作法』で『二拝二拍二拍二拝』(…二拝!?)
                    ↓
1942年(昭和17)、『祈る人間が二拝して神に語りかけようとしてるときに拍手で中断すべきでない』ということで、
                                     『神社祭式行事作法』改正。『二拝二拝』(二拍廃止!)
                    ↓
            『神祇院』、『拍手が無いと祭典が寂しい』という理由で『二拝二拝二拍』。        
                    ↓
1948年(昭和23)、『明治40年の作法に復帰したいという全国の神職の強い要望』で『神社祭式行事作法』改正。『二拝二拍一拝』
                                              (神職は二拝二拝二拍一拝)

…私の個人的間違いもあるかもしれんので、斜め読みでスルーして頂きたいのですが、


『神社の要求する作法でお参りしてくれ』


という田頭宮司の主張は一理有ります。

しかし、

私の曽祖父は1877年生まれなので1907年式『二拝二拍二拍二拝』

祖父は愛国者でしたから1942年式『二拝二拝二拍』        

父は1939年生まれなので1948式『二拝二拍一拝』

家族でも一代ごとにバラバラの拝み方になってるわけで、そうでなければ、拝み方が一生のうちで変わっちゃう訳です。

この原因が神社を指導する組織(戦後は『神社本庁』)の変更好きにあるのは明らかです。

明日にも変わるかもしれない『二拝二拍一拝』を昨日までは


『昔ながらの伝統です』


と言い張って他のやり方じゃ誤りとか言ってて、変更したら、


『神社の要求する拝み方ですので』


と昨日までの儀式は無かったことにしてしまう、これじゃ『千日詣で』もできないですよ。リセットしちゃうかもしれないから。

単なる儀式ですから、神への祈願とは関係ないですよ、というのなら、細木数子式でも構わないことになりかねません。

よく日本人は『初詣は神社で、クリスマスも祝う』とかいわれますが、少なくとも田頭宮司は、


『十字架に拍手したり、お寺の御本尊にアーメンと拝むのはオカシイ』


と仰っていて、到底、『教義が無い』とは見えないし、『どんな宗教もオッケー』には見えません。

本当に寛容なら、


『教会で拍手したり、仏像にアーメンと拝むのが日本人』


でも良いはずで、

やっちゃいけないことがあるなら、それが日本人がキリスト教、イスラム教と対抗しうる『信仰の正体』

であって、『クリスマスも祝う』は『寛容の証拠』にはなりません。



『初詣もクリスマスもあるからキリスト教とは違う』



というのは、『日本人は宗教は何でもアリ』というウソの宣伝に過ぎないようです。

やっちゃいけない宗教タブー、ちゃんと有る気がしてきましたよ??

そこを侵犯されたら、日本人だって『ジハード』するんでしょう。


また、『鳥居礼』先生のような『ホツマツタエ』肯定論者が主張するように縄文時代から神道が有ったとして、


『二拝二拍一拝』じゃない時代が1万年以上、

『二拝二拍一拝』は1948年以降、62年目


ということになります。日本人が、自然と調和して、妖怪が身の回りに沢山いた時代に、『二拝二拍一拝』はありませんでした。

ザビエルが来たのが1549年ですから、教科書の言う『キリスト教伝来』より300年以上新しいじゃないですか。

『神』の命じゃなくて『人の組織』の都合で決まった作法を『最近の多神教マンセー』は『伝統的』とか主張してるように見えますね。
(島根県の神社には創建は縄文時代とか言ってる所も有ります。二拝二拍一拝も縄文からと言いそう…)


水無神社は、社史によれば、江戸時代、元和年間(1615~1624年)に八幡神社だったので、

9月25日の『例祭』を8月15日に変更したとあり、

1872年(明治5)にまた9月25日に復したとあります。

1961年(昭和36)以降、5月2日に変更されています。

禰宜さんの話では、『神社にとって一番大事なのは例祭』ということですが、

160年近く違う日だったわけで、これ、『二拝二拍一拝』より長い伝統なんですよね。


田頭宮司は、


1875年の『再拝拍手』制定は、伝統的『両段再拝』が起源、


と書いておられますが、
これ、


『「礼を2回」×2』


だそうで、

いつの間にか、1回省略されています。

コレでよいなら、宮司が主張する


『昔から拍手してきたから省略は不可』


は成り立ちません。

現に1942年に無くてオッケーということになったわけで、


拍手が復活した理由は『伝統』ではなく『寂しいから』だ


と宮司ご自身が書いておられます。

…ああ、勝手なことを書いて済みません。


脱線が多いですが、まあ、本筋に戻ると、

『麻枝准』先生、『Cut』誌だかのインタビューで『AngelBeats!』の構想は2年前からあったと仰っていて、

2010年放映な訳ですから、2008年には企画が立ってたわけで、

『けいおん!』アニメ化企画がTBSの『中山圭久』プロデューサーから出たのが2008年ですから、ほぼ同時期。

ヤマカンの『ライブアライブ』の影響だとすると、2006年に布石は打たれていた訳ですが、

何故か、2008年に同時に始まってる偶然が面白いですね。



『けいおん!』の『立花姫子』が『タチバナ』繋がりで、

『深見青山』さんの『ワールドメイト』の本部『静岡県伊豆の国市立花』、

『深見青山』さんの師匠『橘カヲル』さん、

『ワールドメイト』の出版社は『たちばな出版』

谷川流『涼宮ハルヒの分裂』登場の『橘京子』

機本伸司『スペースプローブ』登場の『橘緑郎』

ヤマカンが関わったアニメ『あたしンち』の主人公は『立花』

等々の『橘』コジツケしてきましたけど、

『AngelBeats!』の『天使』は『立華かなで』でしたね。『タチバナ』繋がり!


ガールズバンドのボーカルが『ユイ』ってのも面白い偶然でしたし。


先代ボーカル『岩佐』さんは『バラード』で成仏しちゃったわけですが、

『けいおん!!』2期16話『先輩!』であずにゃんが学祭で『バラード』演奏したらどうか?

という提案が、20話『またまた学園祭!』で実現してないかもしれないというのが、

『AB!』の『バラード』重視と対照的で面白い。


『ユイ』が『バンド』より『ジャーマンスープレックス』や『ホームラン』の方が大切だったという

『AB!』の終盤は、最終回24話『卒業式!』で演奏をした『唯』とこれまた対照的。

…山田監督の理想の唯は、麻枝さんの『ユイ』と同じ『バンドより大切なものがある』道を歩いてるんですけどね。

そういうところも同時代性で面白い。


で、上で長々書いた脱線と関連するんですが、

『麻枝』さんは『神』との対決、『天使』との戦いをメインに据えていました。

京アニは、『神様おねがい』という歌詞で唯のバンド人生を開始させ、『天使にふれたよ!』がラストでした。

もちろん、『神との対決』なんて出てこない。
(律たちは『翼をください』演奏してましたが、思い返せば、『立華かなで』の『翼展開』と面白いイメージの重複。)


ところが、よくよくコジツケしてみると、京アニと麻枝さんは、非常に近い立ち居地で、

結局、『AB!』は、『神はいなくて、誰かが作ったシステムと戦ってました』みたいなドンデン返しにしてましたが、

これ、前述の、『和ちゃんが黒幕?』という構造と却って近いと思います。


京アニは一神教と戦わない理由があると思うのですが、脚本家の中には、


『被造物の自由=創造主殺し』


という発想の方や、最近流行の『スピリチュアル=多神教』マンセー、『アンチキリスト』の立場の方もおられたかもしれませんので、

こっそり、『知らない内に神に支配されてる』恐怖を仕込んでいたかも。


『半田晴久=深見青山』さんの『ワールドメイト』も、

『出口王仁三郎』の『大本』、

『武田崇元』さんの『愛善苑』


も『神道系新興宗教団体』で、『多神教マンセー』には利害が一致しそうですし。


武田崇元さんは、『霊的ボルシェビズム』の立場で学研『ムー』等を通じて、

『オカルトブーム』で若者を洗脳して革命戦士に仕立てようとしておられた訳ですから、

『アニメ』を通じた『反一神教』宣伝しようとか思っておられてもおかしくないなあ、

とか勝手に決め付けております。


グダグダですが、必ずしも、『反一神教』の宣伝が、『多神教マンセー』『アンチキリスト』の宣伝とは限らず、

『寓話』を使った、あらゆる『個人の自由への支配』への抵抗である可能性もあるんですけど。


要するに、こういう黒幕による操作を暗示してるのが『けいおん!!』の『和ちゃんの操作』暗示や、

AB!』の『神と対決してるつもりだろうが、本当の敵は人間』とかいうドンデン返しかもしれないんですが。


まあ、スポンサーへのクリエイターの反逆ですかね。

ハルヒ』連載中断も、そういう流れかもしれません。
(勝手な妄想して済みません。陰謀論好きなもので)


蛇足4。

『折口信夫』が教壇に立ち、日本神話研究の一大聖地だった『國學院大學』は、現在『革マル派』が自治会を押さえて拠点にしてるそうで、

2001年には内ゲバ殺人も起きてるそうですが、

素人考えですけど、『古事記』『日本書紀』研究、『神代』研究にも、『折口』と対照的に『反天皇』『反日本』の傾向が出るかもしれません。

いや、既に出ているかもしれない訳で、

たとえば古事記学会代表理事『菅野雅雄』先生は『歴史読本820特集歴史検証「日本書紀」』(2007年11月号)で、

『古事記』『日本書紀』の『王権神授説』について


『これが西欧諸国(中略)の影響に成るものか否かの追求は今後の課題』


と書いておられて、


『古事記・日本書紀の神話は西欧古代が影響してる可能性がある』


と書いておられる。

学問的には、そういう仮説はアリでしょうし、こういう比較は大好きですが、

まあ、


ギリシャ・ローマが日本神話の起源かもしれん、


というわけで、

『古事記』を日本独自と思いたい勢力や、

縄文時代から天皇はいたなどという『神道』マンセー派とは一線を画していると思いますね。

日本神話をかなり相対化しちゃってると思います。



そういえば、出口王仁三郎は、『万教帰一』といって、全ての宗教は本質は同じと論じ、理想社会が来れば宗教は無くなる、

という立場ですから、一神教と多神教の区別もしてないわけですし、

まあ、反宗教の共産主義とも近い立場だったわけで、

『霊的ボルシェビズム』とも遠くは無い?
(『中沢新一』先生も『多神教と一神教は同根』と論じてました)


ソ連の書記長『フルシチョフ』も


『資本主義より共産主義のほうがキリスト教の理想を体現してる』


みたいなことを言ってたそうですから、

『一神教』の側でも『反宗教』と『宗教』の接近があったのが面白い。
(一時的に異端になってた南米のマルクス主義神学とかも)

国学院と過激派のコラボも不思議じゃない…?

ここで何度も指摘してきたアニメやラノベの『宗教ネタ』も、必ずしも『宗教宣伝』じゃ無いかもしれません。

『無神論』普及のレトリックに過ぎないかもしれない訳ですね。


日の丸君が代墨守して、


排外主義を実践してるのに、


いつのまにか反日・反天皇になってました、



なんてことになる日も来るのですかね?