池やん!まいど!おおきに!ごきげんどぅ!

仕事・今までの人生
このごろ悩みが多くて困ります。
周りの多くの人に救われているのを
実感する今日この頃。

広島 ~ 呉 ~ 三原  その①

2011年12月31日 | 旅先の事
クリスマスを過ぎた日、私は鳥取へ行こうとしていた。
しかしその後の寒波で天候も悪いと聞き、広島へ向かう事にした。
私の知っている限りでは、神戸を過ぎると丸亀製麺のうどんを賞味する場所は
岡山県と広島県との境の町、笠岡市中まではその店の所在が分からないでいたところ、
知人が、姫路市内の姫路バイパスを飾磨方面に1キロほど行くと右手に有ると
教えてくれたので先ずはそこを目指すことにした。
神戸で年末の素人運転の車にイライラしながら阪神高速神戸線をひた走り
第二神明道路、加古川バイパス、姫路バイパス中地で出て飾磨方面へ・・・・・。
で、丸亀製麺中地店に到着。



今回は、釜揚げうどんの特盛、かしわ天丼である。
かしわ天丼は一切れが二つくっついていて、
二つ分のお勘定であろうかと思ったのであるが、
レジ打つおばさんが一個分でお勘定は良いとの事ですごくラッキー!!!
しかし、釜揚げの量がすさまじい。釜場にいるおにーちゃんに聞くと、並盛の2倍。
私自身食べきれるかどうか不安になりつつも、問題無く完食。

翌日、早々に仕事を済ませ広島市西区の小さな飛行場の近所から広電バスに乗り
とにかく広島駅に向かう事にしてそこで市中ウロウロ計画を練ることにした。
広電バスは、路面電車を右にして短いバス停の間隔を発停車し広島駅へと向かう。
バス車窓から、右に電車を見ていると・・・・・・・・・。
京都市電が走っている。
大阪市電が走っている。

その路面電車が本当にそうなのか?広島駅前の広島電鉄乗り場の係員に聞いてみると、
紙屋町交差点でその姿が見ることができるとの事。
じゃあ、行ってみようと歩き始めた。

どこと無く、古い佇まいもそこかしこに残っている。
昭和の作りであろうとは思うが、川を渡る橋も古さを感じるものが多い。



闇市の残りをも感じる商店街も存在しているようで、
下画像の商店のある町並みはどこか都市開発から取り残された空気がある。
この商店の周りは、今度は尋ねてみたいが《純喫茶 パール》を見つけた場所だ。



飲み屋街が連なる町並みを発見したのでその通りを歩く事にした。
午前中から営業しているはずもなくひっそりとしているが、
風俗店が多いのに驚いた。
電柱が傾いているのが驚きだったし、
空中にある電線の取り回し方や配線の様子も異様である。



夜の世界や風俗のオネーチャンの衣装店発見!
エロ過ぎる。
しかし不思議なもので、スーパーやデパートや街中で少しきわどい女性下着が
ディスプレーされている下着販売店の前に私は立ち止まり凝視する勇気は無いが、
このお店は不思議と覗き込むことができた。



紙屋町交差点に到着した。
早速、大阪市電の到着。
私が通っていた大阪市立うつぼ幼稚園の前の本町通を走っていたやつそのまんま。
野田阪神行きの市電であったように思う。
川口町や本田方面から通う友人はこれに乗っていたはずだ。



大阪市電の写真を取っていると、美人の気配を感じる。
私の前を通るのを遠慮してくれているご婦人がおいで、
妙齢ながら仕草のかわいい方で有りお礼を述べると、
私に対して色々とご質問をくださり、私も気をよくして
ついついしゃべりこんでしまう。
ほどなく、
対向方面から京都市電の登場!



目の前に広島駅行きの電車が到着。妙齢美人が乗るので私も後に続き引き付けられて乗る。
広島駅までの楽しい会話で短いデート気分。
なんとなく新しい出会いのときめきを感じたので
独身ですか?聞くと、ご主人がお有りとの事、ご主人は幸せ者である。
親切にその後も広島駅内の乗り場方面を教えてくれた。
感謝である。
しかし、出会いは本当に突然にやってきて素敵で、
この頃では独り身の気楽さからかさびしさゆえの感情か
少しの時間でも美人との会話にドキドキときめいてしまう私は純情青年そのものだ。
妙齢美人さん(太田ひろみ似)もし会う事があればな~~~~。

広島駅のホームで腹が減ったのでこれまたこの頃恒例になりつつある駅そばを食べる。
天ぷらそばとおむすび2個のセットメニュー。
さてどこに行こうか?
呉に行こう!決断し呉行きの電車を待ち乗ると・・・・・・。



今時扇風機が天井にある電車。
向かいの席に若い子供をつれたお母さんが座る。
その横に、イケメンの若いお父さん。
行儀の良い子を連れている。



呉へと向かう電車は民家の軒を掠めるようにして右に海を見て
カーブ続く鉄路を車輪をきしませながら走っていく。
呉を散策して、海沿いに三原経由して京都に帰ることをこの電車内で決めた。

方言で読む 日本国憲法 第9条 《広島弁》


先の大戦で鬼畜の所業としての人類最初の被害を被った街が広島である。
日本国内で全くの逃げ場を作らない空からの広範囲による攻撃は非人道的である事は
周知の通りである。
その原野から立ち上がり現在の街の姿になるまでに幾程の年月がかかったであろうか。
その労苦を偲ぶ時、私は先人の逞しさに感涙さえ流れようとする自分に感動している。
私の取引先の量販店は戦後、先代社長が広島に復員して帰ってきて
何も無いところから裸一貫バラックで駅前の衣料品店からスタートした企業である。
《継続は力》
この企業、今や一部上場している。
日本人独特のサクセスロードをこの頃の企業人は忘れているように感じるのである。

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