池やん!まいど!おおきに!ごきげんどぅ!

仕事・今までの人生
このごろ悩みが多くて困ります。
周りの多くの人に救われているのを
実感する今日この頃。

「最近、ブログ更新してないのですね?」って、聞かれたのですが、何か?

2017年08月05日 | 変化した事
 「最近、ブログを更新していないのですね?」と、言われる知人が多くいる。
ついさっきも笑顔の質問を受けた。

不投稿を残念に思ってくれているのなら、心地よく、嬉しい。

日々の変化や事象を以前は、当ブログで、独自の気の向くままの
わがままな文章で綴っていたのであるが、
フェイスブックへの参加して以来、
当ブログへの投稿する事が全くとも言えるほど無くなってしまった。

私が物象を観察し、感受性の鋭敏さが失われてしまった事も一つであろうかと思う。

職務の繁忙・精神的疲労・肉体疲労等のまっとう風な言い訳は行わない。

当ブログを投稿する事が邪魔くさく思ってしまっている。
当ブログだけではなく、フェイスブックへの投稿においても、
めっきりその投稿数は同様の理由で減ってしまった。

そこで・・・・・・・。

探せば当ブログへの投稿として最適な題材があるにも関わらず、
気付かずに通過していった日々の事象を
多く撮りためた画像から掘り起こして投稿をしてみようと思う。
*この投稿が済めば、その決意も忘却してしまうかもしれないが、ご容赦願いたい。

さて、何度も私は当ブログで申し上げているが・・・・・・・。






冬の日本海側の風情が好きなのである。

画像は全て、平成29年2月21日のものである。

小浜市内から少し車を走らせた、若狭湾に突き出た半島の岬の小道の急坂を下り終え、
行きどまりの崖の下にある小さな漁村の風景である。

湾内とはいえ、時化。

時化の海を眺めていると引き込まれてしまいそうになるので、あまり近くには行きたくはない。
だから、見渡せる適当な崖の途中から、沖合いを遠望してみる。



右から突き出たのは、常神半島。先の島は、御神島。
御神島は、確か?ソテツの北限地ではなかったかと記憶する。

ハマチ(関東圏ではこう呼ぶらしい=ワラサ)を釣りに船を出した事がある。

この日は、当地の量販店でハマチを買って帰った。
若狭湾産出のものではなく・・・・・・・。



千葉県産。



久々に西津漁港を訪ねたが、船の数もめっきり少なくなったように感じる。



小浜新港では、退役した小浜水産高校の実習船が係留されていた。

そうそう、この日は、何もやる気が起こらずにいて、越前岬の水仙でも見に行くつもりが、
ずっと近くの若狭地方を徘徊の一日で暮れた。


七つの水仙 Seven Daffodils Brothers Four


寂しいと厳しいが同居してる日本海側の冬情緒は、喧噪とそこにある人間関係に
安堵を求めがちな私には、どこか心の奥底に、
《寂しさの時間に耐える堪忍が生み出す静寂》を求めている深層心理が、
自身、分からずに反応するのかもしれない。


Who am I ? I'm not 24601. 【les miserables】

2013年01月14日 | 変化した事
良く私は、私の発想や考えている事についてその≪源≫はどこにあるのか?を
質問されるときがある。
≪源≫は存在しなくて、ただ思いつきの≪夢≫を含んだ≪空想≫を
具現できるかどうかをそれに至る過程を緻密に考えているだけである。

その癖(と、言うよりも病的な性格)は、20歳代の頃から持ち合わせていたし、
今ではその時期の馬鹿げた物事を真摯に考えていた事は
≪神童≫と呼ばれていたに違いない。(笑)



今の究極的に物事を突き詰めて考える趣向(あえて趣向という言葉を使う。)は
子供の頃より既に持ち合わせていたように思う。

その子供の頃の話であるが、多くの男子はある一定の時期になると
自転車に乗り出し付近一帯の行動範囲が広がり冒険心がふつふつと勃興する事になる。
私はその自転車の性能によって広げられた自己行動範囲の世界よりも
スピードの魅せられて結果的に免許が取れる年齢になるとよりスピードを求めて
必然二輪車に興味が沸き当たり前で二輪車を運転する事になったのであるが、
その二輪車で更に行動範囲が広がる以前の自転車のスピードの極め方について
ここでひとつの笑い話を記す事にしたい。

単純に加速を極めたかった。
今ほど交通量の多くない中央大通りの木津川大橋の下り坂から九条方面から登り
東向きに、全力で走行する時速45kmがマックス!
次に考えた事は・・・・・・・・・。
①ゴム動力
自転車のチューブで紐を作りゴムパチンコの要領で自転車を打ち出す。
②急坂で全力でスタートする
結果
①チューブの反力に私自身の体力がついていけなかった。
 要するに引き伸ばす事ができないのと路面との接地抵抗が少なく自転車がゴムの反力に
 負けてブレーキしていても滑り出してしまう。
②薩摩掘公園の滑り台の上に自転車を担ぎ上げチャレンジし今まで自転車で感じた事の無い
 究極の加速を得られたものの転倒し足を縫う大怪我をする。
 足首が裂傷し、皮膚が捲れて脂肪が捲れ出て筋肉組織を見る事ができた。
 湊町の大野病院(今も在るかな?)で、緊急縫合手術。
 後遺症だろうか未だに傷の跡が痛い時がある。アホの極み。

下記画像は3年前の現場を訪れた時のもの。



小学6年生当時、世は仮面ライダー(1号)真っ盛り。
戦闘物実写アニメの話題で占められている教室の中で少人数ではあるが、
それらに興味が無い友も居た。
≪どてらい奴≫という商売人の根性モンの連続ドラマに感動する小学生である。
私の母校(大阪市立明治小学校)の校区である、大阪市西区立売堀の
機械・工具・鉄鋼加工品の問屋が集まる地域の中の企業の【山善】さんの
創業者の起業の話であった。脚本は大阪人情話を欠かせたら最高の評価を
織田作之助と並ぶ、花登筺(はなとこばこ)。
私はこのドラマが好きで欠かさず見ていた。
商売人はこのような精神構造なのだ!見習わなくてはと感化されていた。



最近になって、実家の本棚から拝借した。小説≪どてらい奴≫
昨年の疲れていた時期にゆっくり読んでみたがその話の中の登場人物の精神構造は
今の世では既に化石。伝えようにも伝える実際が無い。

では今の精神的構造はどうなのか?を記してみる。下記の通りの如く、
常に万物の平穏・あたりまえを求めているし宇宙に視野を広げれば自身が空虚で
空気や水同然で全く≪心≫が動じる事が無くただの生き物でいることに終始する。
その終始したいという感情も無い。
終始しているのであって終始する為に何かを変えようともしていない
少しづつであるが、それが当たり前という事が分かりつつもいる。
そこには感情は無い。



ただそれだけの日常である。

LES MISERABLES 10th Anniversary DREAM CAST


先日、遠い地の知人に紹介され勧められ、先にバイク仲間が見たというので
≪Les Miserables≫の映画を見た。
新たな分野を自身の中に素直に発見するに至った。
それは・・・・・
【物語のほぼ全編に流れる愛というもの。】

私は今までの勘違いを気付かされた。

この映画は鑑賞するに値するものである。

動画をリンクしているがこれは、ミュージカル版である。
映画はもっと≪血・汗のにおい≫を感じる迫力を持ちミュージカル映画である。
演者が演じる登場人物の感情が間近で感情を伝えるものであった。
この映画を見てから、ユーゴーの書く原作を読むのも良いかもしれない。
と、いうよりも私は既にその書を手にしている。
なかなか翻訳が日本語にうまくできない部分も在る様なので独自解釈も必要であろう。

もう一つ、そして感じた事!

日本のテレビで流れる音楽は芸術性のかけらもなく
芸能から能(脳)を取り去った芸である事。
それに、揺れる日本民衆は既に末期的症状に犯されている。
治癒の可能性は無い様に感じ、できれば伝染されたくない病である。

突き詰めて先を読み切る事

2012年11月29日 | 変化した事
これほど、心情を具現した音の表現は無い。
もともとショパンのピアノ曲は好きなのであるが・・・・。
と、書き出しは好きなピアノ曲の音色から感じる感情を表現して今回のブログの
文面をスタートする事にする。
先ずはお聞きいただき心を鎮めてもらいたく思う。

Chopin-Etude no. 3 in E major, Op. 10 no. 3, "Tristesse"


今ではもう回りは冬の風情があふれてきていて、
街の店々は12月のクリスマスや歳末商戦を迎えるショーウインドウや
店の飾りつけも見受けられるようになってきている。
私の住む山の中でも民家の軒からあのイルミネーションを飾り付ける家々も
ちらほらと見受けられるようにになってきた。
なかなか古民家でのあの飾りつけはアンマッチなようであるが、
意外であるが茅葺にも良く似合うものである。
好ましいと感じる事さえある。
さて、
この季節一番私は移ろい行く季節を感じる季節でもある。
明の季節から暗の季節への急坂を転げ落ちるように季節の移ろう速度は
加速度を増して秋は急速に冬へと変化する。

私はこの時期、仕事に熱中している季節から少し手の空く季節を迎えて
物事を考える事が多くなる時期でもある。
以前、主としていた仕事では、この時期からすごく忙しくなり、
そのように考える事は皆無であったのであるが・・・・・・・・。
山中に住み始めてからその仕事の呪縛から解き離れた心中には
あの、常に緊張した張り詰めた糸の張力の張り直しと確認の連続の毎日が
懐かしくもあり、又、その緊張がなくなった今では、
その緊張の糸が無くなった事が寂しく切ない時も有り、
常に感傷的な心情が湧き出ているのも実際である。

よって、何を見て、何を感じて、何を話をしても独りになれば
ふさぎこむ事の日々が増えつつあるのも感じている。
決して弱くなったのではなく、真面目に真摯に真剣に考えれば考えるほど
その刹那の万物の事象に遅れまいとする焦る気持ちや、
その刹那な事象に追いつけず、時節の流れに乗り切れず思い通りにできない
悔しさが自身で悔しくて仕方がない。自己反省のみしかないのが現状である。
弱くなった折れる気持ちが自身で悔しいのである。

自然を見てみると、春に桜が咲き、夏に蝉が鳴き、秋に木々の葉が色付き、
冬には低く垂れ込めた灰色の空から雪が降る。

これは変わらぬ超太古からの自然の常識的時間経緯であり毎年繰り替えされる
あまりにも当たり前な事象。
その中に生きている私も自然の一部なのであるが、
それを理解しているつもりでも考える事はやはり自身の行く末。
突き詰めて今からの自身の今後をどうしても考えてしまう。

物事の成り立ちや科学に裏付けられた実証を突き詰めて観察し研究し
実行する場合のようではなく、どうしても自身の心中を深く真剣に
考えてしまうと悲しくなる。

私はいったい何を今までしてきたのかこれから何をしようとするのか?

これだ!という目標が定まらない。これが実情。

《突き詰めて心中の行く末の先を読み切る事ができずに居る事が、
 これほど苦しい事はない。》
と、いうのだけは最近理解ができた。



旅を終えて

2012年04月06日 | 変化した事
昨年の11月から本年3月末まで全国を回る事ができた。

目に映る多くを観察し又その地方の風土や空気や空を見て触れて聞いて匂いを感じる事によって
直に五感に感じるものが多くあった事は言うまでも無い。
また、その機会を平然と理解を示し、与えてくれた周りの人々の理解に
今はほんとうに心より感謝している。

昨年の今頃は、精神的にも肉体的にもたいそう辛くて実際に体も悪くした。
今も頭皮や額にその症状の痕跡が残っているのであるが、
少し疲れたり精神的に不安定になるとその皮膚炎が悪化をするが、
なぜかしらこの頃では、自身では気付きはしていないが私の思慮と別の場所で
私の深層部の本来の精神と情緒は安定し気分は安堵しているのであろうか?
その症状はひどくはなってきていないし、徐々に快方に向かっている気さえしている。



このブログへコメントを寄せる方からは色々と意見を頂戴したり、
近況についてお見舞いをいただいたり、
また反対に、私の行動にあきれた内容の文面が殆どである。
よってブログ上で公開できる文面も私が選択し、私に都合良く心地よい文面だけに
特化している事を批判のコメントを寄せていただいた方にはお詫び申し上げます。
「ごめんなさい。」
先日、《旅を終わるに当たって何が見えましたか?そんなあなたの事が淋しい。》との
コメントをいただいた。そもそも何かを求め欲する事の無い旅であったので、
何かを得たという実感が無い。
ただ、《以前の池やん》ではないことをご理解いただきたく思う。

断る事のできない《面倒見の良い池やん》から、
見返りや報酬など求めない無欲で生きる、自分の本質の人に換われたのかもしれない。



私自身、この全国を回ってやろうという発想の根源は全く自身からそうしようと
考えたのではなく、《必然的にせざるを得ない状況になったからスタートをした。》と
言うのがふさわしい言葉の表現であろうと考えている。



旅の始まりのきっかけは一本の電話を山科区にかけたところから始まっている。
その先で出会った人たちがあり、その人たちの中に混ざる事にあって
自身の生きる方法に無感情で無欲で全く無抵抗で流れるままに
流れに逆らわず、波間に浮かんで風が吹けば風下へ行き、雨が降ればずぶ濡れになるのも
又、楽しい暮らし方や生き方じゃないだろうか?という発想から必然的に旅の機会に
巡り会えたと言えよう。

不思議なもので、もがいて懸命に仕事をしている時よりも、
言われるままの仕事をそれなりにこなしていて、ある時はまったくそっちのけにして
旅三昧の生活をしている間に取り巻きの人脈もまた以前よりも増えたようだ。
いつもヒキツッタ顔で対人に閉鎖的な心情の鍵が外れたので、
他人様は垣根の扉が明け易く、その垣根の高さが低くなったからであろう。



さて、旅を終了して今後についてであるが、
約10年前に別事業を立ち上げようとしてあまりにも忙しくて挫折した、
農産事業とその産品を使用した加工事業を企てている。
昨年に少しだけ試験的にやってみたのであるが流通先や卸市場の評価は高かった。
昨年7月から京都市の過疎地の山村に住んで何も考えないで暫くはボーッとしていたのであるが、
人の為や利益の為にではなく、素直に大地に挑戦してみたく思い行動を開始した。
自己利益は考えにない。

やはり、同じ所にじっとしていられない性格は残っている。

しかし、だが、

【今までの自分とは決別・さようならができた。】


旅立ちの唄 -Mr.Children (Photo Slideshow)



気ままに生きているように外から見えて,実際そのように自身で思っていても、
成るがままに万物の力に押し流され、引力に引き付けられていて、
渦巻きでグルグル回転しながら目が回って生きるのも、たいそう決断と勇気がいるもんだなぁ~と
この頃では感じていたりしているが・・・・・・。

次の旅立ちは、死出の旅までしないつもりでいる。
次の旅立ちは、当たり前だが燃料片道。
行きっぱなしの片道切符です。



その旅立ちの出発地も下調べは済んでいる。すばらしいところである。

にこやかに笑みを浮かべて、
「私は大人ですから、怒りません、憎みません、恨みません、悲しくないので泣きません。」
と言って、思い残す事無く旅立ちたい。

蒼い灯が揺れる新潟駅

2012年03月21日 | 変化した事
寒い日と温かい小春日和が交互する最近のある日、
私は新潟に居た。
新潟の街は初めてのことであり、ウロウロ散策をしようと考えていたのであるが
次の仕事の日程が窮屈でほんの駅の周りを15分ほど散策しただけで、
たいそう残念に思う。



独特の雰囲気を持つ駅舎。
昭和中期の築で約50年はその歴史を刻み独特の雰囲気を持ちその構造の利便性の悪さは
今では考えられないほど人に柔らかく接する建築構造に慣れた私には常識を逸脱しているが、
実際に降り立ってみるとどこか懐かしい雰囲気が有るもので、
これはこれでなぜか癒される駅舎でもあった。



今ではこの新潟駅ように天井の低い各ホームを繋げ横切る地下式の通路も珍しくなった。
私が子供の頃の大阪駅もこのようであったと記憶しているし、
石造りの磨かれた階段が残っているのも興味深く思う。



疲れた時には必ず訪れた駅の《駅そば》を食すのが恒例のこの頃であるが
探すのであるが見当たらない。
後日調査をしてみたら、閉店したとの事。



新潟駅から少しの距離を群馬方面へ信越線に乗ってみた。
降りた駅で発見したのが下記の写真の鉄柱。
明治43年、鉄道省製作の線路を渡る人道橋の橋脚の柱を歴史記念物として
駅前の広場の照明灯の柱に利用されていた。
明治43年(1910年)というと今から約100年前・・・・・・。

日韓併合された年でもある。

この柱はその頃から立ち形を残している。

新潟ブルース 美川憲一


歌詞の3番にある、♪~蒼い灯が揺れる~新潟駅よ~♪の部分を探しに行こうと思ったのも
一つの新潟駅訪問の理由でもある。
昔は、駅表示の《新潟駅》の照明が蒼のネオン管であったと聞いた。
それでは、
石造りであろうと予想している万代橋へ行こう!と駅から歩いたのであるが・・・・・。
なんら変わらぬ地方都市の光景に少しうんざりし見に行く事を中止した。

先に記述した鉄柱に自身の短く浅い人生をダブらせてみてしまい、
この時に頭脳内をよぎる今までの行動に対する成果や今この時の私の境遇は、
自身が種をまいた結果だとの自己批判の結論が結実し増大して
込み上げてきて脳内を支配し始めて不機嫌になり自分自身に対する怒りに気付く事が
早々にこの駅を去る気持ちにさせた。

淋しいものだ。

更新を休みます。

2011年10月11日 | 変化した事
山奥に引っ越して、自身の身の回りを幸福になるように
築いていこうと努力実践しているのですが
新しい事ばかりとの遭遇で
その解決に自身の方向性が迷走を始めていまして
ナビゲーションのアンテナの取り付け位置修正が必要かもしれません。
冷静に物象を語ることができなくなってしまっているようです。

私の気持ちを表現できるのはこの曲である。
Mr.Children に見つけた。

勇気をもらえたり、涙する事があるとも聞いた。
教えてくれた方に感謝している。

その方と一緒に聞いて涙してみたいのであるが、
はかない夢であろうか?

涙も幸せ感じる事の一つであろう。


Mr.Children 掌


皆様どうか、そっとしておいてください。

しばらく、1ヶ月ほど落ち着くまで更新を休みます。

今回は少し似合わない言葉を並べてしまいました。