池やん!まいど!おおきに!ごきげんどぅ!

仕事・今までの人生
このごろ悩みが多くて困ります。
周りの多くの人に救われているのを
実感する今日この頃。

味の『のれん』は庶民の為の街

2013年01月19日 | 好きな日常
雪の積もる前日の午後から、大阪を徘徊した。
特に大丸心斎橋から心斎橋を南へ向けて。
食べたい物と見てみたいところがあったからだ。

御堂筋の日航ホテル側から見る大丸心斎橋店の姿は美しくさえある。
少しも昔と変わらぬ佇まいを見せる。
しかし、どうも1階の赤のテントの張り出しがイマイチ建物本来の美しさを
壊しているようにも思えるのだが、いかがであろうか?
私なら、深緑の帆布を使ってみたい。



その大丸の南側の通りを東に歩き心斎橋筋を横切るとすぐ右手のお店を
目当てに行ったのであるが休業日。
残念である。
このお店は、私が大阪で仕事をしている在住時代に休日にバイクに乗らない日は
必ず晩御飯を食べていた店である。
近々、再び行く予定なのでこのブログで紹介しようかと思う。
創業から100年近いお店。

心斎橋筋を次の目当ての店へと歩く事にした。大手の楽器屋さん。
が~~~~ん!ここも休業日。

昼ごはんを食べていないので中途半端な時間で凄くお腹が空いていて、
う~~~~ん?≪不二家≫だぁ~~!
そのレストランのショーケースに惹かれてしまう。

が、

それを通り越すと左手に、
お~~~~~っ!懐かしい!≪心斎橋 ミツヤ≫ここ全く昔のままやん!
ショーケースのメニューサンプルすら懐かしい!
思わず入店。
強烈な昭和レトロの鏡張りだらけの壁と暖房の効いていないテーブルが
なぜか気分が落ち着く。

応対した若いウエイトレスさんに尋ねると、
即答で「創業62年目です!」
必ず古いお客様が訪れて聞かれる文言が一緒なのであろう。
なんと、いかにも商売人の町らしく、ランチメニューが午後5時まで
滑り込みセーフでそのランチメニューが下の画像です。
このような繁華街で≪ヤッスゥ~~~!689円!≫

お味の方は超昭和レトロな味でございました。



そのミツヤの店内でどこからか餡子の話が聞こえるので耳を傾けていた私は
「甘味は絶対に法善寺やん!」と思い食後の一服もせず、そちらに颯爽と足を向ける。
心斎橋を南へ、道頓堀橋の上はいったいナンなんだろう?
ひどい風情の崩れようだ。というよりも乱れまくり。
ここだけは幻滅で、もう勘弁して欲しい雰囲気。
≪カニ道楽≫からは焼きガニの美味しい匂いがする。
これはたまりません!
長年来ていなかったので、そんな昔の香りも懐かしく道頓堀筋を東にしばらく・・・
千日前のアーケードを南へ向かうが・・・・・?
ん・・・・・?
千日前通りを渡った。
なんば花月の前まで来て気が付く。
あ~~~~!
≪自由軒≫のライスカレーまでミツヤで挫けた空腹感を我慢すれば良かった。
で、
法善寺は千日前通りよりも北側。したがい戻る。



夕暮れ深まり、提灯の薄明かりがなんとも美しい横丁と水掛不動のお堂周りである。
ひっきりなしに、お参りの方々が水を掛け線香を手にされている。
なんともいえない雰囲気がある。
そして何よりも空気が澄んでいるし騒音が無い。
大阪の繁華街の真ん中のビルの裏側に入るだけでこのような石畳に打ち水の似合う
町並みが存在するのである。



水掛不動さんは昔と変わらずとにかく真っ黒けに苔むしている。
日が暮れているビルの谷間ではなおさらその表情は見る事ができない。
また、写真に収めようという考えが起こらない場所でもある。



そんな風情に酔いつつもお目当ての≪夫婦善哉≫をいただく事にした。
このサイズにしてはちょっと料金お高い目であるが、
そこは風情と歴史に感謝しながらいただく事にする。



甘いものは、やはりホッコリするものだ。

法善寺横丁から御堂筋へ戻る事にした。
その路地には粋なオネーさんや、いかにもな西川ヘレン風のご婦人も
ちらほら見受ける事があった。
しかし、よくよく人間観察しているとどうも暇そうなオヤジが多いし、
職業柄の個性的な方々の常住日常の活動時間帯の中に迷い込んだようである。
死神博士か?と思うような紳士ともすれ違う。
途中、≪ぼてじゅう≫仲店が閉店し移転して他店と統合されている張り紙を残念に
思いながら、御堂筋の≪播じゅう≫の南側に出てしみじみと子供の頃を思い出す。
播じゅうのお食事はお財布の中身に冒険が必要かもしれないので行きたいけれど
要調査である。
たしか、御堂筋に面して大衆すし屋があったようだが影も形もなくなっていた。

月の法善寺横丁 藤島 桓夫


大阪のこの日歩いた地域は、先の大戦で甚大なる空襲の被害に合い、
焼け野が原から立ち上がり発展した地域でもある。
戦後になって新生大阪の都市計画に準じて新しい人たちが
職や食を求めて地方から多く流入したに違いない。
その中で、創業から年数の長い企業か残っている事は特筆に価すべきことでは
無いか等と考えてもみた。
空襲の被害が無いに等しく少なかった京都市内は大阪と比べ物にならないほど
古いものは現存数は半端無く多いと思う。
多くの古い考え方を一気に空襲により焼失した大阪に比べて
残ってしまった京都はそれ故に超保守的な考え方の方々が多く、やりにくい。
しかぁ~し!そんな京都でも最近では、
本当にその古いものを生かし受け継いでいるものを市中で見つける事は
この頃では皆無に等しくなりつつある。

京都風が溢れ過ぎているからがその要因であろうという事は直ぐに察しが付く。

大阪はいつまでたっても大阪。

雑多の中に昔から光るものがキラリと息をする街である。

特に≪味ののれん≫に関しては、他地域では見られないものを見つける事ができるし、
実際、それを拾い手に取る事が安易にできるそんな街である。

まやかしの≪京都の味ののれん≫には触れたくも無いのがこの頃の私の本音である。
かばん屋の呼び込みのマイクロホンのように感じて止まないから。
水に濡れるとそのかばんは美味しそうに猫がかじる。

Who am I ? I'm not 24601. 【les miserables】

2013年01月14日 | 変化した事
良く私は、私の発想や考えている事についてその≪源≫はどこにあるのか?を
質問されるときがある。
≪源≫は存在しなくて、ただ思いつきの≪夢≫を含んだ≪空想≫を
具現できるかどうかをそれに至る過程を緻密に考えているだけである。

その癖(と、言うよりも病的な性格)は、20歳代の頃から持ち合わせていたし、
今ではその時期の馬鹿げた物事を真摯に考えていた事は
≪神童≫と呼ばれていたに違いない。(笑)



今の究極的に物事を突き詰めて考える趣向(あえて趣向という言葉を使う。)は
子供の頃より既に持ち合わせていたように思う。

その子供の頃の話であるが、多くの男子はある一定の時期になると
自転車に乗り出し付近一帯の行動範囲が広がり冒険心がふつふつと勃興する事になる。
私はその自転車の性能によって広げられた自己行動範囲の世界よりも
スピードの魅せられて結果的に免許が取れる年齢になるとよりスピードを求めて
必然二輪車に興味が沸き当たり前で二輪車を運転する事になったのであるが、
その二輪車で更に行動範囲が広がる以前の自転車のスピードの極め方について
ここでひとつの笑い話を記す事にしたい。

単純に加速を極めたかった。
今ほど交通量の多くない中央大通りの木津川大橋の下り坂から九条方面から登り
東向きに、全力で走行する時速45kmがマックス!
次に考えた事は・・・・・・・・・。
①ゴム動力
自転車のチューブで紐を作りゴムパチンコの要領で自転車を打ち出す。
②急坂で全力でスタートする
結果
①チューブの反力に私自身の体力がついていけなかった。
 要するに引き伸ばす事ができないのと路面との接地抵抗が少なく自転車がゴムの反力に
 負けてブレーキしていても滑り出してしまう。
②薩摩掘公園の滑り台の上に自転車を担ぎ上げチャレンジし今まで自転車で感じた事の無い
 究極の加速を得られたものの転倒し足を縫う大怪我をする。
 足首が裂傷し、皮膚が捲れて脂肪が捲れ出て筋肉組織を見る事ができた。
 湊町の大野病院(今も在るかな?)で、緊急縫合手術。
 後遺症だろうか未だに傷の跡が痛い時がある。アホの極み。

下記画像は3年前の現場を訪れた時のもの。



小学6年生当時、世は仮面ライダー(1号)真っ盛り。
戦闘物実写アニメの話題で占められている教室の中で少人数ではあるが、
それらに興味が無い友も居た。
≪どてらい奴≫という商売人の根性モンの連続ドラマに感動する小学生である。
私の母校(大阪市立明治小学校)の校区である、大阪市西区立売堀の
機械・工具・鉄鋼加工品の問屋が集まる地域の中の企業の【山善】さんの
創業者の起業の話であった。脚本は大阪人情話を欠かせたら最高の評価を
織田作之助と並ぶ、花登筺(はなとこばこ)。
私はこのドラマが好きで欠かさず見ていた。
商売人はこのような精神構造なのだ!見習わなくてはと感化されていた。



最近になって、実家の本棚から拝借した。小説≪どてらい奴≫
昨年の疲れていた時期にゆっくり読んでみたがその話の中の登場人物の精神構造は
今の世では既に化石。伝えようにも伝える実際が無い。

では今の精神的構造はどうなのか?を記してみる。下記の通りの如く、
常に万物の平穏・あたりまえを求めているし宇宙に視野を広げれば自身が空虚で
空気や水同然で全く≪心≫が動じる事が無くただの生き物でいることに終始する。
その終始したいという感情も無い。
終始しているのであって終始する為に何かを変えようともしていない
少しづつであるが、それが当たり前という事が分かりつつもいる。
そこには感情は無い。



ただそれだけの日常である。

LES MISERABLES 10th Anniversary DREAM CAST


先日、遠い地の知人に紹介され勧められ、先にバイク仲間が見たというので
≪Les Miserables≫の映画を見た。
新たな分野を自身の中に素直に発見するに至った。
それは・・・・・
【物語のほぼ全編に流れる愛というもの。】

私は今までの勘違いを気付かされた。

この映画は鑑賞するに値するものである。

動画をリンクしているがこれは、ミュージカル版である。
映画はもっと≪血・汗のにおい≫を感じる迫力を持ちミュージカル映画である。
演者が演じる登場人物の感情が間近で感情を伝えるものであった。
この映画を見てから、ユーゴーの書く原作を読むのも良いかもしれない。
と、いうよりも私は既にその書を手にしている。
なかなか翻訳が日本語にうまくできない部分も在る様なので独自解釈も必要であろう。

もう一つ、そして感じた事!

日本のテレビで流れる音楽は芸術性のかけらもなく
芸能から能(脳)を取り去った芸である事。
それに、揺れる日本民衆は既に末期的症状に犯されている。
治癒の可能性は無い様に感じ、できれば伝染されたくない病である。

2013年元旦 思い出す昭和の事

2013年01月01日 | 言わせてもらいます。
謹んで新年のお喜びを申し上げます。

と、そんな挨拶が当たり前であろうこの松の内だとは思うが、
今日はなんだかんだと昔事を思い出すことが多くて少し書き記してみようかと思う。
読まれる方々も≪そうだった≫とか、≪懐かしいなぁ~≫などと感じてくれると、
よろしいかもしれません。

私は昭和30年代の生まれである。
小学生まで世界情勢や経済の状況や政治に関しての記憶知識はほとんど無い。
それ以降の歴史読本でも読み触れる事は無かった。
10歳までの少年に60年安保や70年安保を理解しようというものが不可能。
しかし、少し前まで大きな戦争をしていたという知識はあったし
まだ昔話にならない話であったようには記憶している。

私が育った大阪市西区でもまだ、その傷跡というかその痕跡は至る所に残っていたが、
それが何であったかはまったく気づかないでいた。
最近になって、その子供当時の事の訳が理解できるようになりつつある。
例えば、今の中央大通りは私が子供の頃空き地であった。
大阪大空襲で市街がほとんど焼かれて都市整備を戦後行おうとした時に
大通りを作る計画で建設までの間、放任地であった。
大阪市立明治小学校(市内有数の伝統校=母校)の講堂の地下入り口には
分厚い鉄の防火扉があったし、またその校舎の屋上には焼夷弾であろうか?
不発が直撃したといわれる傷も見る事ができたように記憶している。

私は小さい頃から、車が好きで(これは多分に父の影響)、ほとんどの車名を
知っていた。
特に貨物車にあってはその構造、機構、用途など・・・・・、
また、やっと花咲きかけたであろうレースカーに関しては普通の子供の知識量では
なかったと思う。
いつも父の運転する車の助手席がお気に入りで楽しくて仕方が無い。
そんな車好きの私でも苦手な父とのドライブがあった。

≪生野峠(いくのとうげ)≫

私の母は、兵庫県養父郡八鹿町の出生で車でそこへ行く時は
大阪~神戸~姫路~和田山~八鹿という道程。
今ならもっと近い道が有るが、40年少し前は整備された道はそれしかなかったようだ。
大阪から6時間はかかっていたように思う。

その途中、いつも夜中近くにその峠を越えるのであるが、
いつも、その峠に差し掛かると誰彼と無く峠越えの怪談話をする。
それを聞いていると、本当に峠道のカーブの向こうによからぬ者が血だらけの形相で
手招きしてそうでそれが見えるのが怖くいつも寝たふりをしていた。
峠を降りた生野の街中の通過は狭い町並みゆえに片側交互通行で
その信号待ちか、又は同じように和田山の町の通過も片側交互通行であった。
その信号待ちのときに、「もう大丈夫!」と声をかけてくれて目を開けていた。
下記写真は、そんな夜のドライブを終了到着して知人の家の消防団車庫前での写真。
コロナは、父が運転してきた。



小学校4年生の時、万国博覧会(EXPO‘70)があった。
学校の遠足でも行ったが、家族でも2度ほど行ったように記憶している。
でも、あまり楽しくなかった。興味が無かった。
下記写真は、エキスポタワー!



その当時、ベトナム戦争の映像をテレビで良く見ていた。
その時の解釈は簡単で、アメリカ人が良い人、反するベトナム人が悪い人。
B52がすごく英雄の乗り物に思っていたし、
落とす爆弾の量のすさまじさに力強さを感じて感動していた。

戦争の内容を知ったのは・・・・・・・・・。
その後アメリカで反戦運動が高まり撤退を始めた中学生~高校生の頃。
ヘリコプターにすがりつく市民の姿。
すがりつく女・子供の手を振り払う兵隊。
サイゴンのアメリカ施設へ助けを求める人々を蹴り落とす兵隊。
「な~んで~?」とばかり疑問だらけの脳内であった。

この戦争の事実と意味を少し知ったのは・・・・・・。
まだそれからずっと後の20歳半ばを越えた頃。
≪地獄の黙示録≫≪ディアハンター≫

その悲劇の映像を思い起こし、中学生の頃に感じた心が戻ってしまい
深く人間の欲や権力を考えてしまうようになったのがつい最近の事。


権力を弄び、そしてまた自分達の為に権力を利用しようとする事は
バスを待つ人々の列に横入りする姿と本質は同様に思えてならないし、
権力者は、私にとって民意の支持を傘に着た独自行動だけをしているように
しか見えなくて、なんらその様相は古代より変わっていない。
公福祉を唱え、平和の維持を謳う事=他力を使用した地位・収入を守る自己保身。
世界平和や社会福祉の充実を唱える方々が、無言で意思表示ができない者々に
かえってどれだけの苦痛と失望感を与えているかを理解できないでいる。
また、その苦痛の及ぶ範囲はますます近年では深く潜航した部分で
隠密裏に拡散し浸透している力が有るように感じている。

田舎暮らしの結果の功罪であろうかもしれないと思うが、
この頃、先の詰まる芝居の嘘が良く見える。
見えすぎてしまう。

Miss Saigon with Lyrics - 20 - I'd Give My Life For You


その嘘による被害は必ず今の子供に降りかかる。
今の子供の将来の事を思うと・・・・・・・・。
ベトナム戦争に参画した国や双方の権力がベトナムでベトナムの無実の人々にした事を
皆さんはご存知でしょうか?
利用されゲリラ戦の隠れ蓑にされて一派一からげの考えから殺戮が繰り返された事。
日本はその行動に金を渡し国はその間発展を遂げた。

Miss Saigon with Lyrics Disc 2 - 02 - Bui Doi


当時のベトナムの権力の間の罪の元に生まれた子供と今の被災地の子供のおかれている
環境の違いは爆音は聞こえないであろうし、銃弾も飛ばないと思う。
そんな今すぐ命を失いかけたり、逃げ惑う事も無いかもしれない。

しかし・・・・・。

どうしても、目に見えない権力象徴の破綻による被害が被っているようにシンクロする。
枯葉剤の薬害は将来にわたり影響する事は共通であるし、
差別や偏見に発展する事柄になる様な事がすごく恐怖である。