池やん!まいど!おおきに!ごきげんどぅ!

仕事・今までの人生
このごろ悩みが多くて困ります。
周りの多くの人に救われているのを
実感する今日この頃。

寒いけれど舞鶴へ行く。

2012年01月09日 | 身近な歴史風景
仕事でお世話になっているSNG氏と舞鶴へ車を走らせる事にした。
氏を舞鶴市の公文名の交差点近くで降ろして、
私一人、当てもなく船が見たくなり国道27号線を敦賀方面へ走らせた。
京都から灰色の寒い冬空が続き、和知へ入る頃には霙(みぞれ)となる。
今夜はひょっとすると雪に変わるかもしれないな~などと感じつつ
東舞鶴へ到着。
海上自衛隊の護衛艦を左に見て、以前より一度見学をさせていただきたかった
海上自衛隊舞鶴地方総監部内の海軍記念館を訪問する事にした。



入場する前に、門衛所で記載事項を全て記入し見学者証を首から
ぶら下げての見学の入門である。
総監部敷地内はさすがというか、ごみ一つ無い。
どこかしらピンと引き締まった空気が漂っている。
遠くに水兵さんと仕官であろうか濃紺のコートを羽織った方が私の動向を見ている。
即ち、監視されている。

元々、旧帝国海軍機関学校であった場所がこの地で有り、多くの優秀な海軍軍人
特にその専門分野に優れた技術将校を育てたのがこの地でも有る。
で、講堂の一部が旧帝国海軍の記念館として一般に公開されている。



で、
その海軍記念館の入り口には東郷平八郎の胸像と軍艦旗が飾られている。
館内は撮影できないので、大まかに説明するとその展示品の多くは
旧帝国海軍の黄金期である日露戦争時代の物が多数を占めている。
司馬遼太郎の《坂の上の雲》で登場する方々やその背景となった事象に
関わるものが多いように感じもする。
特に私が知っている物では、
広瀬中佐の話
佐久間艇長の話
両先人に関わる展示品が特に興味を引くものであった。
又、
日本海海戦当時の旗艦《三笠》で東郷平八郎が使用していた、
砂糖壷や鉄瓶、純銀製のフォークなどが興味を引くものであった。



展示室を出るとその先には講堂が有り、ここも塵一つ無い状態で公開されている。
舞台正面には日の丸と軍艦旗。
向かって左の絵画は広瀬中佐旅順港閉塞戦時の戦闘場面の画が有る。
磨き上げられた床に感心し発せられるワックスと木の香りに酔っていると
遠くでサイドパイプの甲高い音が聞こえる。
いかにも基地内といった感じであった。



再び外にでて、旧機関学校校舎を遠めに見る。直線的な灰白色の建物は
軽快な感じを受けた。
その背景の空は低く灰色の雲の間から寒く冷たい青空が少しは見せては隠れていく。
又、霙が降る。
霙は雪よりも冷たく感じる。ハラハラと払う事ができず衣服に浸み込むからであろう。
この建物は古いそうである。どうも東側にあるレンガ造りの建屋の方が
古く感じてしまうのであるが、
コンクリート造りのこの横広の建屋の方が現存としては
先の水兵さんと仕官らしい方のコンビに古いと説明を受けた。



そのコンビに、私の歩をさえぎる形で、「お帰りはあちらです。」と
一言頂戴する。
後にするときに振り返ると、縁石の上の砲弾?
少し奇妙な感じだ。



体が冷えた。
帰りは丹後の方へ向かおうか悩んだが、雪に遭遇すると尚一層体を冷やしかねないと考え、
京都方面への帰路を車を走らせる。
途中、南丹美山へ方向を示す標識に従い左折し、
美山自然文化村の風呂で温まって帰る事を考えたのであるが・・・・・・。
美山の道は雪解けのシャーベット。
少し車の運転に気を使いつつ風呂に入って帰宅した。
ポッカポッカのスベスベ。
納得してその夜は睡眠も深かった。納得と充実の一日。

軍艦旗は神聖で、軍艦行進曲は街宣やパチンコで使って欲しくないという感想を持った。


宇高航路

2010年02月15日 | 身近な歴史風景
先日、愛媛県新居浜市からの帰り道に宇高国道フェリーを利用した。
香川県高松港と岡山県宇野を結ぶ海上の国道30号線を担うフェリーである。
新居浜市からは高松までひたすら国道11号線をタラタラと
長閑な四国ドライバー独特の急ぐこと無いペースで2時間30分。
高松市街に入り国道32号線で街中を突き抜けて、
フェリー乗り場へと着く。
数回乗船しているが、券売機が自動販売機になっていて少し様子が変わったか?
発券事務所は、ヤマザキデイリー(コンビニエンスショップ)になっている。

先回乗船したのは、すでに3年ほど前で高知からの帰路であった。

で、一昨日の新聞に
この区間を運行するフェリー2社(四国高速フェリー、宇高国道フェリー)が、
廃業するとの新聞報道を読んだ。

私の営業用の車キャラバン(E24)は、本来、ワゴンなら3ナンバーの全長だが、
バンなので1ナンバーである。
4ナンバー車より10センチ長い、全高、全幅は4ナンバー内で収まっているので、
本当に中途半端である。

従い昨今の、御人気取りの1000円乗り放題の高速料金制度とは無縁のもので、
高速通行経費は車両総重量8トン未満の中型車で1ナンバーである。

瀬戸中央道を利用し四国から本州へ渡ったら最短利用で利用したとしたら、
通常¥4200。深夜0時から4時までが2100円。
フェリーだと休祝日2480円。
で、
1時間すばらしい瀬戸内の島々の景色を眺めながら、
運転者は1時間の休憩時間が船内にて取ることができる。
私はすごく安く感じるのであるが、時間優先と利便性が最優先の現況では
廃業も仕方ないところであろう。

わたしは、この航路がなくなることは非常に残念でならない。
四国から帰りに疲れた体を休める唯一の施設として利用してきたからなおさらである。

その昔は、国鉄の鉄道連絡船であったろうし、
四国の表玄関として重要な役割を担ってきたものであろう。
過去、紫雲丸事件等の悲劇を歴史に刻み、多くの若い労働力を京阪神へ運んだのも
この航路であると確信できる。
少しでも思い出があるなら、もう一度なくなる前に、回顧の気持ちでなく、
感謝の気持ちと、現時の確認として訪れて乗船をしてみるのも良いのではないでしょうか。

四国より集団就職世代のお父さん、お母さんたちに進言してみたい。

同様の気持ちであろうと思うが、
兵庫県の香住の餘部鉄橋の付け替えに望み、島根県大社の田舎から集団就職で西陣に
丁稚奉公に来て、仕事が厳しく辛くて逃げ帰ろうとして、
ここまでの乗車券しか買えなかった某会社の社長さんと橋を見上げに来たことがある。

一つの、また昭和の繁栄を支えた物が消えいく。
繁栄を運んだものも消え去る。
惜しいものである。

笑わしよりますが、
国は二酸化炭素排出、地球温暖化を問題にしている。
この頃私は、二酸化炭素を吸いすぎて胸くそが悪くなってしかたない。




ここに比叡山への道しるべがある

2009年06月19日 | 身近な歴史風景
本日も、先日に引き続いて午前中は鞍馬へ訪問した。
少しお届けするものがあったからである。
帰り際少し気になるものがあったので写真に収めたのが下の道標石である。



《右 京みち》と彫られた面の左面には、《左 ひえいさんへ》の表記がある。

ここから比叡山へは、少し距離があるが、たぶん古来、
日本海側、特に若狭方面から京へ入るにはこの鞍馬街道が最短距離のはずで、
この鞍馬門前から東に薬王坂を越え、静原に至り、江文峠を越えて大原より
比叡山を目指すのが最短の道であると解釈をした。



鞍馬は、門前の町でありながら、その昔は北山奥深くの物資の集積地であった。
この写真の正面の石段は鞍馬寺の石段で街道は右へ折れだらだらと登り坂が続く。
この石段の袂に警察官駐在所があり、ここのパトロールバイクが
ホンダTLM125であることも興味が深く思う。
林道や古道で起こった事故に迅速に対応できる装備を配備していることは
すばらしい。シングルトラックを走行するには最適のバイクである。

300Mほどの町並みは、鞍馬温泉の入り口を最終に途切れ、
花背峠への序章が始まる。今の舗装道路は昭和の時代に整備されたものであるが
たいそう狭く厳しい上り坂であることは承知であろう。

鞍馬の町並みとよく似た性格を昔に有したのは、他近隣では、
違う方向で道のりであるが若狭、日本海側との要衝路である長坂越
《京見峠方面へ至る古道》への入り口である鷹ヶ峰の軒並みにも似ている風情が
見受けられる。



一日数本、京都バスが出町柳から、広河原まで運行されている。
乗っている乗客のほとんどが北山に魅せられた方々といってもいいのではないで
あろうか。登山装束のよく似合うバスも珍しく思う。