池やん!まいど!おおきに!ごきげんどぅ!

仕事・今までの人生
このごろ悩みが多くて困ります。
周りの多くの人に救われているのを
実感する今日この頃。

オノレ!どついたる!!(怒)と、思った商談の話。

2012年08月22日 | 昔の事
公正取引委員会が警告を行った。食品大手商社3社に対してである。
すらすらとラジオから伝わる意味を聞き流してはいたのであるが、
なんで、売り手の量販店はその責を問われていないのか?
私はその点がどうも少し引っかかる。

その商品は発泡酒の不当卸売り価格。
卸売り価格が不当に安すぎるからである。

でも日常茶飯事でこのことはメーカーサイドも納得しての出荷であろうし、
損をしてでも卸売りを行う商社もこれまた納得しての事だろうと推測ができる。

大手量販側は、他の弱小小売店を駆逐する販売力を持っている事はご承知のとおり。

とにかく物流量は想像を絶する数量を一日に販売する力を有している事を
まず理解いただいたうえでこの話を進めることにする。

私は以前、ドミナント展開(*注)しているハトマークと商売をさせていただいていた。
ここで多くの量販店特有の商いの仕方を勉強させていただいた。
近江商人の気風が溢れる企業で評価できるものがあれば食いついたら離さない
チャレンジの気風溢れる売り場を作り新商品の依頼も多く、
試行錯誤をして商品を製作する何も知らない私に本当に良く教授いただき、
又、私の《ドンくささ》に怒りもせずにお付き合いをしていただき、
よくも辛抱してくれたと思う。
そのハトマークがある日を境に私の事業を規模拡大をして製造数を
増やして欲しいという事を言ってきた時期がある。

私はそれを断った。

なぜか?答えは明白。リスクが増えるから。
当然、運転資金が必要で設備投資も必要となる。(←これをAとする。)
(*注)ドミナント展開=特定の地域を集中的に出店して他系列量販店の
入る余地の無い地域密着の出店方法

となると、どんどんと取引量を減らされて、付いてこない企業は取り扱い品目が減る。
で、
そのハトマークで減った売り上げを確保する為に新規に取引先を確保しないと
いけないと思っていたところに今回の公正取引委員会から警告を受けた商社から
その余剰な部分を回してもらえないかとの申し出があり、
又、その商社から先の供給先量販店のバイヤーからも話があったので商談に赴いた。
商談開始してバイヤー開口一番、
組合員の家計と健康を守る責務があるので値段の主導権はそのバイヤーに
有る事の確約を迫る言葉。

私は一言「帰りま~~す。」(←これをBとする。)

原料仕入れで滋賀県産ミブナを大量に中央市場で仕入れるときがあった。
1ケースを指値で2100円まで。最初の50ケース分は2100円で
仕入れる事ができたが、51ケース目からは以前の損益を
回収する為に4500円になった。(←これをCとする。)

ここまで書くと大体私が言いたいところは見えてくる人には見えるはずだ。

即ち、Aのリスクを消化する為にBが言えなくて他方でCの売り方をする。

これ大量生産食料品の物流価格に関する常。
これが見えなくてどんどん付いていくメーカーさんがある。
いづれ先が詰まるのである。

ここからは企業名を明かしても良いのだがどうせ消えていく企業なので
どうでも良いので明かす必要もあるまい。
鉄道もある関東圏の量販店。ははは~~~~もう分かるよね。

高付加価値のものを製造していたのでその企業のバイヤーに眼に留まり
商談の依頼があった。
夜通し、経費節減で一般国道中仙道ひたすら走り13時間かけて出向き
商談の場に着き、私の提示する見積書と商品を前に開口一番。
「最初の1週間は無料で商品供給を行ってもらいます。」
「次の2週間は特売価格の卸値の半値。」
「次の3週間は特売価格の卸値。」
「それでお客様が手にとってくれているようなら、定番で流通をしますが、
 お取引開始後の条件は私どもが決めた手数料を納めていただきます。」
私はその女性バイヤーF(名前は死んでも忘れん!)に、
にっこり笑って、
「ねぇ~ちゃん!どつかれたいんか!」ほんまに言いました。
「ねぇ~ちゃんて私の事?」と言い返しよって、
「オノレじゃこら~!」言いましたら警備員が来て大変な事になった。
その後、Fは結局首(解雇)になりました。Fの悪行はこれ業界では有名な話。
メーカーから個人的に裏リベートもらっていた。

下の画像はその量販店が欲しがっていた商品である。
津軽紅カブ利尻昆布〆と寒咲き菜花と切り千枚漬。
どちらも手の込んだ商品で再販を希望する声をいただく商品であるが
全く今の私は作る気がしない。もう疲れた。これだけの理由である。





でも、この条件に付いていくメーカがいる事の方が驚きである。

その会社はご存知のとおり不採算企業に成り下がり、
一時期は外資系企業の援助を受けるも成功せず
今の資本はいったいどうなったのかも定かには知らないでいる。
今後も知る必要も無いし、全くお下劣極まりない商談であった。

量販店相手の商談には継続的にお互いの商道徳は存在しない場合が
多いと感じる。
利益と数字の結果判断だけである。
そこに物の優劣や相手の事情を思う良悪の基準は関係なく、
ただ数字の損得が存在するだけである。
これは非常に厄介でもありながら、裏を返せば非常にやりやすい。
即ち、メーカー側は売り逃げて切り抜ければよい。

どのように売り抜けるか?
公正取引委員会から警告を受けた商社とメーカーのように、
販売力だけを魅了に感じるだけで良い。

そんな経験が有る私の前で、
先日、上から目線で訳分からん賢い事を言う論者がいた。
未だに脳内をよぎるこの賢い人の事。
指導的立場の団体役員でもあるこの賢い人は、
農業者が自身の生産する農産物を加工して販売すると儲かるなどと発言した。
全くその販売環境の厳しさと必要とする生産規模がどれだけの投資が
必要であるかと、その事によるリスクを知らないのにだ。
天候が悪くなって生産が滞ったときの事や
そうする事業に事業投資ができない老齢世帯の農家が脱落する事による
農業経済の衰退を理解できていない。
結局は農業者が自身の首を絞める結果になるリスクや
加工しない農産物の価格下落を招き農業が今まで以上に疲弊する事を
全く考えていない。

その事を私が論じると、
「では、いっその事儲けない方法を考えましょう!」だと。
そのうえ、周りからはあまりその人物に関わるななどという忠告もあった。
なぜなら、論破されると困る人がいてるのである。

正義と真理はどこに有るねん?お前ら!

この類の賢い人も、
「オノレ!どついたる!」
なのである。

Bridge Over Troubled Water - Simon & Garfunkel - w/ lyrics (dedicated to YT viewers)


先日、漬物で食中毒の事件が有ったようだがこの事件などは
量販店納品に対応する製造原価コスト計算に起因する事件であるような
気がしてならない。

眼の届く範囲でしっかり作っていればこのような事件には
ならなかったかもしれない。
時間に追われ、利益に追われ、製造数が膨大でどうしても
ヌカリが生まれる。
それだけ、漬物というものだけをとってみても食品に関する安全性が
コストを減らす事から危険性をはらんでくるという事であろうか?
たぶんそうであろう。

今おかれている現状がどういう事なのか?
事業を大きくする事はどういう事なのか?
何の為に仕事をしているのか?

私は仕事に精一杯で自分の生きる楽しさを忘れていた時期が有った。
やはりその事に気づいた時には、
既に遅く失っているものがたくさん有った。

とことん突き詰めて考えていて・・・・・結果、

大企業を支える一歯車でしか無い自分の事業である事に気付いたとき、
なんてわき目も触れずいい気になって誤った事をしていたんだと
情けなく哀れで悲しすぎて失望で一杯でその時に
本当にこの世から消えようとした。

私は今、加工事業者から逆方向の農業事業者としての転換している事を
必ず形にして、続いてくるであろう食を作る事の真理と正義を追及する
加工事業者への身を挺した提言として先例を作り、
その経験を公開し礎になりたいと考えている。

これが今まで事業者としての私の総決算であり、
お世話になった方々への御恩への至誠と奉公であると思う。
だからとことん突き詰めない発言や生半可な考え方、
自己の利益為だけや保身の態度や生半可な依頼には、
「オノレ!どついたる!」である。

幼い時の周りの自動車

2012年05月10日 | 昔の事
何回かこのブログでも記しているが、私は大阪市大正区で生まれ西区で育った。
その西区の思い出を話しようと思う。
本当に小さい頃から自動車が大好きで、車名を覚える事なんぞは天才的であったようだ。
丁度、3歳ぐらいから18歳まで過ごした中央大通りとなにわ筋の交差点付近は
今では、四ツ橋筋の東側の天空を貫く阪神高速環状線から大阪港や湾岸線方面へ向かう
高架道路で今はその場所から空を仰ぐ事はできないのであるが、
私が自転車の練習をしたのは、まだ、中央大通りが建設中で緑地帯として
フェンスで覆われていたように覚えている。
その中に入って自転車の初乗りをした。

今でも残っているので有るが、錢高組の本社屋がその交差点の北西角にあり
その裏に日野自動車オンリーの整備工場が有ったように記憶している。
でも、地道(未舗装路)の路上で傘を差してオイルを路上に垂れ流して
整備していてあのオイルの匂いと軽油の匂いを今でも懐かしく思い出すときが有る。

リンゴ箱だけの運転席の車、全く車体の無い骨組み(シャーシ)だけの車体や
でかいタイヤがその道路に無造作にあふれていたのを思い出す。

亡き母は、そこを通る度に雨の日などは足が汚れて困る事を言っていたし、
その近所にお風呂屋さんがあり、父親に連られてそこへ行く時には
その車達に会えるのがすごく嬉しくもあったりした。

電話ボックスのような運転台の車が運ばれて来ていて、
後日その車にコンクリートミキサーのロケットが架装されていた事が
驚愕であった幼い私の輝く瞳であった。

又、錢高組の交差点の、南東角、今の吉野家の有るビルの場所は
梅田運送という運送会社が有って毎日大型車の出入りで賑わっていた。
これも一人で見に行ってはよく「危ない!」と親にしかられた記憶が有る。

そこから少し南に行くと、GOOD-YEARのタイヤのショールームがあり
多くのタイヤと高級アメリカ車が展示して有るショールームであり
我が家からの二階から巨大なあのウイングフットのマークが屋根越しに
眺める事ができた。
何度も何度もあの図案をクレヨンで書いてみようとしたのであるが・・・・
全く出来ないでいた。

その北隣は寺岡君の家で、彼の家の稼業は自動車の電装屋であった、
職人さんがいてその作業場を抜けて寺岡君に会いに行く。
いつも酸性の匂いがしていたし、何をしているか?
幼い私には全く分からない場所であった。

私の家の東隣のモータープールには村瀬君のお父ちゃんの
VWタイプ3が毎晩居てたし、
その東隣はサイン工芸というトヨタ車が多かったが
自動車にペンキで図案や商号を入れる看板屋さん。
この光景も鮮烈で、カッティングシートを張る今の看板屋さんとは全く違う手法で
マスキングテープを指定された図案や文字フォントに切り出しカッターで切り抜いて、
そこに、スプレーしてマスキングを剥がし焼き付けていた。
井上君のお父ちゃんの仕事がそうであった。
その勤める職人さんが乗っていたスズキフロンテSSとサニーB10のクーペ
この2台は本格派でロールゲージが組んであった。

家の前に親戚が工務店を経営していて、トヨタ・コロナとマツダ・ロンパーが居た。
月に数回、いすゞ6トンダンプ。



私の家は、父親の勤める会社の倉庫の二階に住まいしていて、
毎日、いすゞエルフが裏口に居たし、トヨタダイナが2台、
プリンスホーマーが一台、クラウン、クラウンバン、ダイハツハイジェット、
毎日和歌山へ過積載で向かう三菱ジュピター、
月に数回、徳島からこれでもかと過積載でやってくるダイハツ三輪

その隣が、カリマンタンという何屋さんか分からないが倉庫があり
その前に最新のいつも日野コンテッサクーペ。

町内で一番美しい車。

そんな、あの日の日野自動車に今でも造詣エレガンスを
車に求めようとする心中奥底に有る事は確かだ。

なぜ・・・・・・こんな事をいきなり書き出したか?



懐かしい看板を見た。
京都日野自動車に所用で訪れたら、会社員(このブログにコメントを頂いた。)さんが
地下倉庫の掃除をしていて「古い看板だ!」と手に持って言っていた。
日野コンテッサクーペを展示していた時の手書きの車両説明のショールームの看板。
残念ながら、それを写真に納めるのを忘れた・・・・・。
明日、電話して写真を頂戴と・・・・・・。

1975年度課題曲(B) ポップス・オーバーチュア「未来への展開」


そんな大阪での生意気自信満々の中学生時代の悲惨な思い出。
吹奏楽コンクールの課題曲。
たぶん、銀賞の結果に終わったのは自由曲での私のミス!
よく見る高校野球でのエラーによる逆転負けのようなもの。
そのエラーしたのが中学生のTrp1stプレーヤーが私である。

油断の《G》に泣いた。

未だにその時の失態を悩んでいる。

あの時を以って全く楽器から遠ざかった。
触る事さえなくなった。

しかし自動車への興味は未だに引き続いている。

悲劇の舞台を見る   (JR大山口駅東方の600M)

2012年04月03日 | 昔の事
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E5%88%97%E8%BB%8A%E7%A9%BA%E8%A5%B2%E4%BA%8B%E4%BB%B6
を参照していただきたい。

JR大山口駅から東方(即ち鳥取方面へ)線路沿いに車を走らセてその現場を見てみたいと思っていた。
途中村落の本当に車一台の幅でしかない道をとおり、
狭い踏切を渡り線路の北側に出ると
一人の老婆が乳母車を押して歩いているので声を掛けてみてその場所を知った。
この老婆はその日のことを鮮明に覚えていると言っていた。

村落内の狭い道をすぐに通り抜けると舗装された農道に出て右手を見ると線路をまたぐ形で橋が架かっていた。
その橋はまさしく、切通しをまたぐ橋でその下に悲劇の場所が有る。
老婆から聞いた《銃弾跡の有る水の作り物》がこの線路の下に埋設されていて
こちら側と向こう側とに水をくぐらせるサイホンの筒である。

この場所で起きたことは下の動画のとおり。











Mustangs over Japan 1945


鎮魂の気持ちで立ちつくす。

1964年から走っている新幹線と朝鮮民謡

2012年03月04日 | 昔の事
相当に思い切った決意を持って経費を使い新幹線に乗車してみた。
京都~新横浜間を座席指定で利用した。
グリーン車も考えてみたので有るが料金の高額さに驚いて諦める事にした。
1964年に東海道新幹線ができて以来、私は数回ほどしか新幹線を利用した事が無い。
もっぱら自身で車を運転して東海道や中仙道を利用して江戸方面に向かう事が殆どである。
自身で運転しなくても最近ではJRや私鉄各社の高速夜行バスの安くて快適な移動に
魅力を感じてそのバス乗車の機会も増えつつある。



なぜか嬉しくて仕方が無い。小学生が一人で新幹線を利用するような気分とでも言おうか?
ウキウキしているのである。
京都駅の新幹線乗り場は2回目の利用である。入場券を利用してお正月の早朝に
人を送りに来たことはあるが乗車で利用するのは2回目。
1回目はかれこれ20年ほど前になろうかと思う。



初めて新幹線に乗ったのは開業間もない頃の新大阪~名古屋間である。
父親に連れられて名古屋の東山動物園へ連れて行ってもらった。
二回目は、伊東温泉はとやへ行った。
三回目は、静岡までヤマハの袋井テストコースでの試乗会に行った。
四回目は、前職で仕事で利用した。
五回目が今回の利用である。
そうそう、先日福島県の郡山から東京までを仙台からの帰りに利用した事が有るのを
忘れていたなぁ。
ですから、今回は6度目になる。



ホームで少し食す。
ドーナツとコーヒー。
これは少し腹立たしいくらいいただけない。高すぎる。



のぞみ226号に乗車した。N700系。
先ず驚いた事!!!!
揺れない。うるさくない。高速で移動しているという実感が無い車内環境に驚きである。
2時間半かからずに新横浜駅に到着した。



で、新横浜駅で在来線に乗り換えたのであるが、あまりにもお腹が減っていたので
お決まりの駅そばを食す事にした。
これもお決まりの関東の関西人の口には合わない味。
特にいなりずしは全くのダメ。



冷水機の注意書きが面白くてデジカメに納める。
《ソフトタッチで押してください。》
既に、償却は終わっているであろうに新しく購入して欲しいとも思った。

子供の頃の新幹線乗車の思い出は鮮烈に残っている。
電線を支える支柱を通過するたびにバットの素振りの音がしたし、
コココココという車輪の音、すれ違いの時のドンという対向列車の風圧、
トンネルの中での圧力による耳の変化、列車トイレの青い水、紙コップでの飲料水
食堂車(ビュッフェ)での丸いすなどが思い出として残っているが
今は昔・・・・・・・その形、影すらない。
新幹線に乗るというだけでおめかしをしていたように思うし、
今のように作業着で乗る人はなかったのではないであろうか?
即ち、セレブ、ハイソな乗客を運ぶ列車であったわけだ。

そのように未だに勘違いしている女子が名古屋から前列席に座ったのには少し驚いた。
その女子!座席を倒す時には、後方を確認してもらわないと困る!
先に買った高価なコーヒーを少しこぼしてしまった。

やはり私は、新幹線よりもゆったりとした速度で移動するものが精神的にも
落ち着くし疲れない。
二度と乗るまいと思った新幹線であった。

そんな私の精神内容と不釣合いな高速での移動をしたかと思うと、
先日は、知人(今年最初の当ブログでの登場人物、SNG氏)の
運転するバスに乗せてもらい京都まで帰る経験をした。
このバスは、登録されていない出来立てほやほやのバスで、
工場から引き取り木曽路を経て京都までを彼の運転により横乗り便乗させていただいた。



東北徘徊で帰りの資金が底を付いていたので彼の申し出がたいへんありがたく
また、バスの処女航海に便乗させていただけるとは光栄極まりない気持ちであった。
全くの汚れの無い車内は当然私は靴を脱ぎ乗車した。
街中を走るバスであったが、長距離も快適。
彼の運転技術の賜物であろうとは思うが、本当にスムーズに走る。



高速道も快適である。さすがに高速バスのようなゆったりとした座席ではないが、
何よりも立乗車が前提の街中バスゆえに揺れ方がおとなしいように感じる。



木曽路に入るとその彼が突然大声で歌いだした。(驚)
疲れると出てくる歌らしい。

朝鮮カラオケ・朝鮮歌謡4 06 セクトンチョゴリ


この歌は在日の友人より教えてもらった歌で、彼は全くの歌詞の意味が分からないらしい。
私はメロディーが耳に付くので、チョゴリを検索ワードのして色々と調べてみると
な・な・なんと有りました。
彼が歌うので朝鮮語の卑猥な歌かと思っていたが、どうも違うようである。
動画がかわいらしく、いかにも将軍様の好む共和国的平和イメージなので
合わせて記す事にした。

旅はやはり風情が無くてはならないし、その風情も移動手段が一翼をになう事を
再確認した新幹線利用であった。

やはり、私の場合はどうも高速移動というものは苦手な様である。
特に子供の頃のようなわくわくドキドキ感は、
今の年齢では新幹線よりも郷愁を誘う古い気動車の方が感じざるを得ない。

旅は疲れなくてはいけないし、移動は疲れるという事の心地良さを
感じる覚悟が必要であろう。




21世紀の自分は何をしているだろう?と、思っていた頃

2012年02月05日 | 昔の事
先日、京都から遠く離れた凍てつく場所で滑って転んで背中と尻と後頭部を強打した。
痛いとか言う時限ではない。危うく気を失いかけた。
脳が揺れたのだろうと思う。

おかげで、右ひざを少し痛めて、背中は痛いし何よりも首周りの痛みが取れないで居る。
今、現在は、少し良くなったのであるが、
まだ頭痛が少し残っているしどこかフワフワした歩行感覚が有る。
昔、二輪車で遊んでいた頃の強烈な転倒を期した時の翌日と翌々日の
後遺の感覚が蘇っている。
言葉をしゃべれるだけが違う点だ。あの時は言葉がしゃべれなくなったし
食べ物を噛む事ができなくなった。

小学生の頃、今回と同じように頭部を強打した事が有る。
滑り台。
階段に登り、座って普通に滑るのではない。
私は自転車をスタート地点に担ぎ上げて、
そこからスタートしてみようと企ててみたのである。
その加速度は経験できない程の感動が有るはずという創造からの企てであった。

当然、転倒。というよりも落下が表現が等しい。
今もその時の傷が左足首上の内側に残っている。

そんな事をしていた当時、1970年前後
世間では来る21世紀を考えてとかの企業キャッチコーピーがあふれた時期があった。
家電メーカーでは明るい未来を創造する!とか、21世紀に向けた創造企業とか・・・・・。

私自身が2001年はどんなになっているだろうと想像もした事が有った。
中年のオヤジでどこかの企業に勤めていて嫁さんと子供が居るはづ。
嫁さんは誰?子供はドンナン?金持ちか貧乏か?
これぐらい考えるのが精一杯でただ中年の親父になっていることが
不満で仕方が無かった事が思い出される。

小学校低学年の頃、カーレーサー
小学校高学年の頃少し現実を帯びてきて建築士になりたかった。
で、現在・・・・・・・・・。

言葉が出てこない。未だに道を見つけれれていなくて
人生の放浪癖の治らない自分がここに居る。

中学生の頃、恋といえるのかどうかは分からないが初めて異性を好きになった。
Sさんが好きで好きでたまらなかった。
しかし、中学生の私はその意思を表現をすることもできず、
変に強がっていてその気持ちを悪友たちに知られる事が嫌で仕方なく隠し通していた。
彼女の前ではただ、赤面して黙ってうつむいているだけであった。
今頃になって、彼女はどうしているのかな~?なんて考える時も有る。

ザ・ピーナッツ 大阪の女(歌詞付)


昨日、トランペットを吹く機会があった。35年ぶり。
中学の3年間はこの楽器に熱中した。音が出るかどうかは分からないが先ずは吹いてみた。
音が出た。簡単に音が出た。
その音色を聞いていた方より喝采を受けて少し気を良くもした。
音程が上手に取れないのでこれはご愛嬌という事で勘弁してもらったが
すぐに感覚というものは戻るものであろうか?

今日は楽器屋を覗きに大阪へ行ってみよう。

心斎橋のミキ楽器か?国際楽器?

思いつく店名も懐かしい。

寒い日の過ぎた暖かな日差しの有る春の来る足音の聞こえる今日は、
オヤジ化を阻止するのに必死の心理が,
相変わらずの気ままな行動を後押ししている。



今日も平和

2011年08月15日 | 昔の事
鎮魂頌


先の大戦で戦火に散った方々に感謝をする。

現在の戦いとは無縁の我国の平和思想の構築の礎となり、
護国の神となられた多くの英霊と、
不幸な時代を全力で生き、復興に尽力し
現在を生きる先輩方々に敬意を表し、
平和を享受できている事に感謝の気持ちを伝えたい。

66年前の今日はその日である。
日本の全ての破壊から復興の一歩を記した日。

たかが8月15日、されど8月15日である。

私の父は七人兄弟の末っ子。
叔父は3人、
先の大戦での生存は2人
1人は陸軍で中国大陸で機関銃を持ち前線で終戦を迎え
1人は海軍航空隊で陸上攻撃機の機上整備兵で長崎大村航空隊で
終戦を迎えた。
長崎の閃光と原爆雲を目にしたと言った事がある。

戦いに倒れたのは一番上の長男の貞一
伍長で3度目の召集でビルマ《ミャンマー》で戦死。

戦死の報を受け、遺骨が戻った時の祖母の様子を父から母親の法事の時に
聞いた事がある。身内みんなでその話に聞き入った。

箱に入った石ころをうつむいたまま動かず一人離れの縁側で
無言で長い間眺めていたそうだ。
その後にもう一度、遺骨箱が届き、
骨辺らしき物が一片入っていたと言う。

戦死した叔父の話は逸話が上賀茂の古老によって言い継がれている。
恋愛美談である。
恋愛と言うよりは悲恋である。

私の父親がその貞一にソックリだそうだ。

生き残った叔父二人も他界して久しい。
二人とも私には根性とか努力とかの言葉が好きな人であった。
で、何かとキツク当たられていた。

でも、そのおかげで負けん気と粘りだけは宿ったと
感じることもこの頃多い。

ビルマ《ミャンマー》で亡くなった叔父は数年に一度私の夢枕に立つ。
怖くもなんとも無い。
いつも笑いかけて何か話しかけているがまったく聞こえない。

叔父さん!感謝の気持ちはビルマ《ミャンマー》インパールまで届くかいな?

叔父たちも祖母も祖父も母親もお参りに行かなければ

明日早々に帰ってしまうな。


憧憬

2011年05月01日 | 昔の事
およそ30年前初めて就職した会社が大阪市中央卸売市場本場に
本社がある漬物の卸売り会社であった。
大卸問屋で日本全国の漬物の取扱をしていて
その数量と販売金額は相当な物流量を誇っていた。
当然、大阪府内で消化されるも毎日の入荷と出荷量も相当なもので、
午前中の早い時間から入荷が始まり、
その日のうちにそれら全てが販売されて在庫が消化されるスピードは
目を見張るほどの今思い出しても驚きである。

又その中で、届く産物に季節感が感じられて
「ああ、この季節の頃になったな~。」と感じる事も多かった。

特に、夏場の北海道産の沢庵漬に関してはその数が莫大で
毎日、国鉄コンテナ(現 JR貨物扱い)で沢庵漬が
コンテナ内にドライアイスを天井にぶら下げた状態で
入荷していたのは思い出が深い。
毎日5トンを販売するネットワークもすごかったが
又その沢庵漬が北海道に多数の生産メーカーが有って製造していたというのが
今、思い出すとすごかった。

また、長野県和田村産の野沢菜漬も毎日1500袋詰製品と、
15キロの樽入りが100丁ほども入荷していた。
この野沢菜は、納品場所が決まっていて、確か、イズミヤと近鉄百貨店が
メインの納品先であったように記憶している。

生姜は大阪府南部の生産者がありこれもほぼ毎日12キロ入りで100缶ほどが入荷し
自社でも奈良漬と浅漬けの製造を行っていた。
すごい会社であった様に記憶がよみがえる。

大阪商人の商いの流儀というか、薄利で毎日の利益を販売の数量で稼ぎ出す。
当然、薄利であるが故にその在庫管理は厳しく毎日棚卸しを行い(在庫調べ)
明日に何を販売をするべきかが、営業担当の手腕の見せ所である。
当然、そのような会社であるので、省力機械化は行われていて
フォークリフトでの荷役作業はいち早く行われていたし
冷蔵保存や冷凍保存の方法も当時から確立していた。
また、
西日本各地に卸売りする地方の卸売り会社があり九州北部や西部には
特に産地からの直送販売で伝票が大阪本社を経由するだけで売り上げが立ち
商品は手元を通過しない効率のよい販売方法もその中心にあった。
で、
現在、その私が勤めた会社は問屋事業を大幅に縮小して
量販店向けの漬物製造と卸売り業務に専門化してより巨大化している。

物流と販売の形態がこの30年で全く変わってしまったことを意味している。
小売販売店が買出しに来る中央卸売市場での卸売りという構造自体が機能しなくなった。
変わりに卸売り販売と輸送保管事業が一体化したベンダーと呼ばれる、
食品総合商社が量販店に対して効率化と一括納品を主力にした営業を確立したからである。

これでは構造的に小売店には仕入れ存続はできにくくなる。

シャッター通りになってしまった商店街や小売業の活性化を謳う行政が多いが
根本、この仕入れの状況に関して、現況に対しての考察ができているのであろうか?
何か違うように思えてならない。

その修行時代に目にしたことは今となっては過去の商流の形態であり今には通用しないが
大阪流儀の薄利で多数を販売して利益を得る方法も今後通用していくとは考えられない。
購買意欲の沸かないこの頃の世情に沿ってみても将来への希望が薄氷の上を歩くがごとく
に感じて仕方ない。

その当時の若き多感な時代の私はいつも将来を常に悩んでいた。
この歳になってからも常に将来を悩んでいる。
夢中になるものがあった時はその悩みが消えているのであるが、
今又、将来の20年間を悩みだしてしまった。

今、夢中のなれるものに憧憬を具現化する努力を残りの20年で
目標にするのも良い時に来ているのかもしれない。

その夢は・・・・・・・・・・・・・・・。


TSサニー 1300  50


なんとなくこの業界の知り合いも多いしできそうな気がするが・・・・・・・・・。
二輪では草レースで前の方で何度か走ってるし・・・・・・・・・・・・。
街中や峠ではこれに似たような走り方が今でもできるし・・・・・・・。
私の体型に合うレーシングスーツとバケットシートがあれば良いがなぁ・・・・・・。
やはり、最難関はお金やねぇ~。
トヨタのKP47(クワハラ自動車!分かる人には分かる。)いいねぇ~。





淋しいくせにかっこええ~~~~

2010年05月14日 | 昔の事
楽しくうきうきする音楽は無いもんであろうかとあれこれ検索しているうちに
スゥイングの検索ワードで行き着いたところが
エディー・コンドン!

トランペットでないコルネットのソロがメインの曲である。
淋しいのにどこかうきうきするその曲調は単調なマーチテンポながら
詠うコルネットの響きがすばらしい!




子供のときに遊び足りなかったり、少し友達とイサカイがあつた公園からの帰り道、
仲間とはなれて木切れでも蹴りながら一人で家にたどり着いたら、
母が作る夕食が好物のククレカレーやった時のような
食べ物だけでけろっと忘れてしまう《まあいいか、またまた明日》的
心地よさがあるように感じる。
できるなら、何とかなるさ的少し開き直り感情も混ぜてみたい。

しかしこの頃、音楽ネタが多い。
というよりも、
他の話題が沸いてこない。
感性の休止状態でも有る事は自覚できている。


記憶に残るフレーズとクダラン思考

2010年02月17日 | 昔の事
不意に何気に思い出すメロディーは無いでしょうか?

私は、MBS1179ラジオのヘビーリスナーでもあるのだが、
重要なシーンや、ゲストとの会話をも中断させる、
スジャータの時刻コマーシャルがたまに耳についている。

そうあの、《スジャータ・スジャータ~》を連呼するあれである。

懐かしい、テレビコマーシャルでは各企業が独自にコマーシャルソングを持っていて
子供時代に耳に付いた思い出が強い。

《グリコ!グリコ!グ~リ~コ~~!》と、鉄人28号のOPテーマの締めくくり
のメロディーフレーズもそうだし、
《俺がこんなに強いのも、当たり前だのクラッカ~!》これは歌ではないが、
藤田まことさんの、懐から取り出すクラッカーのアピールも懐かすぃ。



玉置宏さんが亡くなった。
ロッテ歌のアルバムという番組だったろうか?《1週間のご無沙汰でした。》
このキャッチもすばらしい。
高橋敬三さんの《どうもどうも》も有ったし、
山本何が氏のアフタヌーンショウだったか、《そーなんです川崎さん。》もあったようだ
そのとうじに、子供たちの間で話題になった個性については、
世俗とは少しはなれたところに独特の個性人が存在していたように思うし
今の芸能界ほど、世俗に近くなかったように思う。
即ち、テレビジョンの世界は憧れの事象に近いものであったように感じる。

メタルインドカレーとオリエンタルカレーとハウス印度カレーが
私の気持ちの中での三本柱のカレーの記憶である。
ククレカレーはまだ小学生の頃のヒット商品と記憶する。
そうだ!ボンカレーのコマーシャルもなんとなく記憶に有るな~。
オロナイン軟膏の宣伝をしていた浪速千栄子さんは、
先日借りた大映《悪名》で久々に拝見できた。因島の女親分である。



ところで、
スタイリーのおやっさんは元気してるやろか・

最近になって、芸能人のプライベートを面白おかしく放送されていて
そればかりの番組が多くなってきたが、個性の特異性を説明するだけの番組内容で
視聴率を稼げるその手法にもう飽き飽きとしているのは私だけではないと思うが
いかがであろうか?

芸能人が参加する料理番組、プライベートの暴露、だまし、簡単な設問の芸能人参加の
クイズ番組、また答えられない無知さを競い合う番組。

面白いわけが無い。

笑っていいとも!のタモリには笑えないが、タモリ倶楽部のタモリには微笑ましく笑える。
ひな壇に座る芸能人をいじり笑う番組には悪寒さえする。
世に蔓延する弱者いじめの根源がここに縮図として見て取れる。
世も末の番組企画である。
はっきり断言できることはスポンサーの理性を疑うということだ。


コメントについて

2009年12月10日 | 昔の事
11月3日にどなたかはわからないのであるが、
太平洋戦争中のアメリカ海軍の艦載機についてのコメントをいただいて
いたみたいで、気付くのが遅くなったのであるが掲載をさせていただきました。
コメントをいただきました《スギリン》さんにはお詫びを申し上げます。

12月8日はご承知のとおり
1941年12月8日アメリカ、イギリスをはじめとした連合国に対して
戦争を始めた日である。

1941年を《い(1)く(9)よ(4)い(1)っせんしんじゅわん》と
高校受験で覚えた記憶が残っているから驚きである。
なんでもゴロあわせで記憶をした思い出が懐かしい。

645年大化の改新《む(6)し(4)ご(5)め、蒸そう大化の改新》
いったいこのゴロはある意味すごい。

一般的に知られている794年平安京遷都これは少し意味が通じる、
《な(7)く(9)よ(4)鶯平安京》
《ほっとけほっとけご(5)み(3)や(8)さん》
これなんぞは、仏教伝来の仏(ほとけ)と538年をゴロ合わせにしたものであるが、
ごみ屋さん、538年に収集の業者があったとは考えられない。
しかし、
1549年、1543年近接するこの二つの年はどちらかが鉄砲伝来で
どちらかがキリスト教伝来だったと思う。
《以後良く見かける種子島》
《以後良く見かけるキリシタン》

今なら、親父ギャグにもならんこんな記憶法を授業中に先生が唱和する。
生徒であったわれわれも真剣に先生に続き復唱しているのであるから、
今なら考えられないダサダサである。

先日、回転すし屋で一人笑いをしてしまった。
このはまちは、はうまっち!
このいくら、いくら!
くだらなさに自己閉口してさびしく一人笑いである。
マグロの漬けは、醤油でまっぐろ!
しょうがの食べ過ぎしょうがない!

次々くだらない親父しゃれが浮かぶものだから楽しくてしょうがない。
人に言えない一人頭中妄想笑いの無添・蔵すしのカウンターであった。

ちなみに、大阪市立花乃井中学校では前述の様に社会科の授業が行われていた。



私の好きな飛行機 
グラマン F3F 艦上戦闘機!すなわち兵器なのであるが、
精悍さが感じられず、どこかのんびりしたのどかな風体が興味を引き、
逆にかっこいいと感じる。
flying barrel 空飛ぶ樽もうなずける。




いつも明るく元気な叔母の怖い話。

2009年06月23日 | 昔の事
以前よく北山の山中をバイクで走り、
自然を満喫していた時に行った場所なのであるが、
加茂川を雲ヶ畑方面に少し行くと京都バス大岩バス停があり、
その付近から右手に谷が始まり林道が取り付けられていて、
途中分岐して東へ向かう一方の道は東海自然歩道で、
夜鳴峠を経て鞍馬電車の二ノ瀬駅の富士神社の横のできる道がある。
その林道を夜鳴峠方面へ向かわずに、直進すると長く林道が続き、
行く手はバイクでは無理な採石場の跡であろうかコンクリートの構築物で
道は行き止まりになる。
しかし地図や、北山ハイクガイドでは、二ノ瀬駅から始まる古道の《二ノ瀬ゆり》の
大岩分岐なる広場に到達するはずだが?

この谷を栗夜叉谷というのである・・・・・。

この谷の出来事に、気のいい上賀茂の叔母から聞いた終戦直後の話がある。
叔母によるとその栗夜叉谷に行くと奇妙なことが起こるというのである。

山仕事をしていると、奇妙な音がするらしい。
鎖を引きずり歩く音がどんどん近づいてくるらしいのである。
同様に付近で作業をしている人たちも何人もの人が、
同じ現象を聞いている。

ジャラジャラじゃらじゃら・・・・・・。歩く歩調で。

だから、夜叉という所以なのであろうか?
そんな話を聞いてしまったので、あまり無用に立ち入ることは避けようと
思うのであるが。



【少し以前の写真になるが携帯電話の画像ゆえイマイチ不鮮明。
 バイク乗車のまま登れるかきわどい階段を夜鳴峠方面へ上ってみた。
 この先で、つずら折れの細道になり夜鳴峠から二ノ瀬へ通じる。
 オフロードバイクでは無理?トライアルバイクなら何とかなるかな?の程度。
 峠から向こうの現状は未調査】

北山の山奥には、なぜこんなところに地蔵があるのであろうか?とか、
この石組みは自然にできたものではないな、と、思う場所があったり、

いかにも空気がよどんでいる場所があったり、
山中なのに誰かに見られているような気がする場所がある。
気のせいであるが科学的な証明を山中で起こりうる事や感じることに
すべも無いのであるが薄気味の悪いところが多々ある。

特に何を採掘していたのであろうかいたるところにコンクリートの堅牢な構築物
が、山中の谷間に忽然と姿を現すところが多いことにも注目しなければいけない。

前記の二ノ瀬の集落を貴船口駅方面に車を走らすと、
右手にコンクリートの構築物もそうだし、
雲ヶ畑岩屋橋から祖父谷をしばらく行くとすぐ右手にある構築物もである。
皆同様の形をしているので付近で何かを採掘していたことに間違いは
ないのであるが?誰かご存知でしょうか?

何より、栗夜叉谷は、やはり何かあるんでしょうか?
ご存知の方いかがです?

夜叉については、下記を参照
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E5%8F%89


少しいい話。

2009年06月16日 | 昔の事
先日、親戚一同が集まる出来事があり、私の年老いた叔母から、
上賀茂の昔話を聞いたのであるがその中でも印象の深い話をする。

その中でもすごく苦労した叔母の話である。
私の父親の姉で83歳でいたって元気で、京都市北区の山中のとある
山村に在住している。

昭和20年にその山村へ嫁いだのであるが、
昔、その山村へは、雲ヶ畑から岩屋不動を超えて薬師峠を越える山道を
徒歩で行き来をしていたらしい。
今なら、京都市内からなら高雄を経由したり、京見峠を越えて杉坂を経て、
向かうのが常套な手段であるが昔の交通事情なら直線的に徒歩でなら
この道筋が一番早かったのであろう。

父親も、その叔母に物を届けるのに、
自転車で岩屋橋まで行きそこから徒歩で山越えを幾度となくしたと語る。

家業は樽を作る職人であったようである。しかし夫が早くして亡くなり、
息子二人を育てる。
北山杉の手入れや、床柱を製作する作業で収入を得ながらである。

この叔母が言った言葉が耳につく。
その山村の人に
《上賀茂で使いもんにならんへんから、こんな山奥に嫁いできたんや。》と、
言われたという。

その言葉が反骨となってがんばれたのかもしれないと言っていた。

でも、何度もその山村から岩屋不動へいたる峠道まで来ては、
帰りたいと思い涙し、山の仕事で、桟敷ヶ岳から京都の町を遠望する度、
泣いていたと言っていたことが印象的であった。



今なら女性はとっとと次の生活を構築できる環境であるが、
当時の女性はそんなことは許されなかったんであろう。

そんな、叔母や父親が通った昔道は北山ハイクの絶好のフィールドであり、
多くの森林資材に恵まれていた北山山中は杉の植林で整備されているか、
まったくの地権者が放置の状態で嘆かわしい限りである。

で、その叔母をいじめた家は高度成長期に没落し、消え去った。
名前を聞いたが明かせない。

叔母の当時の感傷は、北山の山中に隠居し、桟敷ヶ岳から都を眺めた
惟喬親王の気持ちに通じるな。これは私の印象である。

私は小学生のころ、この山村の叔母の家で夏休みを長くすごした。
大人の世界でない自然の世界がすばらしく涼しかったからだ。
大阪で生活していたのでなおさら、全てが新しく新鮮であった。
水道がなく、井戸と山水が絶えず出ている台所は特に不思議の宝庫であった。

藁でくるまれたご飯を入れるおひつ。電子ジャーといったものなどは無い。
全ての都会生活に逆行する不便が楽しい。
私にはたまらない世界であったことは間違いない。

叔母は今も働き者である。こちらが頼むので座ってくれといわないと、
ほうきを持ち、掃除する。母親が放置した実家の庭の花木の世話を始めだした。
ついに父親が《止めろ!》と懇願し中止する。

惟喬親王については、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%9F%E5%96%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B

流麗なハイスピードライディングに感動する!

2008年02月21日 | 昔の事
Gp de france 1973


表題の示したとおり、感動して言葉を無くして、
              何も書き記すことはありません。

サーリネンがいて、アゴスチーニがいて、金谷さんが走っている。

我がクラブ御大、TA125のマックK氏にこの動画の所在を告げたら、
行き着くことができないようなので、ブログ内でリンクをしました。

「73年か~~。俺、ジュニアからエキスパートに上がった年やな~~~~ぁ。
 レースエントリーする金もなかったな~~~。でも、やめられへんねや~~。」

そのような世界のようである。当時の二輪レース競技者の精神は。
今のように、他人やショップの整備サポートを受けて走る人少なく、
すべて自分で整備をこなして参戦していたようである。

はて?今、
マックK氏から「池やん!ツーー乗れ!」をこのごろ聞かないことに気がついた。






京都北山について記す。その②(全4回)

2008年02月17日 | 昔の事
先回の京都北山について記すその①に続き、本日はその②を記す。
私の好む、雲ヶ畑中津川出合いから松尾谷を経て、直谷(スギタニ)について、
関連する人物について記すことにする。

訪れるたびにその季節に応じて表情を変えるこの二つの谷は、
私にとって、オフロード走行の基本習得するためのコースでもある。

途中にある朽ちた山小屋や、
麗杉荘(レイザンソウと読むらしい)と表記のある山小屋があるこの谷は
歴史的に北山を愛でた先人の方々のベース地であったと推測される。
ただ平然と行き止まりまでを往復するのではなく
また、その山小屋前を通り過ぎるだけではなく、
その事につき、知りえたことを少し深めて記す事にしたい。



(上の写真は麗杉荘である。)

昭和10年に北山の父と呼ばれた森本次男が建てた山小屋である。
彼が著した、《京都北山と丹波高原(昭和13年)》が発刊されるまで、
詳しく京都北山について案内した書は無く、この書が北山歩きの基本書と
評価されることになる。
また、彼の純粋なる北山への愛で方は、多くの北山を愛する人々に感銘を
与えることとなった。
彼は、京都二商(西陣商業学校=廃校)で教鞭をとり、山岳部を作った。
その山岳部から、日本の登山家が多く輩出している。
また、好日山荘の創業者もその門下から巣立っている。

日本のアルピニズムの創世記はこの北山からと決めてよいであろう。

次に北山をこよなく愛した、文化勲章受賞の今西錦司先生について記す。
彼は、京都一中(現京都府立洛北高校)で山岳部(日本で最古に属す山岳部)に
属し、北山を発見した。発見=登山の対象としての北山の発見である。
京都三校へ進学し、西堀栄三郎らと山岳部を作り、わが国のアルピニズムの
先頭に立つようになるが、北山を愛しその山中を放浪を続ける。
その中で、北山で一番高いことを知り(981.5m)その登頂を行う。
付近住民の伝承を聞き調べその山に皆子山と名づけた。また付近の谷にも
聞き調べた地名を命名した。

このように、北山は京都の学び舎から開拓されたともいえると思う。
後に彼らは、多くの子弟を育てその精神を受け継いでいく。

更に詳しく人物を解説するにはかきURLをクリック!

今西錦司
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E8%A5%BF%E9%8C%A6%E5%8F%B8
西堀栄三郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%A0%80%E6%A0%84%E4%B8%89%E9%83%8E

ー感じることでありますがー
 私の周りの京都大学学生さん、職員、教授の方々すべて自由闊達な方々が
 多いように感じられる。
 ある学生さんに聞くと、《東京大学にはない学風》が良好のようで、
 「こんなんとちゃうやろか~」関西お笑いノリ・ツッコミ会話から
 アバウト発想が良い結果を生むときが多いそうである。
 だから私自身、彼らとも付き合いやすいし、ざっくばらんに質問もできるし、
 彼らは解り易く簡潔に答えてくれる。
 また、彼らの研究の内容が実社会の技術転用に大変近い分野であることも
 特筆すべきである。
 その中で、今M君の研究は、X線の応用技術で、
 先端医学で多用されるカテーテル手術の際に、患者に照射されるX線の量を
 極限まで減らす技術を研究している。すなわち、被爆量が減る研究である。
 また、農学部・山M教授は、糖鎖の研究において第一人者であり、
 その説明は解り易く、その分野内である微生物生命を食品製造に応用の分野に
 おいて私は解説を受けたときに大変分かりやすかった記憶がある。
 で、
 数学の大S氏は、私が怪我のときに心配してくれて、
 知り合ってから短い期間ではあるが私は親友であると思っている。
 何事にも几帳面なのか?大雑把なのか?よく分からん人なのだが・・・・・。
 存在が気になる方である。
 琉球大学出張から戻ってきたが少し疲れていたなぁ。
 
 


京都北山について記す。その①(全4回)

2008年01月21日 | 昔の事
私がバイクで徘徊探訪している地域は、
京都北山が中心となるせいぜい行程往復で150kmほどの範囲である。
京都北山と聞き、ほとんどの方は、府立植物園の北側界隈の
おしゃれなお店の通りを思い浮かべるであろうが、
ここで述べる北山はそのことではない。
京都北山は、京都市街から日本海に向かって扇形に広がる山域をさす。



〔鴨川を志久呂橋近辺辺りまで来ると、北山の全景は一部しか見えなくなるほど
 近づいてくる。画像の高い峰は手前の697mのピークを手前にその奥の
 魚谷山816.2mであろうか?
 志久呂橋を渡り更に上流へ渡ると谷間の道となり、雲ヶ畑方面へ向かう。
 私の北山へのバイク徘徊アプローチはこの志久呂橋からが常に基準点である。〕

明治以降、スポーツとして近代登山という考え方が入ってきてから
岩登りが中心の外国の登山に比べて、
山中を彷徨うことが中心となり、峠越え、尾根歩き、峰を踏み、
集落を生活道をつなぎ歩く北山登山は、相反するところで、
他の日本の登山の形態とも一線を隔しているといえよう。
また、その山の奥深さが多くの日本の登山者を北山へ駆り立てたようである。

標高は1000mに満たない山が続き、名峰はない。
どこにでもある平凡な里山の類が累々と続いている。



〔二ノ瀬の富士神社横から緩やかなつづらの道を登り尾根道に出て、
 叡山電車のレールと車輪のきしむ音が谷間から遠ざかると、
 二ノ瀬ユリ道の初めての分岐点の広場に到着する。〕

でも、近所に住まいするからではないが、
常に気が向けば北山山中にわが身を置いている。

究極の地味な山ゆえ飽きが来ないのかもしれない。

古く、長岡京造営に際し、木を切り出したのが京北町山国であり
同様に平安京造営時に際しても、また京市街の戦乱・自然災害の復興時にも
京北町山国、また室町幕府の庇護をうけ黒田・花背・広河原と
木材産出地は拡大していったようである。



〔大森東町から更に谷を詰めていくと谷筋方向は北から北西方向へ回り込み、
 やがて林道は消え、バイクでは行き止まりとなる。
 しかし、飯森山への道は徒歩で途中尾根に上がり大谷峠となる。
 大谷峠を左方向で飯森山から天童山から茶呑峠方面へ・・・
 大谷峠を右方向でナベクロ峠から双方向に祖父谷峠方面と桟敷ヶ岳への
 尾根道となる。
 このように、ひとつの尾根筋に出ると北山は縦横に道が開かれているのも
 興味深い。〕

で、当然それら地域の産出地どうしと京とを結ぶ道が必要となり、
実際にその峠のかかり付けを訪れてみると
現在の通常の通り道で国道や府道よりも効率よく集落を結び
ひとつ峰を越えるだけの最短ルートであったり、
尾根を下るだけの最短ルートであることに驚くことが多い。

また、大森、小野郷、雲ヶ畑、鞍馬、大原、貴船などの地は
御所とのかかわりが深く、祖父谷峠、縁坂峠、茶呑峠、芹生峠などは、
これらの地域からの皇室への貢納や、夫役に使われた道といえる。
それよりも昔、まだ都が京でないころ、石仏峠や魚谷峠を越えた
出雲族の民族移動や大陸からの新しい技術を持つ渡来人も
通ったはずである。