池やん!まいど!おおきに!ごきげんどぅ!

仕事・今までの人生
このごろ悩みが多くて困ります。
周りの多くの人に救われているのを
実感する今日この頃。

流麗なハイスピードライディングに感動する!

2008年02月21日 | 昔の事
Gp de france 1973


表題の示したとおり、感動して言葉を無くして、
              何も書き記すことはありません。

サーリネンがいて、アゴスチーニがいて、金谷さんが走っている。

我がクラブ御大、TA125のマックK氏にこの動画の所在を告げたら、
行き着くことができないようなので、ブログ内でリンクをしました。

「73年か~~。俺、ジュニアからエキスパートに上がった年やな~~~~ぁ。
 レースエントリーする金もなかったな~~~。でも、やめられへんねや~~。」

そのような世界のようである。当時の二輪レース競技者の精神は。
今のように、他人やショップの整備サポートを受けて走る人少なく、
すべて自分で整備をこなして参戦していたようである。

はて?今、
マックK氏から「池やん!ツーー乗れ!」をこのごろ聞かないことに気がついた。






バイクに乗った後の体を温める絶品!

2008年02月18日 | おいしい事
二月中旬からの寒い天候続きで、さすがにここのところ、
バイクからは少し遠ざかってしまっている。
我が職場前から見る、北山の峰には、
冠雪がありバイクでは行く気にはなれない。



(いつも見慣れている一番近い峰を見てみると、吹雪いているのであろうか?
 白い霞のカーテンで仕切られている。雪のカーテンであろう。
 さすがに、その中へ果敢に入ろうという気にはなれないなー)

というよりも、

遭難の可能性もある。
最悪のパターンを推測すると、
いきなりの吹雪で方向性を失い、道を見失い、スリップしてがけから落ちる。
怪我をしてがけを這い上がることができない。
そのうち体力を消耗して凍死する。雪に埋まり春まで分からない。
春、雪解けにより死体は露見するが、腹をすかした熊に食われてしまう。

ああ、恐ろしいことだ。

で、そんな天気の日には、バイクで遊ぶのを休止して、
温かい食べ物が欲しくなるのである。



私が久々にはまっている美味しい物が上の画像のちゃんぽんめんである。

市バス西賀茂車庫のセブンイレブンを西へ30M。
レストラン西加茂(西賀茂ではなく西加茂であることに注意されたい。)の
熱々で野菜たっぷり、あっさりスープのそれである。
コストパフォーマンスも良く、価格も手ごろで《¥550!》病み付きに
なっている。誰に紹介しても喜んでくれるので、
自ブログで紹介することにする。
職人調理人の大将と、気さくなおばちゃん、おばちゃんの妹さん、
そして息子さん(充分に他店で修行されてきた職人調理人)で営業されている。

その熱々ツルツルの画像は下記URLをクリック!拡大画像を表示します。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/44/20c745dcb2e28a6d123a3c3f54c4aa92.jpg

(たっぷりに盛られた野菜をのけると、その下に麺が現れる。
 ふわっと湯気上がり、おいしい香りが胃を刺激する。至福のひと時。
 熱々をふうふうしてハコハコしながら・・・・・・たまらん!!)

レストラン西加茂という名のとおり、ほかにも洋食メニューも多く、
先日であるが、隣に座った古くからの常連さんであろうか?
メニューにないオムライスの大盛りを食されていた。
自店で食材の仕込みをしていて、
大量生産品である業務用食材を使用して
盛り付けと加熱調理だけで済ませるような店ではないことは確かである。
だから、こだわりを感じ私は虜になっている。

ご近所でも評価高く、評判のお店である。

西賀茂車庫バス停の直近でもあり、交通の便もすこぶる良いので、
山歩きのアプローチにバス利用の際ぜひ利用していただきたいと思い、
ここに、栄養価満点、熱量豊富なそれぞれ魂のこもったメニューを
強くお勧めする。
絶対に外れメニューはありません!!!!!!

ー考えの甘い二代目ー
私の良く行く店に、考えの甘い二代目兄弟が働いている。
その店は、昼前から、深夜まで営業しているのであるが、
その経営者が息子二人に甘く話にならない。
当然他店での修行経験もなく、客扱いも最悪で気にいった顧客としか
話ができないし、苦言を呈した顧客に対しては無視をする最悪な息子二人である。

当然この店には、他店で修行を積んでこの店で調理人として働いている人、
長くこの店で働いて60歳代でありながら朝一番に店の扉を開ける人が
いるのであるが、ぜんぜん気遣うことなく、
自分勝手に働いているようにしか客である私には見えない。
忙しくても、自分の勤務時間が終われば早々に帰る。
最悪の気づかない人間である

私の息子は、このような人間にはしたくないし、
このように息子に甘い親にはなりたくない。

最近、その修行足らずの息子と新店を立ち上げたみたいだが・・・・・

経営者の息子は、その親の代を継ごうとと考えるならば、
従業員さんより早く来て店を開店し、従業員さんより仕事ができて、
従業員さんより客と仲良くできて、
従業員さんより仕事苦しくなければ皆ついては行かないでしょう。
だから、この既存店と新店の繁盛は無理でしょう。
現に、息子の作る料理の評価はすこぶる悪い!!!
この店でがんばっている従業員さんの迷惑です。早く気が付け!経営者!
マー無理でしょう。

京都北山について記す。その②(全4回)

2008年02月17日 | 昔の事
先回の京都北山について記すその①に続き、本日はその②を記す。
私の好む、雲ヶ畑中津川出合いから松尾谷を経て、直谷(スギタニ)について、
関連する人物について記すことにする。

訪れるたびにその季節に応じて表情を変えるこの二つの谷は、
私にとって、オフロード走行の基本習得するためのコースでもある。

途中にある朽ちた山小屋や、
麗杉荘(レイザンソウと読むらしい)と表記のある山小屋があるこの谷は
歴史的に北山を愛でた先人の方々のベース地であったと推測される。
ただ平然と行き止まりまでを往復するのではなく
また、その山小屋前を通り過ぎるだけではなく、
その事につき、知りえたことを少し深めて記す事にしたい。



(上の写真は麗杉荘である。)

昭和10年に北山の父と呼ばれた森本次男が建てた山小屋である。
彼が著した、《京都北山と丹波高原(昭和13年)》が発刊されるまで、
詳しく京都北山について案内した書は無く、この書が北山歩きの基本書と
評価されることになる。
また、彼の純粋なる北山への愛で方は、多くの北山を愛する人々に感銘を
与えることとなった。
彼は、京都二商(西陣商業学校=廃校)で教鞭をとり、山岳部を作った。
その山岳部から、日本の登山家が多く輩出している。
また、好日山荘の創業者もその門下から巣立っている。

日本のアルピニズムの創世記はこの北山からと決めてよいであろう。

次に北山をこよなく愛した、文化勲章受賞の今西錦司先生について記す。
彼は、京都一中(現京都府立洛北高校)で山岳部(日本で最古に属す山岳部)に
属し、北山を発見した。発見=登山の対象としての北山の発見である。
京都三校へ進学し、西堀栄三郎らと山岳部を作り、わが国のアルピニズムの
先頭に立つようになるが、北山を愛しその山中を放浪を続ける。
その中で、北山で一番高いことを知り(981.5m)その登頂を行う。
付近住民の伝承を聞き調べその山に皆子山と名づけた。また付近の谷にも
聞き調べた地名を命名した。

このように、北山は京都の学び舎から開拓されたともいえると思う。
後に彼らは、多くの子弟を育てその精神を受け継いでいく。

更に詳しく人物を解説するにはかきURLをクリック!

今西錦司
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E8%A5%BF%E9%8C%A6%E5%8F%B8
西堀栄三郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%A0%80%E6%A0%84%E4%B8%89%E9%83%8E

ー感じることでありますがー
 私の周りの京都大学学生さん、職員、教授の方々すべて自由闊達な方々が
 多いように感じられる。
 ある学生さんに聞くと、《東京大学にはない学風》が良好のようで、
 「こんなんとちゃうやろか~」関西お笑いノリ・ツッコミ会話から
 アバウト発想が良い結果を生むときが多いそうである。
 だから私自身、彼らとも付き合いやすいし、ざっくばらんに質問もできるし、
 彼らは解り易く簡潔に答えてくれる。
 また、彼らの研究の内容が実社会の技術転用に大変近い分野であることも
 特筆すべきである。
 その中で、今M君の研究は、X線の応用技術で、
 先端医学で多用されるカテーテル手術の際に、患者に照射されるX線の量を
 極限まで減らす技術を研究している。すなわち、被爆量が減る研究である。
 また、農学部・山M教授は、糖鎖の研究において第一人者であり、
 その説明は解り易く、その分野内である微生物生命を食品製造に応用の分野に
 おいて私は解説を受けたときに大変分かりやすかった記憶がある。
 で、
 数学の大S氏は、私が怪我のときに心配してくれて、
 知り合ってから短い期間ではあるが私は親友であると思っている。
 何事にも几帳面なのか?大雑把なのか?よく分からん人なのだが・・・・・。
 存在が気になる方である。
 琉球大学出張から戻ってきたが少し疲れていたなぁ。
 
 


冬らしい天候が続き、バイク乗るのを躊躇するが・・・・・?

2008年02月14日 | バイクの有る生活
二月に入り節分を過ぎた頃から、今までの暖冬傾向から例年とおり、
冬が出していなかった寒さを放出しているのであろうか、
厳しい寒さが続いている。
日中から雪が降り続く事もあり、二月十三日(水曜日)の寒さは、
ここ数年の間では、久々の寒さの到来であったように思う。

で、そんな寒さではあるが、
雪の降る中、京都市中を走ってみた。
さすがに、この寒さでは街中はバイクの数がめっぽう少ない。
と、ふと考えてみると走行自体が危ないのではないかと、
走り出してから考えてしまった。



(我が職場から南方向を見ると、雪が止む気配など無く、
 北からの強い風にまかれた湿度の高い雪がどんどんと降り積もる。
 しかしながら、北から南へ市内に向かう車は、チェーン装着車が多いが
 市内から北上して我が職場前を通過する車は雪装備の足元ではないことを
 考えると、さしずめ御園橋から南は路面状況は雪はないと予測して出発する。)

行く先は、上京税務署。

堀川中立売から東へ向かい、新町通りを北上し新町一条西入るである。

で、やはり充分に冬のライディングに備えた装備をしているのであるが
ツメターーーーーイ!

指ワイパーでゴーグルの雪を払いながら、がんがんと走る。
堀川北大路まで吹雪。少し小止みにはなったが、
税務署近辺の街路は雪だらけだ。

しかし不思議だ、あまり滑らないな。
雪の中、車をすり抜け、追い抜き結構なハイペースで直ぐに到着。

べたべたの雪で体についた雪を払っても引っ付き離れない。

直ぐに用件終了し、帰路に着く。

で、我が職場前にて私が転倒。バイクでこけずに、帰着して滑る。

笑ってしまい。汗をかく。



(我が職場前から北方向を望む。
 もはや500mほど先は雪で見ることはできない。
 本来ならこの場所から常に私が林道走行でよく入る北山の峰を望むことが
 できるのであるが・・・・・・・。)

ー懐かしい動画ー
寒いので、暖かい部屋でアナログセッティング時代の世界GPを
youtubeで見つけては懐かしんでいる。YAMAHAが輝いていた時代である。
1979のシルバーストーン500ccクラスは
バリーシーンとケニーロバーツとのバトルが最高にエキサイティングである。
現在のGPとは乗り方がまったく違うところにライダーとしての職人技を感じる。
すなわち、その乗り方は速いだけではなく華麗で優雅である。
私は彼らの台頭より少し前のヤーノ・サーリネンに憧れた時がある。
中学一年(1972)であった。高校に進学して鈴鹿レース観戦通いが始まり、
その思い出の中で、HONDAの隅谷選手のヘルメットデザインを真似たのか?
日の丸部分がてんとう虫印のライダーで、
雨の鈴鹿①コーナーからS字入り口までのライン取りと速さが
すばらしかった。

前記の職人ライダーと共通するところがあると思う。
彼は速く走るためのすべての操作が無理なくスムーズなのだ。
だから、悪条件で速い!しかし、優勝したのを見たことが無い?!
私の憧れの乗り方の手本の一人でもある。

Kenny Roberts Vs Barry Sheene Silverstone 1979


左京区静原界隈を林道探訪する。

2008年02月02日 | バイクの有る生活
【12月2日の記録を元に記す。】
近隣の地域で、あまり探訪できていない地域である左京区静市・静原の地域を
山間を徘徊してみようと思い出かけることにした。
マックK氏「岩倉村松から抜け道があるみたいだが、未だ未確認。」とのことで、
早速、仕事を片付けて出かけることにした。

で、例によって、山地図《京都北山》を広げみて見当をつける。
薬王坂から鞍馬に抜けられるか?
あの、コスモス畑と芋ほり会場のところから岩倉方面は?
東のはずれに西俣・東俣という北向きの谷筋の終点は?
とりあえず、締めくくりは江文峠の旧道を走ってみよう。
以上目的をもって出発する。



(静原のキャンプ場に至る途中、近隣では珍しい川の中の幅広い堰堤を
そのまま渡渉する道があり珍しく思い記念撮影をする。)

先ずは鞍馬へ抜けるであろう谷間を入ってみる。
すなわち、集落の開けるお宮さんの直ぐ先の分岐道を左方向集落方面へ入り、
直ぐの道を左へ北上することとする。
左に谷筋に沿いしばらくで薬王坂方面への東海自然歩道と交わるが、
そのまままっすぐ谷筋を入っていくと湿ったコケ道の林道が500mほどで
行き止まりとなる。変化少なく不法投棄の多い汚い山筋だ。

反対方向の老人養護施設横から畑の間を縫うように地道を行き
岩倉方面へ抜けられるか、以前他のブログで読んだ峠を見てみようと、
谷を南へ上る。
すると、コンクリートの簡易舗装道路が谷の東側に添って作られていて
その上りきったところが大きく西向きに開かれた墓地になる。
墓地のゴミ捨て場に対面する尾根道であろう入り口に
箕ノ裏ヶ岳・繁見峠方面への尾根筋への案内木片が有る。
それを左に見てかなりの急勾配で直線的にガレ場を下るように
岩倉への道はつけられているのではあるが、
私には下りられても上り帰る自信が無いので徒歩にて偵察する。
100m程の先、一つ目の屈曲に大きく倒木があり通行不能である。
もし下りていれば急坂の下りで折り返して方向を変えて上ること事は
難渋したに違いないと思い、選択が正しかったことに《ホッ》と安堵した。

次に・・・・

静原小学校手前の自動販売機の交差点を左に折れて、
養護施設の先から東股へ入る。
珍しい川の渡り方を経験する。

上記写真のとおり。

奥深い谷筋であるが何気なくすんなりと行き止まりまで到達できる道である。
次に西俣を入っていくのであるが、これも変化無く展望も開けるわけでもなく
滑りやすい溝を横切る鉄板の溝蓋が何箇所かあり、
変化無く何が楽しいのか分からない道である。
途中、軽トラックと対向したが、冒険というには物足りない道である。
しかし両方の谷とも、手入れがされておらず不法投棄が多いことに驚く。

とくに、野菜くずの腐敗臭が漂う場所がある。
多分であるが、
すぐき漬の加工時の屑を地権者である生産者が投棄しているようだが・・・・?

どちらにしても、もうこの谷には来る気は無くなってしまった。

ー後日談を記すー
京都産業大学職員のH氏によると前記の東俣の谷筋道を獣道に変わっても
上り詰めると大原寂光院からの道と合流し大原へ向かうことができるそうである。
しかしながら、不法投棄は谷奥まで見受けられて、
数箇所、オフロードバイクが道からはづれて転落して回収できず、
廃棄されている場所があると聞いた。