池やん!まいど!おおきに!ごきげんどぅ!

仕事・今までの人生
このごろ悩みが多くて困ります。
周りの多くの人に救われているのを
実感する今日この頃。

Country  Gentleman

2012年12月28日 | 愛する人
田舎住まいを始めて早いもので1年と半年を過ぎようとしている。
たぶんこのブログ文面のアップが本年最後になるであろうかと思う。

田舎暮らしを始めて当初の3ヶ月は本当に何もしないでいた。
というより、まったく体が動かずに意欲沸かないでいた。
精神的に疲れ、対人的にも疲れ、生き方そのものに疲れ・・・・・。
恐ろしい事をも考えていたし、恐ろしい事を実行する方が良作かもなどと
日々空を眺めては考えていた。
重大な体の疾患や遅々と進まぬ怪我の回復を抱えていたし、
先行きの見えない自分に精神状態も今は振り返る事ができるが
尋常でなかったように思う。



田舎住まいを始める前の1年間に災難が4度訪れた。
1度目は、足が思うように動かなくて浮腫みが目立つ。痛くてまともに歩けない。
その治療に通っている時、思うように足が動かないので営業活動の移動を
アクセルとブレーキ操作が遅れるので市バスでしていて
最寄のバス停で下車時に市バスの降車口から転落。
膝の半月板が両足砕けた。
それでも、信頼置けるウッチー(愛称)整形外科へ通院を続けて徐々に良くなりつつ
なってきたある日へ1度目の交通事故。
車道で側面から跳ねられた。
考え事が多くて、注意散漫であったことが原因。
肋骨と右肩、右腕に強烈な打撲。全身、青あざ。
足の動き、膝が少し良くなったので筋力を維持しようと、自転車に乗る日を増やす。
京都市内はほとんど自転車で移動することにした。
夕方、信号無視のおばさんドライバーに停車中に撥ねられた。
私が居てるのが見えなかったと言う。

その治療中、採尿検査で血尿が止まらない。

ハイ!腎臓がパンクである!

もうこうなれば落ち込みまくり。

そしてダメ押しの一発!転倒で左腕の骨折・肋軟骨損傷。



京の街中での生活を一区切りをして今までの仕事を良く考え田舎暮らしを
薦めてくれる方がいた。陶芸家の師である。
あの一言が無ければまだまだその時の≪業≫へばりついて結局は命を縮めていたか、
心を患っていたように思う。

それなりに事業に関しては悩みはあった。万年資金不足。
整理して少し休もうという気持ちになるには少し時間がかかったように思う。
しかし、このままでは体が持たないという事がすぐ理解できるようになった。
日常の生活に周りの親しい方から再三にわたり注意を受け、叱られてはいたが・・・。
まったく寝耳に水。無視はしていないがなぜキツク偉そうに言われているのかが
理解できずにいた。
しかし、そんな態度に呆れられてその声を聞かなくなったし友情も去っていった。
直後、強烈な災いが≪イワンこっちゃ無い≫その状態で次々に身に降りかかったのである。

中学生の頃、中国大陸で軽機関銃を持ち抗日と戦っていた叔父が私に良く言った。
「お前は我がきつく自身しか信用していない。だから弾に当たって死ぬのが一番早い!」
「『身を伏せろ!』と言っているのに『当たるものか!』と言って死ぬ兵隊を見てきた。」
等と。

知人の案内で高野山へ行った後だったと思うある日、
体が辛くて寝られないでいる夜、うとうとしかけたら身内の夢を見た。
その墓参りに行った。墓裏の字をなぞり57歳で亡くなっていた。
その時、あと7年だと思ったのを明確に記憶している。
そんな理由で少し見つめなおす時期が来ていたのであろう
にぎやかで友人の多い私が取引先関係やお客を無責任な形で田舎に引っ越すと
誰もが真実でないと思ったらしい。

そんな私の独自発想世界を突拍子のない思い付きの≪池ワールドの展開論≫と
呼ぶ方が多くいる。
私は真剣に考えて行動をしているのであるが、繰り出される行動の発動が奇異に感じ、
どうやら、その方々は自分が常識人という錯覚からか私の行動をそのような目で
見ているようで、常識とはかけ離れた感を持たれているようでもある。
小馬鹿な嘲笑の目で私との会見の時間を持つ方もいる。
簡単に論破できる持論展開をする方もおいでだ。

では、その、奇異に感じることの多い行動常識とは何か?
先回も述べたことがあるが≪常識≫とは、個人各位の感覚の多数であり
≪常識外れ≫という確定は大いなる勘違いの表現であるようにしか私は考えていない。
多数決で決定された≪常識≫を構成する意見要素の中で≪常識外れ≫の中に
≪常識≫のParadox(逆説)の≪常識外れ≫の中に正論が生じないか?
そこを深く考える事が私の場合多い。

多数決は、物象に関して正否を問うものでも無いし、事実を確証する為の同意数でも無い。
そして、事実の起こしうる将来の予測を決定するものでは無い。
この事が私の行動原則である。

私の感覚や実際の生活や行動で。私自身なんら独自性があるとは考えていない。
私にとっては普通。


名曲探訪 ・「新日本紀行」 富田勲 / Isao Tomita



田舎に住んでいてテレビや新聞などの放送局の発する電波や新聞社の活字で
一方向性に伝わる雑多な情報より開放され、なんら影響の無い時空に身を置いていると
山の向こうの向こうの向こう・・・・・、かえって、都市の状況がよく見えるものである。
田舎に住みながら都会にたまに出てゆく度に新しい変化や流れに目を配り観察していて
時流や流行に流されず、自らの考えを自身の力で実行する力が宿りそうにも思う。
そんな人、カントリージェントルマンに憧れていたりもする。

そのような人に憧れているからか、とことん静かな環境下で妄想を絶えず見ている。

とことん物象と事象の流れを観察考察し、その中で踊る本物を追求し生活に取り入れる事。

例えば・・・・・こんな理想をも考えていたりもする。
ヘンリー・プールのオーダースーツを作り
ターンブル&アッサーのオーダーシャツを誂え
ロックでソフト帽を買い、
ブリックで作られた絹張りの傘を手に霧のロンドンの街を歩き
7471番のナンバープレートのベントレーに乗って田舎道を飛ばしてみようか?
いやそれまでに、古いランチャで奥飛騨の温泉旅に出てみたいものだ。

気の合う仲間がいて静かに顔を寄せボソボソくだらない話をして
ときたま、草原の川原に寝て真上の空を見て、声をこらえて腹を抱えて笑ってみたい。

しかし、いつも笑う楽しい安楽な相手ではなく、
幾つになっても叱ってくれる方が居ない事は人生不幸な事で寂しい極みである。

叱ってくれた方のご好意で好物が届き、その方の叱ってくれた真意と真剣を改めて知り、
失ってから関係を取り戻す事は容易な事では無いと実感している。

歳をとってからの反省点が多すぎる。

悲しい話 終戦記念日に思った事

2012年08月16日 | 愛する人
実家に父から呼び出された。
私の所用で打ち合わせ事があったからだ。

その話の最後に、軍人遺族年金の話を聞いた。
毎年、僅か幾らかの遺族年金が振り込まれていると言っていた。
誰のものかというと、私の父は7人兄弟の四男。
その長男の軍人遺族年金である。
ビルマ・インパール作戦で戦死している。
なぜ、四男である父親のその金が振り込まれるか?が不思議なので聞くと、
二親等の親族が受け取れるような仕組みの説明であった。
確かに、他の生き残った男兄弟は一人は養子で外に出て既に故人だし、
その戦死をした長男の家督を引き継いだ三男は既に故人。
私の父がその受給対象者となっているようである。

そのような話から、その長兄との思い出を切々と話しだした。

長兄は、復員と出征を3度経験している。
即ち、2度兵隊に行き、3度目に帰らぬ人となった。
最後の出征は昭和17年(1943年)の事だ。
その度に階級が上がり、伍長で死地に赴いたという。

その長兄の事が父は忘れられないという。
男で生家に残ったのは私の当時12歳の父だけ。
その父が一番慕っていたのがこの長兄だと言っていた。
最後の出征の時、長兄に離れに呼び出されて
「タケ(父の呼び名)!泣くな!家に居なくても靖国に居てる!」
「あとはお前だけや!頼むぞ!」
の最後の言葉が、忘れられんと言っていた。

それでも我慢できなくて、父は怒られても怒られても
京都駅に暇さえあれば軍用列車を見送りに行ったという。
誰が乗っているか分からないが手を振りにいったという。
長兄に会えるわけでもないのにだ。
しかし、あれは錯覚かもしれないが手を振る長兄に会えることができた。
と、言う。

それが最後。

次に会ったのは白木の箱の石とも木片とも骨片とも分からない白い数個のもの。
受け取るときの両親の姿が忘れられんと言っていた。
隠れてみんなで泣いたそうだ。
特に、長兄の母(私のばあさん)の姿が印象に深いとも言う。
縁側で、何時までもその箱を抱き中をのぞいて泣いていたという。
その後、又、長兄の2個目の白木の箱が届いたという。
これには石ころだけが入っていた。

そんな時代だ。

その長兄には別のところからも秘話を聞く。

雲ヶ畑に恋人がいた。幼馴染らしい。
もうそろそろ婚姻をという話が出ては兵隊にとられて消えて
もうそろそろという時に又、兵隊とられて・・・・・・。
結局、長兄は自分が時代の中で流れていく境遇を考えたのであろうか?
その恋人と自ら別れて婚姻はできなかった。

その雲ヶ畑の女性の話。
二人の時は私の父(タケちゃん)を連れて行ったらしい。
当然その時代の世相ではそうでもしなければならないのであったろう。
誰もがうらやむような絶世の美人であったという。
その恋人は、戦死公報が来ても暫くは失望で独身でいたという。
海軍航空兵のエリート三男との婚姻の話もあったと聞いたが、
「長兄に申し訳がない。」と断ったと聞く。

で、周りの勧めで又父の生家の薦めもあったのであろうか?

料理屋さんに嫁いだ。

この話を多くの実家地元のばあさんから聞く事がある。
「貞さん(長兄)が生きてたらなぁ~。
          ほんとに戦争は悲しゅ~て、あかんわ~。」と。
この女性を兄弟は遠く離れずに応援したという。
今、この料理屋さんその女性から3代目になっている。
立派にお仕事をされている。

そんな経験が昔にある私達には靖国の問題は存在しない。

政教分離が問題であろうが、戦犯が合祀されていようが、
長兄がそこに居るので会いに行き手を合わせる。ただそれだけの場所。
戦犯東条達の足元にも及ばん昨今のクソ政治屋が中途半端な気持ちで
参詣したり、慰霊の方法を論議するもんだから外国からの非難を受ける。
又、国がどうしようか?と論議をし始めるもんだから外国の非難を受ける。

我が国を精神的に荒廃せしめたのは貴様達のようなクソ政治屋と
公共福祉の傘、改革という名の腐った竹刀を振り回し、
私利私欲に取り付かれた偽善者達せいだ!

お前らは来なくて良い!

本当に、お身内で先の大戦で不幸な出来事があって神と祭られていて
その身内の神に会いに来て、鎮魂と感謝の気持ちを表す方々で
運営すればいいだけの事。

国が係わり、政治屋が参詣する事がそもそも法律違反であることは明白だ。

逢いに来ましたお父さん


本当に鎮魂・感謝の気持ちがあるなら家の中に靖国を奉れば良い。
それで充分。
大阪の商売人が事業所でお稲荷さんの神棚を設けるのと同じ。
道修町の薬屋が、神農さんの信仰があるのも同じ。
料理人が調理場に愛宕さんの札を張り火の無事を祈るのと一緒。
それが、心の中の信仰であり感謝の表現だ!

私の父は長兄の軍人遺族年金をビルマ会(国の命でビルマで命を落とした人の遺族会)に
鎮魂と平和維持活動の為に寄付をしている。
要は長兄の鎮魂に役立つと思いやっているようだ。


では次回予告。
この賢い人は超が付く賢い人です。よほど賢い天下り人間の事。
農業改革甘くないぞ~。実際にやってみたら分かる。(汗・痛・苦)
でも。それ以上の感動がある。
あんたの机上の考えじゃ6次産業化の推進は誰も納得できんし儲からんわ!
いつでも長靴軍手で畑に来んかい!
農業の儲かる方法書きます。

火の国から (帰り道で涙する。)

2012年04月02日 | 愛する人
阿蘇道の駅で少しの渋滞を避けるための時間調整をした。
で、午後7時の出発で門司を目指すが、国道57号を熊本まで戻るのではなく
国道212号で日田を目指し、国道211号飯塚を目指そうと計画していたが国道211号のどこかで
その国道211号から逸れてしまい名も知らない駅に出た《JR彦山駅》。
でも、北九州という道路標識に従い県道であろうかそれをトレースして北上する。
結果、国道322号に出て田川を経てすばやく門司に到着。

で、

関門トンネル入り口左側のお定まりのファミレス・ジョイフルで遅めの夕食。
すぐにスタートするがライトが暗い、左のロービームが球切れ。
かまわず、国道2号を東へ向かうが小郡手前で眠気に襲われギブアップ。
仮眠するつもりが朝8時半までで熟睡。

計画通りに帰りは国道9号線で京都を目指す事にした。



津和野の手前での京都までの距離表示である。
540キロメートル。
走り続けると14時間。ごっつ遠い。



しかしながら、左に日本海を見ながらの帰路は最高である。
でも、夜は走りたくない道。この景色が見えないうえに轍(わだち)の深さと
急に現れる段差に気を許せない道でもあり
なんせ人気(ひとけ)や人家が少ない。



手足を伸ばしたく待避所に車を停めて軽く膝腰のストレッチをした。
ぱきぱきと気持ちが良く同じ姿勢でいる運転席からの開放感浸り
久々にタバコに火をつけた。
相変わらずに昨日からの風は強く波も高いがとび来る砂と
少しの飛沫がこれまた新鮮に感じる。



なぜか記憶に有る大山口の駅。
早々と思い立ち寄ってみた。
この事は又後日に記す事にしよう。

長渕剛 名曲!12色のクレパス(Tsuyoshi Nagabuchi)


ドライブ中は私の場合当然運転に集中しているが、朧に脳内の別の場所で思考回路が
動いていてその思考が集中し結実する事ではなく、ただ廻りに集まり存在しているだけの時が多い。
この脳内の思考しているかしていないかが自身で分からない状態の裏返しが、
偶に新しい感動や悲観から一喜一憂している時が有る。
子供の頃から泣き虫であった私は、すべてのことに感情移入をしてしまう癖が有るようで
感情の起伏の高低差が激しいように自身で感じていてはいるので有るが・・・・・。

今回の国道9号線は・・・・・・・。

京都に続く国道にその通う人々や物資を運ぶ人たちの感情に同化してしまい
また、昨日の阿蘇での出来事を振り返り自然に涙がこぼれてしまった。

何の理由も無いのに涙する。悲しくも楽しくも怒りすらないのに
何の訳も無いのに感情が高ぶって涙する。

自身が所有する真理に対する考えと周りの不条理を容認せざるを得ない不条理と
自身が持っている薄っぺらな優しさが真理の形ではなく不条理であった事に気付くと
たまらなく淋しさが込み上げてくるのが常である。

そんな年齢になったのであろうか?

火の国で  (阿蘇に感動する。)

2012年04月02日 | 愛する人
少しの徘徊の時間を得て満足できた私はお勧めもあり、阿蘇カルデラが一望できる
《大観峰》へ向かう事にした。

絶景に感動する。
併せてそんな絶景に絶句。



風がたいそうきつい中、絶句して展望していると後ろから、
「涅槃像ってごぞんじですか?」

「お釈迦様の横たわる姿に見えませんか?」

「頭と耳がギザギザで、肩があの斜面・・・・。」との問いかけに答えて私・・・・・・・

「お釈迦様はどこでねはんねやろ?」

関西人爆発である。

「オヤジギャグと言うやつですか?」と素で返答されてしまった。





この思い出にはことさら強烈な印象が残るほどの強風の中、その風景に長く見とれていた。
目に入るその風景は強い風をも気にしないで漫然と眺めていると前方後方を含めた四方周りの
美しい山岳の曲線は火山地帯の中に立っていながらにしても
モーツアルトのクラリネット協奏曲のような柔らかい旋律を脳内響かせてくれる。
坂本冬実さんの《火の国の女》ではない。

Mozart Clarinet Concerto, Karl Leister - II. Adagio


途中、美味しいと評判のケーキ屋さんで久々のケーキらしいケーキを食す。
最近ではファミレスの冷凍ものしか食べた記憶が無く、
その食感が独特で新鮮で美味しい。





ここも次回は必ず訪れなければいけない。


火の国へ (往復1750kmの長距離ドライブ)

2012年04月02日 | 愛する人
全国をこのブログでも記しているが旅をする私にとって、
人生最大の区切りとしての終了の旅をどこにするかを考えていた。
その決断をさせた一つの些細な機会があって熊本は阿蘇に旅立つ事にした。
今後の私の生きていくうえでも疲れた体でありながらもその方と会わなければいけないという
直感もその時働いていたのは事実な事である。

で、

京都を29日の午後4時にスタートした。
愛車の青フィアットのハンドルと共に長い片道800km。
国道2号線をひた走り山陽道備前ICから鴨方ICまで。
以前笑顔の素敵な店員さんの居る丸亀製麺の釜揚げうどんを先ずは目指す。
で到着。
覚えていてくれて感激する。
温まった体を狭い車内にもぐりこませて又国道を西へ向かうが眠気が襲うので
ままよと東広島を越えて志和ICから又山陽道を使用するが・・・・・・。
限界!宮島SAで仮眠を取る。
外は冷たくきつい雨。
寒さで目が覚めたら午前6時前。すぐにスタート!雨の中をこれでもかという
捕まるぞ的な速度ですっ飛ばしてみた。
で、前日に燃料満タンから670キロメートル目を待たずして燃料残量が少なくなり
警告等を灯した。
仕方なく小月ICで山陽道と別れて長府で給油。
12km/L!なかなか飛ばしてきた割には燃費が伸びている。

関門橋を経由すると高速道の使用料金が割高になるのでここからは国道2号線で
関門トンネルを経由した。
で、
この時点で阿蘇神社の待ち合わせの午前10時には間に合いそうに無い。
九州道に門司ICから上がり、熊本ICを目指す。
だが、古賀SAで事故渋滞。
ピクリとも動かない車列。
現場に到達してみると、大型車が本線とサービスエリヤを分かつ分離帯と
入線路表示の標識等をなぎ倒して刺さっている。
当然キャビンはぐちゃぐちゃ。
居眠りか?
そこからは記す事のできないスピードで走る。阿蘇IC到着が午前10時前。
国道57号線は流れもスムーズで瞬く間に、阿蘇外輪山を蹴破る峠坂道を
一気に登り阿蘇のカルデラの中に到着した。
待ち合わせの方に連絡を取っていたので安心して遅れる事を了解する返事に安堵し、
先ずは風呂に入りたいと思いだしていた。

第一村牛・発見!!!!!!!!



驚きで有るが、湧き水のこんな形がである。
いたるところで噴出していては、このように自由に汲める様になっている。
触ろうと思ったが怖いぐらいの勢いで噴出していて
少し近寄りがたい水の力も感じていた。



湧き出る量はすごいの一言である。
決してポンプで汲み上げているようではない。水が自噴しているので有る。
それがいたるところに有る。畑の中であったりはたまた道端であったり、
村落の集会所脇に有ったりもする。
そして気づいた事がもう一つ。
火除けの神様を奉る所が多く有る。これは火山被害の昔人の願いの場所。



内牧温泉と言う標識に従いその道を行くと温泉街に到着したので有るが・・・・・・。
外湯が見当たらない。
そこかしことぐるぐると回っていると、《薬師温泉》と言う公衆浴場を発見する。
すかさず入場。番台も無く扉を開けると即脱衣所。
その扉をあける脇の窓越しに¥200を払い入場する。
気合が入るぐらいにほほを殴る春の嵐風である。
湯はぬるめ。少し不満。しかしカケ流し。とうとうと流れ出ている。
そのぬるめのお湯は長時入っていると段々と熱さを感じるようになってきた。
不思議だ。
風がきついが良く晴れている。その風も少し疲れた体と温まった体には心地が良い。




内村温泉・薬師温泉ですっかり疲れを落とせたと感じる。
阿蘇神社に向かう。予定より1時間30分遅れでの到着となった。
ソワソワして落ち着きを無くしてしまった事に加えて
阿蘇神社の写真を忘れてしまい、今ではその感想や風景すらも脳内のどこかで
消し去ってしまったようだ。
その後、食事(阿蘇赤牛の料理)をしたのであるが・・・・・・・・。
美味しいと言う味覚は残っているがその表現を書けという事になると
その記憶は曖昧である。



何の特徴も無い風景であるがその広々感は国道57号泉から少しわき道に逸れると
この阿蘇ではいたる所がこの光景のような気がする。
カーブミラーとその先に広がる田畑と草原。
そのカーブミラーもこう見てみるとどこか風情が有るように思うのだが
いかがなものであろうか?
黒に白縞の小鳥のツガイが戯れ、近く離れずに居るのが微笑ましい。



浦部雅美 - ふるさとは春です


この地域は昔は街道の宿場町であったと説明を受けた。
肥後の殿様が江戸へ上る時はこの街道を使用したそうである。
上画像に有る様の今では見かけなくなった地元の食料品店があったりもする。
私はこのような風景や街並みに触れる事がひじょうに癒しになる。
子供の頃、大阪の街中で育った私は西区立売堀の日生市場に母や親戚の叔母ちゃんに
良く連れられて行った。
その光景がよみがえる。
スーパーのような形式ではなく全てが対面店舗販売の市場。
コロッケ一つを買ってもらえた満足が今でも忘れられない。
その思い出とこの街はシンクロする。


浅間山を眺めて感涙する。

2012年01月15日 | 愛する人
水曜日に小倉に居てたが、金曜日の早朝には東京・新宿に居て
最近は少し長い距離の移動が続いている。
その目的地から京都への帰路に「雪道でもいいや!」と腹をくくり、
お気に入りの中仙道を京都に向け出発し、
埼玉県と群馬県の県境に近い街から高速道路を利用し走ってみた。
本庄児玉IC→下仁田ICまで。

いつもは、この地域の通過は東京へ向かう夜明け前で漆黒の闇の中であるが
平日の天気晴朗な長閑なお昼前にこんなすばらしい景色に
遭遇できるとは思ってもいなかった。

全くといってよいほど車の姿が無い長野へ通じる道を上り下りの坂を
一定速度でこなしながら快調に車を走らせる。
その道は徐々に高度を上げていき、遠くに連なる緑褐色と雪の白色が美しい山脈が、
高い位置の運転席のフロントウインドウの左に在ったり、はたまた右に移ったり、
真ん中に在ったりしながらその全容を少しづつ大きくなりながら近づいてくる。



バイクに乗る私は一時期クラッシックバイクに興味を持った時期がある。
二輪車製造メーカーが日本国中に幾多と在った時代に、
この浅間山麓で日本で始めて二輪車レースが開催された事を承知している。
長くそのクラッシックバイク愛好家たちが年一回浅間ミーティングという集会を
催していたが今はどうなったのであろうか興味があるところだ。



私なりのベストショットの浅間山である。
デジカメを忘れてしまい、携帯電話で写してみたが・・・・・・・・。
もう少し大きく撮りたいところである。



自然の景色に涙する感情が残っている私自身に少し驚きもした。
都市の風景は数年、意綾数ヶ月でその景観を変化させる事も珍しくは無い。
しかし、山の姿は長くそのままであろうし、
現に目の前に存在する浅間山の誇り高き姿の感じる事は
皆同様に眺める人々の各々の心を引き付けて止まないであろう。
この中にゴルフ場の緑でも見えればもうその価値は失われてしまう。
自然は自然でなければいけないし、天然は天然、
田舎は田舎であり続けて欲しく思う。
既に富士はその気高さが失われている様に麓の景観が台無しにしているし、
中央高地の峰々も気楽に訪れるようになった近年では、
その神聖さが失われていくのが心配だなぁ。
山はいつまでもその姿は気高くあって欲しいと思うのは私だけではないはずだ。


小畑実 高原の駅よさようなら


浅間山界隈で撮影が行われた昭和26年作の映画をDVDで見て知っている。
《高原の駅よさようなら》だ。
映画あらすじは下記の様なものである。
愛憎劇にはならない恋愛物である。

植物研究家の野村俊雄は、恩師の伊福部教授が、自分を娘啓子の婿養子に
したいという願いがあまり好ましく無く、先輩の働く高原療養所に逃避するのですが、
俊雄はその高原の診療所で、ナースの香川京子扮する泉ユキと知り合い、
一緒に植物採集に出かけたりしているうちに、
二人の間には愛情が芽生える。ああ、純愛。
ところが彼は崖から転落し大怪我をしてしまう。
その時彼を救ったのは、秘かにユキを愛している彼女の幼馴染であったりして、
ここらへんから話がややこしくなってくるが、ユキをめぐる各々の愛情の波乱を
冷静な女医三神梢が知る所となり、梢は俊雄に病院から立去るよう要求する。
小さな診療所内での医療現場でそりゃ~あまり良くないですもんね。
そこへ俊雄の怪我を知って啓子が駆けつけ父の病状が悪化したことを告げに来て、
一緒に帰るよう勤めるが・・・・・・・・・・。


ああ・・・・・・
香川京子扮する泉ユキの清楚清純な美しさに見とれてしまうなぁ。
私なら、迷わず娘啓子ではなく泉ユキなんです。

私は *《美しい女子∈ナース》の発する言葉に蕩けてしまい、
医療現場の白衣やその仕草に弱い事実を経験している。
だから注射針を打ってくれるナースの細く白いその指を見ていると
静脈に差し込まれる痛さ病気の苦痛よりもナースに触れられる事によって
安らぎを感じる時が多い。

そうだ!
信濃追分駅を今度機会を作り訪れてみよう!
看護師 泉ユキと運命的に巡り会えるかもしれない。

注*  ∈=数学記号(元として含まれる)の意。即ち美しい女子以外は含まない。