池やん!まいど!おおきに!ごきげんどぅ!

仕事・今までの人生
このごろ悩みが多くて困ります。
周りの多くの人に救われているのを
実感する今日この頃。

膝が痛い。

2011年05月29日 | 言わせてもらいます。
職場の近所の100円ショップ ダイソーのレジのオネーちゃん(かわいらしい!)が
「最近更新していませんね~~?体の調子も悪そうですが大丈夫ですか?」の一言で
久々にブログを書くことにした。

何やかんやと体調の不調も続いているのであるがそうも言っていられず、
「よっしゃ!!!いっちょ!前向きにやるぞ!」と一歩踏み出したとたん、
5月21日(土曜日)午後8時10分頃
なんと!
交通事故に見舞われた。
自転車乗車中に出合いがしらで私の側面へ乗用車が衝突。
転倒しまいと足を着いたが、持ちこたえられず転倒した。
診断は背中の打撲と頚椎の捻挫で全治10日
現在、未だに痛いのでたぶん診断の全治期間の評価もいい加減なものだ。

で、
以前から慢性的に障害があったのであるが左膝をまたきつく痛めてしまった。

約1年がかりで症状改善に努めてきて
やっとこの頃軽い駆け足ができるまでに改善してきたのであるが・・・・・・。

左膝が事故以降、コリコリしてまともに歩けなくなってしまった。
また以前の治療を再開する事となる。

事故相手は一旦停止無視で交差点進入。
私は右から相手車のヘッドライトの気配を感じるも相手が速度を落としたので
止まりよるなと判断し、そのまま交差点に進入しメデタク激突と相成りし候。

痛いのを我慢して仕事休まむこともできず、
嫌になる。

相手の運転者曰く「全く見えませんでした。」・・・・・・・

肥満体の私が見えないらしい。

見えてないのと違い見ていないのであろう。

とにかく悲しい事、とほほの事がここんところ多すぎる。
昨年も別件で自動車にはねられているし・・・・・

いやはやなんともしがたいこの頃の状況である。

Les Parapluies de Cherbourg * The Umbrellas of Cherbourg *(English and Spanish Subtitles)*


先ずは落ち着こう。
こんな状況だからこそ自己を見つめ直すよい時期なのかもしれない。

ある人に言わせると人生の二度目の転機という人もいてるのであるが・・・・
機会があれば旅をしようか?

フランス

必ず行くぞ!
会いに行こう!
シェルブールの愛しのジュヌヴィエーヴ・エムリと娘のフランソワーズ!

昨年11月に続き二度目

2011年05月14日 | 生活習慣病の事
風邪気味であったが、用事があり夜遅くなり終バスを逃したので
1時間ほど雨の中を帰路を歩き体を濡らしてしまった。
で、
咳、熱ひどくなり呼吸苦しくて医者に行く。

診断は気管支肺炎。
二度目である。

今回は、呼吸のたびに胸がごろごろ音を立てる。

ここ数年で抵抗力が弱くなった。

吉本新喜劇 シベリア文太 「お笑いに裁判があったら無期懲役」


早く医者に行くべきであった。


四条西洞院 京町屋で折り紙展

2011年05月05日 | 好きな日常
友人の折り紙作家とその門下の作品展へ行った。

四条西洞院の京町屋をそのまま利用した《四条京町屋(市伝統産業振興館)》で
開催されていて久々に仕事を忘れての午後からの外出である。
こどもの日にちなみその折り紙作品テーマは、【折り紙の兜展】である。



なぜか知らんがずっと年上の折り紙の師範であり、仏教大学の講師をも務める
A・Y氏であるが、私との感性というか、会えば話す話題が良く合うので楽しい時間を
いつも過ごさせていただける尊敬する折り紙師匠である。
そのお話は多岐にわたり豊富であるが特に折り紙に関する根本の製作についてのポリシーや
超広大な全宇宙の中で生かされている自分自身に付いての自身なりの解釈の説明にあっては
関心をするほど壮大な話をいつも聞く事ができる。

本日も、いつものことながら作務衣と足袋と草履とその温和な丸メガネで
にこやかに迎えてくれた事に感謝した。

で、作品は多くの折り紙で作ったミニチュアかぶとの展示である。



で、私の為にお土産のかぶとを製作していてくれていた。



折り紙という、芸術に触れた文化的子供に日を過ごす事ができて
本日は満足である。

折り紙師匠のA・Y氏の話にそれぞれ折り紙にはその作家の専門的な分野があり
彼自身は飛行機が専門的であるらしい。
即ち、紙飛行機。
又、彼自身をはじめ折り紙のその作品は脳内にその作品の意匠が湧き出せば
何なりと工夫と経験により具体化が可能でその作品種は彼自身でも分からないが
約2000種は有るのではないかと言っていた事が印象に深い。
そして、全国に散らばる作家が各々意匠を持っていてその作品を折り展示するときには
事前にその意匠使用の許可が必要とも聞いた。

即ちそこに著作権が存在する。当たり前といえば当たり前であるが、
折り紙ごときにあってながら、折り紙だからこそである。

作品を作る為の紙を折る工夫と創意が作品に反映され
又、黙々と静かに一つの作業を進める作法は
ある意味、折り紙道(おりがみどう)ではないかと感じる。

彼曰く、
「折り紙は全宇宙の矛盾の発見でもある。」ようなことを聞いた事もある。

この世界もマニアックで奥が深そうである。

憧憬

2011年05月01日 | 昔の事
およそ30年前初めて就職した会社が大阪市中央卸売市場本場に
本社がある漬物の卸売り会社であった。
大卸問屋で日本全国の漬物の取扱をしていて
その数量と販売金額は相当な物流量を誇っていた。
当然、大阪府内で消化されるも毎日の入荷と出荷量も相当なもので、
午前中の早い時間から入荷が始まり、
その日のうちにそれら全てが販売されて在庫が消化されるスピードは
目を見張るほどの今思い出しても驚きである。

又その中で、届く産物に季節感が感じられて
「ああ、この季節の頃になったな~。」と感じる事も多かった。

特に、夏場の北海道産の沢庵漬に関してはその数が莫大で
毎日、国鉄コンテナ(現 JR貨物扱い)で沢庵漬が
コンテナ内にドライアイスを天井にぶら下げた状態で
入荷していたのは思い出が深い。
毎日5トンを販売するネットワークもすごかったが
又その沢庵漬が北海道に多数の生産メーカーが有って製造していたというのが
今、思い出すとすごかった。

また、長野県和田村産の野沢菜漬も毎日1500袋詰製品と、
15キロの樽入りが100丁ほども入荷していた。
この野沢菜は、納品場所が決まっていて、確か、イズミヤと近鉄百貨店が
メインの納品先であったように記憶している。

生姜は大阪府南部の生産者がありこれもほぼ毎日12キロ入りで100缶ほどが入荷し
自社でも奈良漬と浅漬けの製造を行っていた。
すごい会社であった様に記憶がよみがえる。

大阪商人の商いの流儀というか、薄利で毎日の利益を販売の数量で稼ぎ出す。
当然、薄利であるが故にその在庫管理は厳しく毎日棚卸しを行い(在庫調べ)
明日に何を販売をするべきかが、営業担当の手腕の見せ所である。
当然、そのような会社であるので、省力機械化は行われていて
フォークリフトでの荷役作業はいち早く行われていたし
冷蔵保存や冷凍保存の方法も当時から確立していた。
また、
西日本各地に卸売りする地方の卸売り会社があり九州北部や西部には
特に産地からの直送販売で伝票が大阪本社を経由するだけで売り上げが立ち
商品は手元を通過しない効率のよい販売方法もその中心にあった。
で、
現在、その私が勤めた会社は問屋事業を大幅に縮小して
量販店向けの漬物製造と卸売り業務に専門化してより巨大化している。

物流と販売の形態がこの30年で全く変わってしまったことを意味している。
小売販売店が買出しに来る中央卸売市場での卸売りという構造自体が機能しなくなった。
変わりに卸売り販売と輸送保管事業が一体化したベンダーと呼ばれる、
食品総合商社が量販店に対して効率化と一括納品を主力にした営業を確立したからである。

これでは構造的に小売店には仕入れ存続はできにくくなる。

シャッター通りになってしまった商店街や小売業の活性化を謳う行政が多いが
根本、この仕入れの状況に関して、現況に対しての考察ができているのであろうか?
何か違うように思えてならない。

その修行時代に目にしたことは今となっては過去の商流の形態であり今には通用しないが
大阪流儀の薄利で多数を販売して利益を得る方法も今後通用していくとは考えられない。
購買意欲の沸かないこの頃の世情に沿ってみても将来への希望が薄氷の上を歩くがごとく
に感じて仕方ない。

その当時の若き多感な時代の私はいつも将来を常に悩んでいた。
この歳になってからも常に将来を悩んでいる。
夢中になるものがあった時はその悩みが消えているのであるが、
今又、将来の20年間を悩みだしてしまった。

今、夢中のなれるものに憧憬を具現化する努力を残りの20年で
目標にするのも良い時に来ているのかもしれない。

その夢は・・・・・・・・・・・・・・・。


TSサニー 1300  50


なんとなくこの業界の知り合いも多いしできそうな気がするが・・・・・・・・・。
二輪では草レースで前の方で何度か走ってるし・・・・・・・・・・・・。
街中や峠ではこれに似たような走り方が今でもできるし・・・・・・・。
私の体型に合うレーシングスーツとバケットシートがあれば良いがなぁ・・・・・・。
やはり、最難関はお金やねぇ~。
トヨタのKP47(クワハラ自動車!分かる人には分かる。)いいねぇ~。