Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

VERDI REQUIEM: THE PHILADELPHIA ORCHESTRA (Tues, Oct 23, 2012)

2012-10-23 | 演奏会・リサイタル
8月に鑑賞したスカラのヴェルレクという壮大な前振りを経て、
ようやく、10/23にカーネギー・ホールで聴いたフィラデルフィア管弦楽団の演奏の感想です。

NYは常にどこぞで興味深い公演・演奏会が企画されていて、それはそれで非常にありがたいことなのですけれども、
それは稀に、”これはどっちに行けばいいのーっ?!”と頭を抱えて一つしかない我が身を恨む、、というような事態も引き起こします。
私の場合、オペラが絡んでいれば、大抵はそっち(大概メト)の方を優先することになるわけで、
仮にメトの公演ではない方を優先することになっても、オペラは普通複数回の公演があるので、どうしても初日を見たい!とか、
一日しかキャスティングされていない特定の歌手を聴きたい!というような特殊な事情でない限り、大きなコンフリクトは避けられるわけです。
しかし、今シーズン、私はどうしてもメトの『テンペスト』の初日を観たい理由があって、
その『テンペスト』の初日の日程が思いっきりカーネギー・ホールで予定されている
フィラデルフィア管弦楽団によるヴェルレクにバッティングしているのを発見した時は、身もよじれんばかりのジレンマを感じました。
というのも、前述のスカラのヴェルレクの記事で書いた通り、私はヴェルディの『レクイエム』という作品に
偏執的な愛情を持っている、つまり、ヴェルレク・フェチなものですから、
この作品が一定以上の力のあるオケ、興味を引かれるソリストなどによって演奏される場合は、
ほとんどパブロフの犬的な条件反射でもって、”聴きに行かなきゃ。”と思ってしまうのです。

アデスは数年前にベルリン・フィルのカーネギー・ホールの公演でその作品『Tevot』を聴いて
現代音楽が激苦手な私でさえ、なかなかに面白い個性と才能を持った作曲家である、ということで、連れと意見の一致を見ました。
その彼のオペラ作品をはじめてメトで鑑賞できる機会が『テンペスト』であり(で、やはりそういう意味での興奮は初日が一番なんです)、
サイモン・キーンリーサイド、トビー・スペンス、イエスティン・デイヴィス、
イザベル・レナード、オードリー・ルーナ、アレック・シュレーダー(映画『The Audition』でメザミを歌っていたゆるキャラの。)といった
ベテラン、中堅、若手を取り混ぜたキャストで激しく誘惑してきます。

片や、私の偏執的愛情の対象であるヴェルレクの方はといえば
ネゼ・セギャンとフィラデルフィア管弦楽団がこの作品をどのように演奏するか、という真っ当な興味の他に、
2008/9年シーズンの『ルチア』で最後に歌声を聴いて以来、
メトでもキャンセルの嵐で(ただし、2011年の日本公演で一公演だけ『ルチア』に登場しましたね。)、
彼は喉を潰したのではないか?もうオペラの全幕の世界には戻って来れないのではないか?という風評が後を絶たない
ロランド・ヴィラゾンがテノール・パートに配されていたり、
この際、目玉だけじゃなくなくエラもついでに飛び出しておきましょう、という配慮なのか、
ソプラノ・パートにマリーナ・”箱ふぐ”・ポプラフスカヤまで付いてくる、という周到なフィラ管の作戦により、
ほとんど、こわいものみたさに近い低俗な興味が湧いて来ました。

結局こわいものみたさの誘惑に見事に陥落したMadokakipは『テンペスト』は後の公演を見ればいいか、、ということで、
初日の興奮を犠牲にし、フィラ管の演奏会のチケットを手配するわけなのですが、
実は演奏会の数日前まで、やはり箱ふぐのヴェルレクを聴いている場合ではないかもしれない、、と、
『テンペスト』への執着も断ち切れない優柔不断な私なのでした。

しかし、そんな未練が吹き飛ぶ大事件が発生!です。
フィラ管はカーネギー・ホールにやって来る直前の週末に、同じヴェルレクをホーム、つまりフィラデルフィアで演奏したのですが、
その週末の公演を箱ふぐがキャンセルして、アンジェラ・ミードがカバーに入りましたよ、と、
その公演を実際にご覧になったCSTMさんがKinoxさんのブログのコメント欄に書き込まれたのです。
ハレルヤ!!!!!
このブログをしばらく読んで下さっている方ならご存知の通り、
ミードは私の大好きなソプラノであり、なかでもヴェルレクは彼女のレパートリーの中でも最高の部類の歌唱を聴いたことがある作品の一つなので、
これで瞬時にして『テンペスト』への迷いが吹っ飛んだというものです。

音質が良くなく、オケがヘッポコ(コーラスはまあまあなのに、、)&アプレアという指揮者の動きが面白くて気が散ることこのうえないですが、
私がピッツバーグやボルティモアで彼女のヴェルレクを聴いたのと大体同じ頃と思われるパーム・ビーチ・オペラとの演奏会の時の様子がYouTubeにありました。
8月のスカラ座でのハルテロスの歌も綺麗に歌うだけではなくて、こういう種類のパッションがあったらもっともっと良かったんじゃないかな、と思います。
そして、メゾがザジックなんですね、、、羨ましい。
何にせよ、箱ふぐの体調が週末に優れなかったのだとしたら、火曜のカーネギーに間に合う公算は少ないな、ということで、ぐしししし、、です。



週明けにはミードのオフィシャル・サイトにもフィラデルフィアでつとめた代役の件が掲載されましたし、
これでカーネギー・ホールが箱ふぐからミードへの代役発表をするのも時間の問題、、、と、
演奏会を夜に控えた当日仕事中もこっそりウェブチェックに燃えてしまいましたが、なしのつぶてです。
もったいぶりやがって、、会場で発表してみんなを喜ばせようというつもりだな、カーネギー・ホール。
いよいよホールに到着し、”ああ!何か小さい紙がプレイビルにはさまっているぞ!これだな~!!”とその紙を大喜びで引っこ抜いてみれば、
Subscribe today!と書かれたカーネギー・ホールのサブスクリプションをすすめる広告でした、、、 なんだよ、まぎらわしい!!
ってことは、印刷が間に合わなかったんですね、きっと。開演前にホールのマネージャーか誰かが出て来て発表するんでしょう。

隣に座っている男性が開演前からかなりハイ・テンションになっていて、
今日の公演をどれほど楽しみにしているか、熱く周りの人に語っています。
聞けば彼はフィラデルフィアが住まいなのですが、やはり週末の演奏会を鑑賞していて、
それがあまりに素晴らしかったので、つい今日の公演を聴きにNYまで追いかけて来てしまったのだ、と言います。
”ミード、良かったでしょう?”というと、大きく頷き、さらにこう大絶賛です。
”しかし、何よりもネゼ・セギャンの指揮が最高なんですよ。彼の振るヴェルレクは誰とも違う!”
ふーん、、、おじさんがそこまで絶賛するもんですから、こちらの期待値も俄然あがってきました。

しかし、オケのメンバーがチューニングを終え、携帯のスイッチをオフに!というメッセージがスクリーンとスピーカーで流され、
ホールが静まり返っても、ホールのマネージャーが出て来ません、、、
ついにネゼ・セギャンとソリストたちが舞台に出て来てしまいました。そして、、、

えーーーーーーーーーーーっ!!!!!箱ふぐがいるーーーーーーっ!!!なんでーーーーーーーっ!?

Madokakip、もはや、いつ泡吹いて両手を鋏状態で横向きに走り出してもおかしくない状態です。
ミードのヴェルレクが、、、、、ひゅるるるる。
頭が真っ白なMadokakipの前で、ネゼ・セギャンがお辞儀をかまし、隣のおやじが大興奮で拍手を送ってます。
むむむ、、、ここはやはり『テンペスト』に行っておくべきだったか、、、?
期待が大きかっただけに大ショックですが、こうなったら、彼の”誰とも違”って素晴らしいというオケの演奏を楽しむしかないんでしょう。

レクイエム(永遠の安息を与え給え、主あわれみ給え)の冒頭の弦楽器は表情のある良い音がしていて、
”おお、このまま行けば、、。”と軽く期待が膨らみます。
しかし、そこにウェストミンスター・シンフォニック・クワイヤーの合唱が入ってきて、椅子から転げ落ちるかと思いました。
もうこんなの全っ然駄目!
前にピッツバーグの記事で書いた通り、この作品は合唱が5人目のソリストである、と言っても過言でない位大事なんです!
そして、合唱がソリストやオケと同じ位に雄弁にこの作品によって表現されるべきことを語るためには、
それを可能にするためのサウンド/音色と、きちんとしたディクションをマスターしていること、これが最低条件です。
ここの合唱はどういうメンバーで構成されているのか知りませんが、
この『レクイエム』のような作品で一級のオケとパートナーシップを組めるようなレベルにはないです。少なくともこの日の内容を聴く限り。
やたら芯のないへなへなした音で、これでどうやって怒りの日やらリベラ・メに込められた激しい感情を表現できるっていうんでしょう?
それから、ディクション!特にtの音!!
アメリカとかイギリスとか、英語圏のへたれ合唱団がこの作品を歌う時に一番顕著に見られるみっともない欠点が、
このtの音での発音の誤りです。
ラテン語とかイタリア語のtの音って、舌の上顎へのアタックがゆっくりで濁りの少ない音ですが、
英語圏の人のtは、舌のアタックが早く&強くなる傾向にあって、そのせいでチャチュチョ、、、という音が混じっているかのように聞こえてしまうんです。
これは本当に耳障りだし、こういうのが聴こえてきた時点で、あ、ここの合唱は二流だな、と思ってしまいます。
しかも、悲しいかな、時間はかかりません。冒頭の

Requiem aeternam dona eis, Domine
et lux perpetua luceat eis.

だけでそれがわかってしまうんですから。
実際に歌われる場合は、いくつかの言葉やフレーズで繰り返しがあって、ハイライトした以上の数のtが出て来るので余計気になります。
嘘だと思ったら、スカラの(いつの年代のものでも構いません)合唱と、アメリカの(二流の)合唱団が歌っているものをYouTube等でお比べになってみてください。
上の最後のルーチェアテイスのテがテェとでも表記したくなるような、ルーチェのチェにtを混ぜたような音になってしまっているのがわかると思います。
まあ、市民合唱団ならそれでもいいでしょう。
でも、フィラ管のようなオケと一応世界レベルで活躍しているソリスト達を揃えた公演にお供するのにこういうことではいけません。
こういう基本的なことも教えられない合唱団のコーラス・マスターは私だったら速攻クビにしますけどね。

これで6つの大切なエレメント(4人のソリスト、オーケストラ、合唱)のうち、一個はハイ、消えた!
(基本的なことがきちんとできていないので、作品を通して全く期待できない。)



では、指揮とオーケストラがどうだったかという、こちらも泣きたくなるような出来です。
オーケストラは前奏部分でちらりと感じられた通り、決してオケの基礎体力で劣っているわけではないと思います。
正直、今日の演奏では、全体的に、フランスものを演奏しているんじゃないんだから、、と突っ込みたくなるような、
ふわふわした腑抜けた音作りとヴェルレクの演奏で必ずオーディエンスに感じさせなければならない
血管が沸きたがるような思いを逆に押さえつけるかのような味付けに辟易しましたが、時々、
ちらっと出て来る金管の音なんかを聴くと、本当はもっと違う演奏の仕方も出来るオケなんじゃないかな、、と感じさせられる部分もあって、
モントリオール出身のネゼ・セギャンの意向なのか、もともとのオケの個性でもあるのか、
私はメト・オケのことを知っているほどには、フィラ管の演奏は聴いても知ってもいないので、はっきりしたことは言えませんが、
どちらかというと前者だったんじゃないかな、、と思います。
(もちろん、両方がある程度寄与した可能性も排除しませんが。)

なぜならば、音作り以外のところの、明らかにネゼ・セギャンの責任の領域の部分で、頭を抱えたくなるような勘違いが続出だったからです。
まず、彼のこの作品への取り組み方が間違ってる。
彼はこの作品が、小手先の工夫や独自の解釈や見かけの興奮や盛り上がりだけでなんとかなると思っているんですよね。
WRONG! WRONG! WRONG!!!超浅はか!!!

もったいぶったレクイエム(第一曲目)のスロー・テンポさにも、”まさか、この人、、。”と思わされましたが、
一転、ディエス・イレ(怒りの日)で”ここは一発盛り上がってオーディエンスを乗せてくださいよ~。”とばかりに
踊り狂うネゼ・セギャンの指揮姿を見て、実に空回りしている、、、と思いました。
ディエス・イレは、最後の審判を描写しているわけです。

”ダヴィドとシビッラとの予言のとおり、この世が灰と帰すべきその日こそ、怒りの日である。
すべてをおごそかにただすために審判者が来給うとき、人々のおそれはいかばかりであろうか。”

この歌詞が歌う通りの内容を、謙虚に、誠実に、心をこめて描きつつ、あの音楽にのせることで、
あくまで結果としてとてつもない興奮と怖れの感覚がオーディエンスの中に生じるのであって、
それを伴っていないディエス・イレは単なる音のサーカスでしかない。
必死で金管や打楽器や合唱を煽っているだけのネゼ・セギャンを見て、”ヤニックよ、間違ってるぞ、、。”と、どんどん気分が冷めていくMadokakipなのです。

またびっくり仰天させられ、信じられずに思わず頭を振ってしまったのが、曲同士のつなぎの処理です。
一応、私の手持ちの楽譜上も、日本語で曲という表記になっているのと、そう言う以外にはどう説明しようもないのでそのように表記していますが、
ヴェルレクの特徴は、レクイエム、ディエス・イレ(その中でさらにティエス・イレ、トゥーバ・ミルムなど、、)、といった曲を単に順番に演奏すればいいのではなく、
それらが一続きとなって、感情の流れを伴った一つの大きな物語にもなっている点で、
ですから、単純にそれらを独立した曲や交響曲の楽章のように演奏してはいけないし、
曲の合間に堂々とハンカチを取り出して汗を吹いたりするなんてもっての他だと私は思っています。
(実際には聖なるかなの前後などは、合唱が立ち上がったり座ったりする間があるので、多少のブレークは生じるとは思いますが。)
そして、この作品においては、それぞれの曲の間でどのように違った間を持たせるか・持たせないか、というのも、
オーディエンスの感情の流れをコントロールする大事なツールであり、
変なところで間延びしたブレークを入れられたり、逆に余韻を楽しむために少しホールドして欲しいところでせかせかと次の曲に入られたりすると、
やっぱり、ヤニック、あなたこの作品のことを全くわかってないのね、、ってことになるんです。
すぐに次に入るべきところで、ハンカチを取り出して額を拭かれた日には、
私のすわっていたバルコニー席から指揮台にいるネゼ・セギャンに向かってドロップ・キックを決めてやろうかと思ったくらい。

他にもあまり普通は強調しないセクションの音を強調してみたり、
先にも書いたように、水彩画風のヴェルレクというか、妙に淡いタッチの演奏で押し通りたり
(でもそれじゃこの作品で感じられるべきものが何も感じられないと思う、、。)
あれやこれやと”僕風”のヴェルレクを振ろうとしてたみたいですけれど、
ま、一言で言うと、血肉化されてなくて、すごくうわべだけの音楽になってしまっているんです。
フィラ管の皆さんはすごく従順で、一生懸命ネゼ・セギャンの指示する通りに演奏しようとしてましたけど、
やっぱり彼らの中にそれが自然に流れているわけではないものですから、演奏していてもすごく難しいんだと思います。
なんだかすごくぎくしゃくした演奏で、奏者の人はどんな思いで演奏してるのかな、、とつい考えてしまいました。
最後の審判を描こうとしている時に、水彩絵の具では、、、ね、、。

ということで、オケと指揮もはい、消えました。



で、歌手に目を向けてみる。

メゾのクリスティーン・ライス。
彼女は以前、メト・オケのコンサートで歌声を聴いたことがありますが、
ヴェルレクみたいな作品で聴くと、あまり声自体に魅力のある人ではないな、、と感じました。
かなりドライな声質のせいもあるんでしょうが、ヴェルレクのオーケストレーションに上手くのれていないし、
それから、歌う時に妙な力が入っていて、楽譜を肩の高さまで持ち上げたその腕にすごい筋肉が盛り上がっていて、
なんだかよくわからないんですが、それを見ているうちに、げんなりしてしまったことも告白しておきます、、、。
ピッチもあまり正確でなく、特にソプラノとの重唱の場面で、??と思わされることが多かったし、
また、彼女の歌には内包されるべきリズムが欠落していて、なんとなく、なのりで処理している部分がそこかしこにあって、
その点では、箱ふぐの方がまだきっちりとした歌を歌っているな、と思いました。

バスのミハイル・ペトレンコ。
もしこの人が8月のスカラのヴェルレクでバス・パートを歌っていたら、発声やフレーズの処理がロシア的!とか言って非難轟々だったと思いますが、
喜んでいいのか、悲しんでいいのか、今日の演奏で一番まともな歌を聴かせていたのは彼だったと思います。
実際、高音での響きがすごくロシアっぽくって、ちょっと違和感ありますが、低音はなかなか魅力的でしたし、
スカラのパペの歌唱では思い入れたっぷり過ぎてひいてしまったトゥーバ・ミルム(くすしきラッパの音)の表現も適切で、
歌唱表現に関しては特に不満な箇所も問題にしたくなる箇所もありませんでした。

ソプラノの箱ふぐ(ポプラフスカヤ)。
うーん、、、、。
彼女はすごく演技が上手い人なんで(以前からそれは思っていましたが、昨シーズンの『ファウスト』での彼女の演技は
オペラの舞台の演技も、こんなレベルに到達することが可能なんだ、、と感じさせられるほどの内容で、本当びっくりしました。)、
オペラでは多少の誤魔化しがきくのですが、ヴェルレクではそれは全く無理である、ということが今日証明された感じです。
彼女の声自体の魅力のなさ、それからソプラノに普通に必要な高音域すらまともに出すことが出来ない、、などなどの欠点は、
これまで皆様をはじめとするオペラファンの多くに指摘され続けていることですが、まさにその通りの内容です。
オフェルトリウムでソプラノが歌う

sed signifer sanctus Michael 旗手聖ミカエルが
repraesentet eas in lucem sanctam かれらを聖い光明に導かんことを

特に最初のsedの音は天上の世界を感じさせるような陶然とした美しさでもって歌われなければならないですし、
それを言ったら、同じオフェルトリウムのラスト、

Fac eas, de morte transire ad vitam 彼らを死から生命へと移したまえ

のviの音も同じで、この箱ふぐの声では、、、って感じですし、
これではどれだけ楽譜通りにきちんと歌っていても、障害ありまくり、なのですが、
その上に、もしかすると、多少は彼女の方にそのあたりの自覚があるのかもしれないな、、と思うのは、
それを一生懸命、熱い、悪しき意味でのオペラティックな歌唱で埋め合わせしようとしている姿のせいですが、
スカラの記事でも書いた通り、ヴェルレクは日常言語が使われているオペラとは違い、典礼の音楽ですから、
内容を抑えずに、感情だけがそこからはみ出ているような種類の表現は、
ネゼ・セギャンがディエス・イレで各楽器を意味無く煽りまくった姿に似て、実に表面的で空回りな行為です。
最後のリベラ・メ(我を許し給え)での表現なんか、本当下品で、
今日舞台に立って歌っているのがミードだったならどれだけ良かったか、、と本当悲しくなりました。
(ミードのリベラ・メは上の音源で聴けます。)
でも、一方で、今日みたいなオケの演奏だったら、ミードの歌は宝の持ち腐れ。箱ふぐの歌唱こそがふさわしかったのかもな、とも思います。

テノールのヴィラゾン。
、、、、どう書きましょうか、彼の歌唱は。
このブログを読んで下さっている方の中にも彼を応援している方が結構いらっしゃると思うので、書くのに幾分気がひけるのですが、
もし、私が劇場のアーティスティック・ディレクターか何かで、彼をキャスティングするか否かを決めなければいけない立場だったとしたら、
きっと、今後、彼を舞台に招くことはないだろうな、と思います。
はっきり言うと、彼はすでにオペラの舞台をつとめられるような声を失ってしまった、という判断をするだろう、ということです。
中音域の音はまだ何とか出てはいますが、響きがすかすかで、高音に至っては彼の恐怖心が手に取るようにわかる。
オペラ歌手というのは、自分の楽器、つまり声に全幅の信頼をおけて、それではじめて、表現とか芸術の領域に入れるんです。
次の音は出るだろうか、、?とおっかなびっくりで、それに合わせて歌い方を調整しなければいけないような状態で、
どうやって作品が持っている真価とか新しい側面を声で表現できるっていうんでしょう?
実際、彼の声の壊れ方が想像以上だったので、正直、彼が高音に登るたびに、次はクラックしてもおかしくないぞ、、と、
こちらも身が固まる思いでした。
そんな状態で、一応、なんとか高音をものしていたのは、それはそれで大変なことだったとは思いますが、
実際出てきた音は、フルブラスト(となるべきところでも)とは程遠い危なっかしいもので、
当然のことながら、フォルテからピアノにわたる微妙なスペクトラムも出せないわけで、
これでヴェルレクを歌うのは無理だと思います。
先ほどから、何度もオフェルトリウム(オフェルトリオ)の話が出ているので、お手本サンプルとして、
カラヤン指揮、スカラのオケと合唱、プライス、コッソット、若き日のパヴァロッティ、ギャウロフの演奏をここ紹介しておきますが、



特に4'45"から始まる

hostias et preces tibi, Domine, laudis offerimus 主よ、称賛のいけにえと祈りとをわれらは主に捧げ奉る

は、この作品の中でも最も美しい旋律の一つと言ってもよいでしょう。
テノールはこの旋律を繰り返して歌いますが、ヴィラゾンはそれをいずれも全く楽譜通りの音程で歌えませんでした。
ピッチが狂っている、というのでは済まされない、はっきりと音程
(というか、フレーズの全部が狂っていたので、キーといってもいいかもしれない、、)が狂っている状態でした。

また、そんな不安定な声の状態で歌うことに本人もすっかりナーバスになっている様子で、
何度も何度も楽譜をほとんど取り落としそうになりながら持ち替えている姿は痛々しくて、
正直、こういう場で歌うのはもうやめてほしい、、と私は思いました。
彼が出演するオペラやリサイタルはこういう理由から、今後、もう二度と鑑賞しないと思います。

そんなことで、まともなパフォーマンスだったのはペトレンコ1人で後はもう何が何やら壊滅的な状態、、、だったのにもかかわらず、
リベラ・メの最後の和音が鳴り終って、何秒か経ってもネゼ・セギャンの指揮棒が降りません。
当然その間、オケの奏者たちはいつでもすぐに音が出せるよう、ヴァイオリンの弓はすべてあがったままで、
管の奏者も口元から楽器を下ろしていない状態なわけです。
それで、5秒、10秒、15秒、20秒、、、嘘でしょ?
しかもこんなわざとらしい猿芝居にオケの奏者もオーディエンスもつきあってるわけです。
勘弁してくれよ、、と、私は思わず目玉を回してしまいました。
だって、あのすさまじいスカラのオケと合唱の表現力に大感激した8月の演奏でさえ、
バレンボイムはそんなもったいぶったことをせず、すぐに指揮棒を下ろしたものですから、
ものの数秒のうちに拍手が起こり始めて、実にさりげないものだったんですよ。
どれ位待たされたでしょう。やっとネゼ・セギャンの指揮棒が降りて、オーディエンスから大きな拍手です。

もうあまりの勘違いぶりに笑うしかないというか、私はもう速攻で会場を後にしましたら、
階段で同じように苦笑いを浮かべた幾人かのオーディエンスの人たちと鉢合わせになりました。

私の隣のおじさんの”彼の振るヴェルレクは誰とも違う!”という言葉。
いや、文字通りの意味でそれが本当であることを心から祈ります。
こんなわけのわからない指揮をする人が他にもたくさんいたら、困りますもん!


GIUSEPPE VERDI Requiem

Marina Poplavskaya, Soprano
Christine Rice, Mezzo-Soprano
Rolando Villazón, Tenor
Mikhail Petrenko, Bass

Westminster Symphonic Choir

Conductor: Yannick Nézet-Séguin
The Philadelphia Orchestra

Center Balcony A
Carnegie Hall Stern Auditorium / Perelman Stage

*** フィラデルフィア管弦楽団 The Philadelphia Orchestra ヴェルディ レクイエム Verdi Requiem ***

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8 コメント

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ぬーさん (Madokakip)
2012-11-24 10:22:21
>ヴェルレク
>ソリスト、合唱団、オケのどれ一つ欠いても響きませんものね。

ヴェルレクは例えば『ドン・カルロ』なんかに通じる難しさがあると思うのです。
オペラ作品の中には数少ない登場人物への比重が高いせいで、一人、二人のソリストの活躍で、何とか舞台がもってしまう作品がありますが、ヴェルレクは四人の誰が欠けてもきつい。
(『ドン・カルロ』はソプラノ、テノール、メゾ、バリトン、バス(x2)で強力なソリストが必要なので、そういう意味ではもっと難しいですが、、。)

ヴェルレクのCDは多分普通に手に入るものならほとんど全て聴いていますが、
ソリスト、合唱団、オケの全部で満足できる盤というのがずっとありませんでした。
しかし、カラヤンのDVDに出会って、私の長い“理想のヴェルレク”探索の旅が終わった、、と思いました。
ぬーさんがおっしゃるカラヤンはCDで発売されているベルリン・フィルの方でしょうか?
DVDの方はスカラのオケ・合唱団+プライス、コッソット、パヴァロッティ、ギャウロフで、
私はもう断然このDVDの方が好きです!!
私がヴェルレクに望む全てがこのDVDにはあります!
機会があればぜひご覧になってみてください。
返信する
実は私も (ぬー)
2012-11-21 20:32:05
Madokakip様。
お久しぶりです。
ヴェルレク、実は私も最も好きな作品の一つです。
ソリスト、合唱団、オケのどれ一つ書いても響きませんものね。(これは他のオペラ作品でも同じこと)
でも、このような宗教作品では演技がない分、ソリストはその実力(芯化を問われると思うのです。
私の愛聴盤はショルティ/トスカニーニ/ジュリーニ/カラヤンの順です。
(指揮者としてのショルティはさほど好きではないのですが)

話は一転しますが、10年ほど前、初めてNYでNYPを聴いたときの演目が「マタイ」でした。
指揮はもちろんマズア。
演奏に異議を唱えるほど、小生音楽知識はありませんが(そういえばMadokakip様の「音楽知識ゼロ」は過少申告ですよね)、音響は最悪だったのだけは覚えております。
ただ、ライプティヒの聖歌隊の子供たちとソリストは真剣であったと記憶しております。
実は私、「マタイ」聴くと涙が出てしましますが、これは加齢変化でしょうか?

さて話を戻して、ヴェルレクは人類の宝ですね。
因みに、ご存知の方も多いともいますが、4月にN響、
12月(?)にトリノの公演があります。
その報告も皆でさせていただければ幸いです。

なお、私事ですが29日から1日まで3泊で4本、MET詣でをいたします(つまり、通いづめ)。
Madokakip様、ご都合が合えばVermontにてご謁見いただけると公演に浴します。
返信する
Kinoxさん (Madokakip)
2012-11-08 14:46:21
土曜日は本当に楽しかったです!!
お車での運転があるのに長く引き止め過ぎはしなかったか、と心配しておりました。
ネット復活、おめでとうございます。
本当、また来てしまいましたね、、、うちの前、もう数インチ、雪が積もってます、、。
Kinoxさんのお家のあたりは大丈夫でいらっしゃいますか?

>でもいっつもウェストミンスターですよね

名古屋のおやじさんのコメントにもありましたが、そうなんだ、、
彼らは結構良く色んな場所に出演しているのですね。
私は実はウェストミンスターはあまりなじみがなくて、
NYコーラル・ソサエティとかカレジエイト・コラール、あたりがNYの合唱団というと頭に浮かぶのですが、
前者もなかなかにひどいですよ。
彼ら、確かタッカー・ガラにも毎回出演していると思います、くわばらくわばら、、。

>ウェストミンスターはうちの近所の寄宿学校で、殆どが若い学生さんの筈
>学年の終わり=シーズンの後半はまだ聴けるようになります

そっか、、ちょっと聴くのが早すぎたのですね。

>メトの合唱団、特に女性合唱団も粒がそろってなくてなんだかなぁ

メトの合唱は数年前までひどかったですよね。
オケが比較的優秀なのにつりあってない感じで、腹が立つことしょっちゅうでした。
今のコーラス・マスター(ドナルド・パルンボ)になってから、随分良くなったと思いますよ。
男声陣はかなりメンバーをとっかえたんじゃないかな、と思います。
声が若く、力強くなりました。
一方、女声陣の方はそこまで冷徹になれないのかな、、?
昔から居残っている人がたくさんいますね。
まず、声の質が揃っていないと思います。
合唱は数人まずいのが混じっているだけで、全部がへたくそに聴こえてしまいますから、
ここは鬼にならなければならないかもしれません。
ROHの合唱ってそんなに上手なんですか?以前何かの公演を映像で見た時はあまりぴんと来なかったのですが、、、
ま、でも数年で状況ががらっと変わることもありますものね。
返信する
名古屋のおやじさん (Madokakip)
2012-11-08 14:43:45
えーーーっ!!
ということは、今にはじまったことではない、ということなのですね。

>悪しき伝統はしっかりと継承されているようです

それはもうこれ以上ないというくらいしっかりと継承されてました(笑)
返信する
ウェストミンスターしかないなんて (Kinox)
2012-11-07 12:09:01
うっふっふ、家で用意しといたドラフトを仕事場で終業後にあげて、明日の嵐(またかい!)に備えて食料を買って遅めに帰ってきたらとうとういえのTV&インターネットが復活してましたので、早速Madokakipさまのところに遊びに来ましたよ。(土曜はとても楽しかったです、ありがとうございました!!!)

NY付近はほんと、合唱団なんとかならないんですかね。これだけ世界的な音楽施設があるのにプロの合唱団がないというのはどうなっちゃってるんだか。わたしが知らないだけでほんとはあるのかな? でもいっつもウェストミンスターですよね。ウェストミンスターはうちの近所の寄宿学校で、殆どが若い学生さんの筈。CSTMさまがこの間指摘なさってましたけど、学年の終わり=シーズンの後半はまだ聴けるようになります。
そしてたしかヤニークはここの夏講習とかで合唱指揮を学んだとかいうご縁があった筈です。

わたし実を言ってメトの合唱団、特に女性合唱団も粒がそろってなくてなんだかなぁ、と思ってます。ROHやスカラが少々羨ましくなることもあります。先シーズンのキーンリサイド、ボストリッジ、ノセダ&LSOの戦争レクイエムもロンドン響合唱団の素晴らしい合唱がほんと素晴らしくて羨ましかったです。毎回
返信する
同じ合唱団 (名古屋のおやじ)
2012-11-06 19:48:08
当方ががっかりしたのはMadokakipさんご立腹の合唱団と同じ団体です。メンバーは当然異なっているのでしょうが、悪しき伝統はしっかりと継承されているよようです。
返信する
名古屋のおやじさん (Madokakip)
2012-11-06 10:49:10
>ムーティがNYフィルを指揮した、このレクイエムの時も合唱が酷かったなあ

ええええっ!!そんなことが、、、。
ってことは、ムーティがNYに来たがらないのはその時の経験があまりにも、、、だったからでは、、。
NYフィルの罪重し。
(というか、合唱団ですね。どこの合唱団だったか、覚えてらっしゃいますか?)

>弱音のピアニッシモだって、聴く者に戦慄を感じさせることができるんだぞ、わかっとるんか、お前さんら!!

ですよね。まさにスカラの時なんか、ささやくように歌うところで(Kew Gardensさんもおっしゃってましたが)ぞわぞわぞわ、、と鳥肌が立つような迫力がありました。
それから、天使がくすくす笑って巻き毛に太陽の光が輝いているかのようなSanctusのきらきら感!!!
ウェストミンスター・シンフォニック・クワイヤーの合唱にそれらが欠けていたことは言うまでもありません。

>お気に召さなかったカナダ出身の指揮者

彼のこと、私は嫌いではないんですよ。
経験が少ないからか、“まだまだよのう、、。”と思わされることも多いですが、
その一方で、きちんとはまった時にはオケに火をつけられる人だと思いますし、、。
ただ、ことこのヴェルレクに感じては、全く空回りしてましたね。

>ヴィラゾンはこの指揮者とDGでモーツァルトのオペラシリーズが計画されている

ああ、、、そういう繋がりがあったんですね、、
どうして、ヴィラゾン???と不思議に思ってました。
ポプシー(ポプラフスカヤ)は、メトで彼と『ドン・カルロ』や『ファウスト』で共演しているのでその縁かな、と思ってましたが、、。
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合唱・・・ (名古屋のおやじ)
2012-11-05 18:00:13
ムーティがNYフィルを指揮した、このレクイエムの時も合唱が酷かったなあ。どうも、これはNYの悪しき伝統のようなものでしょうかね。発音の細かなところもそうですが、根本的な勘違いがあるように思いました。音量があればいいってもんじゃないでしょ、弱音のピアニッシモだって、聴く者に戦慄を感じさせることができるんだぞ、わかっとるんか、お前さんら!!と内心思っておりました。前にも書いたことがあるような気がしますが、この時の、ソリストはフリットリ、ウルマーナ、サッパティーニ、レイミーでありました。お気に召さなかったカナダ出身の指揮者、2月に名古屋にもやってきますので、自分の耳でたしかめてみます。ヴィラゾンはこの指揮者とDGでモーツァルトのオペラシリーズが計画されている(一作目はリリース済み)わけですが、大丈夫なんでしょうか。
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