Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

RODELINDA (Sat Mtn, Dec 3, 2011)

2011-12-03 | メトロポリタン・オペラ
注:この記事はライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演をオペラハウスで観たものの感想です。ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。

ヨーロッパをはじめ、すっかり上演が盛んになっているヘンデルの作品ですが、
メトのレパートリーの中にはバロック作品がいまいち根付いていなくて、
ここ十年で演奏されたヘンデルの作品といえば『ジュリオ・チェーザレ』と『ロデリンダ』の二作品のみです。
BAM(ブルックリン・アカデミー・オブ・ミュージック)など、メト以外の場所でのバロック作品の上演は時にありますし、
(今年はリュリの『アティス』が上演されて話題になっていました。)
各劇場のサイズとかオケのタイプやパーソナリティといった問題もあるので、私は何もかもをメトで演奏する必要は全然ないと思っていて、
よその国も含め、メトの外に行かなければ鑑賞できない演目というのもあって良い、と感じているのですが、
かと言ってヘンデルのために遠征するか?と言われれば、今の私に限って言えばまずないだろう、というのが答えですので、
ということは、こういう機会でもなければきっと生鑑賞することはおろか、きちんと作品に向き合うこともなかったのかもしれないのだから、
そう思うとありがたみが増す今シーズンの『ロデリンダ』の上演です。



ルネ・フレミングといえばメトのスター!と思っていらっしゃる方が非常に多いようなんですが、
皮肉にも、もしかすると、今一番そうは思っていないのが実はメトの常連客たちかもしれない、、と思います。
特にゲルブ現支配人になってから、彼女の声の衰えと、それに伴って段々レパートリーが狭まっていることが重なったためにその傾向が加速していて、
もちろん、ゲルブ支配人時代になってからも、オープニング・ナイト・ガラでワン・ウーマン・ショーをつとめたり
仏壇みたいなデザインの香水を発売したり、
また、デッカが激しく彼女の登場したHDの公演を連続DVDリリースしていたりするんですが、
ネトレプコやカウフマンが出演していてもメトをソールド・アウトにするのは難しい現在、
彼女はどんな演目でもその名前だけでメトに客を呼べる歌手というのではもはや全くなく、
せっかく新演出でのせてもらった『アルミーダ』では惨憺たる集客率でした。

例えばネトレプコが今シーズン、『アンナ・ボレーナ』と『マノン』の2演目、しかもいずれもメトにとっては新演出でしかもHD上映あり、という破格の待遇を受けているのに対し、
フレミングはお古のプロダクションの『ロデリンダ』一本で勝負(以前もフレミングがロデリンダ役で上演されました。)というあたりにも
微妙に現在のメトでの彼女のポジションが現れています。
そういえば、彼女はメトの日本公演のキャストにも含まれていませんでしたね。
一方で彼女の方もメトでの自分の星が傾いて来ているのを敏感に察知しているのか、
2010年の末にはLOC(リリック・オペラ・オブ・シカゴ)のクリエイティブ・コンサルタント(今までなかった役職なので彼女のために作られたようなもの?)を引き受け、
経営陣の中に名前を連ねるようになったので、LOCに自分の将来と活路を見出しているのかもしれないな、と思います。
ヴォルピ前支配人のもとで彼女が活躍していた頃は、引退後はかつてのビヴァリー・シルズみたいにメトの経営に関わったりするのかもな、と思っていたのが、
今や遠い昔のことのようです。



そんなわけで、フレミングの今のメトでのメインの仕事はHDのホスト?なんてことを言われないためにも、
今日の公演ではしっかり歌って健在ぶりをアピールしたいところだったんですが、
最近の彼女は本当に順調に(?)声の魅力を失って行ってますね。特にトップが本当に痩せて薄いサウンドになってしまった。
何より彼女自身がそれに自覚があって不安を感じるからなんでしょう、
高音域に入るとすごく慎重な、薄氷を踏むような歌い方になるのも、オーディエンスが無心に音楽にのめりこむのを妨げ、興をそがれます。

けれども、私は、それよりも大きな彼女の問題は、声の衰えそのもの以上に、
これまでずっと、どのレパートリーにせよ、本来必要なスタイルを確立する替わりに、ア・ラ・ルネとでも言うべき自己流で流して来てしまった点にあるのではないかと思っています。
自己流な歌い方はキャリアの全盛期にある時は個性ということでポジティブに見てもらえることもありますが、
それは、やがて声やルックスが衰えて来た時、単なるエキセントリックな歌い方としか見てもらえなくなる危険性をはらんでいて、
どんなに優れた歌手も、今のフレミングくらいの年齢に差し掛かる頃には、全盛期に比べて声に衰えが見られ始めるのは普通のことで、
けれども、その衰えを補ってあまりある、磨かれた技とかスタイルを身につけた歌手というのはオーディエンスからある種の敬意を勝ち取って行くものですが、
フレミングの残念なところは、これまでオーディエンスの人気は勝ち得たことがあるかもしれませんが、
歌唱についてそのような種類の敬意を勝ち取ったことがない点ではないかと思います。
演技力やカリスマ性、それから歌唱についても、ア・ラ・フレミングの範囲内では良いものを持っている・いた彼女が、
キャリアのこの時期になって、意外にもあまりメトとその常連客に厚遇されていないのはこのあたりが原因ではないか、という風に思います。



そして、今回の『ロデリンダ』でのフレミングの歌唱は、このア・ラ・フレミング問題を凝縮してしまったような内容になっていて、
特に男性陣のショルとデイヴィスがきちんとしたスタイルのある歌唱を横で披露しているものですから、一層対比が効いてしまっていて、非常に聴いていて辛いものがあります。
これまで私は『椿姫』や『アルミーダ』、つまりベル・カント・レップ、もしくはベル・カント的技術が要されるレパートリーで
彼女の歌唱に対して怒りを爆発させたことがありますが、それは私がベル・カント・ラブな人間であり、
ア・ラ・フレミングな歌い方では決してベル・カントの本当の良さを引き出せない!と考えるからですが、
バロック愛好者では特にない私ですら”ちときつい、、。”と感じる彼女の今回の歌唱は、
バロックを愛する方々からは私がベル・カント・レップで彼女に対して持ったのと似た種類の怒りを引き起こしてもおかしくないかもしれません。
特に全ての音にグリッサンドがかかっているのかと思うようなベタベタした音の移動、
それから早いスケールで音が均一でなく、また短い音がないがしろになったりする点は、
ベル・カントのレパートリーでの彼女の歌唱と共通した大きな欠点だと思います。
これからこの公演をHDでご覧になる方は、聞き苦しいあからさまなブレスにも心の準備が必要です。



最近は演技が上手い歌手が段々と増えて来ているので、その面でもフレミングは決して超特別な歌手ではなくなっているものの、
それでも彼女は演技が決して下手ではないので、声が衰えて来た今、演技や役作りでポイントを稼ぎたいであろうに、その面でも今回、彼女はかなりの苦戦を強いられています。
一つには、ワズワースの演出が問題です。
常に上手から下手に流れるベルト・コンベイヤー状の舞台になっていて、それに乗って部屋、庭、ベルタリードの墓がある場所などが次々と現れるのですが、
最初にロデリンダが半拉致されている部屋のセットが下手にはける途中で、
部屋にあるベッドについているロデリンダを拘束するための鎖がちょうど舞台移動のためのレールの溝にぴったりとはさまってしまって、
(よりにもよってHDの時にこんな滅多にないことが起こってしまうのでした、、、。)
ベッドがばったーん!と倒れて横倒しになっても、鎖の長さ以上動かなくなってしまって、次のシーンでもベッドが半分見えているのがエキサイティングだった以外は、
大変変化に乏しく単調で退屈な演出でした。
(結局、家来の衣装を身につけたスタッフが舞台に出て来て、何とか鎖をレールから外してやっとベッドが消えて行きましたが、かなりの時間にわたる奮闘でした。)



セットの退屈さも問題ですが、しかし、それ以上にほとんど”変”の域に達していたのは演技の呼吸です。
バロックの演目というのは、後の時代のオペラに比べると音楽とドラマのスピードが遅くて、その上にアリアには歌詞の繰り返しがあるものですから、
現代的なセンスで演技付けをしようとすると非常に難しいレパートリーではないかなと思います。
私はこういう演目ではかえって中途半端な演技など入れず、直立不動で歌ってアリアに集中させてくれた方が違和感がなくて良いな、、と思うのですが、
ワズワースの意向でしょうか、ほとんど全員のキャストが何とか演技を入れようと苦闘していて、歌詞の繰り返しの部分ではほとんど同じ演技を繰り返すことになってしまっていましたし、
いくつかのシーンでは音楽の進行のスピードと演技のスピードが全く合っていなくて、妙な間があったり、???と思う部分がかなりたくさんありました。



エドゥイージェ役を歌ったブライスは大変器用なメゾゆえ、フレミングが苦闘していたとしても、
彼女だけはさすが!と唸らせる歌唱を聴かせてくれるだろう、と期待していたのですが、
これまで聴いたブライスの歌唱の中では、残念ながら役への適性という面で最も低いものの一つだったように思います。
彼女の声がここ数年で一層スケールが大きくなったのも一因だとは思うのですが、バロックに求められる敏捷性からすると、今一つ重たい感じがする点は否めませんでした。
また、彼女の声を特徴づけている、あのちょっと鼻の詰まったような独特の音色ですが、これも、音足が重たい感じがする一因になっているように思われ、
ブライスはもっとフレーズが雄大な役、例えばシーズン後半で歌うことになっているアムネリスやリング・サイクルでのフリッカなど、
よりドラマティックなレパートリーの方に期待したいと思います。



グリモアルド役を歌ったカイザーはそういえば昨シーズンもフレミングと『カプリッチョ』で共演してました。
数年前までのなんとなくもっさりした感じが抜けて、もともと背が高くて舞台姿が綺麗なのと相まって、
ルックスでは軽くブレークした感のある彼なんですが、
彼はルックスでブレークしている場合ではなく、むしろ、歌の方でブレークする必要があるだろうと思います。
まず、声の音色自体、特筆するような美しさがあるわけでも、誰にもない個性を持っているわけでもなく
(むしろ、彼の高音域での響きは私には全く快い響きに聴こえないと言ってもいいくらいかもしれません、、、。)
ブレークするとすれば表現力をつけていくしかないように思います。
2007年あたりから、再々メトでチャンスを与えられつつも、あまりそれを生かせていない点にも将来への不安を感じさせます。
彼は今までメトでは『ロミオとジュリエット』のロミオや件の『カプリッチョ』のフラマンなど、好青年系の役が主だったので、
今回のグリモアルドのような役で一皮剝けるかも、、という期待もむなしく、
好青年の役で表現力が不足している人は、複雑な役をやらせても同じ、、ということで、非常に平面的な歌唱と役作りでがっかりしました。



それからもう一人、シェンヤン。
彼は以前に『ラ・ボエーム』の出待ち編で書いたとおり、普段の彼は押し出しや貫禄みたいなのものもあるのに、
なぜか舞台に立つと、ぼーっとした腑抜け顔に見える不思議な人です。
YouTubeに行くと、メトがこの『ロデリンダ』のリハーサルからの短い映像をリリースしてますが、彼の表情を見ていても、
その場面で何を考えているのか、どういう気持ちでいるのか、全然伝わって来ない。
カメラでアップで撮影した映像でこれなんですから、遠目で舞台を見ている観客にとっては何をか言わんや、です。
また、顔の表情は歌の鏡であって、彼の歌も表情と同じくのっぺらぼうで、伝わって来るものが少ないのは何の不思議でもありません。
この作品で最もワルな人物であるガリバルド役を演じるのにこれではいけません。
歌唱にもまだまだ歌を勉強中~という雰囲気が漂っていて、学生さんのパフォーマンスを見ているような感じがするのも気になる点です。
ガリバルドはこの作品の中で、大きくはないものの大事な役ですし、彼がメトの舞台でこの役を歌うのはまだちょっと早いと感じました。

これではまるでがっかりしてばっかりのように聞えてしまいますが、
今日はアンドレアス・ショルとイエスティン・デイヴィスの二人のカウンターテノールの歌を聴けただけで満足でした。
正直に言うと、私はカウンターテノールが基本的にずっと苦手で、
以前は単純にあのおかまっぽい不自然な声の響きが生理的に合わないのだろう、と自分で思っていたのですが、
そうではなくて、ファルセットで歌うことによって響きや音量に不自由が生じたり、
その結果表現の繊細さに限りが出て来るのがじれったく感じることが原因であるらしいことがわかりました。
その証拠に、カウンターテノールの歌を聴くと、ぞわぞわ、、と鳥肌が立つようなことはなく、いーっ!!といらいらして来ることが多かったのです。

けれども、ショルとデイヴィスの二人はそれぞれ違った方法で、そのいらいらを越えてしまいました。
まずショル。
ショルは、基本的にはこれまで私が聴いたことのあるカウンターテノール(例えばデイヴィッド・ダニエルズなど)と似て、
音色的には”あ、ファルセットで歌っているな。”とはっきりわかるタイプなんですが、
その歌唱を高度に研ぎ澄ませ、普通ファルセットによる歌唱では難しいレベルの繊細さを成し遂げている点が素晴らしいと思います。
ショルの”Dove sei, amato bene? どこにいるのか、愛しい人よ”はDVDにもなっているグラインドボーンでの歌唱があまりに素晴らしくて、



あんなものは二度と聴けまい、、と思っていて、実際、今回のメトの公演ではグラインドボーンでの歌唱を越えているとは思いませんし、
特にコンディションが絶好調なわけでもなかったように感じましたが、
(一箇所、低音で思いっきりバリトンの地声が出て、それまでの歌声とのあまりのギャップにぎょっとしてしまいました。
地声になるとそれはもう声量も全然違いますし、本当に男らしいお声でいらっしゃるので、、、。
私はカウンターテノールが登場するオペラは数えるほどしか鑑賞したことがありませんが、
低音域で地声になる、というのはこれまで一度も体験したことがないので、一種のアクシデントだったと思っているのですが、
いや、そうではなく、意図的なのだ!というご意見があればぜひ伺いたいです。)
それでも彼がなぜ優れたカウンターテノールと言われるか、その理由は十分に伝わる内容だったと思います。
また、彼は舞台プレゼンスが上品で素敵!! 
こういう上品さというのは持って生まれたかそうでないか、の二つに一つなんだなあ、、とフレミングと見比べながら思ってしまいました。



一方のデイヴィス。
私はある意味、ショル以上に彼に驚かされたかもしれないです。
彼の声、いや、歌唱といった方がよいのかな、、?は、私がこれまで知っているカウンターテノールとは全然違う種類のそれで、
こういうカウンターテノールが出てきているのか、、と驚きの耳でもって彼の歌唱を聴かせて頂きました。
彼がどのようにそれを達成しているのか、非常に興味があるのですが、彼の歌唱はもはやファルセットで歌っているようにはほとんど聴こえないです。
彼が登場した時、”あれ?メゾかコントラルトがキャストに混じっていたっけ?”としばらく悩んでしまったほど、つまり、彼が女性なのかと思ってしまった位です。
よーく聴いていると、”ああ、やっぱりカウンターテノールだ。”と思う音が混じることがありますが、頻度は極々少ないし、あからさまなそれでもありません。
さらに驚きなのは、ファルセットで歌っていると、ショルのところで書いたように、必ず声量面で限界が生まれるのが普通で、
それが、メトのような大箱でカウンターテノール、ひいては彼らを登用することの多いバロック作品を聴くことの難しさの一つにもなっているのですが、
デイヴィスの歌声は、その独特の歌唱スタイルのせいで、本当に良く通る。
普通にメゾかコントラルトが歌っているようなレベルで劇場に声が通っているのです。



上の音源がデイヴィスの歌唱(ヘンデルによる”アン女王の誕生日のための頌歌~神々しい光の永遠の源泉”)ですが、
コメント欄に”地声とファルセットを非常にスムーズにブレンドしている点がカウンターテノールとしては変わっていてユニークだ。”
と書いている人がいますが、全く同じ印象を私も劇場で聴いて持ちました。
これまでファルセットを中心に置いたカウンターテノールの歌唱には必ず限界がつきまとうという思い込みがあって、
その限界にいらいらさせられることが多かった私のような人間にとっては、
彼のような新しいタイプのカウンターテノールの登場は非常にエキサイティングで、彼が再びメトに登場する際には必ずその歌声を聴きに行かねば!と思っています。

指揮のハリー・ビケットは2005年の上演に続いての登場で、バロック作品の演奏に慣れないメト・オケをよくリードしまとめていて、
わざとらしさがなく、歌手の歌いやすさを大事にした演奏に好感を持ちました。


Renée Fleming (Rodelinda)
Andreas Scholl (Bertarido)
Joseph Kaiser (Grimoaldo)
Stephanie Blythe (Eduige)
Iestyn Davies (Unulfo)
Shenyang (Garibaldo)
Moritz Linn (Flavio, son of Rodelinda and Bertarido)

Conductor / Harpsichord Recitative: Harry Bicket
Production: Stephen Wadsworth
Set design: Thomas Lynch
Costume design: Martin Pakledinaz
Lighting design: Peter Kaczorowski

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*** Handel Rodelinda ヘンデル ロデリンダ ***