Tokyo at rain and Tokyo at night MOVIE!

東京の夜景動画ブログです。

欲望の焦点

2006-07-03 23:42:30 | 撮影とテーマ設定2006年3月~12月

久しぶりに、金村ワークショップに参加した。
諸事情により「イマーゴ」へ移転してから、今回が最初のワークショップとなったのだが、基本的な雰囲気はまったく変わっていなかった(まぁ当然といえば当然か)。


昨日、プレイスMで焼いたプリントを持参したのだが、露骨に色彩表現の差があったため、ちょっと珍しいことに機材話が盛り上がった。
とはいえ、基本は作家志向の強い集まりなので、カメラ関係のオフ会などとは比べるべくも無いのだが、カメラが無くては写真も撮れないわけで、やはりそれなり以上に機材への関心は深い。


でまぁ、ひとしきり機材関連の話が続いた後で、テストプリントの検討に入ったのだが、色彩の話はまぁさておくとして、金村氏から「作家の欲望が見えない」と指摘されたのは興味深かった。ちょっと説明しづらいのだが、画面の中から「この要素をみせてやろう」的なポイントが浮かび上がってこないということで、それでいながら「単に乱雑な画面」というわけでもなく、きちんと画面を構成していながら「作家の欲望を抑えている」として、そのことを肯定的に評価されたというわけだ。
ただ、特に最近の自分は作品に対して「写真という形式的要素を可能な限り薄め」つつ、さらに作品から史実性や芸術性、ひいては審美的価値さえも取り去り、純粋に「現実を表現する」ことに傾斜しているため(もっと平たく言えば、ベンヤミンにかぶれているため)、この評価は純粋にうれしかった。


もしもアウラを捏造したければ、それは「美しい写真」や「創造的な写真」に任せておけばよい。
また、最新の機材を適切に用いるなら、誰でも簡単に「美しく、創造的な写真」を撮影できるし、もし撮影に失敗してもプリンターが何とかしてくれる(だからこそ、多くの写真家は「通常の価値観では美しくないとされるものを、あえて美しく撮影する」のだ)。


自分は、カメラという機材を通じて、あらゆる事物の外側に立ち、一切の情緒も思惑も突き放したところから、冷たく被写体と向き合う。
なぜなら、そうすることによって、感情もエゴも捨てて冷たく被写体を抱きしめることによって、はじめてソンタグの指摘した「撮影という行為の攻撃性」から、被写体を解放することが出来るのではないかと、そう信じ始めているのだ。