空飛ぶ自由人・2

旅・映画・本 その他、人生を楽しくするもの、沢山

映画『エンドロールのつづき』

2023年01月25日 23時00分00秒 | 映画関係

[映画紹介]

9歳のサマイは、インドの田舎町で、
学校に通いながら父のチャイ店を手伝っている。
バラモンの出自が誇りの父は映画を低劣なものだと思っているが、
信仰する女神の映画ならばと、ある日特別に家族で街に映画を観に行くことになった。
劇場の暗闇の中で、
スクリーンに投映される一条の光。
そこには、サマイが初めて見る世界が広がっていた。
映画にすっかり魅了されたサマイは、
映画館に忍び込むが、
チケット代が払えずにつまみ出されてしまう。
それを見ていた映写技師のファザルが
サマイの母が作る弁当と引換えに、
映写室から映画を見せてくれることになった。
サマイは映写窓から観る色とりどりの映画に圧倒され、
「映画がどうやって作られるのか」を知りたがるようになり・・・

映画好きの少年と映写技師の話、
となれば、インド版の「ニュー・シネマ・パラダイス」(1989)かと誰もが思う。
事実、自転車2人乗りのシーンも出て来る。

が、出来ばえは随分と違う。
映画好きを描く映画は、
映画愛を語れば、全てが許される、
という陥りやすい罠があるが、
この作品も、その落とし穴にはまってしまった。

映画が光とフィルムで成り立つことを知ったサマイは、
輸送中の映画フィルムを盗み、
仲間と一緒に映画会を開くのだ。
当然、映画館は困る。
観客の迷惑を考えない行為は、
映画好きだというだけでは許されまい。
第一、扇風機のプロペラをシャッター代わりにした手製の映写機では、
映画を観ることは不可能だ。
何故なら、映写機では、24分の1秒の割合で
静止画を作って投映し、
シャッターを閉じてコマを送り、
再び静止画を作って投映し、
という繰り返しが
目の残像の原理で動いて見えるものだからだ。
映画の仕組みを知っている映画関係者が
こういう嘘を平気で垂れ流してはいけない。
監督自身の実話を基にしたというが、
間違った情報はいけない。
サマイ少年の興味が
映画の内容よりも、
映画の機械的機構に向けられるのも
映画愛とは言えまい。

ただ、田舎の小学生の生活、
インドの家庭での生活、
インド料理、お弁当の作り方、
映画館の様子などは興味深い。
ただ、インド映画特有のくどい描写が多く見られる。

映画館にも変化の波が押し寄せて来て、
フィルムからデジタル化が進み、
映写機がスクラップされて、
食器に変わり、
フィルムが溶かされて、
女性のアクセサリーに変わる様は、
なかなか皮肉が効いている。
原題は「Last Film Show」。

教師はサマイに
「英語を学び、この村から飛び出せ」と言い、
最後にサマイは旅立つのだが、
その後、映画監督になれたのかどうかは不明のまま。
最後に、映画に貢献した監督たちの名前が出るが、
日本では小津安二郎、勅使河原宏、黒澤明の名前が上がる。

監督のパン・ナリン
世界で一番の映画ファンだと自称している。
映画ファンだったら、
少年たちがフィルムを棄損する場面をどうして描くのか。
主人公の少年サマイを演じるのは、
3000人のオーディションの中から選ばれたバヴィン・ラバリ

5段階評価の「3」

新宿ピカデリー他で上映中。

私自身の映画体験を語る、明日のブログに続く。

 


小説『切り裂きジャックの告白』

2023年01月23日 23時00分00秒 | 書籍関係

[書籍紹介]

中山七里による
警察医療ミステリー、刑事犬養隼人シリーズ第1作。
(シリーズは第6作まである。
 第5作「カインの傲慢」は、本ブログでも紹介した) 

深川署の目と鼻の先にある木場公園で、
女性の惨殺死体が発見される。
死体からは、内臓が全て取り払われていた。
現場に残ったおびただしい血のあとから、
その場で殺害し、解体作業まで行ったとみられ、
解剖の知識を備えた専門家の関与が疑われた。

事件からまもなく、
帝都テレビに犯行声明文が送りつけられる。
“彼女の臓器は軽かった―" という臓器についての言及と
“わたしは時空を超えてまたこの世に甦ってきた" という一文、
最後には“ジャック" という署名。
1888年、ロンドンを恐怖のどん底に陥れた、
5人の売春婦が鋭利な刃物でのどを掻き切られ、
臓器をもちさられた「切り裂きジャック事件」(ジャック・ザ・リッパー)を
誰もが思い浮かべた。

間を置かずに、
似たような惨殺死体が今度は埼玉県警管内で見つかる。
手口が同じであることから連続殺人事件であると判断され、
捜査は警視庁と埼玉県警の合同捜査となる。

警視庁捜査一課の刑事・犬養隼人
埼玉県警の古手川和也とコンビを組んで捜査にあたることになった。
しかし2件の共通点は見出せない。
二人の生活圏は離れており、
接触の痕跡は全く見つからない。
そして、ジャックからの2通目の犯行声明が届き、
被害者の臓器の一部が一緒に送り付けられてきた。

二人の接触点を探る中、
犬養と古手川は、
被害者が2人とも過去に同じ死者から臓器を提供され、
移植手術を受けていることに行き着く。

功を焦った管理官がテレビで近日中に犯人を逮捕するという宣言をするが、
それを嘲笑うかのように今度は府中署管内で第3の死体が発見された。
今度の被害者も同じ人物から臓器移植を受けており、
担当の移植コーディネーター
高野千春という人物であることを突きとめた2人は、彼女の元へ向かう・・・

これに、犬養の娘で、
腎不全を患い、腎移植を控えた13歳の娘の話、
殺された被害者に臓器を提供した青年の母親の描写が重なる。

物語の背景にあるのは、臓器移植の問題
ジャックの提起により、
その背景が明らかになると、
マスコミはその問題を取り上げる。
臓器移植は、脳死判定された患者の
生きている臓器を摘出することから、
激しい論議を呼ぶ。
臓器移植の第一人者の医師と
僧侶との論争もテレビで中継される。

「臓器移植は生者の肉体から健康な臓器を抜くこと」
という事実の前、
遺族の説得、
ドナーからの臓器の摘出、
レシペントへの移植の現場など、
リアリティのある描写が続く。
執筆にあたって改めて取材はせず、
手術のシーンも以前テレビで見た心臓移植の番組を元に書いたが、
専門家に査読してもらっても医療的な記述でミスは無かったという。

犯行には専門的技術が必要なことから、
怪しいと思われる登場人物は早々に除外され、
この人しかいるまい、
という人物が犯人として逮捕されて、
おや、意外性がない、
と思っていたら、
最後にもう一捻りが準備されていた。

それにしても、動機は納得できない。
ある事柄を隠蔽するためだというが、
その事柄は、放置しておいても、
表に出ることはないと思われるからだ。
いくらなんでも、あんな動機で、
この陰惨な事件を起こすとは思えない。

捜査に当たる犬養と古手川のコンビの組み合わせが面白い。
古手川は中里の他の作品でも登場する人物。

小説の中にも描かれているが、
山中教授のiPS細胞実用化されれば、
臓器は自己増殖できるので、臓器移植そのものがなくなるそうだ。
ドナーを探す必要もなく、拒絶反応もない。
従って、免疫抑制剤も不要になる。
実用化まで5年ほど、というが、
この本の発刊が2013年だから、
あれ?

2015年にテレビ朝日系で「土曜ワイド劇場特別企画」として
テレビドラマ化された。
主演は沢村一樹。

 


映画『モリコーネ』

2023年01月22日 23時00分00秒 | 映画関係

[映画紹介]

映画音楽の大大大巨匠、エンニオ・モリコーネを巡るドキュメンタリー。
(日本題は「モリコーネ」だが、原題は「エンニオ」。)

彼の来歴を簡単に紹介すると、
1928年ローマ生まれ。
幼少期よりトランペットを習い始め、
サンタ・チェチーリア音楽院で作曲を学ぶ。
同音楽院卒業後、伊RCAレーベルの看板アレンジャーとして活躍し、
「ファシスト」(1961)で単独名義による映画音楽作曲家デビュー
セルジオ・レオーネ監督とのコンビ第1作「荒野の用心棒」(64)が世界的な注目を集め、
以後「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」(84)まで
レオーネの全監督作で音楽を担当。
「ニュー・シネマ・パラダイス」(88)で初めてタッグを組んだ
ジュゼッペ・トルナトーレ監督とは
「ある天文学者の恋文」(2016、映画音楽での遺作)までコンビを組み続け、
生涯に500本以上の映画・テレビ音楽を手がけた。
「ヘイトフル・エイト」(2015)でアカデミー賞作曲賞受賞
2020年91歳で逝去

モリコーネ自身に対するインタビューを柱とし、
セルジオ・レオーネ、ベルナルド・ベルトルッチ、クリント・イーストウッド、
クエンティン・タランティーノ、テレンス・マリック、ピエル・パオロ・パゾリーニ、
ジョン・ウィリアムズ、ハンス・ジマー
ジャンニ・モランディ、ジョーン・バエズ、
ブルース・スプリングスティーン、クインシー・ジョーンズなど、
錚々たる顔ぶれの映画監督、作曲家、歌手たちのインタビューに加え、
映画の一場面とワールドコンサートの模様などを織り込む。
2時間20分と、この種の映画としては長いが、
それだけ素材があふれたということだろう。
時間の長さでの退屈は感じさせない。

監督は、「ニュー・シネマ・パラダイス」のジュゼッペ・トルナトーレ


「ジュゼッペ以外はダメだ」と、
モリコーネ自身が本作の監督に指名し、
密着取材は5年以上に及んだという。
ということは、インタビュー時は
85歳から90歳ということになるが、
眼光鋭く、かくしゃくとしており、
作曲した映画の経過と音楽を全て記憶しているのがうかがえる。
そして、回想と共に出て来る映画が、
太陽の下の18歳(1963)、荒野の用心棒(64)、夕陽のガンマン(65)、
アルジェの戦い(66)、ウエスタン(68)、シシリアン(69)
死刑台のメロディ(71)、デカメロン(71)、カンタベリー物語(72)
1900年(76)、天国の日々(78) 、Mr. レディMr. マダム(78)
エーゲ海に捧ぐ(79)、華麗なる相続人(79)、
ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ(84)、ミッション(86)


アンタッチャブル(87)、ニュー・シネマ・パラダイス (88) 、バグジー(91)、
海の上のピアニスト(98)、鑑定士と顔のない依頼人(2013)、ヘイトフル・エイト (2015) 
と、おお、あれもモリコーネだったか、これもモリコーネだったか、
と驚きを感じさせてくれる。
太陽の下の18歳では「サンライト・ツイスト(ゴーカート・ツイスト)」、
死刑台のメロディでは、ジョーン・バエズが歌う「勝利への讃歌」をヒットさせた。

驚きの話も多くある。
かつては映画音楽の芸術的地位が低かったため、
幾度もこの仕事をやめようとしたという衝撃の事実を告白。
10年ごとに「もうやめる」と言いながら、最後は言わなくなったと。

「荒野の用心棒」では、
最後の対決シーンで、「リオ・ブラボー」(1959)の中の
「皆殺しの歌」を使いたいというレオーネ監督に対して、
既成の曲を使うことに難色を示すと、
「じゃあ、似た曲を書いてくれ」との注文で、
あの曲が出来たという。
実に良く似た曲で、
トランペットの奏法も指定する徹底ぶり。
「皆殺しの歌」は、映画音楽家ディミトリ・ティオムキンの作曲。
メキシコ軍がアラモの砦を攻撃する前に流したといわれる曲を元に
ティオムキンが作ったもので、
「アラモ」(1960)の中でも使われた。

(この「荒野の用心棒」のくだりでは、
黒澤明の「用心棒」 (1961) の短い2カットが挿入されている。

というのは、この映画、
「用心棒」の断りなしのリメイクだったのだ。
その後、訴訟に発展するのだが、
そのことについては、
日を改めて紹介したい。)                                

「天地創造」(1966)の音楽は、
最初、恩師であるゴッフレド・ペトラッシに依頼されたが、頓挫し、
モリコーネに依頼が回って来た。
モリコーネはやりたかったが、
RCAとの契約に縛られて断念、
結果として黛敏郎が作曲した。
このドキュメンタリーでは、
天地創造のアダムの誕生のシーンなどにつけたモリコーネの曲が披露される。

毎日の生活も紹介され、
早めに就寝し、午前4時には起きて、
朝に運動や作曲を行うという生活習慣。
作曲は楽器を使わず、
直接五線紙に音符を書き込む。

アカデミー賞の作曲賞には、
1978年「天国の日々」、1986年「ミッション」、
1987年「アンタッチャブル」、1991年「バグジー」、
2009年「マレーナ」でノミネート。
しかし、いずれも受章に至らず、
「どうせ取れないんだ」などと愚痴ったりしている。
2006年に功労賞を授賞したのは、そのお詫びの意味もあった。
しかし、2015年「ヘイトフル・エイト」で見事受章


この時のモリコーネは本当に嬉しそうで、
やはり名誉賞では満足できなかったのだろう。

日本でも、2003年にNHKの大河ドラ「武蔵 MUSASHI」や
「特集ルーブル美術館」音楽を担当している。

というわけで、
偉大な映画音楽作曲家の軌跡を辿る奇跡のような映画
映画の歴史を辿るという意味もあり、
最後は深く胸を打たれた

5段階評価の「5」

TOHOシネマズ他で上映中。

 


徴用工問題

2023年01月21日 23時00分00秒 | 政治関係

日韓の懸案となっている
徴用工裁判と現金化の問題で、
韓国政府は最終案を出してきた。
「三権分立」を盾に逃げ回っていた前職の文さんに比べて、
とにかく解決したい、
という尹錫悦現大統領の努力は買える。

韓国側の「解決案」は、
政府傘下の財団が
日本企業の「賠償」を肩代わりする
というもの。

はて、こんな案は当初から取り沙汰されていたと思うが、
今更、何故、
という気もするが、
とにかく出て来た「解決案」。

で、その帰趨は?
予言してもいいが、
これは頓挫するだろう。

というのは、
「裁判」の原告側がこの案を受け入れていないからだ。
当事者の一方が納得しないまま、
政府間で「合意」したとしても、
原告側は「受け入れていない」と言い続ければ尾を引く。
原告側は繰り返し「現金化」を請求し続け、
政権が変われば、
合意は反故にされる。
それは、2015年の「慰安婦合意」の推移を見れば、明らかだ。

何故原告側が「解決案」を受け入れないか。
その目的が「金」ではなく、
日本企業と政府の「謝罪」を求めているからだ。
原告の一人は、政府案が出た後、記者会見を開き、
「あす死ぬとしても韓国が払う汚い金は受け取らない。
日本から金を受け取るとしても
日本がひざまずいて謝罪するまではどんな金も受け取らない。
私が望むのは日本の謝罪」
と言っている。
解決案が「政府が代わって支払いますよ」
と言ったところで、
「我々の欲しいのは金ではない」
というのだから、解決にはならない。
まあ、本音では、金は欲しいのだが、
金だけもらって解決では、
応援した世論に申し訳が立たない。
日本側の謝罪はあり得ないから、
解決には永遠に到達しない。
つまり、「解決する気がない」のだ。
「解決する気がない」相手には、どんな解決案もあり得ない
それは、「慰安婦問題」と同じだ。
原告の意図は、日本に対して難題を突きつけて
困らせることにあるのだから、
逆に「解決」しては困るのだ。
だから、韓国政府が開いた公開討論会に、
原告側は出席を拒んでいる。

元徴用工については日本側は
「1965年の日韓請求権協定で完全かつ最終的に解決した」としており、
実は、政府レベルでは韓国も解決していることを認めている。
だから、2012年の大法院(最高裁判所)の
賠償請求を認める判決は、
国際法上は違法、
ただ、日本を困らせる、という結果だけが有効なのだ。

しかし、韓国政府が示した「肩代わり案」は、
別な観点から問題がある。
肩代わりを認めるということは、
いったん日本企業の責任を認めたことになるからだ。
肩代わりした財団には
日本企業に対する請求権が残る。
いわば、請求権が移動しただけだ。
故に、「肩代わり」をするとされている韓国の財団による
求償権(賠償を求める権利)は絶対に否定しなければいけない。

更に、「肩代わり」をするとされている韓国の財団には、
日本の企業や政府からも資金を提供することを求めている。
そんなことをしたら、日本の責任を認めることになってしまう。
日本企業の拠出など求めず、
韓国政府が支払えばいいことだ。
日韓請求権協定の締結で、
日本は韓国に5億ドルを支払っている。
当時、日本政府は元徴用工に個別に払うことを提案したが、
韓国政府がまとめて支払うことを求めてそうなった。
支払う責任は韓国政府にある
その点をちゃんと主張して、
これは、韓国の国内問題だと切り捨てた方がいい。
つまり、韓国政府の案に対して、
良いとも悪いとも言わずに、
「韓国がそうしたいなら、そうすれば」
という姿勢を貫くのだ。

一部に、
韓国を突き放すようなことは、
日本の安全保障のことを考えれば良くない、
という意見もあるが、
安全保障は相互のものなのだから、
それとは切り離して考えるべきだろう。

今回肩代わりしたとしても、
原告側がそれ以降は
日本企業の資産の強制売却手続きができなくするだけの話であり、
判決の降りた事実は、ちゃんと残る。
そもそも、「日韓併合は違法な植民地支配でその賠償は請求権協定の対象外」
とした判決は、
韓国の一方的主張でしかない。
日韓併合は、当時の国際法に照らして合法に行われたもので、
それさえ否定するのは、歴史を認めないことに等しい。
1965年の日韓基本条約締結時、
どれだけ関係者が苦労したかを無にするものだ。

いずれにせよ、
80年以上も前のことを
蒸し返し蒸し返しして関係を破綻させようとする。
やはり、韓国人の性格の悪さに起因しているとしか思えない。

かつて、賢人・曽野綾子さんは、
次のように書いた。

友だちの一人が、
いつもいつも70年昔のことを
恨みがましくなじるようなことを言う性格だと、
誰しも付き合うのに
気が重くなって当然だろう。

これは比喩だが、
ある友だちがいて、
70年前、自分の隣に住んでいる一家が、
自分たちに対して
どんなひどい仕打ちをしたかというような話を
繰り返すとすれば、
それは聞いていても楽しくない話だから、
それとなく
その友だちとは疎遠になるだろうと思う。

許されようと許されなかろうと、
人間としての個人や国家は、
歴史的過去を背負っているが、
その人や国家の品格は、
近年と現在、
どのように生きているかで判断される。

人の過去ばかり責める人と、
私は友だちにならない。
70年前、
ほとんどの日本人はまだ生まれていないか
幼い子供だった。
他人の祖先のやったことまで引き合いに出して責めるのは、
日本では卑怯なこととなっている。
私は他者を
現在のその人の生き方で判断する。

 

 


『“安倍後”を襲う日本という病』

2023年01月19日 23時00分00秒 | 書籍関係

[書籍紹介]

気骨の論客・門田隆将氏と
報道番組のプロデューサー結城豊弘氏の対談を収録。

目次は、
第1章 安倍元首相暗殺事件とマスコミのひどさ
     (「ああ、日本が終わった... 」
        国際的、歴史的に評価された総理大臣 ほか) 
第2章 「偽善」メディアが衰退する理由
     (犯人と警察に踊らされたワイドショー
        煽り煽られて番組を構成 ほか) 
第3章 報道に関わった大事件の数々
     (「自慢話」か「経験の継承」か
       グリコ・森永事件で敷かれた「報道管制」 ほか) 
第4章「マスコミ不信」がフェイクニュースを生む
     (1億人がそれぞれ情報発信ツールを持つ時代
      「まだマスコミの報道なんて信じているんですか」 ほか) 
第5章 テレビはまだ変身できる
     (地方テレビ局の逆襲が面白い
      大阪・関西万博で魅力を発信!  ほか) 

「“安倍後”を襲う日本という病」という題名から、
安倍さん亡き後、日本の安全・防衛はどうなるか、
経済はどう変化するか、日本人の誇りの行方は、
中国、ロシア、北朝鮮、韓国との対応は、
を問い、その中でのマスコミ偏向を指摘する
という内容かと思ったが、
ちょっと違った。
安倍銃撃事件についての報道の怪しさ、
統一教会問題へのポイントずらし、
国葬問題への論点移行の中で、
安倍さんの功績や国際的評価がぼやけてしまったことを嘆くだけで、
今後のことについては、あまり触れていない。

そして、結城さんといえば、
テレビ界の現状に対する愚痴ばかり。

というわけで、
少々「看板に偽りあり」の内容だったが、
いくつかの指摘が門田さんらしい。

安倍さんが統一教会シンパの根拠とされた
統一教会関連イベントへのメッセージだが、
その「ワールドサミット2022」にメッセージを出したのは、
トランプ氏をはじめ、
フィリピンのアロヨ大統領、インドのデベ・ゴタ元首相、
欧州連合元委員長のホセ・バローゾ氏ら錚々たる顔ぶれ
そもそも、このサミットの共同組織委員長が
潘基文(パン・ギムン)前国連事務総長だ。
潘氏からメッセージを依頼されて断る人はいるまい。
そういうことは、マスコミは報じない。

マスコミが安倍さんを叩く根本原因の指摘。

現実政治家の安倍さんは、
憲法改正を唱え、日米同盟の強化も図り、
さらには集団安保体制の構築を目指していた。
中国にとっては、
本当に「安倍晋三」という存在自身が障壁だったわけです。
だから、日本の代表的な親中メディアである「朝日新聞」が延々と叩いてきた。

まさに安倍さんは「強い日本」を目指し、
それを叩くメディアは「弱い日本」を目指していたことが
中国の意向であることがよく分かる。

核シェアリング問題について。
日本が核武装することは、
NPT(核兵器の不拡散に関する条約)脱退が条件だから、
国際的制裁を受けるから、できない。
日本の米軍基地に核を置くことも難しい。
従って、

核は国土に置かず、
運搬も自衛隊がやらず、
アメリカの原潜に積んだ核について、
つまり、“核抑止力”を日本も共有し、
そして「責任も共に負う」と表明できれば、
今までと「実質」を変えることなく、
「宣言」するだけで
核抑止力の割合を高められる~

その他、重要な指摘。

もちろん平和を語るのは重要です。
しかし、語って欲しいのは、
その「平和を守る」ための現実的手段なんです。
ただそれが空想的平和主義に陥っているなら
「批判は免れませんよ」と言うだけです。
ウクライナの現実を見ても、
「抑止力をアップしないと、
戦争を防ぐことはできない」と、
皆が言っています。

「平和9条を変えろ」と言うと、
「平和憲法、戦争放棄、戦力不保持の憲法を変えるなんて、
あなたは戦争をしたいんですか」と言いますが、
“逆”ですよ。
平和を守るために憲法改正が必要なんです。

どうすれば戦争が起きないか。
「この国を相手にしたら痛い目に遇う」
と思わせることなんです。
日本は確かに日本一国では中国に立ち向かうのは難しい。
しかし日米同盟が強固で、
「日本に手を出したら確実にアメリカが出てくる」と思えば、
そう簡単には手を出せません。

かつて日本にも革命の危機はあった。
既に半世紀以上も前のことだが、
社会主義国家への革命の可能性はなかったわけではない。
しかし、今はそんな芽はない。
国民は社会主義、まして共産主義になることなど、
全く望んでいない。
しかし、半世紀前の思想の残滓は残っている。
その人たちを門田氏は「ドリーマー」と呼ぶ。

私が「ドリーマー」と呼んでいるのは、
左右といった政治思想の問題ではなく、
「リアリズムに基づかない空想的平和主義」や
「できもしない理想主義」「きれいごとの偽善」に
拘泥している人たちのことです。

「少年法」によって少年犯罪の犯人が守られていることについて、
次の指摘は驚いた。

たとえ容疑者が少年であっても、
凶悪事件は少年法の範疇ではないんです。

酒鬼薔薇事件の「少年A」のように、
被害者児童の首を切り落として校門にさらしたり、
光市事件のように
泣いている乳児を叩きつけて殺し、
母親までレイプして殺害するようなものは、
当然、含まれません。
これらせ「非行」はなく
重大なる「凶悪犯罪」だからです。

確かに、死体から首を切り落としたり、
母親を死姦するなど、
「少年」を越えて、「異常者」の所業だ。
それは「少年法第1条」にある
「非行のある少年に対して性格の矯正」
の範囲を越えている。

その概念を精査せず、
一律に年齢で少年法を適用することはおかしいだろう。

安倍銃撃事件も
精神鑑定に6カ月を要し、
ようやく起訴になった。
6カ月もかかったのは、
20年も前の母親の高額献金の恨みが
殺人事件にまで発展するのに無理がある、ということだろう。

私は安倍銃撃事件には、
日本の未来に関わる思想と思想の衝突が関わっているような気がしてならない。
そうでなければ、
警備の隙間をついた、
改造銃からの、1発の銃弾が
一人の政治家に致命傷を与える、
という不思議なことが起こる可能性が薄すぎる。
相当熟達した者でなければ、
拳銃での狙撃は、近距離でさえ当たらないというのに。
安倍氏は、日本の行く末を憂い、
強い国にしようと努力した政治家だ。
弱い国のままに置いておきたいという
一つの強固な意思が
なんらかの形で噴出した気がしてならない。

看板倒れの本書だが、
いろいろなことを考えさせてくれた。