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徴用工問題

2023年01月21日 23時00分00秒 | 政治関係

日韓の懸案となっている
徴用工裁判と現金化の問題で、
韓国政府は最終案を出してきた。
「三権分立」を盾に逃げ回っていた前職の文さんに比べて、
とにかく解決したい、
という尹錫悦現大統領の努力は買える。

韓国側の「解決案」は、
政府傘下の財団が
日本企業の「賠償」を肩代わりする
というもの。

はて、こんな案は当初から取り沙汰されていたと思うが、
今更、何故、
という気もするが、
とにかく出て来た「解決案」。

で、その帰趨は?
予言してもいいが、
これは頓挫するだろう。

というのは、
「裁判」の原告側がこの案を受け入れていないからだ。
当事者の一方が納得しないまま、
政府間で「合意」したとしても、
原告側は「受け入れていない」と言い続ければ尾を引く。
原告側は繰り返し「現金化」を請求し続け、
政権が変われば、
合意は反故にされる。
それは、2015年の「慰安婦合意」の推移を見れば、明らかだ。

何故原告側が「解決案」を受け入れないか。
その目的が「金」ではなく、
日本企業と政府の「謝罪」を求めているからだ。
原告の一人は、政府案が出た後、記者会見を開き、
「あす死ぬとしても韓国が払う汚い金は受け取らない。
日本から金を受け取るとしても
日本がひざまずいて謝罪するまではどんな金も受け取らない。
私が望むのは日本の謝罪」
と言っている。
解決案が「政府が代わって支払いますよ」
と言ったところで、
「我々の欲しいのは金ではない」
というのだから、解決にはならない。
まあ、本音では、金は欲しいのだが、
金だけもらって解決では、
応援した世論に申し訳が立たない。
日本側の謝罪はあり得ないから、
解決には永遠に到達しない。
つまり、「解決する気がない」のだ。
「解決する気がない」相手には、どんな解決案もあり得ない
それは、「慰安婦問題」と同じだ。
原告の意図は、日本に対して難題を突きつけて
困らせることにあるのだから、
逆に「解決」しては困るのだ。
だから、韓国政府が開いた公開討論会に、
原告側は出席を拒んでいる。

元徴用工については日本側は
「1965年の日韓請求権協定で完全かつ最終的に解決した」としており、
実は、政府レベルでは韓国も解決していることを認めている。
だから、2012年の大法院(最高裁判所)の
賠償請求を認める判決は、
国際法上は違法、
ただ、日本を困らせる、という結果だけが有効なのだ。

しかし、韓国政府が示した「肩代わり案」は、
別な観点から問題がある。
肩代わりを認めるということは、
いったん日本企業の責任を認めたことになるからだ。
肩代わりした財団には
日本企業に対する請求権が残る。
いわば、請求権が移動しただけだ。
故に、「肩代わり」をするとされている韓国の財団による
求償権(賠償を求める権利)は絶対に否定しなければいけない。

更に、「肩代わり」をするとされている韓国の財団には、
日本の企業や政府からも資金を提供することを求めている。
そんなことをしたら、日本の責任を認めることになってしまう。
日本企業の拠出など求めず、
韓国政府が支払えばいいことだ。
日韓請求権協定の締結で、
日本は韓国に5億ドルを支払っている。
当時、日本政府は元徴用工に個別に払うことを提案したが、
韓国政府がまとめて支払うことを求めてそうなった。
支払う責任は韓国政府にある
その点をちゃんと主張して、
これは、韓国の国内問題だと切り捨てた方がいい。
つまり、韓国政府の案に対して、
良いとも悪いとも言わずに、
「韓国がそうしたいなら、そうすれば」
という姿勢を貫くのだ。

一部に、
韓国を突き放すようなことは、
日本の安全保障のことを考えれば良くない、
という意見もあるが、
安全保障は相互のものなのだから、
それとは切り離して考えるべきだろう。

今回肩代わりしたとしても、
原告側がそれ以降は
日本企業の資産の強制売却手続きができなくするだけの話であり、
判決の降りた事実は、ちゃんと残る。
そもそも、「日韓併合は違法な植民地支配でその賠償は請求権協定の対象外」
とした判決は、
韓国の一方的主張でしかない。
日韓併合は、当時の国際法に照らして合法に行われたもので、
それさえ否定するのは、歴史を認めないことに等しい。
1965年の日韓基本条約締結時、
どれだけ関係者が苦労したかを無にするものだ。

いずれにせよ、
80年以上も前のことを
蒸し返し蒸し返しして関係を破綻させようとする。
やはり、韓国人の性格の悪さに起因しているとしか思えない。

かつて、賢人・曽野綾子さんは、
次のように書いた。

友だちの一人が、
いつもいつも70年昔のことを
恨みがましくなじるようなことを言う性格だと、
誰しも付き合うのに
気が重くなって当然だろう。

これは比喩だが、
ある友だちがいて、
70年前、自分の隣に住んでいる一家が、
自分たちに対して
どんなひどい仕打ちをしたかというような話を
繰り返すとすれば、
それは聞いていても楽しくない話だから、
それとなく
その友だちとは疎遠になるだろうと思う。

許されようと許されなかろうと、
人間としての個人や国家は、
歴史的過去を背負っているが、
その人や国家の品格は、
近年と現在、
どのように生きているかで判断される。

人の過去ばかり責める人と、
私は友だちにならない。
70年前、
ほとんどの日本人はまだ生まれていないか
幼い子供だった。
他人の祖先のやったことまで引き合いに出して責めるのは、
日本では卑怯なこととなっている。
私は他者を
現在のその人の生き方で判断する。