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空飛ぶ自由人・2

旅・映画・本 その他、人生を楽しくするもの、沢山

癌ではありませんでした

2022年11月17日 23時00分00秒 | 身辺雑記

今日は、2週間前に行った、前立腺生検の結果を聞く日
1~2時間は待たせることが普通になっている
この病院では珍しく、
予約時間より前に診察室に。
入るなり、医師が、
「癌細胞は検出されませんでした」
12本取った検体のうち、
11本からは癌組織は検出されず、
1本だけが、
「組織学的に一部に異型腺管を認めます」とのこと。
異型腺管
何のことだ。
癌ではないが、グレーゾーンだという。
(帰宅後、ネットで調べると、
「癌の一歩手前状態」と。)
そこで、今までと同じく、
採血でPSA値を調べながら、
急激に増加するようなら、
再度生検をするということになった。
(MRIは不要で、最初から生検するという)
つまり、今までと同じ状態の継続

実は、今回は「癌です」と告知されるものと覚悟していた。
その場合、
「全摘手術をして下さい。
ダビンチでやってもらえますか」
と言うつもりだった。
そして、入院・手術はいつか、
着替えはどうするか、
今度は医療費上限の手続きをちゃんとしよう、
しかし、今度の手術では、
尿道カテーテルというのを挿入されると聞いた、
付ける時は麻酔後だからいいが、
取る時は、ものすごく痛いらしい、
また、最初の排尿も痛いらしい、
痛いのはいやだ~~~
などと妄想が進んでいた。

前立腺の摘出手術の後は、
後遺症として、2~3カ月、尿漏れがあるというぞ。
おむつをしなければならないか。
そうすると、外出は制限され、映画も観に行けなくなるかも。
映画のサークルには、そう告げなければならないな。
そうだ、手術前には床屋にいかなければならない。
いつにしようかな、
と、更に妄想は続く。

ので、拍子抜け
まあ、7年前、4年前のMRIでは何の所見もなかったのに、
今回、病変の可能性に言及されたのだから、
体内で何らかの変化が起こっていることは間違いなく、
いつかは医師に癌を告げられる日が来るに違いない。
それまでの執行猶予
とりあえず、ほっとした。

 


短編集『闇の梯子』

2022年11月15日 23時00分00秒 | 書籍関係

[書籍紹介]

「暗殺の年輪」(1973)、「又蔵の火」(1974)に続く、
藤沢周平3冊目の短編集。(1974)
1971年に「溟い海」で、オール讀物新人賞受賞、
1973年に「暗殺の年輪」で、直木三十五賞を受賞
した頃だから、本当に本当の初期作品集
それだけに、暗い雰囲気が漂う。

「父と呼べ」
大工の徳五郎は物盗りの現場を目撃する。
相手が強く、逆に物盗りの方が捕まって連れていかれるが、
残されたのは5歳くらいの子供だった。
物盗りの子供を連れて帰った徳五郎。
寅太という子供の親は島送りになるらしい。
徳五郎夫婦は寅太を自分の子供として育てることにした。
それまで喧嘩の絶えない夫婦だったが、
寅太の存在が新しい家庭の誕生を告げた。
しかし・・・
短い疑似家族のもたらす哀歓を綴った、
涙の市井もの。

「闇の梯子」
彫師の清次は女房のおたみと慎ましい二人暮らしをしていたが、
ある日、昔の仲間である酉蔵の訪問を受ける。
酉蔵は清次に金の無心をし、貸すと、
酉蔵は度々清次に金を無心するようになった。
女房のおたみがたちの悪い病で倒れた。
清次は版木の納め先の浅倉屋から頼まれごとをされる。
その仕事で、やくざになった兄の弥之助と再会し、
そこで得た金を高い薬代に使ってしまう。
おたみの病状は悪化し、
その薬代のために、御法度の彫仕事をするようになった清次は、
自分が闇の梯子を降りていることを感じるのだった。
この作品には、
藤沢周平の兄と亡くなった妻との実体験のようなものが現れる。

「入墨」
お島とおりつの姉妹で切り盛りする一膳飯屋の前に、老人がたたずむ。
家族を捨ててどこかに行っていた父親だった。
父に売られた恨みのある姉のお島は父を毛嫌いするが、
妹のおりつは密かに老父の世話をする。
そんな折、お島のかつての情夫である乙次郎が島送りから帰ってきた。
乙次郎は店でお島に金を要求するが、
その時、老父のとった行動は・・・
父の過去を彷彿とさせるラストの切れ味が見事。

「相模守は無害」
明楽箭八郎は十四年に及ぶ隠密探索が終わって江戸に戻ってきた。
海坂藩の政争の元凶である家老神山相模守の失脚、蟄居を確認して報告した。
一人暮らしの箭八郎の面倒を見るのは、
父の友の娘の勢津だった。
二人の間に特別な情が流れる。
ある時、箭八郎は海坂藩上屋敷である男の姿を見かける。
そのことは、海坂藩での相模守の復権を意味する。
箭八郎は再び海坂藩へと向かう。
その心の中に、必ず勢津の元に戻るという決意をこめて・・・

「紅の記憶」
麓綱四郎は殿岡甚兵衛の所に婿入りすることになった。
娘の加津は容貌は人並みだが、
剣術の腕はかなりのものであるという。
その噂が婚期を遅らせたのだ。
その加津から呼び出しを受け、
加津の求めで体を重ねる。
加津が父・殿岡甚兵衛とともに、
奸臣の香崎左門を襲って返り討ちにあった。
香崎左門の雇った腕の立つ剣士に一刀両断のもとに斬られていた。
寵愛した家臣を襲ったとして、君主の勘気に触れ、
遺骸は寺にも葬られていない。
その後、網四郎は、ある行動に出る・・・

3つの市井ものと、
2つの武家もの。
その後の藤沢周平の作品群を彷彿とさせる、
初期短編集。
今度も一篇を読むたびに
本を閉じて感慨にふける、
至福の読書体験を堪能した。

 


映画『MONDAYS/このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない』

2022年11月14日 23時00分00秒 | 映画関係

[映画紹介]

                                      
吉川朱海が勤める広告代理店は、
大手の下請け仕事で、
無理難題をもちかけられて、
徹夜の毎日だが、
ある月曜日の朝、朱海は後輩の二人組から
「僕たち、同じ1週間を繰り返しています! 」
と言われて驚く。
同じ会議、プレゼン、発注、直しが繰り返され、
鳩が窓に激突して死ぬのも、
下の道路で起こることも、
夜中の停電も、
繰り返している、
前の週のことは夢のように忘れ、
同じことの繰り返される毎週が
タイムループして閉じ込められているという。

そう言われて観察すると、
確かに同じことの繰り返しだ。
そのことに気づく社員を増やして、
何とかタイムループからの脱出を試みるが・・・

こういうワン・アイデアでの低予算映画は、
「カメラを止めるな!」をはじめ、時々現れる。
成功の可否は、そのワン・アイデアを
どう工夫して、ふくらませ、面白いものにするかだが、
本作は、その点での成功例といえよう。

同じ日の繰り返し、というのは、
「恋はデジャブ」「オール・ユー・ニード・イズ・キル」
などの先行作品があり、
新味はないが、
それが、広告代理店制作部の事務所の中で限定して描かれる、
という点がユニーク。
なにしろ、カメラは、9割方、
代理店の事務所の一室で占めちれている。
出ても、会社の屋上や
窓から見える下の道路に限られている。

そして、繰り返される日常の描写も、
よく工夫されている。
タイムループが起こっていることに気づかない同僚を
説得して気づかせ、
部下から上司へと上げていき、
最後に、タイムループの原因らしい部長に気づかせるために奮闘する、
というのも面白い。
どうも原因は、部長がしている
数珠のような、呪いのブレスレットらしいと見込んだ社員たちは、
部長に気づかせ、部長の手で、
問題のブレスレットを破壊させるが、
タイムループは止まらない。
では、本当の原因は・・・?
二人の若手よりも早くタイムループに気づいていた人物が現れて・・・

というてんやわんやだが、
その背景に、
会社の仕事が毎日同じことの繰り返し
という認識があるのも大きな布石だ。
そういえば、サラリーマンの日常は、
まさに同じルーティンの繰り返しだともいえる。

ワン・アイデアを脚本の工夫と撮影の工夫で
上手に昇華させた
監督の竹林亮
脚本の夏生さえり、竹林亮の手腕の勝利といえよう。

部長役のマキタスポーツ以外、
知らない俳優たちだが、
良く役柄を理解して、
作品を彩り豊かにした。
特に朱海を演ずる円井わん


部長を演ずるマキタスポーツが面白いが、


他の面々も良い味を見せる。
特に部長にプレゼンする場面は出色。

長さが1時間22分というのも、
短くていい。
必見の拾い物映画。

5段階評価の「4」

TOHOシネマズ日本橋他 で上映中。

 


駒場散策

2022年11月13日 23時00分00秒 | 身辺雑記

先日、娘と一緒に渋谷に出て、

井の頭線で、ここ↓へ。

踏み切りのところで下の商店街に降りて、


↓この店に。

11時半開店時には、15人ほどの行列が。

↓の生姜焼定食を食べるために来ました。

というのは、早乙女太一のYouTubeに


ランチを食べる、という番組があり、
そこで、この店が紹介されていたからです。

つまり、娘の聖地巡礼に付き合った形。

この生姜焼き、
見たこともないような大判の豚肉を
さっと炒めてたれをかける、という料理。

これがうまい上に、量が多い。
若い男性にはたまらない。

隣が肉屋さんでしたから、
そこで肉を仕入れていると思われます。

食事の後は、↓へ。

東大の駒場キャンパス

3,40年ぶりでしょうか。

駒場農学校→東京農林学校→東京帝国大学農科大学→東京帝国大学農学部と変遷し、
1935年、本郷向ヶ丘にあった
第一高等学校と校地を交換して移転し、
一高は、新制東京大学に包括され廃止になるまでここを校地に。
そして新制大学移行により、
旧制一高に代わり東京大学教養学部がこのキャンパスに設置されたもの。

東大入学者は、2年間の前期課程をここで履修、
2学年の途中で志望と成績により、専門学科に振り分けられ、
3年になったら、本郷キャンパスに通うようになります。
(教養学科を専攻した学生は、そのまま留まる。)

正門は、旧制第一高等学校正門として1938年頃に完成したもの。

正面の時計台のある建物は、
1号館で、1933年完成。


登録有形文化財に登録されており、
主に外国語クラスの授業に用いられています。


科類と第2外国語でクラス分けされ、
語学の時だけ、クラス全員が集まる仕組み。


私のクラス名は「41S1 13B」で、
「41年入学・理科Ⅰ類、13番のドイツ語クラス」の意。
今でもクラス会やズーム会合をやって交流しています。

普段は時計台の内部には入れませんが、
年に1、2回、学生・教職員を対象に公開されています。

一高時代からの建造物で現存しているのは、
1号館の他、正門、101号館、900番教室(講堂)、
駒場博物館(旧図書館の一部)、同窓会館の一部のみ。

これが900番教室


旧制第一高等学校講堂。


1938年完成。


教養学部で最も大きい教室で、
人気のある選択科目や法学部の専門科目の講義が行われています。

東大紛争のときに、
作家の三島由紀夫と東大全共闘の学生たちとの討論が行われたのは、
この教室。

紅葉に色づいています。

ここがキャンパスのメインロード。

この先は新しい建物が連なります。

元々は、学生寮があった場所。

駒場寮は、一高時代からあった寄宿寮で、
地方出身の学生には、安価に借りられ、
授業にもすぐ出かけられる便利な部屋でした。
安価と書きましたが、
記憶では、1カ月の家賃は100円。
驚くことはありません。
当時の授業料が年額1万2千円。
月千円だったのですから。

1935年に建設。


旧制高校寄宿舎の多くが木造なのと異なり
鉄筋コンクリート構造の3階建てが3棟。


北寮、中寮、明寮と称されていました。
学生が自治的に運営し、
1部屋は約24畳で、
6人部屋だった時代、3人部屋だった時代があります。
オープンスペースでしたが、
後にダンボールやベニヤ板で仕切られ、
実質個室風になりました。
病院の大部屋と同じですね。


サークル単位に部屋が割り当てられ、
そこに行けば誰かがいる、という環境でした。
サークルに入っていない学生は、
独自のグループを作って入っていました。

部屋はちらかり放題で、
怠惰な生活をする者も多く
私の学友の一人は、
「ここに入ってから、寝てばかりいる。
寮食の中に、“なまけ薬”でも入ってるんじゃないか」
と嘆いていました。
食堂が併設されており、朝・昼・晩と食事が出来ました。
寮生に限らず、誰でも寮食堂を利用することができましたが、
私は食べたことはありません。

1年に1度部屋替えが行われ、
その際は、棟が変更されて移動しました。
そうでもしないと、掃除をしないからだ、と聞いたことがあります。

食堂の一角のスペースが、
「駒場小劇場」という劇場として利用されており、
野田秀樹の夢の遊眠社や、如月小春などが知られています。
使用料は無料、約300人収容可能な演劇スペースでした。
駒場寮廃寮後は「駒場小空間」が代替となっています。

キャンパス再整備計画の一環として、
廃寮となる旨、1991年から計画が進められていましたが、
反対する学生が籠城、
2001年8月22日に強制執行が行われました。


廃寮後跡地に駒場コミュニケーション・プラザがなどが建てられました。

生協


コンビニみたいだ。

学生食堂

東端にある駒場池


2008年12月に学内公募によって正式名称が「駒場池」、
愛称が「一二郎池」と決定されました。
本郷の三四郎池に対応して、「一二郎池」


実は、今回の散策でマップを見るまで、
池の存在を知りませんでした。
どうして、と思いますが、
当時、学生寮から奥は魔界のようで、立ち入らなかったのか。

資料を調べたら、
昔は池の周辺は立入禁止だったというから、
そのせいかもしれません。

「入学前に一人で見ると浪人する」や
「入学後に一人で見ると留年する」
などといったジンクスがあるといいます。

学生会館は、前と同じ場所に。

中はこんな。

倉庫代わりにも使っているようです。

この場所に、
合気道部の稽古道場がありました。


毎日、昼食後、稽古をしていました。
今はどこに行ったやら。

山手通りに面した裏門

この並びに小学校の時の同級生の家があったが・・・

まだあった。

その並びに、
娘がみつけたカフェが。

こんなテーブルで、アイスフロートを。

下にアイスが沈んでいて掘り起こすスタイル。

コーヒー豆を売っており、
繁盛しているようです。

その後、松濤町を通って、渋谷まで歩きました。

娘と一緒に巡る、過去の世界
先日は幼少期の故郷を訪ねましたし、
死期が近いのではないかと心配です。

 


小説『写楽女』

2022年11月11日 23時00分00秒 | 書籍関係

[書籍紹介]

しゃらくめ」と読む。
今年の角川春樹小説賞の受賞作で、
10月18日に刊行されたばかりの超新作。

題名のとおり、東洲斎写楽にまつわる話。
写楽と言えば、寛政六年(1794年)から翌年の寛政七年(1795年)にかけての
約10カ月という短期間に、
145点余の作品を残し、
突然に姿を消した謎に満ちた浮世絵師
本名や生没年、出生地、家族、師匠や弟子など全てが不明で、
その正体は諸説あるが、
阿波徳島藩のお抱え能役者・斎藤十郎兵衛(さいとうじゅうろうべい)
というのが最も有力な説。

山東京伝や喜多川歌麿らを見いだした名板元(はんもと)の
蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう)の経営する
日本橋通油町にある地本問屋「耕書堂」(こうしょどう)で
働くお駒の視点から写楽を描く。
三十過ぎのお駒は、
酒を飲むと暴力をふるう職人の元亭主と別れて、
耕書堂に住み込みの女中として働いていた。
家庭を維持できなかったこと、
子供を作れなかったことが、お駒の胸の深いところの傷としてある。

耕書堂に新しい絵師が採用される。
耕書堂には、戯作者や絵師が食客として居候しているが、
重三郎によって「写楽」と命名されたその男は、通いで、
どこに住んでいるかは店主と番頭しか知らない。
重三郎は、写楽に、
役者の顔をアップでとらえた「大首絵」を描かせ、
世間をあっと言わせる。

その絵が↓。

モデルとなった歌舞妓役者の特徴を的確に捉え、
デフォルメして、
女形の皺まで描く、それまでにない役者絵。
役者の芸や年齢、風格をも写し出し、
観る者に役者の心情さえも想像させる。
しかし、美しく描くのが当然なのが当時の役者絵のため、
役者や座元には評判が悪かった

重三郎は、写楽の助手として、
お駒の幼なじみの絵師・鉄蔵、
本来戯作を書きたいが絵もたしなむ余七、
そしてお駒をつける。
「蔦屋組写楽工房」として、
顔を写楽が描き、
背景や衣裳を他のメンバーが描く。
ルーベンスが工房を作って、膨大な数の作品を輩出したのに通じる。


しかし、役者絵の評判は悪く、
写楽も工房も迷走を続ける。
のびのびと個性を発揮して作られた最初の作に対して、
その後は、世間や役者、関係者の反応を受けて
軌道修正を繰り返した苦悩が見て取れる。
ほとばしるような個性が失われ、
それに伴って作品の質も低下していった。

最初の衝撃が醒めた後は、
写楽の役者絵は急速に人気を失い、
いつのまにかその創作活動は消えてしまう。

写楽の才能に時代が追いついておらず、
写楽の再評価は明治以降、
特にドイツの美術研究家ユリウス・クルトが、
1910年(明治43年)、
著作「Sharaku」において写楽を絶賛したことによる。
それ以来、ヨーロッパでは
東洲斎写楽の浮世絵が芸術品として高い評価を受けるようになった。
海外からの人気を逆輸入するかたちで、
日本でも東洲斎写楽の評価は急激に高まり、
それまで安価で売られていた版画の価格は高騰し、
多くの東洲斎写楽作品が海外へと流出する。
今、ボストン美術館に約70点、
シカゴ美術館とニューヨークのメトロポリタン美術館にそれぞれ40数点、
フランスのギメ美術館に20数点、
ロンドンの大英博物館に27点、
これ以外に世界の美術館に収蔵されている他、個人蔵もある。

作品総数は役者絵が134枚、役者追善絵が2枚、
相撲絵が7枚、武者絵が2枚、恵比寿絵が1枚、
役者版下絵が9枚、相撲版下絵が10枚確認されている。

大きさは、大判で約27㎝×約39㎝。
細判で約16cm×約33cm。
間判で約23cm×約33cm。

写楽の作品は4期に分かれるが、
その理由が、芝居小屋の興行に合わせていた、というのは、初めて知った。

著者の森明日香さんは、
江戸時代の絵師を調べていたところ、
「女が一人、工房にいた」という一文があり、
そこから発想したという。

写楽の創作活動と、それを支えた人々、という興味ある題材。
鉄蔵は、自分の絵ではなく、
金のために写楽の絵を手伝う鬱屈を抱く。
余七は、戯作と絵画の二つのどちかを取るかを悩む。
また、写楽の才能に対する尊敬と驚愕も抱く。
数十年後の描写で、
工房のメンバーが葛飾北斎、十返舎一九、曲亭馬琴などになっていくのだが、
誰が誰になるのかは、読んでのお楽しみ。

ただ、蔦屋重三郎が写楽のどこに才能を見いだしたか、
が明確に描かれていない点と、
お駒の工房への参加が、線を引くだけ、というのは物足りない。
写楽とお駒の間に
絵画的な共感がないと、
この話は厚みを失う。

類まれなる才能を持ちながら、
生きた時代には評価されなかった写楽と、
その不遇の絵師人生に寄り添う一人の女中がいた、
という物語の作りはなかなかのものだ。
ついには、二人は恋心を交わす。
写楽は別れの時、お駒に自分の本名を明かす。
それで写楽の存在が秘密であったわけが分かる。

絵師は弟子に自分の名を分け与えるが、
女の弟子には「○○女」と末尾に「女」を付ける。
そういう意味で、写楽女は、まさに写楽の女弟子の称号だったのだ。