今朝、通りがかりに、この6月まで住んでいた家近くの電気店の家族の、いつもの朝の光景を目にする。外階段で2階が住まいになっているのだけれども、母親が車椅子の娘を、脇の道に停車した迎えのその関係の施設のワゴンまで、送るのが朝の日課。母親は50代も半ばあたりになったのか。どこか心にかかることを抱え、気持の晴れない生活を送っている人を感じさせる。それが年より以上に老けた感じに見せている印象を与える。そんな姿を見ると、今の年から21年を引いた年の頃の彼女を想像せずにはいられなくなる。私が、東京からこちらに越してきたのが、21年前。車椅子の娘さんはまだ20才になるかならないくらいだから、そのちょっと後あたりに彼女は出産をしたことになる。電気店の前あたりで、私は赤ちゃんの頃を見ているし、その後も、成長する間の彼女を、その時々、眼にしてきたことになる。とくに養護学校に通うようになった少し大きくなってからの彼女は、今朝見た様子のままに母親が送迎バスまで車椅子を押して送る。見慣れたものとしてのその様子の中に、印象づけられている。月日の流れと共に彼女は成長し、ただ幼い頃からと変わらずに車椅子なしには動くことができず、母親は、このように表現せざるをえないように、老いを感じさせるようになった。その時間のながれが、かなしい。若い娘として、どのような夢を抱き、思い、感じているのか私には分からないけれども、成長してすでにその年。そして、母親の思いは、どのようであるのか。これから先のことを、思わせる。5年、10年の先。更に、その先。娘は今のところまだ、どこか幼さを感じさせる。いずれ自立の心を持たなければならなくなるんだろう。
記憶に残っている場面がある。まだ娘さんが1、2才位の頃ではないだろうか。まだベビーカーの上。店の前に両親や他の何人もの人たちが集まっていて、たのしげな様子だった。そばに子犬もいて。ところが一瞬の隙に、その子犬がそばの道路上に走りだしてしまったのだ。そこに走りこんできた車があって、通りがかりの私も、胸の中で声を上げてしまっていたと思う。絶体絶命の状況。彼らも駄目かと思ったのにちがいない。声を上げ、誰もが見守った、その緊迫の僅かな時間。子犬は、奇跡のように走る車の下をすり抜けて、戻ってきたのだ。その動きが、今でも眼に残っている・・・・。
そんな時の記憶。赤ちゃんのいる、たのしげな雰囲気。その子犬は成長して、ずっと車椅子のそばにもいたものだった。
また明日の朝も、母親は車椅子の娘を送り出す。
記憶に残っている場面がある。まだ娘さんが1、2才位の頃ではないだろうか。まだベビーカーの上。店の前に両親や他の何人もの人たちが集まっていて、たのしげな様子だった。そばに子犬もいて。ところが一瞬の隙に、その子犬がそばの道路上に走りだしてしまったのだ。そこに走りこんできた車があって、通りがかりの私も、胸の中で声を上げてしまっていたと思う。絶体絶命の状況。彼らも駄目かと思ったのにちがいない。声を上げ、誰もが見守った、その緊迫の僅かな時間。子犬は、奇跡のように走る車の下をすり抜けて、戻ってきたのだ。その動きが、今でも眼に残っている・・・・。
そんな時の記憶。赤ちゃんのいる、たのしげな雰囲気。その子犬は成長して、ずっと車椅子のそばにもいたものだった。
また明日の朝も、母親は車椅子の娘を送り出す。