月のmailbox

詩或いは雑記等/小林貞秋発信。

キャットJ が走ってくる

2009-12-21 22:56:32 | エッセイ
先日も記事で触れたように、夜は運動のために外に1時間余。ここのところは、走らずに、速歩。運動公園近くまでは、それだと10分ほど。
上に小さいながら画像を入れましたが、道の左が三市合同の斎場の広い駐車場。その先は、畑です。ビニールハウスもあったりします。右サイドも、畑。夜で辺りは薄暗いわけですが、ここを行ったり来たり。広い夜空の星を仰ぎ見たりしながらですね。ここに来るときに、することがひとつ。近くにいるにちがいないキャットJ に会うこと。斎場への広い坂道の手前が、ウォーキングのスタート点、かつまた戻ってきての折り返し点になるんですが、その辺りから、歩きつつ口笛を吹いてみる。キャットJ に、そこに来ていることを知らせるためですね。
着いてすぐに知らせることもあれば、暫らくしてからのこともある。そのようなことをいつもやっているわけですね。私は、キャットj が何処にいるのか分からない。昨日は、コースの一方の向こう端辺りに行って折り返そうとする時、後方の薄明かりの中に何やら見えて、良く見るとトラ毛のせいで分かりにくいながら、キャットJ らしい。そばに寄ると、いつもの彼女らしくおとなしく座って動かない。ともかく、ここまで追って走ってきたというわけです。向こうで口笛を吹いた時には、辺りに姿はなかったのにね。
それでいつものように、抱き上げて、この画像の右サイドに青っぽく見えるモーターなどの据えられた小屋まで運ぶ。キャットJ は、結構体が大きくなっているのだけれども、運んでいる間に足をこちらの体に立てて押しつけるようにして、下りたそうにしたりなどする。でも、もうちょっとだからと、その体を離さないように抱いて、目的の場所まで。そこで下ろして、食べものをあげる。その辺りにはメグと呼んでいる、白黒の大将のような大きな猫がいて、これが来るとキャットJ は逃げて行ってしまうのだが、その気配はない。で、小屋の入口でキャットJ は食べ、私はウォーキングをつづけるということになるわけですね。
今夜は、私はキャットJ がすぐには姿を現わさないのを見て、坂道を下りてその先の運動公園の中に入って、広場の手前まで行ったのですが、石垣の上に一匹の猫らしいのが見えて、近づいてみると久しぶりに見るキャットJ の母親のMickyだったんですねえ。ペルシャ・ト―タシェルの。キャットJ は、今はもう、誰とも一緒にいない、単独行動の生活をしている者になっているんですけれどもね。そばに寄ってきたMickyが、急に植込みの方に向かって中に入っていくのでおかしいなと思っていると、メグがやってきている。どうもそれで、敬遠して姿を消したらしい。
こちらは、戻ることにして坂道を上がって斎場の手前辺りまで行くと、薄明かりだと分かりにくいトラ毛の、でもやっぱりキャットJ にちがいないな、というのがそこに来ていて、私はまた、抱き上げました。坂を上がりきるまで、70メートル位。
それから左に曲がって小屋の所まで、70メートル位ですか。結構距離があるわけなんですけれどもね。メグは下にいたので、来る気がかりはないし、というわけで。また小屋のところで、食べさせようと。
下の、公園内の一角には、ごく最近、市の名前の入った立て札が立てられて「公園内のネコに食べものを上げないで下さい」とある。その近くには別の立て札、「ネコを捨てたり、虐待をしないで下さい」というようなことが、書かれている。広い開放的な緑多い公園内のどこかにネコがいたとしても、誰にどのような害を与えるのか。食べるものを与えたとして、どのような悪いことがありますか? あげたい人もいる。そうすることによって、癒されている人もいる。何ゆえにそうした立て札になるのか、説明が必要でしょうね。
キャットJ など、家猫そのその。おっとりとしていて、おとなしい。表情も、かわいい。外で暮らしている猫たち。人間と同じで、みんなそれぞれ。性格もちがう。生まれた場所、環境によって、ちがうものもあるでしょう。その環境によっては、警戒心の強い、歪みのある性格にならざるをえないかもしれない。
なんにしても、私は不憫に思うんですね、いつも。保護され、大切にされている家猫のことを思うにつけ。外で一人だけで生きなければならない、例えばキャットJ のことなんかにしてもね。こちらが戻る時に、ちょっとだけ後を追ってきたりする。そういう時など、意識的に振り向かないことにしますが、やっぱりちょっと辛いような、ね。
コメント
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