月のmailbox

詩或いは雑記等/小林貞秋発信。

あそこまで行ければ、という「あそこ」  3

2007-10-19 21:19:24 | Weblog
ある国のトップになった彼が、言いだしました。「美しい国造りを」と、ちょっとばかりたどたどしいような口調であったような記憶あり。生来のものなのでしょうね。それを言う彼の目が、希望にかがやくようなものであったかどうか、そこのところはなんとも。その言葉に対して、多くの人々が共感できるイメージを抱けたかどうか、そこのところもなんとも。単に、急に突飛なことを言い出したぜ、あの生真面目そうな登板者、と感じただけの向きもあったのかもしれない。
だがいずれにしても国のトップが、目標として口にしたのである。なんの力も影響力も持たない私のような人間が言ったこととちがうのである。その最高権力者の掲げた目標が、如何なることになっていったか。印象としては、時過ぎてその彼がその座から退席する時に至る以前に、霧散してしまったようなもの。
というような、本来その方向づけを決めること重要な立場にあり、それだけの思考力も判断力もあると考えられ、多くに期待されている人のすることからしての、そうした次第。こうしたことは、とても気になる。こちらは駄目だけれども、あちらは全然違うだろう、なぜならば有能なればこそ、あちらはあの位置にいるのであるから、と信じたいこちらが、なあんだ結局変わりがないではないか。あちらにしても、相当に抜けたことをやっているではないか、と思うしかなくなる事態を見る形になってしまう。
たまたま、このトップになった人物に足りないところがあったのだ、本来はそうした人物がその位置に在るはずではなかったところなのである、と言う向きもあるでしょう。それが正しいということが考えられることもあるかしれない。
次なる人物は、「自立と共生」とその目標を掲げる。なんにしても、方向としては現実的、具体的な方向に向けられたものでなければならないところのこと。それが当然のところ、本来求められている形。そうして、常に耳に入ってくる言葉、改革。そこに予想される壁。延々と時代を超えて、改革の必要から解放されることはないあちら、そしてこちらの方面、いつもそこには残されている諸々があるもののようです。
このように書いたことだけれども、これ、ある意味ひとりの人間の中で起きていること、と考えても良いところではないかな?  躓き、惑い、なにやら決心し、不充足な部分を改めようとし、方向を定めようとしながら、なかなか思うように行きたいところに行けないという、ひとり。何処にでもいるに違いない、そうした或るひとりの中で起きていることと。先の流れ、いつも不確か。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« あそこまで行ければ、という... | トップ | 路上、鳩の死を見る »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Weblog」カテゴリの最新記事