地上を旅する教会

私たちのすることは大海のたった一滴の水にすぎないかもしれません。
でもその一滴の水があつまって大海となるのです。

【婚礼の客】ミラノ…須賀敦子 文才育んだ「霧の街」

2015-02-25 22:15:04 | 今日の御言葉
▼「梅の香に 福島ほっこり」
(福島県伊達市 2015.2.24)




イエスは言われた。

「花婿が一緒にいる間、

婚礼の客は悲しむことが
できるだろうか。

しかし、花婿が奪い取られる時が来る。
そのとき、彼らは断食することになる。


マタイによる福音書/ 09章 15節
新約聖書 口語訳




他人の過ちや、
罪深いすべてのものに目を閉じ、
神の美徳をさがす
(目の沈黙)


ゴシップや告げ口、
無慈悲な言葉等の声に耳をふさぎ、
神の声や貧しい人の叫びに耳を傾ける
(耳の沈黙)


暗さや動揺、
苦しみを引き起こす
すべての言葉をつつしみ、
私たちを啓発し、鼓舞し、
平安や希望や
喜びをもたらす神の真理の言葉、
イエスの言葉を口にする
(舌の沈黙)


うそや混乱、破壊的な考え、
軽率な評価、他人への誤った疑い、
復讐心、さまざまな欲望などに
精神を閉ざし、祈りと黙想において
神の真理と知識に精神を開く
(精神の沈黙)


すべての自分本位の考え、
憎しみ、うらみ、ねたみ、
欲ばりを避け、私たちの心、魂、
精神、力において神を愛し、
神が愛するように人を愛する
(心の沈黙)


マザーテレサ 

(『愛のこころ最後の祈り』より)




★ミラノ…須賀敦子 文才育んだ「霧の街」 :

新おとな総研 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

◆読売新聞 2015年2月24日




▲ミラノ旧市街にそびえるドゥオーモ(大聖堂)。広場から続く目抜き通りに、サン・カルロ書店はある(伊北部ミラノで)=青木佐知子撮影



▲1961年、コルシア書店で本に囲まれている須賀敦子
(河出書房新社提供)


イタリアを題材にしたエッセーや翻訳で知られる作家、須賀敦子は、30歳代を伊北部ミラノで過ごした。

カトリック信者だった須賀は、日本文学のイタリア語訳を手がける傍ら、教会の刷新運動にも加わった。

ローマから列車で北に向かうと、乳白色の霧に包まれた平野が現れ、ミラノに近づいたことを教えてくれる。買い物客でにぎわうミラノの目抜き通りにたたずむ教会の軒先に、その小さな書店はあった。

コルシア・デイ・セルヴィ書店。1960年、須賀はこの書店を切り盛りしていたジュゼッペ・リッカと出会い、翌61年に結婚した。

「本の陳列棚は当時のままだ。月に2、3人は日本人が来るよ」

店員のジローラモ・カッラーロさん(67)が、隣接する教会の物置を改装して作られたという、細長い店内を見せてくれた。60年代当時、書店は教会の近代化を求める「カトリック左派」の拠点だった。カトリック系の女学校などで学んだ後、神学を学ぶためにローマに渡った須賀も、こうした書店の活動に興味を持ち、ミラノに移り住んだ。

須賀は著作「コルシア書店の仲間たち」で、教会の変革に燃える聖職者や編集者らが議論を交わしたコルシア・デイ・セルヴィ書店を、「ごったまぜの交流の場」と記した。サン・カルロ書店に看板が変わった今も、多くの須賀ファンが訪れる。

大学生の頃に書店に通い、その後、書店を手伝ったジャンアンドレア・ピッチョリさん(73)は、「アツコは洞察力に優れていた」と振り返る。「議論を取り仕切るタイプではないが、口を開けば魅力的な発言をした」

須賀は63年、伊出版社の依頼で、川端康成や谷崎潤一郎の作品の翻訳を始めた。友人で、ローマ・サピエンツァ大学のマリアテレーサ・オルシ教授は「私が日本文学に熱中して研究者になったのは、彼女の翻訳作品のおかげ。言葉の微妙な意味の違いに敏感だった」と語り、須賀の「ミラノなまり」のイタリア語をしのんだ。

リッカが41歳の若さで病死した後、須賀は東京に戻り、教会の慈善活動として廃品回収を始める。だが帰国前の須賀は、信仰に生きる道と、文学への憧れのはざまで揺れていた。「日本へ帰って教会の手助けなどするより創作の道を歩きたい思いに駆られる」

当時の日記に、こうつづった須賀だが、やがて文学研究の道に進み、大学の教壇に立った。90年、イタリア生活を追懐した初の著作「ミラノ 霧の風景」を出版。61歳の新人のエッセーは、柔らかで精緻な文体が賛嘆された。帰国から19年後のことだ。

コルシア書店を手伝ったピッチョリさんは、須賀の生き方を「彼女は常に、より困難な道を選んだようだね」とたたえた。時の熟成を経て、研ぎ澄まされた文章。だからこそ、読者の心にしみるのだろう。(文と写真 青木佐知子)


須賀敦子(1929~98)

兵庫県芦屋生まれ。カトリックの聖心女子学院で学ぶ。1953年、24歳でパリ留学。58年、ローマ留学。13年のイタリア滞在を経て、71年に帰国。西洋文学の講師や伊文学の翻訳を手がけ、89年、上智大学教授に。初の著作「ミラノ 霧の風景」が、講談社エッセイ賞と女流文学賞をダブル受賞。98年、心不全で死去。生前に出版された著作は5冊ながら、今も人気が高い。東京のイタリア文化会館は昨年、功績を顕彰し、「須賀敦子翻訳賞」を設立した。

2015年02月24日 08時30分 Copyright © The Yomiuri Shimbun



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