ウロコのつぶやき

昭和生まれの深海魚が海の底からお送りします。

フィギュアスケートにおける着物風衣装の考察

2022-06-05 21:34:30 | ノンジャンル

副題:祝・かなだい現役続行!ソーラン衣装はやっぱり最高ですねという話

才能溢れる二人の目覚ましい躍進については、私でなくても既に色々と語られていると思います。

1年目も「大ちゃんがホントにアイスダンサーになってる!」とびっくりしたんですが、2年目で早くも、制約の多い競技プログラムでありながら、まるでショーを見ているようなワクワク感がある高橋大輔のスケートが帰って来たと思いました。
あのスケートを大ちゃんと一緒に実現した村元哉中ちゃんの才能にも感服。
特にソーラン節&KOTOは、曲も振り付けも衣装もワクワクに満ちたエンターテイメントだと思います。ソウルフルな歌声はもちろん、尺八を思わせるフルートの音色がカッコ良過ぎる。

そんな何ソーラン節&KOTOについて私に語れる事はないかなと思い、衣装を考察してみました。
(着物に関しては一応、若干ですがお勉強したことがございます)

 

私はかねがね思っていました(久能整風に)。
フィギュアスケートで「和」モチーフのプログラムが演じられる事は多いけど、和風の衣装はあんまりしっくり来ない事が多い気がする、と。

理由は簡単で、洋装と和装はシルエットが違い過ぎる事かと思われます。
ディテールだけ着物っぽくしても、シルエットが洋服風なので着物に見えない。
しかし、シルエットまで忠実に着物を再現してしまうと、動きにくいのはやる前からわかる。

そこで考えてみました。
着物っぽさを着物っぽく見せるために抑えるべきポイントについて。
掟は3つです。(あくまで個人の意見です)

***

【掟1】襟はビシッと決めるべし

着物の特徴は着物襟なので、フィギュアの和風衣装にもしばしば着物襟っぽい襟元の衣装が登場します。
そして襟元は、着物姿をカッコよく決めるためにかなり重要なポイント。ここを決めるかどうかで大きく印象が変わります。

美しい襟元を作るため、着物を着るときには半襟のなかに芯(襟芯)を入れます。

フィギュアの衣装で襟芯を入れる訳にはいかないと思いますが、だからと言って襟元がダルダルになってしまうと全体の印象も台無しになってしまうと思います。
しばしば気になるのは、肌を見せるために襟ぐりを広くみせるデザイン。
フィギュアでは、胸元が大胆に開いた衣装は珍しくありませんが、着物襟を左右に広げると途端にだらしない印象になります。

どうしても肌見せしたいなら、襟の合わせを横ではなく縦に広げて深いV字のラインを作って欲しい。肌見せしながら、ビシっとした襟のラインもキープできると思います。

ほんとは襟を抜いてうなじを見せるとカッコいいんですが、襟芯なしでは難しいので現実的じゃないですね。

【掟2】身頃のシワは全力で阻止すべし

着物の着付けでは、身頃(胴体部分)になるべくシワが寄らないようにします。
そのために、体の凹凸がなるべく平らになるよう補正します。プロの着付けを頼むと体をタオルでぐるぐるにされるアレですね。

もちろんフィギュアの衣装でタオルぐるぐるにする訳にはいきません。
その代わり、フィギュア衣装にはストレッチ素材という強い味方が存在します。
ストレッチ素材を活用して、極力シワが寄らないようにする方が、着物風の衣装はカッコ良いと思います。

シースルー生地など、ストレッチが効かない素材を使うと、激しい動きでどうしても細かいシワが寄りますが、これもなんとなくだらしない印象になる原因だと思います。

【掟3】和装のおしゃれはレイヤード

一千年前の平安時代に十二枚もの重ね着ファッションを編み出し、襲の色目(かさねのいろめ)というレイヤードのカラーコーディネートパターンを残したのが我々の先祖です。

時代が下ると重ねる枚数は減りましたが、おしゃれの基本が重ね着からのチラ見せである事は変わりません。
襟元から半襟をのぞかせたり、比翼仕立や伊達襟で重ね着していないのに重ね着に見せるフェイクレイヤードも定番です。
裾や袖口から八掛(裏地)や襦袢をチラ見せするのもおしゃれの内。着物のおしゃれ上級者は、裏地や襦袢にもこだわります。

透け感のある素材を着るなら、下に透けない素材を重ねて、その組み合わせを見せる形で使うのが鉄則です。
盛夏の着物は原則透ける生地なので、下には必ず透けて見えても良い襦袢を重ねます。

間違っても、透ける素材を単体で着てはいけません。

【掟2】では、シワが寄るからという理由で身頃シースルーを禁止しましたが、そもそも和装で透ける素材1枚で着ることはまずないので、シースルー1枚だと下着に見えます。
使うならそれなりの工夫が必要だし、そもそも使わない方が無難だと思うんですが、何故か良く使われているのが謎です。

EXだと薄羽織のように使われていることも多くて、それはまあ良いと思うんですが、競技用衣装で袖とかにシースルー使うパターンが妙に多いのは何故だろう。それやっちゃうと和装じゃなくて中華に見えると思うんですが。
色も日本の伝統色じゃなくて、化学染料っぽい色が多いから余計に大陸っぽい感じがします。

***

と、ここまで読んで頂ければもうおわかりですね。

ソーラン節&KOTOの和風衣装は、3つの掟をバッチリ抑えているのです。

特に哉中ちゃんの襟元のデザイン。ベースは大胆な洋風肌見せカッティングでありながら、そこへ和風の着物襟を、縦長V字でビシッと後付けしてる、あれ考えた人は天才だと思いました。

ベースは赤と黒でそれぞれ違う色ですが、帯や裾と襟のチラ見せカラーで統一感を持たせているのもオシャレ。

白ソーランの、ベースを白の無地にして、下に柄物を着込んでる風にチラ見せしているのも粋ですね。

そして実は、懐かしの大ちゃんLuvletter衣装もこの3条件を満たしています。
当時の衣装担当さんはよさこい系イベントのダンス衣装も手がけていた方なので、和のテキスタイルの扱いにも慣れてるとお見受けしました。

金蘭の素材で和服っぽさを前面に出していますが、この生地は本来帯地に使うものなのですごく硬くて重い。少ない面積で目立つよう上半身の一部に配置して、その他はストレッチベロアで動きやすく工夫されていると思いました。そして袖口からは伝統色のちりめん素材をチラ見せ。ちりめんならではのてろんとした落ち感が、動くと風になびいて美しかったですね。

来期、どんな新しい世界を見せてくれるのか。
今から楽しみで仕方ありません。


自尊心と虚栄心

2022-05-14 21:49:45 | ノンジャンル

とっかかりはフィギュアスケートですが、話の内容としては一般論です。

 

昨今ネットのニュースやSNSを見てて、違和感を感じる事が多い言葉が「プライド」です。
プライドの日本語訳は「自尊心」のはずですが、「虚栄心」の意味で使われていませんか?という場面。

「あの人はプライドが高いから間違いを認めない」「ここで謝るのは俺のプライドが許さない」

このような場面に当てはまるのは自尊心ではなく、虚栄心ではないかと思います。

辞書を引くとこんな感じ。

じそん‐しん【自尊心】
〘名〙 自尊の気持。自分を尊び他からの干渉をうけないで、品位を保とうとする心理や態度。プライド。

きょえい‐しん【虚栄心】
〘名〙 うわべだけを飾ろうとする心。 自分を実質以上によく見せようとする心。

自尊心の項目に「他からの干渉をうけないで」とあるのに対して、虚栄心の「自分を実質以上によく見せようと」する相手は「他人」であるというのがポイントだと思います。

ニュースなどで話題になる人の言動を見て、「何でこの人はこんな事を言う/やるんだろう?」と思った時、この人は自尊心ではなく、虚栄心で行動していると思うと色々腑に落ちると最近気づきました。

直接の付き合いがある訳でもない、マスコミを通してしか知らない相手に対して、それが「自尊心」なのか「虚栄心」なのかわかるんか?という話ですが、寧ろマスコミを通すからこそわかりやすいと思います。

普通の人には、マスコミを通して自分の発言が広く報じられる機会はあまりありませんが、有名人、例えば五輪に出るようなアスリート等になると取材を受ける機会が出て来ますよね。それに対するスタンスは割とわかりやすいポイントだと思います。

自尊心の人は、言行の不一致を恥ずべきものと思うから、発言には慎重になります。言った以上は実現させなければならないと考えていたら、マイクのある場所では軽々しく思った事をなんでも口にする訳にはいかないですよね。

こういう人は、大きな目標を口にするとき、あくまで「目標」であり、必ずしも実現できるものではない、というお断りの言葉が入っていたりします。予防線を張っているのが一見気弱ではっきりしない印象を与えますが、実はこう言う人の方がプライドが高いんじゃないかと私は思います。

一方虚栄心の強い人にとっては、マスコミの取材は絶好の自分アピールのチャンスです。とにかく大きなことを言ったもん勝ち、みたいな。それがしばしば言いっ放しになってるのは、「言ったからにはやらないと、嘘をついた事になっちゃうぞ」という意識がないからかな、と思います。自分の発言に責任を取るという発想がなければ、いくらでも話が盛れますよね。大げさな言葉や不自然に美しい言葉が多いのも盛りまくってる所以でしょうか。また、背伸びして難しい言葉を使おうとして文法間違えるのも、自分を実際以上に賢く見せようとするこの手の人にありがちです。

本当に賢い人は、平易な言葉でわかりやすく話します。

美しい言葉でご立派な事を宣ってるけどよく見るとやってる事が微妙だなと思ったら、その人は虚栄心の人ではないかと疑ってみるのがオススメです。

例えば、オリンピックに出て、団体戦では3位内に入ったけれど個人戦では23組中22位(後半戦に進めなかったという事は、公式には順位が付かないという事になるのかな)とかだったとしましょう(団体戦の他のメンバーがよっぽど優秀だったんですね)。

ここで自尊心が高い人なら、「銅メダルです」なんて恥ずかしくて言えないと思います。

天知る、地知る、我知る、人知る。

競技に詳しい人なら実情を知っているし、そうでなくても少し興味を持って調べたらすぐわかる。何より自分自身が、本来の実力は3位相当ではなく23組中22位だと分かっているはず。

3位相当だと「誤解」されるのは、寧ろ屈辱なのではないでしょうか。

でも虚栄心が強い人なら逆で、ここぞとばかりに「銅メダルです」とアピールしそう。3位相当の実力だと誤解されても構わない。いや寧ろ誤解して欲しい、くらいの勢いで。

でもここで3位相当だと誤解するのは、競技について無知で、尚且つちゃんと調べないような人たちです。そんな人たちに評価されてもねえ…と思うのか、そんな人たちでいいから褒め称えられたいと思うのか。

こうしてみるとよくわかりますが、「自尊心」と「虚栄心」は両立しません。

虚栄心が強い人は一見プライドが高そうに見えますが、実はプライドなんて持っていないし、正しい意味でのプライドを理解していない確率も高いんじゃないかと思います。

ゆえに、両者は噛み合わない。

自尊心の人が「そんな人たちに評価されてもねえ…」とドン引きしているのを、虚栄心の人は「そんな人たちに褒め称えられている私が羨ましくて嫉妬しているんでしょ!」と受け取る。永遠に交わらない気がします。

 

そしてもう一つ、被害者アピールが好きなのも虚栄心が強い人の特徴かな、と思います。

普通なら、被害者なんてなりたくないじゃないですか?

被害者として扱われる、同情される、哀れみの目で見られるのも、自尊心が高い人にとっては屈辱です。

自尊心が高い人は嘘をつくのを嫌いますが、自分が被害者の立場になりそうなときには、「いえ、自分は被害者ではありませんよ」と多少強がってでもそちらの方向に持って行こうとする傾向があるなと思います。

逆に虚栄心が強い人ほど、「こんな事された、ひどいひどい」と騒ぐ傾向がありますよね。同情や哀れみであっても、注目されてちやほやされると嬉しいものなんでしょうか。よくわかりませんが。

ただ思うのは、「こんな事された、ひどいひどい」と騒いで問題の解決には繋がることはあんまりないよね、ということです。

本当に被害を受けているなら、加害者に直接訴えて解決を図るなり、加害者が分からないなら突き止めるなり粛々とやれば良いと思います。でもそれをわざわざ不特定多数の部外者にお知らせする必要はないと思うのですよ。

大抵の人にとっては、「そんな事私に言われましても」なのですが、自分が部外者であることに気づかずに「けしからん、懲らしめてやる」とトチ狂った正義感を燃やす人も一定数いる訳で。無駄に騒ぎが大きくなるだけなのですが、虚栄心が強い人ほどこういう無駄な騒ぎを起こしがちだな、と思います。

「こんな事された、ひどいひどい」と騒いで2次災害を引き起こすことを俗に「ファンネルを飛ばす」と言うこともございます。

昨今ではファンネルを飛ばす行為にも風当たりが強いため、跳ね返ってきた火種で当人が炎上したりもするわけですが、それで「ひどい!」と騒ぐのも、大抵ファンネルを最初に飛ばした側だったりします(だったらやらなきゃ良かったのにね、という考えには至らないらしい)。

だから何?と言われればそれまでですが、世の中には自分と全く異なる行動原理を持っている人もいるという事で、理解の一助となればと思って書いてみました。

※ ファンネルの意味がわからない方はこの辺を参考にしてください。

ファンネル - ピクシブ百科事典
https://dic.pixiv.net/a/ファンネル

やっぱりキュベレイは良いですねえ。全MSの中でもトップクラスに美しい造形だと思います。色は若干ちょっと派手過ぎですが。


ミステリと言う勿れのドラマ化は何故失敗したのか

2022-05-11 08:30:17 | 漫画

ミステリと言う勿れ 田村由美
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失敗って断言して良いのかどうかはさておき、思ったほど盛り上がらなかったと感じたのは私だけではないはずだと思いまして。

端的に言うと、伊藤沙莉が演じる風呂光刑事が不評だった訳ですが、原作からのキャラ変が受け容れられなかった人と伊藤沙莉が気に入らない人は別だよね、という話です。

前者の話として、原作の風呂光さんは、紅一点キャラのステレオタイプである「かわい子ちゃんポジション」の否定からスタートしているキャラだと思います。
それがドラマでは典型的な「かわい子ちゃんポジション」に収まってるんですから、原作ファンから反発食らうのは当然のことと思います。

この「かわい子ちゃんポジション」の否定は、作品全体の大きなテーマの一つである「固定観念を捨てて違う角度からものを見る」事に通じています。

(因みに、「固定観念を捨てる」という思考を突き詰めると高確率でフェミニズムに繋がってしまいます。なぜというなら、固定観念は権力を握った人たちが、自分たちの属性に都合が良いように作り上げて来たものだから。社会の中で権力を握っているのは多くが「大人の男性」すなわち「おじさん」ですね。故に、この漫画ではしばしば「おじさん」に矛先が向いてしまうのです)

風呂光さんのキャラ変が意味するもの、それはこのドラマの製作陣が、原作の大事な所を理解していないという事ではないでしょうか。

 

尚、伊藤沙莉が気に入らない層は「かわい子ちゃんポジションなんだからもっと可愛い子を出せ」と言ってる訳で、「かわい子ちゃんポジション」そのものは何の疑いもなく受け容れているという意味で、前者とは相容れないというか寧ろ真逆の層だと思います。

 

何故こんな、誰も得しない改変が行われてしまったのかというと、やっぱりテレビ局なり制作現場のお偉いさんの「おじさん」たちが、無自覚に固定観念にどっぷり浸かっているからなんだろうなと思います。

中身は旧態依然の「かわい子ちゃん」キャラになってしまってるのを、外側だけ実力派(という事に世間ではなっている)伊藤沙莉にして新しいことをしたつもりになってたらそりゃ盛大に滑るよねっていう話。

 

漫画原作からドラマ化する際、改変が必ずしもダメな訳ではないと思います。
そのまんま忠実に実写化とか物理的に不可能だと思いますし。

例えば「岸辺露伴は動かない」はその辺上手くやっていますよね。バトルもの要素が入った少年漫画なので、実写化のハードルは少女漫画より高いはずですが。
原作ではバラバラの話を大胆に組み合わせて連作に仕立てていますが、原作ファンからも原作未読の人からも概ね好評。

原作では「富豪村」にしか出ない泉京香をレギュラー化しても、露伴先生と京香のキャラや関係性は原作のイメージを壊していない。出番の寡多は問題じゃないんですね。

原作をしっかり読みこんで理解して、変えて良い所とダメな所をちゃんと見極めていれば、原作ファンから無闇な文句は出ないのです。

まあ、一番大きいのは脚本家の力量の差だと思いますが。

 

ドラマオリジナルで追加された風呂光さん→整くんの恋愛ネタってすごく雑な印象でした。どっかで見たような場面をキャラだけ変えて適当に切り貼りしてる感じで。
この部分はじめ、原作のままの部分とドラマのオリジナル部分のクオリティの差に、脚本家の力のなさが残酷なくらいに現れていると思いました。

原作では、整くんの恋愛ネタはライカさんとの間にしかありません。

どっちも恋愛しそうにない男女が少しずつお互いを探りながら心を開いて行く過程がすごく繊細に描写されていて、恋愛ネタにあんまり興味ない私ですら、「整くんがんばって」と思わされてしまった。
これが少女漫画の大御所・田村由美の実力か…と恐れ入ってしまいました。

 

風呂光さんも、原作では出番は少ないながら、地に足のついた仕事ぶりで着実に活躍しています。そもそも警察の採用試験に合格して、警官になって、刑事課に配属される段階で十分優秀なはずなので。

だけど配属された先に、薮さんのような上司がいたらその優秀さも発揮できないというのがエピソード1のテーマのひとつ。怒られて自信を無くし、萎縮して積極的に動けなくなり、さらに怒られて…の悪循環から脱出できたのは、整くんの言葉(そしてそれがきっかけの過去事件犯人逮捕)もあるけど、薮さんがいなくなったのも大きいのだろうと思います。

バスジャック以降のエピソードでは、やる気と自信を取り戻した彼女の姿がちょこちょこ登場します。原作10巻の誘拐事件のエピソードとか、最早勇姿と言って良い。

 

個人的に原作のバスジャック事件の時の風呂光さん好きなんですよね。

原作では犬堂家での出番は2コマくらいですけど、小さい絵でもわかるくらいすごくやる気のある表情をしていて、それだけで頑張ってるんだなっていうのが伝わって来ます。こういうのをさらっと描けるのが流石の田村由美。テレビ局の偉い人にはそれがわからんのです。残念ながら。


鎌倉殿と北条執権

2022-04-24 18:23:49 | 読書感想文

執権 細川重男

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NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」

 

真田丸が面白かったので三谷脚本にも期待できるし、久しぶりに戦国でも幕末でもない時代で新鮮味あるよね♪ と思って見出したは良いものの。

 

新鮮通り越して私この時代よくわからんわ。

 

…と思ったので慌てて買って来て読みました。

大河ドラマが決まってから慌てて編集して出して来たものじゃなくて、前からあったやつを今この時と掘り出して来たような本がないかな、と探した結果、2011年に出版した本を改題して文庫版に再編集したこの本が良いんじゃないかと思ったのです。

 

全5章のうち、1・2章が北条義時、3・4章が北条時宗に焦点を当てていて、第5章はエピローグ。

なので、大河ドラマのネタ本としては前半1・2章を読めばOKです(後半も面白かったけど)。

 

著者はこの時代を専門とする歴史研究者のようですが、この本は論文のように難しい訳ではなく、寧ろ「ちょっとおふざけが過ぎやしませんか?」と言いたくなるような親父ギャグくだけたノリなので、専門的な書物はちょっと…と思う私にも安心です。

 

何よりも、丁寧に説明する所は紙面を割いてじっくりと、そうじゃない所は思い切りよくドンドン飛ばすメリハリっぷりが気に入りました。

お陰様で、ドラマにわらわら出て来て誰が誰やら、な坂東武者たちの立ち位置や力関係、人間関係なんかを全体的にうっすら把握する事に成功しました。

 

そしてこの本、ものすごい勢いでドラマの今後の展開をネタバレしています。

史実だから当たり前っちゃ当たり前なんですが、今ドラマで見えている仲良し北条ファミリーも、ゆかいな坂東武者の仲間たちもいずれは…と思うと複雑です。

 

ていうか、先々どうなるか分かってるからこそ、敢えて狙って仲良しファミリーや愉快な仲間たち描いてるんだろうな、三谷幸喜。

この脚本家、コメディタッチな作風でぱっと見奇を衒うイメージがありますが、実はかなり基本に忠実な手堅い作劇をする人だと思います。

最後のオチから逆算して、そこへ至る筋道を入念に引いて置くことで「歴史」を「ドラマ」に変える、という割と職人芸のようなことをやっている。

 

すごくわかりやすいのが、第5回「兄との約束」

「坂東武者の世をつくる。そのてっぺんに、北条が立つ。そのため、源氏の力がいるんだ」

これ、視聴者に対してすごく親切に、「このドラマは最終ここに向かっていますよ」と示してくれるセリフだと思います。

源頼朝が武家政権である鎌倉幕府を打ち立てるが、直系の将軍は三代で途絶え、北条家が執権として実権を握るのが史実。

そこから逆算して、序盤のこの時期にこのセリフを仕込んでおく事で、主人公が兄から受け継いだ志を果たさんと歩んで行くという物語が出来上がるのです。

 

先日の第15回では上総広常の最期が描かれました。ロスを通り越して追悼会が開催されそうな勢いに「良いキャラだったからなあ…」と思いかけてふと気づきました。多分逆だと。

ここで謀反の嫌疑により討たれるという史実を、ドラマの中でのターニングポイントにするため、敢えて狙って魅力的なキャラクターとしてここまで描いて来たのではないかと思います。

「執権」を読めばわかるけど、広常が味方になった時の交渉の場に義時がいたという記録はないみたいなんですよね。でも「いなかった」とも書かれていないので、そこは創作で空白を埋める形で義時との間に接点を作り、その後もちょこちょこ絡んでみんなが広常大好きになったところで事件が起きる訳ですよ。

上手いやり方だと思うけど、やるせないなあ…。

 

ちなみに著者の方には、義時の人生からは「もう帰っていいですか?」という心の声が聞こえるそうです。大河ドラマを見ていると、小栗旬の声で脳内再生余裕です。


「若冲」〜実在の人物とフィクションの狭間で〜

2022-04-10 09:27:53 | 読書感想文

若冲 澤田瞳子

火定が面白かったので読んでみました。

同じ作者の作品で「若冲」。

言うまでもなく江戸時代の京都で活躍した絵師・伊藤若冲の生涯を描いた物語…だと思っていたのですが。ところがどっこい、という話でした。

 

こういう、実在の人物を主人公にした「小説」って、小説=フィクションとは知りつつ、どこかで史実なり、その人物の実像なりを追う事を期待するものじゃないですか?

例えば、司馬遼太郎の坂本龍馬や吉川英治の宮本武蔵のような。あくまで作家の創作した人物像でありながら、みんなもう史実がそうだったと思っているみたいな。

 

しかし、この作品は違います。

この作品の主人公を実在した絵師としての伊藤若冲に重ねてはなりません。

 

ぱっと見、史実に忠実です。

池大雅・丸山応挙・与謝蕪村ら名だたる絵師たちが腕を競っていた当時の京都の画壇の華やかさや実際に起きた出来事が生き生きと描写されています。

恥ずかしながら私、宝暦事件や天明の大火などはこの作品で初めて知りました。

天明の大火では実際に若冲が焼け出されているし、錦市場の閉鎖騒動に至ってはど真ん中の当事者です。

 

そんな京都を舞台に、物語の中心にあるのは「恨み」の感情。

若冲の亡き妻の弟である弁蔵は、姉を喪った恨みから絵師となり、市川君圭と名乗って若冲の絵を執拗に模倣する。その恨みに追い立てられるように絵に打ち込む若冲を軸に、宝暦事件で運命を分けた公家の兄弟、若冲とも親しい池大雅に向けられた与謝蕪村の逆恨みにも似た複雑な感情や、その蕪村を恨む蕪村の娘等。

恨む側にも恨まれる側にもどうにもできない負の感情が新たな表現を生み、芸術へ昇華されていく様を、京都の文化・歴史を絶妙に交えて活写しながら描いて行く。

フィクションとしてはとても良くできていて面白いのです。が、しかし。

 

しかし、ですね。

そもそも伊藤若冲に【妻】はいないのですよ。

 

これがあるゆえにこのお話、個人的には、チンギス=ハーンの正体が源義経だったとか、上杉謙信が女性だったとか言うのと同じくらいのとんでもネタになっているような気がします。

 

若冲に奥さんがいたかも知れないという事自体は、それほど荒唐無稽ではないかも知れません。

彼が生涯妻を娶らなかったと書き残しているのはこの作品にも出て来る大典禅師ですが、若冲の立場(錦市場の大店の跡取り)から考えれば、大典に出会う前の若い頃に結婚していてもおかしくない。それが何らかの原因で上手くいかず、大典に会った時には既に独り身だったという事自体はあり得る話です。

ただですね、その「仮定の妻」の物語への影響が大き過ぎるのですね。

 

端的に「みんな奥さんのせい」と言っても過言ではない。

 

この物語にはもう一人架空の人物として若冲の腹違いの妹が出てきて、そしてこの異母妹の出番も異様に多い(なぜならこの異母妹がナレーター役だから)のですが、それでも物語の中の立ち位置としては圧倒的に奥さんの方が上です。

 

それともう一人、市川君圭という絵師は実在していますが、君圭と若冲を繋ぐ君圭姉=若冲妻が架空の存在なので、実在の君圭には若冲との繋がりはありません。

君圭が若冲に向ける恨みや憎しみや執着は100%のフィクションです。

 

この話の中では、若冲が絵を描く理由も、絵に込めた想いもほぼ100%この奥さんに帰結しています。

だからと言って実際に若冲の描いた絵を見て「これを奥さんのために…」等と思った所で、そもそも奥さんは実在していない訳で。一体、どんな気持ちで若冲作品に向き合えば良いんでしょうか。

 

という訳で、あくまでもフィクションとして物語を楽しむには良いですが、間違っても実在の絵師・伊藤若冲の実像に迫ろうという考えで読んではいけないし、若冲の作品を鑑賞するための参考資料にしてもいけない、そんな一作でございました。