報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

類型化される日本人

2005年11月10日 22時16分56秒 | ■時事・評論
僕は文系出身で、ほとんど理系的素養がない。本棚には生物学の本が少しはあるが。そんな僕ではあるが、ちょっと待ってくれと言いたいことがある。血液型による性格分類だ。いくらなんでも、血液型で人の性格が分類できるわけがないだろう。

これについては、実際に調べたことがある。教育実習で講義するためだ。社会に広範に流布している概念でも、科学的根拠のないことはいくらでもある、安易に信用してはいけない、ということを生徒に示すためにとりあげた。

しかし、あれからいったいどれくらいの年月が経っただろうか。いまだに、血液型性格分類は不動の地位を日本人の心の中に占めている。まったく不気味ですらある。もちろん、現代日本でも、さまざまな迷信はある。迷信が社会においてことさら害があるとは思わないし、それらを一掃することに、意味があるとも思わない。

しかし、人間の性格ほど複雑で不可解なものはない。精神科医や心理学者でさえ、人のこころなど読めない。現代医学も、いまだ人のこころの深奥までさぐってはいない。人のこころや性格を明らかにしようというのは、宇宙の成り立ちを解明するのと同じくらい、途方もない試みだ。

その未知なる人間のこころをたった4つの血液型で分類するなどというのは、当然科学ではない。単なる遊びだ。しかし、遊びというには、すでに度を越しているように思う。現代日本人は、現実を歪めて、無理やり簡素化・類型化しなければ、恐くて人間関係を築けないのだろうか。

確かに、組織や企業内では、あまりにも対人関係が複雑であると、組織活動にも影響がでる。組織は、その構成員をできるだけ類型化しようとしてきた。”出る杭は打たれる”という言葉が象徴的だ。就職活動は、個性を消したドブネズミ色のスーツと相場が決まっている。組織は、個性を嫌う。もし、人間の性格が4種類しかなければ、組織にとって非常に都合がよろしい。

こういう研究報告がある。
「血液型性格分類が流布されていることで、各人の行動様式に告げられた性格が織り込まれてしまっている影響が指摘されている」
(血液型ステレオタイプによる自己成就現象)

要するに社会に広範に流布されることにより、自己暗示がおこる可能性を示唆している。「血液型による類型化された性格」に、本当の性格が近づいていくということだ。実際ににそうした影響があるかないかは別として、社会にとってはそうあってほしい現象だろう。

日本社会は個性の発揮を忌み嫌う。この現代に、まったく非科学的な血液型性格分類なるものが一定の地位を保ち続けているのは、なるべく個性のない人間を量産したいという日本社会の願いのように思われる。